戦国時代の古文書で、非常によく出る語彙を中心にまとめました。
語順は現代仮名遣いです。
例文の読み下しに誤りがある箇所もあります。
今後もさらに加筆する予定です。
PCの方は「ctrl+F」で検索したい語彙を、Safariの方は「真ん中の共有ボタン→ページを検索」で検索したい語彙へジャンプできます。
- 「あ」行
- あ
- 相拘・・・あいかかえ・あいかかう
- 相携・・・あいたずさえ
- 相計・・・あいはからい・あいはからう
- 相謀、相図・・・あいはかり
- 相払・・・あいはらい
- 勝計・・・あげてかぞう
- 浅猿・浅増・奇異・・・あさまし
- 預地・・・あずかりち・あずけち
- 預所・・・あずかりどころ・あずかりしょ・あずけしょ
- 能・・・あたう・よく・よき
- 与・・・あたう・あたえる
- 恰・宛・・・あたかも
- 扱・噯・・・あつかい
- 梓弓・・・あづさゆみ
- 天晴・・・あっぱれ
- 宛行・充行・・・あてがい・あてがう・あておこなう
- 宛行状・充行状・・・あてがいじょう・あておこないじょう
- 案内・・・あない
- 穴賢・・・あなかしく・あなかしこ
- 剰・・・あまつさえ
- 諍・・・あらかう・あらかい
- 非・・・あらず
- 荒増・・・あらまし
- 有・・・あり・ある
- 難有・・・ありがたし
- 如有来・・・ありきたりのごとく
- 彼此・彼是・・・あれこれ・あちこち・かれこれ
- 或・・・あるいは・あるは
- 案・案文・・・あん・あんもん
- 安堵・・・あんど
- い
- 揖・・・いうす・すすむ・えしゃく・いつ・いう・しふ・い
- 雖・・・いえども
- 奈・奈可・奈何・如何・・・いかん
- 位記・・・いき
- 委曲・・・いきょく
- 幾日・・・いくか
- 幾人・・・いくたり
- 幾許・幾多・幾何・幾程・・・いくばく・いくばかり・いかばかり
- 去来・・・いざ
- 委細・・・いさい
- 諍・・・いさかう
- 聊・・・いささか
- 何方・・・いずかた
- 異体字・・・いたいじ
- 致・・・いたし・いたす
- 出間敷・・・いたすまじ
- 徒ら・・・いたづら
- 徒ら者・・・いたづらもの
- 韋駄天・・・いだてん
- 市・・・いち
- 一途・一図・・・いちず・いっと・ひとみち
- 一切経・・・いっさいきょう
- 早晩・・・いつしか
- 一職・・・いっしき
- 一種一荷・・・いっしゅいっか
- 一左右・・・いっそう
- 幼者・・・いどけなきもの
- 異本・・・いほん
- 未・・・いまだ・いまだ~ず
- 雖未申通候・・・いまだもうしつうさずそうろうといえども
- 忌詞・忌言葉・・・いみことば
- 弥書・・・いやがき
- 苟・・・いやしくも
- 弥増・・・いやまし
- 弥・弥々・愈愈・愈々・・・いよいよ
- 違乱・・・いらん
- 綺・・・いろい・いろう・いろり
- 色立・・・いろだつ・いろたち・いろだて・いろめきたつ
- 所謂・所云・・・いわゆる
- 況・・・いわんや
- 院・・・いん
- 引汲・引級・・・いんぎゅう
- 院家・・・いんげ
- 隠者・陰者・・・いんじゃ
- 院主・・・いんじゅ・いんしゅ・いんす
- 引得・・・いんとく
- 印判・・・いんばん
- 印判状・・・いんばんじょう
- 音物・・・いんもつ
- 音問・・・いんもん・おんもん
- う
- え
- お
- 於・・・おいて
- 押字・・・おうじ
- 押妨・・・おうぼう・おうほう
- 往来・・・おうらい
- 押領・横領・・・おうりょう
- 仰云・・・おおせていわく
- 大凡・凡・・・おおよそ
- 可咲・可笑・・・おかし
- 送状・・・おくりじょう
- 瘧病・・・おこりやみ
- 御師・・・おんし・おし
- 越度・・・おちど・おつど
- おぢゃる
- 追而・・・おって
- 生便敷・・・おびただしき・おびただしく
- 思召・思食・・・おぼしめし・おぼしめす
- 御膳・御物・・・おもの
- 及・・・および・およぶ
- 御床敷・・・おゆかしき・おゆかしく
- 御湯殿・・・おゆどの
- 折帋・折紙・・・おりがみ
- 御・・・おわします・おわす・ぎょす
- 了・・・おわんぬ・おわる・さとる
- 畢・訖・・・おわんぬ・おわる・ついに・ことごとく
- 奉為・・・おんため
- 隠田・・・おんでん
- 音問・・・おんもん・いんもん
- あ
- 「か」行
- か
- 歟・・・か
- 乎・・・か・や・より・に・おいて・ああ・こ・ご
- 我意・雅意・・・がい
- 邂逅・・・かいこう
- 皆済・・・かいさい
- 外実・・・がいじつ
- 廻文・回文・・・かいぶん・かいもん・まわしぶみ
- 外聞・・・がいぶん
- 涯分・・・がいぶん
- 廻報・回報・・・かいほう
- 返忠・回忠・反忠・・・かえりちゅう
- 花押・書判・・・かおう・かきはん
- 拘・関・抱・・・かかわる
- 書下・・・かきくだし
- 書立・・・かきたて
- 書留文言・・・かきとめもんごん
- 闕・・・かけ、けつ
- 懸紙・・・かけがみ
- 懸銭・掛銭・賭銭・・・かけせん
- 欠郡・・・かけのこおり
- 過去帳・・・かこちょう
- 重而、重・・・かさねて
- 菓子・果子・・・かし
- 賢・恐・畏・可祝・・・かしく・かしこ
- 畏・賢・恐・怖・・・かしこし
- 加地子・加持子・・・かじし
- 嘉定・嘉祥・・・かじょう
- 春日祭・・・かすがさい・かすがのまつり
- 掠申・・・かすめもうす
- 倅者・・・かせもの・かせきもの・かせぎもの
- 方違・・・かたたがえ
- 喝食・・・かっしき
- 合期・・・がっこ・ごうご
- 曽・嘗・都・・・かつて
- 首途・門出・・・かどで
- 苛法・・・かほう
- 可也・可成・・・かなり
- 彼・・・かの
- 構・搆・・・かまい・しぼる・こう・く
- 上郡・・・かみのこおり
- 唐名・・・からな
- 搦出・・・からめいだす
- 搦手・・・からめて
- 苅田狼藉・・・かりたろうぜき
- 彼此・彼是・・・かれこれ・あちこち・あれこれ
- 官位・・・かんい・つかさくらい
- 看経・・・かんきん・かんぎん・かんきょう
- 漢字・・・かんじ
- 還住・・・かんじゅう・げんじゅう
- 感状・感書・・・かんじょう・かんしょ
- 勧請・・・かんじょう
- 款状・・・かんじょう・かじょう
- 勧進・・・かんじん
- 巻数・・・かんず・かんじゅ
- 緩怠・・・かんたい
- 官途・・・かんど・かんと
- 観音経・・・かんのんぎょう
- 旱魃・干魃・旱抜・干抜・・・かんばつ
- 勘文・・・かんもん
- 貫文・・・かんもん
- 願文・・・がんもん
- 肝要・簡要・・・かんよう
- 勘落・・・かんらく
- き
- 聞済・・・ききすます
- 聞召・聞食・・・きこしめす
- 刻・・・きざみ
- 起請文・・・きしょうもん
- 寄進・・・きしん
- 急度・急与・・・きっと
- 後朝・衣々・・・きぬぎぬ
- 棄破・・・きは
- 脚力・・・きゃくりき
- 給金・・・きゅうきん
- 旧字・・・きゅうじ
- 弓箭・・・きゅうせん
- 給人・・・きゅうにん
- 糺明・・・きゅうめい
- 御意・・・ぎょい
- 恐々謹言・・・きょうきょうきんげん
- 向後・・・きょうこう・こうご
- 恐惶謹言・・・きょうこうきんげん
- 夾名・交名・校名・・・きょうみょう
- 御画日・・・ぎょくがにち
- 御出・・・ぎょしゅつ・おいで・おいでる・おんいで
- 金子・・・きんす
- 銀子・・・ぎんす
- 禁闕・・・きんけつ
- 禁制・・・きんぜい
- 禁中・・・きんちゅう
- 禁裏・禁裡・・・きんり
- く
- け
- こ
- 希・庶・庶幾・乞願・請願・・・こいねがう
- 郷・・・ごう・さと
- 勾引・・・こういん
- 甲乙人・甲乙仁・・・こうおつにん
- 公儀・・・こうぎ
- 合期・・・ごうご・がっこ
- 小路名・・・こうじな
- 庚申・・・こうしん・かのえさる
- 薨・・・こうす・おわる・こうじゅ
- 号・・・ごうす
- 巷説・・・こうせつ
- 口銭・貢銭・・・こうせん・くちせん・くちぜに
- 強訴・嗷訴・・・ごうそ
- 口達・・・こうたつ
- 勾当・・・こうとう
- 勾当内侍・・・こうとうのないし
- 向後・・・こうご・きょうこう
- 郡・評・・・こおり
- 御画可・・・ごかくか・ごかっか
- 御気色・・・ごきしょく・みけしき
- 沽却・・・こきゃく
- 沽却状・・・こきゃくじょう
- 五経・・・ごきょう
- 五行・・・ごぎょう
- 古今伝授・・・こきんでんじゅ
- 国衙領・・・こくがりょう
- 国司・・・こくし
- 国宣・・・こくせん
- 虎口・・・こぐち
- 国府・・・こくぶ
- 国分寺・・・こくぶんじ
- 国民・・・こくみん
- 爰元・爰許・・・ここもと
- 巨細・・・こさい
- 御在名・・・ございみょう
- 五三日・・・ごさんにち
- 故障・拒障・拒請・・・こしょう
- 拵・・・こしらえ
- 五摂家・・・ごせっけ
- 御左右・・・ごそう
- 御体御占・・・ごたいのみうら
- 事書・・・ことがき
- 事切・・・こときれ・ことぎれ
- 悉・尽・・・ことごとく
- 如・・・ごとし・ごとく・ごとき・ごと
- 理・・・ことわり
- 断・・・ことわり
- 御内書・・・ごないしょ
- 此方・・・こなた
- 以来・以降・以還・・・このかた
- 児手柏・・・このてがしわ
- 此則者・此時者・・・このときんば
- 護符・・・ごふ
- 因茲、是由・・・これにより、これによりて
- 之・是・此・・・これ
- 不可過之・・・これにすぐべからず
- 依之・自是・自爾・・・これより
- 此等・・・これら
- 悉之・悉之如件・・・これをつくせ・これをつくせくだんのごとし
- 御廉中・・・ごれんちゅう
- 捆意・・・こんい
- 懇望・・・こんもう・こんぼう
- か
「あ」行
あ
相拘・・・あいかかえ・あいかかう
(意味)
①保管しておくこと。抑えておくこと。
②閉じ込めること。
③よく守っておくこと。
相携・・・あいたずさえ
(意味)互いに手を取り合う。互いに協力する
相計・・・あいはからい・あいはからう
(意味)そのように事を運ぶ。そのように根回しする
相謀、相図・・・あいはかり
(意味)相談する。何かを企てる
相払・・・あいはらい
(意味)支払う、支払い
勝計・・・あげてかぞう
(意味)
一つ一つ具体的にとりたてること。
取り挙げて数える意。
不可勝計・・・あげてかぞうべからず
(意味)
(上記の意味を踏まえた上で)言うまでもないこと。問題とすることがあまりにも多いことを指す。
「不勝計」で「あげてかぞわざる」と読む。
「不及子細(しさいにおよばず)」や「不及申(もうすにおよばず)と同じ意。
(備考)
音読して「しょうけい」とも読む。
例文) 『(元亀四)二月二十九日付織田信長書状(永青文庫所蔵文書)』
芳簡殊に十二ヶ条之理共具聞届候、被入御精候段、不勝計事ニ候、
(芳簡、殊に十二ヶ条の理ともつぶさに聞き届け候。精を御入られ候の段、あげてかぞわざる事に候。)
語訳:貴殿からの12ヶ条からなる詳細な書状を拝読しました。昨今の細川藤孝殿の活躍は一つ一つを取り上げることが愚かなほど素晴らしく存じます。
浅猿・浅増・奇異・・・あさまし
(意味)浅ましいこと。嘆かわしいこと。興ざめ。または驚嘆すること。
(備考)
『多聞院日記二十 天正三年七月二十五日条』より
御ナヘト金吾ト祝言今日在之云々、浅猿ヽヽ、
(御なべと金吾(松永久通)と祝言今日これ有りうんぬん。浅まし浅まし。)
預地・・・あずかりち・あずけち
(意味)
管理を依頼された地。
転じて中世以降は、幕府がその直轄領または大名領を他の大名に預けて統治を委ねた地を指した。
また、地主が借地人に管理を委ねた地を指す場合もある。
本項のおもな参考文献:『角川日本地名大辞典(角川書店)』
預所・・・あずかりどころ・あずかりしょ・あずけしょ
(意味)「雑掌」の項を参照のこと。
能・・・あたう・よく・よき
(意味)~できる。
(備考) 打消しとなる「不能」で”あたわず”あるいは”あたわざる”
なお、この字は”よく”とも読む場合がある。
能々(よくよく)など
与・・・あたう・あたえる
(意味)
自身の所有物を他者に渡すこと。
または他者へ影響を及ぼすこと。
(備考)
他に「与(~と)」をはじめ「くみす」・「とも」・「あずかる」・「よ」などの読み方がある。
なお、「与」の旧字は「與」であるため、「興」と誤読しないように注意する必要がある。
恰・宛・・・あたかも
(意味)
まるで、ちょうどその時。
のちに続く語に「~のようだ」が入ることが多い。
まるで~のようだ。
(備考)
「宛」は書簡を出す際や知行を与える際に用いる「あて」や、数を割り当てる際に用いる「~ずつ」と読む場合があるので注意。
扱・噯・・・あつかい
(意味)
育児・看護・後見などの世話をすること。
転じて調停や仲裁、和睦の斡旋を意味するようになった。
(備考)
語源は「熱かふ」の連用形から。
古代の用語で熱に悩み、もだえ苦しむ様子からきている。
転じて、処置に苦しむ様子や、もてあますことを指すようになり、中世では世話を焼くことを指すようになったと考えられる。
例文) 『島記録』
