武田信玄の恥ずかしい書状 本当に春日虎綱と男色関係だったのか?

武田信玄の恥ずかしい書状 本当に春日虎綱と男色関係だったのか?
らいそくちゃん
らいそくちゃん

こんばんは~。
今回は武田信玄のあまりにも恥ずかしい書状としてもっとも有名な起請文を解読します。
この書状が天文15年(1546)のものだとしたら、信玄は当時26歳前後の若武者で、まだ「武田晴信」と名乗っていました。

甲斐武田氏をとりまく当時の情勢

 父の追放から5年。
当時の武田晴信(信玄)は信濃国の切り取りへ野心を燃やしており、既に諏訪を手中に収めていました。

今回の書状の1年前には高遠氏を滅ぼし、福与城も奪うなど快進撃を続けていました。
一方で、駿河の今川義元と相模の北条氏康が火花を散らして戦った第二次河東一乱かとういちらんにおいては、晴信が双方の間に立って和議を成立させ、両家へ大きな貸しを作りました。

天文14年(1545)頃の甲信地方の情勢

天文14年(1545)頃の甲信地方の情勢

関連記事:武田北条今川 甲相駿三国同盟が結ばれた経緯をわかりやすく解説(4)

そうした時代背景の中、本来ならばのちの世の人間が知るべくもない晴信の私生活が窺える史料が遺されています。
その文書こそが信玄と春日虎綱(香坂弾正だんじょうが男色関係にあったとするもっとも有力な史料だとされているものです。

この書状に対する私見は後に述べるとして、まずは文書の方をご覧いただきましょう。
なお、下の方に現代語訳を書いていますので、煩わしい方は飛ばしてください。

武田信玄の恥ずかしい手紙を解読する

 今回の登場人物は3名。
主人公は武田晴信(信玄)です。
弥七郎という人物はどうやら当時の家来のようですね。
もともとは(春日)源助という人物が、晴信と男色関係にありました。

今回の古文書は、浮気をされたと疑念を抱いた源助に対する晴信の弁明状です。

原文

武田信玄の恥ずかしい起請文

年次不明7月5日付武田信玄起請文
(東京大学史料編纂所所蔵)

年次不明としていますが、概ね天文15年(1546)の書状と見て良いでしょう。

今回は少しだけ長いので2枚に分けて解説します。

武田信玄の恥ずかしい起請文a
武田信玄の恥ずかしい起請文b

さあ、今回はどんな面白いことが書かれているでしょうか。

釈文


(a)
   誓詞之意趣者、

一、弥七郎ニ頻ニ度々申候ヘ共(?・本?)、虫気之由申候間、無
了簡(?)候、全我偽ニ奈く候事、

一、弥七郎と起ニ祢させ申候事無之候、此前ニ(?・此亦ハ?)
無其儀候、況、昼夜共弥七郎と彼義奈く候、
就中、今夜不寄存候之(?)事、

一、別而ちいん申度まゝ、色ゝ走廻候へハ、還而
御う多可い迷惑ニ候、


(b)
此条ゝい徒王り候者、當国一二三大明
神、富士、白山、殊ハ八幡大菩薩、諏訪上
下大明神可蒙罰者也、仍如件、

内ゝ(?・寶?)印尓而可申候ヘ共、
甲待人多候間、
白(?)紙ニ而明日重而
奈り共可申候、七月五日 晴信(花押)

        春日源助との

この書状を朗読させてみました。
再生ボタンを押すと音声が流れます。(スマホも可)

『VOICEROID+ 結月ゆかり EX』(株式会社AHS)

原文に釈文を記してみた

(a)

武田信玄の恥ずかしい起請文a+釈文

年次不明(1546?)7月5日付武田信玄起請文a+釈文

(b)

武田信玄の恥ずかしい起請文b+釈文

年次不明(1546?)7月5日付武田信玄起請文b+釈文

補足

(a)

・1行目タイトル部分の「誓」の字がにんべんにしか見えませんが、これは本来なら下の図の左のようになるところを、下の”言”の部分をずらしたような字になっていますね。
このような文字のことを、古文書学の世界では異体字といいます。

「誓」のくずし字

「誓」のくずし

・2行目の「弥七郎」はあまりくずされていませんが、4行目の「弥七郎」の”郎”の部分が大きくくずされていますね。
郎は人名で頻出する名前なので、くずしが大きくなる傾向にあります。
「被(ラレ・ラル)」かな?と迷うところですが、ここは文脈から判断です(^^;)

・5行目の「昼」の字は、昼にはまるで見えませんが、これもそれなりに出現するパターンのくずしです。

「昼」のくずし字

「昼」のくずし字

・6行目の「就中(なかんずく)」は、現在ではあまり聞かない表現ですが、その中でも・とりわけという意味です。

(b)

