【古文書講座】山本勘助が実在したことを示す武田信玄の書状を解読

4.5
来世ちゃん
来世ちゃん

こんばんはー!
今回は武田信玄の古文書を解読します。
「市川文書」といいまして、当時信濃国計見城主だった市河藤若に宛てた武田晴信(信玄)の書状です
今回はどのような面白いことが書かれているでしょうか。

武田晴信(信玄)が市河藤若に宛てた書状

武田信玄肖像画
武田信玄肖像画

武田信玄(1521~1573)

父・武田信虎の苛烈な領内統治に反対して追放し、強引に武田家当主となる。
今川義元、北条氏康と三国同盟を結ぶ。
上杉謙信との川中島の戦いはあまりにも有名。
戦う前から敵の内部を切り崩す軍略と、優れた外交手腕で周囲を圧倒し、甲斐の虎の恐れられた。

原文

武田晴信(信玄)が市河藤若に宛てた書状
市川文書 (年次不明)六月二十三日付武田信玄文書

釈文

注進状被見仍景虎至于野澤之湯進陣

其地ヘ可取懸模様又雖入武略候無同意剰

備堅固故長尾無功而飯山へ引退候哉誠心地

能候何モ今度其方擬頼母敷迄候就中野澤

在陣之砌中野筋後詰之義預飛脚候き則倉

賀野ヘ越上原与三左衛門尉又當年之事も塩田

在城之足軽為始原与左衛門尉五百余人真田江

指遣候処既退散之上不及是非候全不可有

無首尾候向後者兼存其旨塩田之在城衆ニ

申付候間従湯本注進次第ニ當地へ不及申

届可出陣之趣今日飯富兵部少輔所ヘ成下知候

条可有御心易候猶可有山本菅助口上候恐々

謹言

  六月廿三日   晴信(花押)

   市河藤若殿

原文に釈文を記してみた

市川文書 原文に釈文を記してみた
市川文書

書き下し文

注進状披見。

よって景虎、野沢の湯(長野県湯沢温泉)に至り陣を進め、

其の地へ取り懸かるべき模様。

又、武略に入り候と雖(いえど)も、同意無く、

剰(あまつさ)へ備え堅固ゆえ、

長尾功無くして飯山(長野県飯山)へ引き退き候哉。

誠に心地よく候。

いずれもこのたび、其の方の謀り頼もしきまでに候。

就中(なかんづく)、野沢在陣の砌(みぎり)、

中野筋後詰の儀、飛脚に預かり候き。

即ち、倉賀野(群馬県の倉賀野)へ越し、上原与三左衛門尉。

また、当年の事も塩田在城の足軽を始めとして、

原与左衛門尉五百余人、真田(長野県真田)へ指し遣わし候ところ、

既に退散の上、是非に及ばず候。

全く無首尾有るべからず候。

今後は兼ねて其の旨を存じ、塩田の在城衆にに申し付け候間、

湯本より注進次第に当地へ申し届けるに及ばず出陣すべきの趣き、

飯富兵部少輔(飯富虎昌のこと)の所へ下知を成し候の条、

御心易く有るべく候。

なお、山本菅助(山本勘助のこと)口上有るべく候。

恐々謹言。

  六月廿三日   晴信(花押)

   市河藤若殿

現代語訳

注進状を拝見した。

景虎(長尾景虎のこと=上杉謙信)が野沢の湯付近まで陣を進め、その地を攻めようとしている模様であるが、貴殿の同心が得られず、また、備えを固くして敵を防いでくれたので、長尾勢はなすすべもなく飯山へ引き退いたようだな。

誠に心地よく思う。

いずれにしても、今度の貴殿の軍略は頼もしい限りだ。

特に野沢在陣の時、中野筋への後詰の際は飛脚で知らせてくれた。

すぐに上野国(群馬県)倉賀野へも伝え、上原与三左衛門尉、また当年は塩田在城の足軽を始めとして、原与左衛門尉500余人を真田へ指し遣わしたので、敵はすでに退散し、全く問題はない。

手抜かりはないので、今後もこれらのことを承知して塩田の在城衆へも申し付けたので、湯本(野沢温泉)より当地へ注進次第、こちらには申し届けることなくすぐ出陣すべき旨を今日、飯富虎昌に命じたのでご安心いただきたい。