覚へ、此状嶋才兵衛所ニ在之、
覚へ、天正元年八月十八日、朝倉最期、同廿八日浅井久政切腹、同廿九日長政最期、長政ハアツカヒニテノケ給約束也シカ、信長公高キ所ニアカリ居テ、赤尾美作、浅井石見ヲ隔テサセイケドルヲ見テ、長政ハ家ヘトリ入、切腹トソ、
梓弓・・・あづさゆみ
(意味)
あづさの木で作った弓。
アズサの木は古来より神聖なものと考えられていたので、神事で広く用いられた。
(備考)
アズサの木は現在のアカメガシワ・キササゲ・ヨグソミネバリのこと。
梓弓を鳴らして神おろしを行い、巫女が口寄などを行うようだ。
また、武家にもなじみが深いもので、古くから和歌でよく詠まれたものである。
例文1)『細川両家記』『陰徳太平記』
梓弓張りて心は強けれど引く手すくなき身とぞなりぬる (細川澄之和歌)
例文2)『衆妙集』
ねがはくば家に伝へむ梓弓もと立つばかり道を正して (細川幽斎和歌)
天晴・・・あっぱれ
(意味)
驚くほど見事である様子。
(善悪に関わらず)感動を表す語。
ほめたたえる時に用いる語。
また、雲一つない晴天を表す。
(備考)
感動詞の「あはれ」が促音化したもの。
公家などの日記には天候が記されることが多く、「天晴」も頻繁に見られる。
宛行・充行・・・あてがい・あてがう・あておこなう
(意味)物や土地を割り当てること。
宛行状・充行状・・・あてがいじょう・あておこないじょう
(意味)荘園や中世武家社会において土地や所職の給与に際して、給与者が作成して被給者に交付した文書のこと。充文(あてぶみ)ともいう。
(備考)
基本的には「あてがいじょう」と読むが、「あておこない」でも間違いはないようだ。
案内・・・あない
(意味)
①先例のこと。以前の判例を用いること。
②書状の下書き、草案のこと。
③人を招待したり招くこと。
④取り次ぐこと。
⑤人をその道や場所に導くこと。
(備考)
⇔無案内
中古の日本では撥音「ん」を書き表さないのが普通である。
例文1) 『(元亀三)五月二日付織田信長書状(小早川家文書)』
仍大友宗麟、累年京上望之由候、此比も雖被覃案内候、其方与別而申通半候条、令遠慮、未能返答候、可有如何候哉、
(書き下し文)
仍って大友宗麟、累年上京の望みの由に候。
このごろも案内に及ばれ候といえども、其方と別して申し通ずる半ばに候条、遠慮せしめ、未だ返答に能わず候。
如何あるべく候や。
穴賢・・・あなかしく・あなかしこ
(意味)
「穴(あな)」は古代期からの語で、自然の声から生じた強い感動を表す言葉。「ああ」。
「賢」は「かしこし」を語幹とし、以下の意味がある。
①おそれ多い。
②もったいない。
③ゆめゆめ。よく慎み気を付けて。
転じて書簡の書留部分に添える文言として定着し、「謹言。」・「畏れ慎んで申し上げます。」を表す意味合いで用いられた。
(備考)
「ああ」は多く形容詞の語幹の上に置かれるが、熟合して「あな憂(う)」・「あなかま」などのように慣用句となったものもある。
⇒「賢・恐・畏・可祝・・・かしく・かしこ」
⇒「畏・賢・恐・怖・・・かしこし」
例文1) 『(推定天文十五年)三月二十九日付近衛稙家書状(薩藩旧記雑録)』
去年為使左大辯宰相着下候処、別馳走之段、祝着此事候、抑對貴久忠切無比類之由、於家門本望候、併国中安寧基候、弥無油断義肝要候也、穴賢ヽヽ、
三月廿九日 (近衛稙家花押)
(書き下し文)
去年使として左大弁宰相(日野町資将)を差し下し候ところ、別して馳走の段、祝着この事に候。
そも貴久(島津貴久)に対し忠節比類無きの由、家門に於いては本望に候。
併せて国中安寧の基に候。
いよいよ油断無きの由、肝要に候なり。穴賢穴賢。
語訳:去年使として日野町資将(左大弁宰相)を差し下したところ、格別のもてなしを受けたとのこと。まことにありがたいことである。島津貴久の忠節は他に並ぶものがないほど素晴らしい。これからも油断することなく分国安寧のために励むことが肝要である。あなかしく。稙家。(推定天文15年)3月29日 本田薫親殿へ
例文2) 『顕如上人御書札案留』(永禄十)十一月七日(織田信長宛)
今度濃州勢州平均事、無比類次第候、仍可有御上洛之由尤珍重候、就中太刀一腰一文字、赤熊□唐衣裳三、虎草二枚、馬一疋青毛推進之候、猶上野法橋可令演說候、穴賢々々、
(書き下し文)
この度濃州・勢州を平均の事、比類無き次第に候。
仍って御上洛有るべきの由、もっとも珍重に候。
就中太刀一腰(一文字)・赤熊□唐衣裳三・虎革二枚・馬一疋青毛、これを推してまいらせ候。
なお上野法橋(下間頼充)演説 せしむべく候。穴賢穴賢。
剰・・・あまつさえ
(意味)そのうえに、それだけでなく、おまけに
諍・・・あらかう・あらかい
(意味)「諍(いさかう)」の項を参照のこと。
非・・・あらず
(意味)そうではない
荒増・・・あらまし
(意味)予定、概略、ざっと
有・・・あり・ある
(意味)
①物や事、人物などが存在すること。
例)「栗生分、浄土寺白川の内にこれあり。」
②生存すること。生活していること。
例)「江州小谷に浅井なる者ありけるに・・・」
③栄える。世に存在を認められること。
例)「土岐世保家、ありし時の記録を辿るに・・・」
④それでも悪くない。それでよいの意。
例)「短くてありぬべき生涯であった。」
⑤敬語名詞に付いて敬語動詞となる。
例)「御受戒あり。」「御祈あり。」「仰せあり。」
可有・・・あるべき
(意味)
(前記の意味をふまえた上で)適当な。なすべき適当な。
もっともであること。
可有・・・あるべし
(意味)適当であること。そうあるべきであること。
可有限・・・あるべきかぎり
(意味)この上も無く。できるだけ。
不可有・・・あるべからず
(意味)
あってはならない。強い禁止を表す。
または~するはずがない。打消しを表す。
(備考)
⇒「不可・不合・・・べからず・べからざる」の項を参照のこと。
なお、「不可有相違(そういあるべからず/あるべからざる)」は間違いないことを表す。
有間敷・・・あるまじ
(意味)
あってはならない。適当でない。
またはありそうもないこと。
ありけり
(意味)
①過去の事がらを伝聞として第三者に述べること。
そのように聞いた。~だということだ。~だそうだ。~らしい。
例)「その昔、彼の地に京極の館ありけり。」
②詠嘆として「~だった。」「~だったなぁ。」を表す。
例)「あはれ前関白殿下の御曹司、今も薩摩にこれありけり。」
ありける・ありし・ありつる・ありながら
(意味)前の。以前の。例の。
(備考)
「あり」の連用形に助動詞「けり」の連用形をつけたもの。
「ありし」は「あり」の連用形に過去の助動詞「き」の連体形が付いた語。
「ありつる」と同様、「以前(の叙述)にあった」の意であるが、「ありつる」は「ありし」よりも近接した以前のことを表す。
有様・・・ありさま・ありよう
(意味)
①様子。状態。振る舞い。
②ありのまま。実情。実際は。本当のところ。
有体・有躰・・・ありてい
(意味)ありのまま。世間並み。
有無・・・ありなし
(意味)
あることとないこと。あるかないかということ。
また、あるかないかわからないほど微かなさま。
難有・・・ありがたし
(意味)
①めったにないこと。
②めったにないほど優れていること。
③生きながらえることが困難であること。
④実現できないほど困難なこと。
⑤またとなく尊いこと。かたじけないこと。
(備考)
今日ではもっぱら⑤を指すことが多いが、原義は存在することが困難なことを指す。
「難有仕合」の場合は「ありがたきしあわせ」。
如有来・・・ありきたりのごとく
(意味)
これまで通り。従来通りであること。
「如前々(せんせんのごとく)」と同じ意。
(備考)
所領や諸職などを安堵する旨の書状に多く用いられる。
「在来(ありく)」が古代からある語で、変わらずに続いてくる。同一のことが続くさまを指す。
例文) 『東寺所蔵文書』(天正元)八月二日付長岡藤孝判物
今度限桂川西地一職、爲信長雖被仰付、上久世幷上野事、依爲八幡領、不混自余申付候、近年如有来、全可有御寺納候、向後不可有相違候、為其如此候、恐々謹言、
(書き下し文)
この度桂川西地に限り一職、信長に仰せ付けられたるといえども、上久世並びに上野の事、八幡領たるにより、自余に混せず申し付け候。
近年有り来たりの如く、全く御寺納有るべく候。
向後も相違有るべからず候。
その為かくの如くに候。恐々謹言(以下略)
彼此・彼是・・・あれこれ・あちこち・かれこれ
(意味)「彼是(かれこれ)」の項を参照のこと。
或・・・あるいは・あるは
意味)
①二つ以上の要素を例示的に並べて「ある人は。」「ある時は」などと用いる。
例)「越智近日出陣すべしとうんぬん。国中十方と相語らう。あるいは泉州へ出陣すべしとうんぬん。あるいは京都西方に罷り上るとうんぬん。」
②接続詞として用い「または、」「もしくは、」を表す。
(備考)
現代では上記以外の用法のほかに、同位並列の二単語を接続する目的で用いる場合もある。
例)「長さ9cm、あるいは10cmか。」
「或(あるいは)」の「ある」は「あり」の連体形。
「い」は副助詞。
「は」は係助詞。
「い」が助詞のため、「あるひは」と書くのは誤り。
例文1) 『信長公記 首巻』
一、去程尓武衞様の臣下尓梁田彌次右エ門とて一僕の人有、面目巧尓て知行過分尓取、大名になられ候子細ハ、清州に那古野彌五郎とて十六七若年の人数三百計持たる人あり、色々歎き候て、若衆かたの知音を仕り淸州を引わり、上総介殿の御身方候て御知行御取候へと時々宥申、家老の者共尓も申きかせ、耽欲尤と各同事候、然間、彌次右エ門、上総介殿へ参、御忠節可仕之趣、内々申上尓付て、御満足不斜、或時、上総介殿御人數、淸州へ引入、町を焼沸生城尓仕候、
(書き下し文)
去程に武衛様(斯波義統)の臣下に梁田弥次右衛門とて一僕の人有り。
面目巧みにて知行過分に取り、大名になられ候子細は、清州に那古野弥五郎とて十六~七若年の、人数三百ばかり持ちたる人あり。
色々嘆き候て、若衆方の知音を仕り、清州を引き割り、上総介(織田信長)殿の御味方候て、御知行を御取り候へと時々宥め申す。
家老の者どもにも申し聞かせ、欲に耽り、もっともと各々同心し候。
然る間、弥次右衛門、上総介殿へ参り、御忠節仕るべきの趣き、内々に申し上ぐるに付きて、(上総介殿の)御満足斜めならず。
ある時、上総介殿の御人数を清州へ引き入れ、町を焼き払い、生城(裸城)に仕り候。
例文2) 『(元亀三)九月二十日付木下秀吉・武井夕庵連署状(妙智院文書)』
西院之内、妙智院策彦東堂御寺領分安弘名之事、殿様より被仰付、御寺へ可為御直納之旨、被成御印判上ハ、年貢、諸公事物、又無不法、懈怠可致其沙汰候、石成方へも右之分被仰出候間、聊以不可有別条候、指出之儀相調候て、妙智院納所へ可渡進候、或者隠田、或物上田迄、薄地ニ替、恣々族於有之者、可被処厳科候、此旨従両人可申之由候、恐々謹言、
(書き下し文)
西院のうち、妙智院策彦東堂の御寺領分(安弘名)の事、殿様より仰せ付けられ、御寺へ御直納たるべきの旨、御印判をなさるるの上は、年貢・諸公事物、又は不法・懈怠なく、その沙汰を致すべく候。
石成(石成友通)へも右の分を仰せ出され候間、いささか以って別条あるべからず候。
指出の儀を相調え候て、妙智院納所へ渡しまいらすべく候。
あるいは隠田、あるいは上田までを薄地に替え、恣々の族有るに於いては、厳科に処せらるべく候。
この旨両人より申すべきの由にて候。恐々謹言。
案・案文・・・あん・あんもん
(意味)「正文(しょうもん)」のコピーのうちで、本質的な効力があるものを指す。
案書(あんしょ)・書状案(しょじょうあん)などとも呼ばれる。
(備考)案文は法令・命令布達のために大量に作成される場合、訴訟の証拠文書としてコピーを提出される場合、所領を分割する際、その土地の権利関係文書のコピーといった重要な文書の場合に作成される場合が多い。
一方、正文のコピーで、効力の無いものは「写(うつし)」である。
参考『史料を読み解く1 中世文書の流れ(山川出版社)』・『花押・印章図典(吉川弘文館)』
例文) 『顕如上人御書札案留』(元亀四)二月二十七日付 (武田信玄宛)
仲春嚴札具遂披覽候、野田城落居、就其被越飛脚段、御梱情之至候、
(中略)
委細爰許之様子賴充可申入候、— —
二月廿七日 — —
法性院
○これハ彼方より飛脚來候、其返札也、文章事案文紛失候て、大かた覺之分書之、少つヽ相違之所可在之、
(書き下し文)
仲春の厳札(十六日)つぶさに 被覧を遂げ候。
野田城落居、それに就きて飛脚を越さるるの段、御懇情の至りに候。
(中略)
委細 爰許の様子、頼充(下間頼充)申し入るべく候。
(中略)
○これは彼方より飛脚来たり候。
その返札なり。
文章事案文紛失に候て、おおかた覚えの分、これを書く。
少しずつ相違の所これあるべし。
安堵・・・あんど
(意味)
①民がその土地に安住すること。
例)「永く安堵を保たん。」
②安心すること。心の落ち着くこと。
例)「左兵衛殿御子息、逃げ延び候て安堵せしめおわんぬ。」
③領知の所有権を公認すること。またはその証となる証書。安堵状。
例)「顕能卿嫡子北畠大納言顕泰卿、後小松院ニ仕フマツリ、安堵ノ所領ヲ給リテ子孫繁昌也、」