・1行目の「當国一二三大明神」。
私も詳しくは分かりかねますが、当時の甲斐国で多くの信仰を集める宗教施設のようですね。
甲斐武田氏は信玄の人物でも、起請文きしょうもんを取り交わす際、「一二三大明神」を神文に入れています。(永禄十年八月七日付板垣信安起請文など)
起請文については後述します。

・4行目の「甲待人多候間(きのえまちびと おおくそうろうあいだ)」とは、当時信じられていた厄日の一種で、正しくは”甲子待ち(きのえねまち)”といいました。

阪神甲子園球場
阪神甲子園球場は甲子(きのえね)の年である1924年に竣工した

甲子の日はこく(午前0時)まで一家中起きていて、大黒天を祭ることが当時の風習でした。
厄日の日をあえて祭り日に置き換えるという風習が昔からあり、その名残が正月(1月1日)、桃の節句(3月3日)、端午の節句(5月5日)、七夕(7月7日)、菊の節句(9月9日)にありますね。


「すぎつる夜、甲子をもかまはず(甲子ノ夜ハ夫婦ノ共寝ヲ慎ムノガ当時ノ風習)、何事をかし侍る」

  井原西鶴(好色五人女・ニ)より抜粋

同じような風習で「庚申(かのえね・こうしん)待ち」がありますが、こちらの方が有名ですね。
庚申もまた、忌むべき干支として警戒されていました。

関連記事:2020年の干支は庚子!日本における干支の算出方法とそれぞれの意味とは(2)

つまり、この日は甲子待ちで神社に人がごったがえしているので、起請文きしょうもんに使う護符を取りに行けなかったという言い訳だったのでしょう。

なお、起請文については後述します。

書き下し文

(a)
   誓詞の意趣は、

一、弥七郎にしきりにたびたび申し候へども、虫気の由申し候間、了簡無く候。
全く我が偽りに無く候の事。

一、弥七郎、伽に寝させ申し候の事これ無く候。
この前にもその儀なく候。
いわんや、昼夜とも弥七郎とかの儀無く候。
なかんずく、今夜は存じ寄らず候の事。

一、別して知音申したきまま、色々走り回り候へば、かえって御疑い迷惑に候。


(b)
此の条々偽り候はば、当国の一二三大明神、富士、白山、殊は八幡大菩薩、諏訪上下大明神の罰を蒙るべきものなり。
仍って件の如し。
内々宝印(?)にて申すべきに候へども、甲待ち人多く候間、白紙にて明日重ねてなりとも申すべく候。


七月五日。 晴信(花押)

        春日源助どの

原文に書き下し文を記してみた

武田信玄の恥ずかしい起請文a+書き下し文

年次不明(1546?)7月5日付武田信玄起請文a+書き下し文

武田信玄の恥ずかしい起請文b+書き下し文

年次不明(1546?)7月5日付武田信玄起請文b+書き下し文

現代語訳


(a)
   起請文きしょうもんの意趣は

1.弥七郎にたびたび行為に及んだ事実はないことを釈明するように求めたが、虫気(腹痛?)を理由に断られた。
しかし、我が言葉に偽りは全くない。

2.弥七郎と夜を共にはしなかったし、それ以前にも全くそんな事実はないこと。
まして、昼夜ともに行為に及んだことはないこと。
もちろん今夜もくの通りである。


3.源助と仲良くしたくていろいろ努力した結果、かえって疑念をもたれてしまい、甚だ困惑している。


(b)
もしこの条々に偽りあれば、当国の一二三大明神、富士山、飛騨国の白山、そして八幡大菩薩、諏訪上下大明神からの神罰を受ける所存である。

本来ならば
宝印ほういんを翻して神に誓うべきところ、今日は甲子待ちで人が多くて護符を取りに行けないため、白紙でこれを書くこととなった。
しかし、明日重ねてそなたに誓うので、どうか信じてもらいたい。

天文15年(1546)(推定)7月5日 晴信(花押)
        春日源助との

「私は浮気してない!
それ以前にも全くそんな事実はないし、これからもしない。」
こんな書状を右筆ゆうひつに書かせたのだと思うと、あまりに滑稽ですね(苦笑)

恐らく晴信は、浮気の証拠をつかんだ源助から弥七郎を召喚するよう問い詰められてしまった。
何とか修羅場を避けたいと困り果てた晴信は一計を案じ、虫気(腹痛?)を理由に弥七郎を自宅に籠らせた・・・。
というのが真相ではないでしょうか。

このしつこいほどの弁明が、逆に晴信の浮気が真実だという裏付けになるのでは・・・?(^-^;

さて、ここから先は専門性の強い・・・少しマニアックな内容となります。

  • 「起請文とは何か」
  • 「春日源助は本当に春日虎綱(香坂弾正)なのか?」
  • 「そもそも春日源助とは何者なのか?」

について書いています。
ご興味のある方は是非ご覧ください^^

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