なお、山本勘助からの口上があるので、詳しくはそちらで。

恐々謹言(敬具)

  6月23日   晴信(花押)

   市河藤若殿

この書状の解読ポイント

市川文書 原文に釈文を記してみた

1行目の「注進状披見」
注進状とは、事件や出来事を書き記して上申する書状のこと。
披見とは、書状を見ること。

「于」とは
「~に」という意味。
この場合は「景虎、野沢の湯に至り」と読む。
現在では馴染みのない字だが、古文書頻出漢字だ。

2行目の「可」という字。
これも古文書頻出漢字で「べく」、あるいは「べき」と読む。
必ずといっていいほど返読する。
この場合は「其地ヘ可取懸模様」で
「その地へ取り掛かるべき模様」と読む。

「雖入武略候」という字。
「武略入り候といえども」と読む。
「雖」も頻出漢字で返読文字である。
ちなみに「入」も返読文字。
動詞形はだいたい返読したのだ。
英語と中国語は似てる。

「剰」はこれ1文字で「あまつさえ」と読む。
そのうえに、それだけでなく、おまけにという意味だ。

3行目の「而」という字。
現在では「じ」と読むのが一般的だが、
昔は「~に」や「~して」と読むことが多かった。

「候哉」「そうろうや」と読む。
現在でも俳句などで「~かな」と詠まれるが、疑問詞、時々反語みたいな感じで用いられる。
今日の大阪弁でも「これめっちゃ〇〇やねん。知らんけど!」と少し似てる。
似てない?

「擬頼母敷迄候」
これは少々難しいので注釈。
「擬」=謀りごと。謀略のこと。「はかり」と読む。
「頼母敷」=「頼もしき」。
人名の頼母さんのことではない点に注意。

「就中」という字。
「なかんづく」と読みその中でも。とりわけ。という意味。
今ではあまりこの字を見かけないが、数十年前までは普通に用いられていた。
夏目漱石がロンドン留学するためにパリ万博もついでに見ているが、そこでも「就中」という文字を用いている。

「パリス」に来てみればその繁栄なること、これまた到底筆紙の及ぶ所にこれ無く、就中道路家屋の宏大なること

夏目漱石 (夏目漱石より妻、鏡子へ 明治33年10月22日)

5行目の「砌」という字。
「みぎり」と読み「~の際」、「~のときに」という意味。

「中野筋後詰之義」というのは、
「中野筋」については戦略ルートだと思われるが詳細は知らん。
「後詰(ごづめ)」というのは援軍のこと。

7行目の「為始」「はじめとして」と読む。

文中にある上原与三左衛門尉原与左衛門尉は具体的にだれの事なのか不明。
名前が酷似しているが、恐らくは別人。

8行目の「不及是非候」という字。
「是非に及ばず候」と読む。
“しょうがない、仕方がない”ではなく、「問題ない、どうということはない」という意味だ。

8~9行目の「全不可有無首尾候」とは、
「全く無首尾有るべからず候」と読み、
「全く手抜かりはないので」という感じの意味。

9行目の「向後者」という字。
「こうごは」と読む。
「向後=今後」。
「者」=「~は」という意味。

「従」「よって」と読む。
他にも「~より」という使い方もする。

10行目の「當地へ不及申届」という字。
「当地へ申し届けるに及ばず」と読む。
「及ぶ」と「不(否定形)」は返読文字。

飯富兵部少輔(おぶひょうぶのしょう)」とは武田二十四将の一人である飯富虎昌のこと。
武田信玄の嫡男・義信の傅役を任されるほどの大物だ。
武田の赤備えと恐れられた山県昌景の兄。

11行目の「可有」あるべく

「御心易」「みこころやすく」と読み「安心いたせ」という意味。

日付の「六月廿三日」とは6月23日のこと。
廿または=20。
ちなみに卅または丗=30。

この書状の時代背景

この書状の正確な年次は記されていない。
しかし、長尾景虎武田晴信のこの一連の軍事行動から見て、弘治3年(1557)の6月23日でほぼ間違いないだろう。

武田と上杉が信州で最も激しく衝突したのが永禄4年(1561)の第四次川中島の合戦なので、これは第三回目の戦いということになる。

信州全土を支配せんと目論む武田晴信と、信州から領土を奪われた国人領主たちを助けて、彼らの領土を返すようにと立ち上がった長尾景虎との対立の時代である。

宛名にある市河藤若とは何者か

 宛名にある市河藤若とは、当時は信濃国計見城主だった。
かつて武田晴信がこの地を奪ったときは抵抗して、一度は越後へと落ち延びたが、晴信一流の調略に応じて武田方に付いた。