い
揖・・・いうす・すすむ・えしゃく・いつ・いう・しふ・い
(意味)挨拶すること。または会釈すること。
雖・・・いえども
(意味)逆説の確定条件または仮定条件。~だけど、~だと
(備考)「雖然」は「しかれども」
「雖未申通候」で”いまだ申し通せず候といえども”
(※「不」が入らない点に注意)
書簡を始めてやり取りする際に記される場合が多い。
例1)『大乗院寺社雑事記』文正二年正月二十日条
細川・京極入道等、兼ハ可合力之由雖申之、望其期而違反、一向失弓矢之道之由・・・
(細川(細川勝元)・京極入道(京極持清)等、かねては合力すべしの由と申すといえども、その期に臨みて違反、一向弓矢の道を失うの由・・・)
例2)『(天正元)十月二日付六角承禎感状写(川合文書)』
近年牢籠仁種々馳走共に祝着候、則可有奉公旨候条、先年以直書ヲ知行分雖遣置候、今度石部下野館江令籠城処、有入城被抽粉骨断、神妙ニ候間、最前充行知行ニ只今令加増、以目録加扶持候、
(書き下し文)
近年籠城の仁、種々馳走共に祝着に候。
則ち奉公有るべきの旨に候条、先年直書を以て知行分遣し置き候といえども、この度石部下野館へ籠城せしむるのところ、入城有りて粉骨抜きんでらるるの段、神妙に候間、最前宛行う知行に只今加増せしめ、目録を以て扶持に加え候。
奈・奈可・奈何・如何・・・いかん
(意味)
ことのなりゆき。様子。
または「どうであろうか」と疑問を表す際に用いる。
位記・・・いき
(意味)
叙位の旨を記した辞令。
位を授けられる者が与えられる文書のこと。
(備考)
古語辞書にない場合はわ行のゐ行で調べてみよう。
「ゐき」
例文) 『言継卿記』永禄十一年十月十九日条
次今日将軍御四品之位記持参之間、束帯令着之、同局務師廉朝臣、官務朝芳宿禰等宣旨持参云々、同束帯也、
(書き下し文)
次いで今日将軍御四品の位記を持ち参るの間、束帯これを着けせしむ。
同局務の師廉朝臣(中原師廉)、官務の朝芳(壬生朝芳)、宿祢等は宣旨を持ち参り云々。
同じく束帯なり。
委曲・・・いきょく
(意味)詳しく細かなこと。また、物事の詳しい事情。
委細・詳細・巨細。
(備考)中世の古文書ではしばしば文章の終りの方で登場する。
「委曲〇〇可申候也、(いきょく、〇〇申すべく候なり)」などと用いる。
幾日・・・いくか
(意味)
どれほどの日数。
何日。数日。
幾人・・・いくたり
(意味)
複数人の人を指す。
何人、数人。
幾許・幾多・幾何・幾程・・・いくばく・いくばかり・いかばかり
(意味)
どれほど、どんなにか。
推量の意味合いで、物事の具合や程度を測りかねるときに用いることが多い。
(備考)
“いかばかり”は「如何計」と記されることが多いか。
例文) 『乃美文書』『武家事紀(元亀四年九月七日付織田信長書状写)』
甲州之信玄病死候、其跡之躰難相続候、駿州之今川多年信玄ニ被追出候而、北条を相頼、豆州ニ蟄居、此節此方江被走入之条、難黙止令許容候、駿州出張之儀馳走候、本意不可有幾程候、
(書き下し文)
甲州の信玄病死に候。
その跡の体は相続き難く候。
駿州の今川は多年、信玄に追い出され候て、北条を相頼み、豆州に蟄居。
かくの節此方へ走り入らるるの条、黙止し難く許容せしめ候。
駿州出張の儀は馳走に候。
本意いかばかりも有るべからず候。
去来・・・いざ
(意味)
「さあ」と誘うときの語
委細・・・いさい
諍・・・いさかう
(意味)口論。言い争う。口喧嘩をすること。
(備考)
この字で「あらかう」もよく用いられるが、意味合いは上記のものに加えて「反論する」「賭けをする」ことも指す。
聊・・・いささか
(意味)
質的・量的に少ないことを表す語。
ほんのすこし。わずか。かりそめ。ちょっと。
何方・・・いずかた
(意味)
どれ。どこでも。
どこへでも。いずれも。
(備考)
例文) 『革島文書』(元亀三)九月二十八日付織田信長朱印状
其方へ遣候知行、自何方違乱候共、不可被許容候、尚滝川可申候、恐々謹言、
(書き下し文)
その方へ遣わし候知行、何方より違乱候とも、許容せらるべからず候。
なお滝川(滝川一益)申すべく候。恐々謹言
異体字・・・いたいじ
(意味)漢字の字体のうち、国が定めた標準字体(正字)以外の字体をした漢字のこと。
別字体のこと。
(備考)
古代期、漢民族の文化圏では、宋代に本格的な印刷文化が発展するまで、異体字全盛期の時代であった。
日本が大陸から漢字を取り入れたのはまさにこの時期のこと。
さらに、則天皇帝の作った新字なども早々に取り入れられた。
国の異体字「圀」などがそれにあたる。(國がもとの漢字。つまり正字)
漢民族の間では、こうした異体字が問題視され始め、正字一つに統一しようとする気運が起きたが、日本ではそうはいかなかった。
それに加え、朝鮮半島で盛んに用いられていた「部の異体字※下図を参照」のように、旁を独立させた異体字も、日本では用いられるようになる。(この異体字の起源が半島か大陸かは不明)
なお日本では8世紀頃、この字は「マ」に近い字で書かれることが多くなり、平安時代前期には、「へ」に近い形に略されるようになった。
これが、ひらがな・カタカナの「へ」へ繋がってゆく。
「部」の異体字の変遷
このように、異体字が時代の流れとともに仮名文字へと進化する例もあった。
仮名文字ではないが、他に代表的な異体字として「刕=州」・「时=時」・「㐧=第」などがある。
異体字の他に旧字もある。
参考:『文献史料を読む・古代から近代(朝日新聞社)』・『音訓引 古文書大字叢(柏書房)』など
致・・・いたし・いたす
(意味)「~する」の謙譲語。へりくだった言い方。またはひきおろす。もたらす。「不徳の致すところ」等
(備考)打消しとなる「不致」で「いたさず」。
出間敷・・・いたすまじ
(意味)~してはいけない。~はいたしません。~を禁じる。
(備考)
⇒「~間敷・・・~まじ・まじく・まじき」
例文) 『慶長五年九月十八日付前田利長起請文前書写(丹羽歴代年譜)』
敬白天罰起請文前書之事
(中略)
一、此跡互之出入之儀、打捨為出間敷候事、
(敬白 天罰起請文前書の事。この後互いの出入りの儀、打ち捨ていたすまじきと為し候の事。)
徒ら・・・いたづら
(意味)せっかくの価値が活かされず、また努力に見合った結果が得られずに無駄である。役に立たない。甲斐がない。虚しいと感じるさまを表す。
(備考)歴史的仮名遣いで「いたづら」としているが、つまりはいたずらのこと。
中世末期から悪ふざけをするさまを表す意が現れ、現代語のいたずらの意に至る。
徒ら者・・・いたづらもの
(意味)
①用の無くなった者、落ちぶれた者
②悪いことをする者、ろくでなし、ごろつき
(備考)中世の古文書ではしばしば、快く思わない者を指す意味で登場する。
例文を挙げると
天正7年付織田信忠宛消息より(信長が織田信忠へ宛てた書状)
就中浄土宗、法花宗宗論、彼い多つらものまけ候、
(なかんずく浄土宗・法華宗の宗論、かのづら者(が)負け候。)
韋駄天・・・いだてん
(意味)
仏界用語で仏教の守護神のひとつ。
婆羅門の天神で、仏舎利を盗んだ捷疾鬼を追って取り返したといい、足が速い神とされる。
見た目は甲冑で身を包み、合掌しながら宝剣を抱え持つ。
(備考)
サンスクリッド語で「スカンダ(軍神)」と記され、日本では「塞建陀」・「揵陀」・「韋将軍」と訳される場合もある。
上記の足が速いという俗説から、「韋駄天走り」など足に関連した単語が多い。
市・・・いち
(意味)
物資の交換取引の行われる場所や集落のこと。
人が多く集まる交通上の要地に開かれた。
古くは歌垣、祭礼などがそこで行われ、次第に物品売買の地となった。
平城京・平安京では東西にそれぞれ市が置かれ、毎月15日までは東の市で、16日以降は西の市で取引が行われた。
平安末期からは月3回の定期が多くなり、鎌倉期以降は、寺社門前や豪族らの城館近辺、あるいは港津に市が開かれることもあった。
戦国期には郷村内に月6回の六斎市を設定し、権益や請負の関係も相まって、その在り方も多様化した。
(備考)
例文) 『長遠寺文書』元亀三年三月日付織田信長禁制案
摂州尼崎内市場巽長遠寺法花寺、建立付条々、
一、陣執幷対兵具出入停止之事、
一、矢銭、兵粮米不可申懸之事、
一、国質、所質幷付沙汰除之事、
一、徳政免許之事、
一、敵方不可撰之事、
一、棟別幷臨時之課役免除之㕝、
一、不可伐採竹木之事、
右任御下知之旨、不可有相違者也、仍執達如件、
(書き下し文)
摂州尼崎の内市場の巽長遠寺(法華寺)建立に付きての条々、
一、陣取り並びに兵具を帯しての出入りを停止の事。
一、矢銭・兵糧米を申し懸くべからざるの事。
一、国質(くにじち)・所質(ところじち)並びに付け沙汰を除くの事。
一、徳政免許の事。
一、敵方を選ぶべからざるの事。
一、棟別並びに臨時の課役を免除の事。
一、竹木を伐採すべからざるの事。
右御下知の旨に任せて、相違有るべからざるものなり。
仍って執達くだんの如し。
一途・一図・・・いちず・いっと・ひとみち
(意味)
①専念すること
②専ら相談することが大切であること
③決着すること
④事の子細・事の次第
⑤戦いの様子
⑥一つの方針・方法
「無一途(いっとなく)」は事がはっきりとしないさまを表すことが多い。
(備考)
例文1) (永禄六)四月七日付武田信玄書状(個人蔵)
其已後者申遠候、本意之外候、抑長尾景虎川東へ引退候間、不可有指義之旨存候處、小山之地取詰、剰秀綱降参、不及是非次第候、但是全非景虎戦功候、関東人未練故ニ候、三十日不拘城而此之疑、無念至極候、随而来十二日必出馬、一途可及行候、可御心安候、
(書き下し文)
それ以後は申し遠のき候。
本意のほかに候。
そもそも長尾景虎(上杉輝虎)川東へ引き退き候間、指したる儀の旨に有るべからずと存じ候のところ、小山の地を取り詰め、あまつさえ秀綱(小山秀綱)降参、是非に及ばざるの次第に候。
但しこれ全く景虎の戦功に非ず候。
関東人未練ゆえに候。
三十日城を拘えずにてかくの儀、無念至極に候。
従って来たる十二日に必ず出馬、一途にてだてに及ぶべく候。
御心安かるべく候。
例文2) 『大乗院寺社雑事記』文明二年六月十八日条より
土岐内々申合子細日來より有之上、可降参云々、一色同前、其余大名悉以可有降参云々、所詮無一途ハ、今出川殿・畠山右衛門佐義就・大内新助両三人云々、
(書き下し文)
土岐(土岐成頼)内々に申し合わす子細、日来よりこれ有るの上、降参すべしと云々。一色も同前。その余大名も悉く以て降参有るべしとうんぬん。所詮一途無きは、今出川殿(足利義視)・畠山右衛門佐義就・大内新助(政弘)の両三人に云々。
一切経・・・いっさいきょう
(意味)
仏教の教えを説いた経・律・論の三蔵の全部。
経典の一大叢書。七千余巻を指す。
大蔵経のこと。
(備考)
なお、一切経供養(いっさいきょうくよう)は、一切経を書き写して寺院に納めるときに行う法会。
一切衆生(いっさいしゅじょう)は人類すべて。全ての生物のことを指す。
例文1) 『大乗院寺社雑事記』明応六年正月五日条より
一、一切經納所茶十袋持参申、恒例也、別進榼一荷・円鏡、叉若君瓶子一双・円鏡・茶三袋進之、盃幷扇一本給之、
(一切経を納所茶十袋持参申す。恒例なり。別に樽一荷・円鏡まいらす。また若君に瓶子一双・円鏡・茶三袋これをまいらす。盃並びに扇一本これを給う。)
例文2) 『大乗院寺社雑事記』明応六年十二月晦日条より
一、一切經闕分四口補之、且闕一口根尾之所、輪轉一﨟入之、仍五人新補、輪轉叉補之、今度順秀未番之上也、遂業遅々間、雖上首輪轉ニ入之、宗玄未番末也、輪轉也、仍令補本衆了、
(書き下し文)
一切経欠分四口これを補う。
且つ欠一口(根尾の所)、輪転一﨟これ入る。
仍って五人新らに補う。
輪転またこれを補う。
※一﨟(いちろう)はもっとも仏門で修業を積んだ年功の長老僧のこと。
早晩・・・いつしか
(意味)
未来あるいは過去の不定の時を表す語。何時か。
「あれはいつのことであったか。」
一職・・・いっしき
(意味)
遺領・遺産のこと。
耕地に関する一切の権利を指す。
「遺跡(ゆいせき)」・「跡目」・「跡職(あとしき)」・「遺領」と同じ意。
(備考)
例文) 『革島文書』天正元年九月十四日付長岡藤孝判物写
今度限桂川西地一職、爲信長被仰付條、千代原幷
上野、但シ除東寺分、進之候、弥可被抽忠莭事、肝要
候、仍如件、
(書き下し文)
この度桂川を限る西の地一職に、信長として仰せ付けらるるの条、
千代原並びに上野(但し東寺分を除く)これをまいらせ候。
いよいよ忠節を抜きんでらるべきの事、肝要に候。仍ってくだんの如し。
「一職」のくずし方の用例
「職」のくずしは「残」や「殲」に似た形をしている。
文脈に領知・権益安堵の匂いを感じたら、「職」である可能性を考えよう。
一種一荷・・・いっしゅいっか
(意味)贈り物の一種で、人に酒樽一つに酒肴一種類を添えて贈ること。
「一種一桶(いっしゅいっとう)」ともいう。
樽(たる)は主に酒樽を意味する。
(備考)
例文1) 『顕如上人御書札案留』(元亀二)六月八日付朝倉義景宛
今度綠邊之儀、彌以深重可申談、自他之旨趣、入眼之段珍重候、仍十種十荷推進之候、表祝儀計候、
(書き下し文)
この度縁辺の儀、いよいよ以て深重に申し談ずべき自他の旨趣、入眼の段珍重に候。
仍って十種十荷これを推しまいらせ候。
祝儀を表すばかりに候。
例文2) 『大乗院寺社雑事記』明応五年十二月二十二日条より
一、供目代英善参賀、鈍色・五帖・見参了、榼一双・兩種進之、
(供目代英善参賀。鈍色・五帖・見参おわんぬ。樽一双・両種これをまいらす。)
関連記事:戦国時代定番の贈り物と数え方①食品、武具・馬、鳥類・猛禽類編-酒樽(さけだる)・酒桶(おけ)・指樽(さしだる)の項
一左右・・・いっそう
(意味)一つの命令、指図、通知、手紙。
(備考)
吉左右で(きっそう=良い報せ)と読む。
幼者・・・いどけなきもの
(意味)子供のこと。
(備考)
「幼」単体で”いどけなし”とも読む。
異本・・・いほん
(意味)
原本と同一の由来であるが、伝来が異なったり、伝承の過程で本文の順序や文章の組み立て、文言に相違があったりする書のこと。別本ともいう。
(備考)
古典の本文は、いろいろな事情によって原本のままには伝わらないのが普通である。
作者の初稿本・再稿本によっても相違がある場合はもちろんのこと、そうでなくても、転写する場合の誤写・脱落や、意識的・無意識的に行われる追加や書き換えなどによって、同じ名前の本であっても、その本文に違いが生じてくる。
このような本文に違いのある本を互いに「異本」という。
例えば、源氏物語の異本には、大別して青表紙本・河内本・別本の三系統があり、その中でもさらに微妙に違いがある。
未・・・いまだ・いまだ~ず
(意味)「まだ」あるいは「かつてない」
(備考)
返読文字のため、語順を組み替えて読む必要がある。
「未」のあとに続く語が何かを打ち消す意味の文言(「不」など)が入ると、それは記さないことが多い。
「未〇〇」で「未だ〇〇ず(未だ〇〇しない)」
雖未申通候・・・いまだもうしつうさずそうろうといえども
(意味)今までご挨拶したことがありませんが
(備考)「未だ申し通さず候と雖も」となる。
「不」が入らない点に注意。
かつては外交儀礼上、初めて便りを出す相手にはこのような文言を使用した。
「雖未申通候、令啓候、(いまだ申し通さず候といえども、啓せしめ候)」
語訳:今まで機会がなく御挨拶をしたことがありませんでしたが、謹んで申し上げます
どのくずしも典型的で比較的推測もしやすい。
「未」の前の字が読めない場合、「雖(いえども)」の可能性を疑ってみよう。
忌詞・忌言葉・・・いみことば
(意味)
特定の時や場所で、ある言葉の使用を避けて、そのかわりに用いる特別の語。
中でも仏教に関する用語が特に多い傾向にある。
(備考)
仏を「中子(なかご)」、経を「染髪(そめがみ)」、僧を「髪長(かみなが)」、血を「あせ」、死ぬことを「なおる」など。
弥書・・・いやがき
(意味)
同じことを繰り返し書くこと。
先に書いていることを重ねて書くこと。
苟・・・いやしくも
(意味)卑しい、低いの意味で、最低のことを条件としていう。いいかげんにでも、少なくとも、仮にも
(備考)
形容詞「いやし」の連用形+係助詞「も」。
弥増・・・いやまし
(意味)ますます多く。
(備考)
例文) 『信長公記 巻四』「叡山御退治之事」より
於本朝、御名誉、御門家之御威風、不可勝計、亦御分國中、諸關諸役御免許、天下安泰、往還旅人御憐慇、御慈悲甚深ニメ、御冥加モ御果報も超、世尓彌增御長久之基也、
(書き下し文)
本朝に於いて、御名誉・御門家の御威風挙げて数うべからず。
また、御分国中、諸関の諸役を御免許、天下安泰、旅人往還の御憐慇、御慈悲甚深ニメ、御冥加も御果報も超え、世にいやまし御長久の基なり。
弥・弥々・愈愈・愈々・・・いよいよ
(意味)
①ますます。いっそう。
②確かに。
③とうとう。ついに。
(備考)
語源の「弥(いや)」が
①いよいよ。ますます。
②最も。いちばん。
③非常に
を意味する言葉である。
「いや」を重ね「いやいや(いよいよ)」として強い語調を表したのだろう。
これが基となり、
「弥速(いやはや)」でいよいよ速いさま。
「弥増(いやまし)」でいよいよ多くなるさま。
「弥書(いやがき)」で同じことを二度書くこと。重ねて記すこと。
など多くの語が生まれた。
中世の文書では、文章の終盤あたりに「弥全可被領知之事(いよいよ まったく りょうち せらる べき の こと)」・「弥御入魂肝要ニ候(いよいよ ごじっこん かんよう に そうろう)」などと用いられることが多いが、多くは①を意味する。
なお、「弥」の旧字として「彌」もよく登場する。
例文) 『月峯寺文書』天文十八年十一月二十四日付三好長慶書状
御祈願所摂津国能勢郡槻峯寺事、従先規諸公事臨時課役被免除之上者、任御下知之旨、弥不可有相違候、可被得其意候、恐々謹言、
(書き下し文)
御祈願所摂津国能勢郡月峯寺の事、先規により諸公事・臨時の課役免除せらるの上は、御下知の旨に任せて、いよいよ相違有るべからず候。その意を得らるべく候。恐々謹言。
違乱・・・いらん
(意味)
①押領など秩序を乱す行為。
②事態を不服として異議を申し立てること。
「違乱無く」や「違乱すべからざる」などは不服を申してはならないことを意味する。
(備考)
例文1) 『大乗院寺社雑事記』明応四年正月十一日条より
加賀國小坂庄自二条殿御寄進地、地下違乱旨被聞召、神領違乱基不可然旨、御書到來祐梁方ニ遣之間、今日参上、當庄三百石ト八十貫ト知行也、近來有名無實旨申、此庄京覺乱入年貢共催促之、百姓等迷惑旨参申・・・
(書き下し文)
加賀国小坂庄、二条殿よりの御寄進地、地下違乱の旨を聞こし召さる。
神領違乱の基、然るべからざるの旨の御書到来、祐梁方に遣すの間、今日参上。
当庄三百石と八十貫と知行なり。
近来有名無実の旨を申す。
この庄、京攪乱に入り年貢共にこれを催促、百姓等迷惑の旨申し参る・・・
例文2) 『(元亀三)六月二十五日付松井友閑書状(真珠庵文書)』
急度申入候、仍大徳寺領之事、縦雖被出棄破朱印、不混自余旨被仰出候、然而今度賀茂境内申事就有之、使僧被差下、被仰理候処ニ、弥不可有異議之由、御書被進候、此上者各御違乱有間敷候、則木藤・塙九へも申届候、可被成其御心得候、恐々謹言、
(書き下し文)
急度申し入れ候。
仍って大徳寺領の事、たとい棄破の朱印を出さるといえども、自余に混せざるの旨仰せ出され候。
然してこの度賀茂境内に申す事これ有るに就きて、使僧を差し下され、仰せ理わられ候ところに、いよいよ異議有るべからざるの由、御書をまいらされ候。
この上は、おのおの御違乱有る間敷く候。
則ち木藤(木下秀吉)・塙九(塙直政)へも申し届け候。
その御心得をなさるべく候。恐々謹言。
綺・・・いろい・いろう・いろり
(意味)
関与すること。
干渉すること。
口出しすること。
(備考)
中世の文書では相手方に対して迷惑を及ぼすような否定的な文脈で用いられることが多い。
押領などの行為がそれにあたる。
色立・・・いろだつ・いろたち・いろだて・いろめきたつ
①他者に対して、自己の立場を明確に表すこと。
旗幟を鮮明にすること。
②戦いで敗色が濃厚になること。
味方が動揺し始めること。
③色の配合。色付き。
④連句などの和歌で、前句に対して色彩の取り合わせで軽く付ける手法。
(備考)
「色(いろ)」は古来より、人間の心情を表す表現として多く用いられた。
「顔色が優れない」・「色気立つ」・「色町」・「御気色」など、動詞・名詞問わず多くの語が存在する。
例文) 『諸家文書纂』(年次不明)十一月十四日付宗徹書状写
至宇津要害御進発之処、可有御忠節之旨、以塩川伯耆守方被申段、披露申候処、神妙之思食、望之在所目録被加御袖判被仰付幷被成御書候、尤珍重候、然上者急度被色立其働肝要候、被申上趣於相違者、不可有其曲候条、幾重も可相急事専要候、猶於様躰者、塩伯可被申入候間、不能巨細候、恐々謹言、
(書き下し文)
宇津に至り要害へ御進発のところ、御忠節有るべきの旨、塩川伯耆守(塩川国満)方を以て申さるるの段、披露申し候ところ、神妙の思し召し、望みの在所の目録に、御袖判を加えられ、並びに御書をなされ候。
もっとも 珍重に候。
然る上は、急度色立てられ、その働き肝要に候。
申し上げらる趣き、相違に於いては、その曲がり有るべからざるの条、幾重も相急ぐべきの事専要に候。
なお様体に於いては、塩伯(塩川国満)へ申し入れらるべきに候間、巨細に能わず候。恐々謹言。
所謂・所云・・・いわゆる
(意味)世に言われているところの、人のよく言う
況・・・いわんや
(意味)言うに及ばず、もちろん、まして
歴史的仮名遣いで”いはむや”
(備考)
「いうに及ぼうか、(まして)・・・においてはなあ」といった構文となるケースが多い。
上に重い意味内容のAをおき、下に軽い意味内容のBを置いて程度を比較する。
つまり、「Aすら〇〇である。いわんやBにおいても〇〇なのに・・・」。
院・・・いん
(意味)
①一区画をなす家屋の称。とくに宮殿・宮舎・貴族の邸宅、仏寺の塔頭などを指す。
②上皇・法皇・女院の御所。またはその別邸。院宮。
または小路名としてそこに住する主人の敬称を指す。
引汲・引級・・・いんぎゅう
(意味)
訴訟など相論の際、一方を弁護し支援すること。
またはひいきすること。
(備考)
例文) 『大乗院寺社雑事記』応仁元年六月九日条より抜粋
其時更以東方不可引汲候、無落居以前一事両様ニ國司方へ難申之由返事也、
(書き下し文)
その時、さらに以て東方を引汲すべからず候。
落居無き以前、一事両様に国司(北畠教具)方へ申し難きの由の返事なり。
院家・・・いんげ
(意味)
仏界用語。寺格の名。
本寺とは別の本尊・伽藍・院号を持つ独立した小寺(子院)で、平安時代以降、皇族・公卿の子弟の出家入寺による門跡の法統をつぐ寺院。
(備考)
大和国興福寺の子院である大乗院と一乗院がその例。
両寺はそれぞれ、九条家・近衛家の子を迎え入れて跡取りとしていた。
その場合、門跡の甥にあたる人物が迎えられることが多い。
両院とも平安中期にひらかれた院家であるが、鎌倉期には大寺たる興福寺をも凌ぐ力をもっていた。
鎌倉時代末期には両門跡による主導権争いが発生し、それぞれが衆徒・国民を擁して激しく争うようになる。
隠者・陰者・・・いんじゃ
(意味)
世間から逃れ住む高潔な人。
隠遁生活を送る者。
隠士ともいう。
例文) 『宇津山記』
十とせのさき十とせあまり、太守于時修理大夫此山うちにをくらせたまひ、国の人あつまりきゐて、所せかりして、家五六十間とぞ見えし、むかしの国府をあらため、かへり給のちは、たゞ山がつやうの疎屋のみなり、卅餘年のあなたより都のかたはらにして、こゝかしこ田舎にも行かよひ、こしのしらねもたひたびこえて、越後守護殿つの(「く」脱カ)にすむ能勢因幡守頼則、三河国牧野古白といひし陰者、さては京ちかき人のなさけにて、をのづから小野の炭、小原の薪ともしからずぞありし、
(書き下し文)
十歳のさき十歳あまり、太守(時に修理大夫)この山うちにをくらせたまひ、国の人あつまりきいて、所せかりして、家五六十間とぞ見えし。
むかしの国府をあらため、かえり給うのちは、ただ山がつようの疎屋のみなり。
三十余年のあなたより都のかたはらにして、ここかしこ田舎にも行かよい、こしのしらねもたひたびこえて、越後守護殿(上杉房定)つの(摂津)国にすむ能勢因幡守頼則、三河国牧野古白といひし陰者、さては京ちかき人のなさけにて、おのずから小野の炭、小原の薪ともしからずぞありし。
院主・・・いんじゅ・いんしゅ・いんす
(意味)寺院の住職。住持。
各宗派によって細かい定義があると思われるが、古文書として登場する場合、筆者の社会的地位や文脈によって意味合いが大きく異なると思われる。
(※良質な説明がなされた書籍を見つけ次第追記したい)
(備考)
院主職の相承は同族内、特に伯父・叔父—甥関係に基づき行われるのが一般的である。
引得・・・いんとく
(意味)
買い入れること。
私的に買い入れた土地。買得地。
(備考)
例文) 『阿願寺文書』永禄十年十二月日付織田信長朱印状
当寺引得分以下令免許上、如前々不可有相違之状如件、
(書き下し文)
当寺引得分以下、免許せしむるの上は、前々の如く相違有るべからざるの状くだんの如し。
印判・・・いんばん
(意味)詳しくは印判状をご参照のこと。
印鎰(いんやく)と記されることもある。
印判状・・・いんばんじょう
(意味)武家社会のうちで花押にかえて印章(印判)を用いた文書のこと。
筆書と違って印判は簡便であり、同一文書を幾通りも短時間に作れるので、掟・制札・伝馬手形などでよく発給された。
鎌倉・室町両幕府関係の武家文書は寺院関係の「公帖」と称する文書のほかはすべて無印文書ばかりであったが、そこへ花押(かおう)にかわって印章を用いた武家文書が十五世紀に出現した。
印判状はまず尾張以東の東国地方に限って行われたが、印判状を出していた織田信長が広く天下を握ったことで、しだいに全国へ波及していった。
また、朱印と黒印とに大別ができ、おおよそ以下のような違いがある。
関連記事:戦国時代の古文書 判物とは何か 書き方のルールは?