市河藤若の所領は武田氏と長尾氏の境目に位置していたらしく、双方からしつこく調略を受けていたと考えられる。

家名を存続させるために市河藤若が採った選択が、武田について武田の為に武功を挙げることだったのだろう。

戦国武将01
市河藤若(イメージ)

「山本菅助」という人物こそが山本勘助

山本勘助肖像
山本勘助肖像

山本勘助(????~1561)

武田信玄を智の面から支えた武将。
「甲陽軍鑑」には数々の献策で武田家の躍進を支え、窮地を救ったとある。
川中島の戦いで「啄木鳥戦法」を提案するが、上杉謙信にその裏をかかれて討死。
しかし、彼の生涯の大半が謎に包まれており、山本勘助の存在自体、最近まで否定説のほうが強かった。

この時代、当て字で記されることは日常茶飯事だった為、山本菅助とあるのは何ら不思議ではない。

市川文書 山本勘助の名が見える
市川文書 (山本勘助の名が見える)

「なお、山本菅助(山本勘助)口上有るべく候」
とあるので、詳細については使者として赴いた山本勘助が話すという意味だ。

単なる飛脚なら身分が低くても務まるが、敵の手に捕らえられて密書を奪われたり、飛脚が敵方に寝返って密書ごと敵の手に渡ってしまう可能性がある。
戦国時代では簡単な説明を書状で記すが、詳しいことは使者が直接話すということが一般的だった。

そういうわけなので、使者として赴く人物はよく事情を知っている人物でなくてはならない。
つまり、山本勘助は武田家の重臣だった可能性が高いのだ。

「市川文書」についての考察

高級な紙質

この当時で目下の人物に宛てる手紙にしては高級な紙を使っている。
普通目下に宛てて出す書状は、二つ折りの紙に上下両方を使って書くことが多かった。

原文に書き下し文を記してみた
織田信長朱印状(元亀元年五月廿五日)東京大学史料編纂所所蔵写本

このように、織田信長が目下の国人・遠藤慶隆と胤俊に宛てた書状には紙面を無駄なく使っている。

関連記事:【古文書から読み解く】浅井長政討伐に燃える織田信長の決意と意気込み

恐らく武田につくか上杉につくかで揺れている市河家に対して、余裕をアピールするために見栄を張ったのではないか。
目下の存在かどうかは最後の日付よりも宛名である「市河藤若殿」の方が一段下に下がっていることでわかる。

目下の存在かどうかは最後の日付よりも宛名である「市河藤若殿」の方が一段下に下がっていることでわかる。
市河文書

関連記事:戦国時代の外交文書のルールとしきたり ポイントは礼儀の厚薄にあり

市川文書が発見された経緯

 実は「市川文書」が発見されたのは昭和44年(1969)と意外と最近だ。
この年、上杉謙信と武田信玄を描いたNHK大河ドラマ「天と地と」が放映され、ブラウン管に映し出された武田信玄の花押を見た視聴者の一人が「うちにも同じものがある!」と名乗り出たのだった。

天と地と
1969年に放映されたNHK大河ドラマ「天と地と」

それがこの文書の宛名である市河藤若の子孫の市川さんだった。

さらに面白いことに、市川さんは当時北海道に在住していた。

なぜ信州(長野県)なのに北海道に?と疑問だが、市河氏はその後、上杉景勝に仕え、豊臣秀吉の時代に会津へ転封されたときにそれに従った。
関ケ原の合戦で会津を失ってからは代々上杉家の米沢藩士として仕え、明治の時代になって「屯田兵」として北海道開拓民になったようである。

市河氏の子孫は代々武田信玄から戴いた書状を大切に保管していたのだろう。
しかし、いつしかその書状が本物かどうかわからなくなったと思われる。

「いずれにしても、今度の貴殿の軍略は頼もしい限りだ。」
と、あの武田信玄から褒められた書状なのだから、代々大切に保管していたのは理解できるし、戦国マニアにとっては非常にありがたい。

来世ちゃん
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