(備考)また、印判状は奉書式と直状(式に区別されるが、奉書式のものは奉者があって、それに主人の印を捺して出したが、奉者は花押をすること(それも稀に)はあっても自己の印章をすることはない。
直状式のものは奉者を介さず大名が捺印をして直接に出す様式である。
捺印については、年・月日のいずれかに捺すもの、日付の下方に捺すものなど、各家々によってその様式には差異があった。
奉書式印判状の奉者が「奉之」と書く場合に、相模の北条氏は「遠山奉之」と小さく右傍に書いたが、甲斐の武田氏は「土屋右衛門尉奉之」と左傍に記し、越後の長尾氏は「直江奉之」と一行書にした。
徳川家康もまた、甲斐へ入国すると武田式を襲用した。
主な参考文献:『花押・印章図典(吉川弘文館)』・『室町・戦国時代の法の世界(吉川弘文館)』
音物・・・いんもつ
(意味)進物・贈り物のこと。または賄賂を指す。
音問・・・いんもん・おんもん
(意味)手紙などで安否をたずねること。
人の消息などを尋ねるための伝言や手紙のこと。
う
候・・・うかがう
(意味)「祗候」を参照のこと。
族・・・うから
(意味)「族(やから)」の項を参照のこと。
承・奉・・・うけたまわり・うけたまわる・うけたてまつる・うく
(意味)
①お受けする。謹んで受ける。(受くの謙譲語)
②お聞きする。謹んで拝聴する。(聞くの謙譲語)
③~だと聞いております。誰々の話によりますと。(伝え聞くの謙譲語)
(備考)
本項の以下の文は三保忠夫氏の論文「古文書類における「奉(うけたまはる)」について(1982)」を私なりにまとめたものである。
- 古代期から用いられてきた用語で、「承」「奉」の両字が「うけたまわる」を表していた。(「奉」は「たてまつる」とも読む)
- 「うけたまわる」行為と「たてまつる」行為とは相反する意味なので、主語がどちらにあるのかを注意深く文脈から判断する必要がある。
しかしながら、恭敬という姿勢においては似通っている。
「奉(うけたまわる)」はおもに宣旨・天皇等の仰せ・勅命・詔書・綸言・上卿の仰せ・大菩薩の言葉などで用いられる傾向にある。
例1)勅使ヲ奉(うけたまわり)テ、
例2)上卿ノ仰セヲ奉(うけたまわ)ル間、
例3)蔵人、宣旨ヲ奉(うけたまわり)テ、神明ニ行テ、持経者ニ会テ、宣旨ノ趣ヲ仰ス、
「承」を用いる目的は多様であり、皇籍の有無に関わらず「謹んで御請けする」「承諾する」「聞く」などの用例がある。
例1)「目連(もくれん)此ノ事ヲ承ハリテ」
例2)「夫人、王ノ仰セヲ承ハリテ」
また、「奉」は返状を出す際の冒頭に記す傾向がある。
例)
・「跪奉 厳教(=誨)之旨」
・「俯奉(ふしてうけたまわる) 芳札之旨」
一方、「承」は書状を発給する際と返書を出す際ともに広く用いられる。
さらに、事の次第を了承する。謹んで受ける。伝聞する等の意味で用いられている。
古代期の漢文脈系の史料は「奉(うけたまわる)」を多く用い、逆に和文脈系の史料には「承(うけたまわる)」を多く用いる偏りが見られる。
他のよく出る読み方は以下にまとめた。
ごく稀な例ではあるが、これまで述べてきた関係により、「奉」の部分を「承」と記す場合もある。
本項の主要参考資料:
三保忠夫(1982)「古文書類における「奉(うけたまはる)」について」,『鎌倉時代語研究』,5,78-94.
中田祝男(1984)『新選古語辞典』小学館
林陸朗(1989)『古文書・古記録難訓用例大辞典』柏書房
奉勅・・・ほうちょく
天皇の仰せ、勅命を受けること。
また、それを伝達・実施・執行すること。
奉 勅〇〇・・・うけたまわる ちょく〇〇
〇〇部には勅旨などの文言が入る。
「奉 勅旨如右・・・」
(うけたまわる 勅旨右の如く・・・)
奉請・・・こいたてまつる
仏界用語として「奉請(ぶしょう)」と読む例もある。
仕奉・・・つかえまつる・つかまつる
目上の人や貴人に奉仕すること。仕る。(仕えるの謙譲語)
謹奉・・・つつしみてたてまつる
「謹奉表」(表を謹み奉り)
祗奉・・・つつしみてうけたてまつる
「祗奉」は古代期に多く見られる傾向。
「祗(ツツシメ)て奉(ウケタテマツ)り、綸言載(=則)令翻訳・・・」
(謹みてうけたてまつり、則ち綸言を翻訳せしめ・・・)
奉・・・うけて
「去年二月、奉詔翻訳」
(去年二月、詔をうけて翻訳)
伏奉・・・ふしてうけたてまつる
「伏奉勅旨(勅旨を伏してうけたてまつる)」
奉覧・・・たてまつらん
語気を強める形で「~してご覧にいれましょう」
奉憑・・・たのみたてまつる
頼み奉る。
奉之・・・これをほうず
例文) 『大恩寺文書』元亀四年正月三日付山県昌景発給禁制
(信玄朱印) 高札 大恩寺
當寺甲乙軍勢、於彼寺中不可濫妨狼藉、若背此旨者、可被行厳科者也、仍如件、
元亀四年
正月三日 山縣三郎右兵衛尉
奉之、
書状の署名部分の下(下附)に「奉」
署名部分 〇月〇日 官途氏名奉
「うけたまわる」と読む。
好例として『吾妻鏡』巻二 (治承五年五月十九日)には以下の一文がある。
奉送(おくりたてまつる) 御幣物
美紙拾帖 八丈絹弐疋
右奉送如件、
治承五年五月十九日参河御目代、大中臣以通、依蔵人殿仰、所令申候也、太神宮御事、自本内心御祈念候之上、旁御夢想候歟、仍所思食、御意趣之告文、御幣物、送文等、献上之、以此趣、可御祈念候也、仰之旨如此、謹言、
五月十九日 大中臣以通奉(うけたまわる)
鎌倉時代以降の奉行人が発給する奉書形式の文書で下付部分(署名下)に記す「奉」は、公的立場、もしくはそれに準ずる立場から書簡を出しているという意味。
「奉(うけたまわる)」の用例は古代期においては前述した通り勅・宣旨などをうける意味のものであったが、平安時代以降はこのように奉書様式の文書の下附け部分にも用いるようになり、さらに時代が下ると奉行人が発給する奉書形式の文書でも広く「奉(うけたまわる)」が使用されるようになった。
請状・・・うけじょう
(意味)
書状の返書のこと。
引き受けをした旨を記した証書のこと。
江戸期には雇い主・借家人などの身元引受証書を指すことが多かった。
(備考)
また、請人が保証のために押す判を「請判(うけはん)」とよぶ。
請文・・・うけぶみ
(意味)
貴人の仰せを承諾したことを書き記した文書。
命令の受諾・申請・請願などを記した証書となった。
一種の請負契約書。
(備考)
書状の書出に「〇〇〇御教書謹以承候了」や「御札之旨謹以承候了」などを記し、書留文言を「恐々謹言」で締めるパターン。
他に「謹請申」から書出し、書留文言に「仍所請如件」で結ぶパターンなどがあり、時代や御家によってまちまちである。
例文) 『官務所領関係雑文書』永正十七年十二月六日付しろかね屋宗久等連署請文
請文
右銅問公事銭事、古来壱間別毎月晦日定十疋宛雖致進納、当時依無商売歎申処、御免忝存候、然者毎月晦日七十文可致進納候、但過日限雖一銭致未進候、如前々十疋宛可被召、其時一言子細不可申者也、仍為後日請文状如件、
(書き下し文)
請文
右、銅問公事銭(といくじせん)の事、古来一間別毎月晦日と定め、十疋(ひき) ずつ進納致すといえども、当時商売無きに依り、嘆き申すのところ、御免忝く存じ候。
然らば毎月晦日に七十文進納致すべく候。
但し、日限を過ぎ、一銭も未進致し候といえども、前々の如く十疋ずつ召さるべし。
その時一言も子細申すべからざるものなり。
仍って後日の為に請文状くだんの如し。
語訳)右の通り、銅の問公事銭は、古来から一間あたり毎月30日に十疋ずつ納める決まりがありましたが、かたじけなくも目を瞑ってくださいました。これよりは、毎月30日に70文ずつ進納致します。もし、日限を過ぎ、一銭たりとも未進があった場合は、これまでの通り10疋ずつ差し押さえて頂いて構いません。その際は一言も異議を申しません。従って、後日のためにここに請文状を差し出します。
歌枕・・・うたまくら
(意味)
①和歌の表現技法の一つ。
奈良時代にはすでに成立していた表現で、当時の日常会話に近い「直語」を以て詠むことを主として、漢語や俗語の類を避ける傾向にあった。
これは古事の引用や踏襲を避けて、なるべく詠者の感性を重視するためだと思われる。
②和歌によまれる諸国の名所や歌の題材。
吉野山や竜田川、須磨浦、五月山など。
(備考)
もとはもっぱら①の意で用いられていたが、時代が下るにつれて②の意を指すようになった。
例えば「吉野山」と詠まれれば、春を待つ白雪や、かつては栄えたが現在は荒廃してしまった古里のイメージがある。
「須磨浦」と詠まれれば、都を離れた光源氏の姿が思い浮かぶ。
また「五月山」と詠まれれば、春の山にほととぎすがさえずる声が思い浮かぶ。
といったように、地名には特定のイメージが共通の認識として持たれるようになる。
室町時代~戦国時代にかけて連歌会が頻繁に催され、こうした表現法が隆盛を極めた。
しかし、江戸時代中期に難解な連歌に替わって、滑稽を旨とする俳諧ブームが巻き起こり、奈良時代のような詠者の感性を重視した特定のイメージにこだわらない現在の表現法へと変わっていった。
おおむねはこうした流行の変遷があったため、古代期は見たものを素直に歌にする写実的な表現。
中世から近世にかけては空想を歌にする想像上の表現。
江戸中期から現在にかけては、再び写実的な表現が詠まれる傾向にある。
⇒「連歌」の項も参照のこと。
氏神・・・うぢがみ・うじがみ
(意味)
①氏族の祖先として祭る神。
またはその家に縁の深い神。
②生まれた土地の守り神。鎮守の神。
(備考)
藤原氏の春日社などがその例。
古代期においてはおもに神道の神を指したが、神仏習合が進むとその限りではなくなった。
同じ氏神を祭る家・者同士のことを氏子(うじこ)という。
また、氏神の鎮守する土地のことを「氏地(うじち)」という。
内衆・・・うちしゅ
(意味)
その家の使用人。奉公人。家臣。被官のこと。
同名衆とともに家の中核となる旗本親兵であり、奉行職や奏者を務める官僚的な役割も果たす場合も多い。
打渡状・・・うちわたしじょう
(意味)
室町幕府が裁許した判決を現場が実際に執行(遵行)した際、幕府が裁許した知行者へ発給される文書のこと。「渡状(わたしじょう)」。
打渡状は書留文言を「仍渡状如件(よってわたしじょうくだんのごとし)」で締めることが多い。
写・・・うつし
(意味)文書のコピーのうちで、効力を持たないもの。
効力を持つものを「案文(あんもん)」と呼ぶが、詳細は以下の記事の「正文と書状案・写の違い」の項をご参照いただきたい。
旧字で「寫(うつし)」
関連記事:戦国時代の書簡を出す際のルールと専門用語を解説します-正文と書状案・写の違い
(備考)
例文) 『尋憲記』元亀元年十二月二十二日条より
一 朝倉誓帋写之趣、
霊社起請文前書事、
一、今度被加上意、深重申談候条、誓印之条数、於無違変者、不可有別心疎略事、
一、奉対公方様不可有疎略事、
一、対此方敵心之者仁、其方不通候者、互可為其覚悟事、
右条々於偽申者、霊社起請文可罷蒙御罸者也、仍起請文先書如件、
元亀元年十二月十三日 義景在判、
織田弾正忠殿
(書き下し文)
一 朝倉誓紙写の趣き
霊社起請文前書の事
一、この度上意を加えられ、深重に申し談じ候条、誓印の条数、違変無きに於いては、別心疎略有るべからざるの事。
一、公方様(足利義昭)に対し奉り、疎略有るべからざるの事。
一、此方に対し、敵心の者に、其方通せず候はば、互いにその覚悟をなすべきの事。
右の条々偽り申すに於いては、霊社の起請文の御罰を罷り蒙るべきものなり。仍って起請文前書くだんの如し。
元亀元年(1570)十二月十三日 義景(朝倉義景在判)
織田弾正忠(織田信長)殿
※3条目は、義景に敵心を持った者に信長も通交しなければ、断交することはないの意。
駅・駅屋・・・うまや
(意味)
「駅(えき)」を参照のこと。
裏返・裏帰・・・うらがえる
(意味)
味方が敵に変わる。裏切る。寝返ること。
「返忠(かえりちゅう)」と同じ意。
(備考)
例文) 『多聞院日記』永禄十年八月十六日条より
一、早旦より三人東西へ出勢了、午剋ニ松浦・松山人數二百計にて裏歸、西之手へ出了、十八間癩病ノ宅焼了、不便至極、幷坂ノ穢多カ所ヲモ焼拂、無殊儀人數打入了、
(書き下し文)
一、早旦より三人東西へ出勢しおわんぬ。
午の刻に松浦・松山人数二百ばかりにて裏返り、西の手へ出おわんぬ。
十八間癩病の宅これを焼く。
不便至極。
並びに坂ノ穢多カ所をも焼き払い、事なき儀の人数へ打ち入りおわんぬ。
裏文書・・・うらもんじょ
(意味)
「紙背文書」の項を参照のこと。
売券・・・うりけん・ばいけん
(意味)
土地等の財物や、不動産関連の諸権利を売り渡す際に、売り手から買い手に渡される証文のこと。
中世では、私的証文の性格が強かった。
売文(うりぶみ)、あるいは沽却状(こきゃくじょう)ともいう。
(備考)
冒頭に「売渡」「沽却(こきゃく)」「沽渡進(うりわたしまいらす)」などの文言が入る傾向にある。
例文) 『慶光院文書』天正十一年十二月九日付坂倉秀治田地売券
永代売渡候田地之事、
合弐ヶ所者さい所みゆきこばさま十合ニ九斗代、又くち野領はた田十合ニ八斗五升代、合壱石七斗五升諸役なし、
右件之田地者、雖為坂倉七郎五郎重代相伝之名田、依有要用、山田ノ宇治周養上人江現銭金子二両ニ相定候而売渡申所実正明白也、此上縦天下一同之永地・御徳政行候共、於子々孫々違乱煩申者有間敷候者也、仍為後日売券状如件、
天正十一年ミつのとのひつし十二月九日
坂倉七郎五郎秀治(花押)
(書き下し文)
永代売り渡し候田地の事
合二ヶ所は(さい所みゆきこばさま十合に九斗代、又くち野領はた田十合に八斗五升代、合一石七斗五升諸役なし)
右くだんの田地は、坂倉七郎五郎重代相伝の名田たるといえども、要用有るによりて、山田(伊勢国度会郡)の宇治周養上人へ、現銭金子二両に相定め候て、売り渡し申すところ実正明白なり。
この上、たとい天下一同の永地・御徳政のてだて候とも、子々孫々に於いて違乱煩い申すは、有る間敷じき候ものなり。
仍って後日のために売券状くだんの如し。
天正十一年(1583)癸未 十二月九日
坂倉七郎五郎秀治(花押)
閏(壬)・・・うるう
(意味)
暦のずれを調整するため、日数や月を例年よりも増やすこと。
閏日や閏月を設定して調整した年のことを閏年(うるうどし)とよぶ。
今日我が国が使用している太陽暦は通常で1年が365日。
閏年として4年に一度366日(2月29日が存在)としている。
かつて我が国が太陰暦を採用していた頃はひと月を一律で30日としていたため、頻繁にずれが生じていた。
(備考)
書状等で月日の上に「壬〇月〇日」としている場合は、十干の”みずのえ”ではなく、「閏」である可能性が高い。
“うるう”の語源は一説によると、”潤う”がなまったものとされている。
例)
可被勤仕之由、被仰出候也、恐々謹言
壬十月廿六日 緑舜
(勤仕せらるべきの由、仰せ出され候なり。恐々謹言。閏十月二十六日 緑舜)
『大乗院寺社雑事記(応仁二年十一月三日条より)』
上書(ウハ書)・・・うわがき
(意味)書簡の表面に月日や宛所などを書くこと。
(備考)
上図だと⑪が上書にあたる。
この場合、本文と同じ面に記されているので表書(おもてがき)となり、逆にその裏側に書くことを裏書(うらがき)といいます。
古文書の専門用語として「(切封ウハ書)」・「(懸紙ウハ書)」・「(包紙ウハ書)」・「(捻封ウハ書)」・「(端裏ウハ書)」などさまざまなタイプが存在する。
云々・云云・・・うんぬん・うんうん・しかじか
(意味)その後の言葉を省略したり、言葉に表しにくい事柄を濁す際に用いる単語。
“しかじか”は然々とも書く。
(備考)
中世では公家や門跡の日記に頻繁に登場する。
例文1) 『孝親公記』天正元年十一月九日条より
「九日、天晴、今日大樹若君御上洛、従濃州御上洛云々、」
(九日、天晴、今日大樹若君(足利義昭嫡子)御上洛。濃州より御上洛とうんぬん。)
例文2) 『多聞院日記』天正十年六月二日条より
信長於京都生害云々、同城介殿も生害云々、惟任幷七兵衛申合令生害云々、今暁之事今日四之過ニ聞ヘ了、盛者必衰之金言、不可驚事也、諸國悉轉反スヘキ歟、世上無常・・・
(書き下し文)
信長(織田信長)京都に於いて生害と云々。
同じく城介(織田信忠)殿も生害と云々。
惟任(明智光秀)並びに七兵衛(これはウソ)が申し合わせ生害せしむと云々。
今暁の事、今日四の過ぎに聞こえおわんぬ。
盛者必衰の金言、驚くべからず事なり。
諸国悉く転反すべきか。
世上無常・・・
え
叡聞・・・えいぶん
(意味)
天皇がお聞きになること。
天皇のお耳に入ること。
(備考)
「叡」は天皇の行為に関して用いる接頭語である。
他にも「叡覧(えいらん)」は天皇や上皇がご覧になること。
「叡慮(えいりょ)」は天皇のお考え・御心などがよく出る表現である。
例文) 『(永禄十一)九月十四日付正親町天皇綸旨案(経元卿御教書案)』
入洛之由既達叡聞、就其京都之儀、諸勢無乱逆之様可被加下知、於禁中陣下者、可令召進警固之旨、依天気執達如件、
(書き下し文)
入洛の由既に叡聞に達す。
それにつきて京都の儀、諸勢乱逆無きの様に下知を加えらるべし。
禁中陣下に於いては、警固を召しまいらしむべきの旨、仍って天気執達くだんの如し。
永楽銭・・・えいらくせん
(意味)
中国明朝の永楽9年(1411)、永楽帝の命で鋳造された青銅の貨幣。
表面に「永楽通宝」と記されている。
日本では室町時代に輸入され、盛んに流通したが、慶長13年(1608)に通用を禁止された。
(備考)
永楽銭が国内で広く流通した後、明との交易が下火となる。
以後、日本国内では鐚銭(びたせん)が次第に出回るようになり、貨幣の信用性を落とすに至った。
室町時代後期、すでに大きな社会問題となっていたが、その対策として、各家ごとに撰銭令を敷くなどしてこの問題に取り組んだ。
駅・・・えき
(意味)
古代期、陸上交通制度上の要所に置かれた施設のこと。
大化改新の詔に駅馬・伝馬を置くことが見え、大宝令で確立。
諸道30里(中世の4里=約16km)ごとに1駅が設けられ、駅馬などが備えられた。
駅務は駅戸が奉仕し駅長が統轄、経費は駅田の収穫で賄った。
鎌倉期以降、駅は陳腐化し、かわりに宿(しゅく)がその役目を担った。
「駅・駅屋(うまや)」ともよぶ。
本項のおもな参考文献:『角川日本地名大辞典(角川書店)』
穢気・・・えげ
(意味)
けがれた気。死や出産、月経などのけがれを指す。
→「触穢」
回向・廻向・・・えこう
(意味)
仏界用語のひとつ。
①自分の行った功徳や善行を他人にめぐらして、浄土に往生するように願うこと。
③法要の終わりに「回向文」をとなえること。
④寺へ寄進すること。
(備考)
「回向文(えこうぶみ)」とは法事の終わりに功徳をいっさいの衆生にめぐらすために唱える願文を指す。
烏帽子・・・えぼし・えぼうし
(意味)
烏塗(くろぬり)の帽子の意。
帽子の一種で元服した男子のかぶるもの。
元は羅・紗などで袋形に作り、漆を薄くひき、張りを持たせた程度の柔らかいものだったが、鳥羽院の頃から紙で作り、漆で固く塗り固めたものを用いた。
礼装の時にかぶる帽子として平安中期以降、上・中流階級の者が略服に用い、庶民は外出用に用いた。
在宅の時もかぶっていたので、決して頭をそのまま見せることはなかったようだ。
(備考)
烏色は黒色を表す。
「えぼうし」の読みが訛って「えぼし」と呼ぶようになった。
中田祝男編『新選古語辞典(1984)』によると、立烏帽子・風折烏帽子・侍烏帽子・細烏帽子・揉烏帽子など、身分の高下、公・武その他により種類も多いとある。
また、外山映次ら編『全訳読解古語辞典(2007)』によると、平安時代の男性貴族は冠や烏帽子などのかぶりものをかぶらないで、人に髻(もとどり)を見せることは「髻放(もとどりはなつ)」といってたいへん無作法な態度とされた。(『大鏡』実頼伝の記述)
『源氏物語絵巻』「柏木」の段に、夕霧が柏木を見舞う場面があるが、重病の柏木は病床にあっても、烏帽子をかぶっている様子が描かれているとある。
烏帽子親・・・えぼしおや
(意味)
武家の男子の元服の折、烏帽子を授け、「烏帽子名」をつける人のこと。
公家の加冠の役にあたる。
烏帽子を授けられる男子を「烏帽子子(えぼしご)」という。
ふつうは烏帽子親が自分の一字をとって烏帽子子に授けた。
(備考)
中世、烏帽子子と烏帽子親は、血縁関係がなくても、それに準ずる存在として深い結びつきを持った。
烏帽子親は生涯、烏帽子子の世話・後見をし、烏帽子子はそれを名誉とし、忠節に励んだといわれる。
また、「烏帽子名(えぼしな)」は烏帽子親がつける正式な名(諱)のこと。
「烏帽子着(えぼしぎ)」は元服の異称。
「烏帽子髪(えぼしがみ)」は烏帽子を着ける時に結う髪型のこと。
「烏帽子直衣(えぼしなおし)」は「直衣」を着て烏帽子を付けた姿のことで、内々および院参に用いたが、参内には許されなかった。
「烏帽子始め」は男子が元服してはじめて烏帽子を着けること。またはその儀式そのもの。
「烏帽子折り」は烏帽子を作る職人を指す。
不撰・不選・・・えらばず
(意味)選択、選抜せず
(備考)”老若男女不撰”で「ろうにゃくなんにょえらばず」となる。
撰銭・・・えりぜに
(意味)
室町時代末期から戦国期にかけて、しだいに流通度合いが増してきた鐚銭(びたせん)を忌諱したり、排除したりする動きのこと。
銭貨の受渡しにおいて、通用価値の低い銭の受渡しを拒否し、その価値が高いとされる精銭での支払いを要求する行為。
(備考)
日本では7世紀後半から我が国独自の通貨を発行していたが、10世紀にそれが途絶え、米や絹が物品貨幣として使用されるようになった。
12世紀後半になると、主に大陸から日本に流入した銭貨が主要貨幣として定着し、14世紀後半になると、大陸より流入される銅貨がほぼ唯一の貨幣として使用されるようになった。
しかしながら、足利義満の死後は大陸との通商を大きく制限したことで、新しい宋銭や明銭が国内に流通しづらい状況に陥ってしまう。
一方、大陸でも明朝が全盛期を迎え、庶民の暮らしが豊かになったことで、日常的に使用する銭貨の需要が高まった。
そのため、明朝政府はたちまち銅不足に陥り、銭貨発行がほとんど行われなくなってしまった。
その影響が日本にも伝播し、これまで銭が潤沢に流通していた時代には自然に排除されていた粗悪銭や偽造銭が、取引で使用されるケースが増えていったのである。
取引の場では、こうした銭の受け取りを拒否する(撰銭)風潮が生まれることになる。
日本の戦国時代とはまさにこの時期にあたる。
銭の供給不足という現実的な問題に直面しつつ、トラブルを防ぐにはどのようにすればよいのか。
為政者の頭を悩ませる大きな社会問題であった。
撰銭令・・・えりぜにれい
(意味)上記の撰銭を一定度制限し、各銭貨の通用価値を公定するなどして貨幣流通の混乱を制御しようとする動き。
または明文化した法度(はっと)のこと。
(備考)
我が国最初の撰銭令を発布したのは文明17年(1485)の大内氏である。
ほかに肥後の相良氏・室町幕府・後北条氏・織田氏などが発布している。
具体的には宋銭に比べてまだ新しく流通量の少ない(信用度の低い)明銭(永楽通宝や宣徳通宝など)を支払いにどの程度混ぜてよいのか。
欠銭(かけせん)や割銭(われせん)、打平(うちひらめ=摩耗が激しく文字の見えない銭)といった鐚銭をどのように扱うのか。
法に違背した者はどのような処罰がなされるのかについて記してある。
なお、大内氏が発布した文明年間と織田氏が発布した永禄年間では社会の風潮も大きく変わっており、その共通点や矛盾点を見出すことに多くの歴史研究者の頭を悩ませている。
縁起・・・えんぎ
(意味)
①因縁の起源。由来。
②神社・寺社が建てられた起源・霊験の言い伝え。
また、それが記された書。
③物事のはじまりに見られる吉凶の兆し。
(備考)
サンスクリット語の「pratītya-samutpāda」(パーティートゥヤサムートパータ)の語訳で、縁によって起こるという意味。
「縁起する」となると、梵語のニダーナの訳語で、仏の説法の由来・由縁を明かしたものとなる。
それが転じて、事物の起こる因縁・起源・沿革や由来などを指すようになった。
鎌倉時代以降、各社寺の縁起づくりは盛行を極めたが、このころから詞章に絵画を加えるものが多くなる。
これが絵縁起・縁起絵巻である。
こうした絵によって史実よりも大きく誇張されたり、全くの虚説が盛られることも多くなるなど問題点もあった。
婉曲表現・・・えんきょくひょうげん
(意味)
他者に本意を伝える際、直接に表現するのを避けて、間接的に表現することによって語調を和らげること。
当サイトのように、ほぼ確定事項の事がらを「~と思われる。」・「~と考えられる。」と表現することが婉曲表現にあたる。
こうした技法はすでに平安時代から見られる。
例えば『宇津保物語』の一節で「あなた様はどんな御官位でいらっしゃいますか」の問いに対し、源正頼が「ただ今は納言になむ侍るめる」と返したものがある。
自分のことだから断言してよいはずだが、「めり」を用いたのは、謙遜して「納言(実際は大納言)のようです。」「納言といったようなものです。」と婉曲表現を用いたことになる。
中世でもこうした表現が頻繁に見られ、ほぼ確定事項に近い味方の裏切りに対し、「其許雑説之儀(そこもとぞうせつのぎ)」などと表現をぼかす婉曲表現が散見される。
縁日・・・えんにち
(意味)
神仏の降誕・示現・誓願などの由来があり、祭典・供養が行われる日のこと。
香期(こうき)ともいう。
(備考)
有名な縁日に5日の水天宮、10日の金毘羅宮、7日・16日の閻魔王、8日・12日の薬師如来、13日の日蓮上人、15日の阿弥陀如来、18日の観世音菩薩、21日の弘法大師、24日の地蔵菩薩、25日の天満宮、28日の不動明王、甲子(きのえね)日の大黒天、寅の日の毘沙門天、巳の日の弁才天などがある。
また7月18日は、観世音の四万六千日といい、この日に1回参詣すれば、その功徳は4万6000回の参詣に等しいと信じられていた。
大道商人を縁日商人といい、また香具師(やし)ともいうが、この香具師の語源は、縁日の別称である香期からきている可能性が高い。
遠行・・・えんこう
(意味)
①逝去。死ぬこと。入滅のこと。
②遠隔の地へ旅立つこと。
③流罪となり、その刑が執行されること。
(備考)
例文1) 『言継卿記』永禄十年七月二十日条より
甘露寺息男五才、申刻計遠行云々、不可說々々々、痢疾云々、
(書き下し文)
甘露寺の息、男(五才)、申の刻ばかりに遠行と云々。
不可説不可説。
痢疾と云々。
例文2) 『多聞院日記』永禄九年七月十一日条より
「近衛殿之太閤様御遠行、八十余歟、當月ヨリ三ヶ月可為諒闇也、」
(近衛殿の太閤様御遠行。(享年)八十余か。当月より三ヶ月諒闇たるべくなり。)
※諒闇(りょうあん)=貴人の死にあたり喪に服する期間のこと。
演説・演舌・・・えんぜつ
(意味)
申し上げること。
説明し伝えること。
人に意見やものの道理を述べ説くこと。
「演達(えんたつ)」に同じ。
(備考)
中世の古文書では「猶〇〇(人名)可有演説候、」とする文章構成が頻繁に見受けられる。
ここに記される人物が、書状発給者の意図を汲んで使者として派遣される場合が多いか。
「猶〇〇(人名)可申候、」とある場合は、使者ではなく副状発給者の名が入る傾向にある。
例文1) 『古今采集』(天正元)十二月十一日付足利義昭御内書
今度依不慮之子細、至當所相移候、然者此莭申聞直春、毎事可然様可馳走事、愈可爲忠莭、委細者東堂可有演說、猶昭光可申也、
(書き下し文)
この度不慮の子細により、当所に至り相移り候。
然らばこの節直春(湯川直春)に申し聞かせ、毎事然るべきように馳走すべきの事、いよいよ忠節たるべし。
委細は東堂演説たるべし。
猶、昭光(真木島昭光)申すべきなり。
例文2) 『石清水文書』(元亀二)十二月七日付佐久間信盛書状
御書拝見、本懐至極候、仍狭山郷之儀、先一着之姿、尤存知候、信長明春早々可為御上洛之条、其節如御本意可被相澄候、於我等聊不可存疎意候、随而杉原十帖被懸御意、過当候、猶御使者可有御演説由、可預御披露候、恐々謹言、
(書き下し文)
御書拝見、本懐至極に候。
仍って狭山郷の儀、先ず一着の姿、尤もに存じ候。
信長(織田信長)は明春早々に御上洛たるべきの条、その節御本意の如くに相済ませらるべく候。
我等に於いてはいささかも疎意を存ずべからず候。
従って杉原十帖を御意に懸けられ、過当に候。
なお御使者御演説あるべきの由、御披露に預かるべく候。恐々謹言。
「演説」の用例とくずし方
「演」「説」ともに難読の部類かもしれない。
特に「演」は「淀」や「信」に見えなくもなく、文脈次第では「談」と誤読する可能性もある。
しかしながら、さんずいはこのタイプのくずしが典型的。
「説」も「祝」と誤読する可能性が高い。
しかしながら、こちらもこれがごんべんの典型的なくずし方。
書簡の終盤部分に「詳しくは誰々が申し伝えます」といった文意を感じた場合に「演説」の可能性を疑おう。
お
於・・・おいて
(意味)「~について」、「~の場所で」等幅広く用いられる
(備考)「於何時」は「なんどきにおいて」
例文) 『大乗院寺社雑事記』明応五年十二月十二日条より
一、自古市方申、七日於江州合戦、持是院・同大納言以下侍名字七十四人自害、濟藤壇正以下同名者七人生取之云々、以外次第也、如去六月廿日、
(書き下し文)
一、古市方よりの申し。
七日の江州合戦に於いて持是院(斎藤妙純)・同大納言(斎藤利親)以下侍名字七十四人自害。
斎藤弾正以下同名者七人これを生け捕ると云々。
以てのほかの次第なり。如去六月二十日。
押字・・・おうじ
(意味)花押(かおう)のこと。くわしくはそちらをご参照のこと。
押妨・・・おうぼう・おうほう
(意味)
①押し入って乱暴すること。
②正当な権利を持たない者が、実力をもって物や領地の所有権を奪うこと。
(備考)
中世の文書では「押妨」を禁じる内容を記したものが多い。
古語辞書にない場合は「あふはう」で調べてみよう。
例文) 『大乗院寺社雑事記』明応六年十二月四日条より
一、中御門大納言書状在之、二日安冨越中國へ下向、山城國守護職事、伊勢備中守也、守護代香合又六云々、西山東山マテ在々所々押妨以外次第、中御門知行京中押妨、一所繼命、如此違乱堪忍も難有云々、不思儀事也、
(書き下し文)
中御門大納言(中御門宣胤)の書状これあり。
二日に安冨、越中国へ下向。
山城国守護職の事、伊勢備中守(伊勢貞宗)なり。
守護代は香西又六(香西元長)と云々。
西山東山まで在々所々を押妨、もってのほかの次第。
中御門の知行、京中を押妨。一所継命。
かくの如きの違乱、堪忍も有り難しと云々。
不思議な事なり。
往来・・・おうらい
(意味)
①行き来。行き帰り。
②街道や道路のこと。
③書簡のやり取り。贈答。
④往復の書簡をあつめて手習いの手本としたもの。
また、一般に商工業の徒弟の教科書。=「往来物(おうらいもの)」(庭訓往来など)
(備考)
歴史的仮名遣いで「わうらい」と記す。
押領・横領・・・おうりょう
(意味)
力で他の物や所領を奪い取る行動。
中世では、所領の所有権をめぐる訴訟があとを絶たず、しばしば実力行為(自力救済)によって知行を得る事件が起きていた。
⇒「当知行」の項も参照のこと。
(備考)
律令時代では、押領使(おうりょうし)という官人が兵を率いることを意味したが、それが転じて中世では自力救済、さらに不当な強奪行為を意味するようになった。
語源となった「押領使」の大方の説明は、以下のタブ内を参照のこと。
押領使
押領使ハ兵士ヲ管拘総領スルモノニシテ、合戦アルニ當り、或ハ朝廷ヨリ命ジ、或ハ大將ヨリ命ズル所ナリ、然ルニ其間ニハ常置ノ職ト爲シ、之ヲ諸國ニ設ケ、以テ姧盗ヲ鎮厭セシガ、後世ニハ専ラ平時ノ職ト爲レリ、
『古事類苑』官位部二より引用
例文1) 『大乗院寺社雑事記』長享二年二月二十三日条より
一、神三郡事、國司横領不可然事、
(一、神三郡(伊勢国度会・飯野・多紀郡)の事、国司(北畠政郷)横領然るべからざるの事。)
例文2) 『守光公記』永正十五年十二月二十四日条より
おほゐの御かと地行つのくにゐおのほんしやう三ふん一の事、おなしくせうかうのしき地、わうりやう、かれこれいまに地行候ハて、めいわくのよし申され候、きうこん正たゐなきしきにて、しゆつとうも候ハぬ事にて候、このたひ御しよくゐらいふく御らんにつきて、しゆつし候ハてハかなひ候ハぬいゑにて候へハ、へつしておほせいたされ候やうに御心え候て申され候へく候よし申とて候、かしく、
ひろハし大納言とのへ
(書き下し文)
大炊の御門(大炊御門経名)知行摂津の国井於本庄三分の一の事、同じくせうかうのしき地を横領、かれこれ今に知行候はて、迷惑の由を申され候。
窮困正体無き職にて、出頭も候はぬ事にて候。
このたび御即位礼服御覧につきて、出仕候はて、儚い候はぬ家にて候えば、別して仰せ出だされ候ように御心得候て、申され候べく候よしを申しとて候。かしく。
広橋大納言(広橋守光)とのへ
仰云・・・おおせていわく
(意味)道理に従い、善悪を分けておっしゃること
大凡・凡・・・おおよそ
(意味)
だいたいのところ、おおかた
(備考)
例文) 『木造記(聞書集本)』より)
顕能卿嫡子北畠大納言顕泰卿、後小松院ニ仕フマツリ、安堵ノ所領ヲ給リテ子孫繁昌也、其領知ハ先南伊勢一志郡・飯高郡・多気郡・度会郡、合五郡、其外大和国宇多郡、以上六郡也、凡侍九千人、内馬上千五百騎、歩行武者六千人、合一万五千ノ大将也、
(書き下し文)
顕能(北畠顕能)卿の嫡男北畠大納言顕泰卿、御小松院に仕うまつり、安堵の所領を給りて子孫繁昌なり。
その領知はまず、南伊勢一志郡・飯高郡・多気郡・度会郡合わせて五郡。
そのほか大和国宇陀郡以上六郡なり。
おおよそ侍九千人。
うち、馬上(武者)千五百騎、歩行武者六千人。
合わせて一万五千の大将なり。
可咲・可笑・・・おかし
(意味)
①滑稽なこと
②興味深いこと、趣きがあること
(備考)
平安時代では知的好奇心を誘うような詩的な表現をすることが多かったが、戦国期の古文書ではおおむね①と②を指すことが多い。
「笑止(咲止)」と似た表現として用いられることもある。
送状・・・おくりじょう
(意味)
金銭や物品を相手方へ贈る際、間違いなく送り届けるため、品目と数量を記した目録のこと。
送文(おくりぶみ)。送進状。送進文。
(備考)
例文) 『大乗院寺社雑事記』明応七年正月七日条より
一、兵庫郷政所方如此間、二十貫自朝倉方送状到来、自楠葉方進之、如去年可支配旨仰了、
(書き下し文)
兵庫郷政所方、かくの如きの間、二十貫を朝倉方より送状到来。
楠葉方よりこれをまいらす。
去年の如く支配すべしの旨仰せおわんぬ。
※兵庫郷は越前国内にあり、井向村など計19ヶ村で構成されている。
瘧病・・・おこりやみ
(意味)
「瘧病(わらわやみ)」の項を参照のこと。
御師・・・おんし・おし
(意味)特定の社寺に属し、そこへ参詣者(檀那)を案内する者のこと。
参拝・宿泊などの世話をする者のこと。
時には神職を指す場合もある。
(備考)戦国時代には御師の役職をめぐって譲渡・売買が盛んになり、それに伴い訴訟が起きる場合もあった。
伊勢神宮は御師(おんし)と呼ぶ。
越度・・・おちど・おつど
(意味)
①定められた関所や渡し場を通らず、間道を抜けて通る罪。関所破り。
②あやまち。手落ち。
③落ち目。失意。
(備考)
現在一般的に用いられる「落度(おちど)」は当て字。
①の用例は古代期に見える。
そこから法に反する意味合いで用いられ、②③の意味に広まったのだろうか。
例文1) 『大乗院寺社雑事記』明応六年十一月三十日条より
一、一乗院御坊中集會在之、佐田庄事尊教院違乱申事云々、是御越度之由及其沙汰、且如何、
(書き下し文)
一乗院御坊中で集会これあり。
佐田庄の事、尊教院違乱と申す事に云々。
これ御越度の由、その沙汰に及ぶ。且如何。
例文2)『(天正二)七月二十三日付織田信長朱印状写(東京大学史料編纂所所蔵文書)(玉証艦)』
仍其表之事、万事無心元候、殊ニ小野之義、詮候間、聊無由断、機遣簡要候、當城之義も、普請已下少も無越度様ニ、可被出精事㐧一候、
(書き下し文)
仍ってその表の事、万事心元なく候。
殊に小野の儀、専らに候間、いささかも油断無く、気遣い肝要に候。
当城の儀も、普請以下少しも越度なきの様に、精を出さるべき事第一に候。
おぢゃる
(意味)
行く・来るの尊敬語。
おいでになる。いらっしゃる。
または「あり」「居り」の丁寧語・尊敬語として「~でございます。」「~であります。」
(備考)
「おいである」から転じた語で、室町時代以後にもっぱら演劇や日常の話し言葉として用いられた。
追而・・・おって
(意味)のちほど。(書簡や掲示文などで)本文のあとにつけ加える意を表す。
(備考)尚々(猶々)と記される場合も多々ある。
現在の追伸部分にあたる。
生便敷・・・おびただしき・おびただしく
(意味) 程度が甚だしい。ものすごい。 =夥しい。
思召・思食・・・おぼしめし・おぼしめす
(意味)
「思う」の尊敬語。
お思いになる。お考えになる。
(備考)
古代期では「思す」を「おもほす」と言った。
尊敬を示す「思す(おぼす)」にさらに尊敬語の「召す(食す)」を加えて二重に敬意を表している。
受動態の「被(らる)」を加えて「被思召(おぼしめさる)」となると、三重に敬意を表した摩訶不思議な日本語ができあがる。
御膳・御物・・・おもの
(意味)天皇や貴人のための食事。
及・・・および・およぶ
(意味)
①届く。達する。至る。
②追いつく。
③追いつくことができる。そうなることができる。
④ついにそうなる。・・・するにいたる。
⑤自分の力が届く。できる。
⑥必要がある。
(備考)
・及(および)の場合は、文と文をつなぐ接続詞として役割を果たす。
・・・と。ならびに。また。
・不及(およばず)や無及(およびなし)の場合は、不可能を表す。
およばない。至らない。できかねる。
・及懸・及掛(およびかかる)の場合は、届きそうになる。前の方にのしかかる。上半身を傾けることを表す。
なお、中世の文書では稀に「覃(およぶ)」と記される場合もある。
御床敷・・・おゆかしき・おゆかしく
(意味)
①懐かしくて心惹かれること。
②気品や情趣があり心惹かれること。
③好奇心がそそられて関心を持つこと。
(備考)
語源である「行(ゆ)かし」は、「行く」を形容詞化したもの。
心がそちらの方へ行きがちであるという意味。
中世の史料では、頻繁に「御床敷存候、」の文言が見える。
書簡の宛所となる人物に対し、あの時が懐かしい。またお会いしたいと親愛の念を込めた表現の場合が多い。
御湯殿・・・おゆどの
(意味)
①宮中清涼殿の西庇の北にある一室。
ここで御茶の湯・御食膳などを調える。
②貴族の邸宅内にある湯あみをする室。
③「御湯殿始(おゆどのはじめ)」・「御湯殿儀式(おゆどののぎしき)」の略。
またはこれに奉仕する役のこと(御湯殿女官)。
御湯殿始は皇子御誕生後、最初の湯あみの式。
御剣・犀角虎頭・を捧持し、庭上では孝経・礼記・周易などを読み、弓の弦を鳴らす(鳴弦)。
④室町時代、将軍の常の間の次の間の名。
お茶の湯を沸かして置くところ。お茶の間。
(備考)
「御」は接頭語のため特別な意味を持たない。
「御湯殿上(おゆどののうえ)」は宮中の御湯殿に続く一室で、御食事を御出しする女房衆の詰所。
ここで勤務した女官が記した日記を「御湯殿上日記(おゆどののうえのにっき)」といい、宮中の行事から叙位任官の事がらや、日常の出来事などが記されている。
例文) 『御湯殿上日記』天正元年十二月十四日条より
十四日、雪ふる、うちつゝき雪ふる、のふなかへ、梅のむすひはなの枝に、はなふくろつけて、かんろし御つかひにてたふ、ことのほかしうちやくかたしけなきよし申入候、めてたし、
(書き下し文)
十四日、雪降る、打ち続き雪降る。
信長(織田信長)へ梅の結び花の枝に、花嚢つけて、甘露寺(甘露寺経元?)御使に立てる。
殊のほか祝着忝き由を申し入れ候。めでたし。
折帋・折紙・・・おりがみ
(意味)「帋」は紙の異体字。
用紙を横に二つ折りにして用いた書状を指す。
しかし、単に書状そのものを意味することが多い。
堅紙(全紙)と切紙(折紙)の違い
御・・・おわします・おわす・ぎょす
(意味)
いらっしゃる。おいでになる。
「居る」の尊敬語として用い、「御座(おわ)す」などと表現する。
(備考)
「御」は他に”おん”・”ご”・”おさむ”などと読む。
了・・・おわんぬ・おわる・さとる
(意味)「終わる」に完了の助動詞の「ぬ」が合体。「おわりぬ」=終わった、終わってしまった、または打消しの「ぬ」
(備考)
例文は「畢・訖」の項に併記
畢・訖・・・おわんぬ・おわる・ついに・ことごとく
(意味)「終わる」に完了の助動詞の「ぬ」が合体。「おわりぬ」=終わった、終わってしまった、または打消しの「ぬ」
“ついに”の場合は「終に」
(備考)
例文)
「当寺之事、龍安寺為末寺之条、任先規之旨、全寺納不可有相違、幷陣取・寄宿除之畢、仍状如件」
(当寺の事、龍安寺の末寺たるの条、先規の旨に任せ、全く寺納相違有るべからず。並びに陣取・寄宿これを除きおわんぬ。仍って状くだんの如し)
『天正元年十二月日付織田信長朱印状(竜安寺文書)』
「當手軍勢亂妨・狼籍・陣取・放火、付、伐採山林竹木事、堅令停止訖、若違犯之輩於在之者、速可加成敗者也、仍下知如件」
(当手軍勢乱妨・狼藉・陣取り・放火、付けたり、山林・竹木伐採の事、堅く停止せしめおわんぬ。
若し違犯の輩これ在るに於いては、速やかに成敗加うるべくものなり。仍って下知くだんの如し)
『天正元年十一月十六日付佐久間信盛発給文書(真観寺所蔵文書)』
「松林院申給、近江國事、大略御敵ニ成云々、多賀之出雲・若宮・各京極被官人、六角亀壽丸・六郎爲一所成西方了、爲御敵了、多賀豊後ハ伊勢國へ落畢、相憑關云々、」
(松林院申し給う。近江国の事、大略御敵に成るとうんぬん。多賀の出雲・若宮・(おのおの京極の被官人)、六角亀寿丸・六郎一所として西方と成りおわんぬ。御敵として悟り、多賀豊後は伊勢国へ落ちおわんぬ。相頼み懸けとうんぬん。)
『大乗院寺社雑事記(文明二年九月二十二日条より抜粋)』
奉為・・・おんため
(意味)御為(おんため)と同じ意。
相手を敬い、思いやるときに発する言葉。
隠田・・・おんでん
(意味)
役所にかくして耕作し、税を納めない田地。
隠地(おんち)・隠田(かくしだ)・隠畠(かくしばた)・忍田(しのびだ)。
(備考)
例文)『永源寺文書』永禄五年十月十四日付六角氏家臣奉行連署奉書
飯高永源寺領清水庄四町八反余代官職、被対清水預ヶ被置之処、近年請米依無沙汰被改易処、右田数之内壱町六反余隠田云々、言語道断次第也・・・
(書き下し文)
飯高永源寺領清水庄四町八反余の代官職、清水に対され預け置かるるのところ、近年請米無沙汰により改易せらるるのところ、右の田数のうち一町六反余の隠田に云々。
言語道断の次第 なり・・・
音問・・・おんもん・いんもん
⇒音問(いんもん)を参照のこと。
「か」行
か
歟・・・か
①疑問の意を表す
例)「~だろうか。」
②反語の意を表す。
例)「~だろうか。いや、そうではない。」
③疑問不定の意を表す。
例)「~だろうか。それとも~であろうか。」
④詠嘆の意を表す。
例)「~もか・・・。」「~だなあ。」
(備考)
頻出するパターンではないが、「何歟被相抱儀(何かと相抱えらる儀)」のような形で記される場合もある。
また、中田祝男(1984)『新選古語辞典』には種々の論があると前置きした上で、「歟(か)」と「哉(や)」の用法について興味深い記述がある。
中田祝男(1984)『新選古語辞典』小学館より引用
係助詞「か」と「や」の区別については、種々の論があるが定説はない。用法上の相違として、①上に疑問語がある場合は「か」が用いられ、「や」は用いられないが、中世以降は乱れている。②「か」は部分に対する疑問、「や」は全体に対する疑問であるといわれる。また、「か」は疑いを表し「や」は問いを表すといわれる。③文末に用いられる場合に、「か」は連用形に付き、「や」は終止形に付く。「あるかなきか」「ありやなしや」。
例文1) 『顕如上人御書札案留』(元亀三)六月晦日付(浅井久政宛)
久無音之様候、不本意候、其表事長々籠城之衆、可為窮困候歟、此度之儀専用候條、無越度様軍兵等堅可被申付候、爰元方々調略之儀候、越州彌可被示合候、
(書き下し文)
久しく無音の様に候。
不本意に候。
その表の事、長々籠城の衆、窮困たるべく候か。
この度の儀専要に候の条、落ち度なき様、軍兵等堅く申し付けられ候。
爰元方々を調略の儀に候。
越州(朝倉義景)といよいよ示し合わさるべきに候。
例文2) 『(天正元)七月十三日付織田信長書状案(太田庄之進氏所蔵文書)』
御逗留不実候之条、定於遠国可為御流落候歟、誠歎敷候、
(御逗留不実に候の条、定めて遠国に於いて、御流落たるべく候か。誠に嘆かわしく候。)
例文3) 『大乗院寺社雑事記』明応七年三月四日条より
一、細川右京大夫下向山城寺田邊、爲鷹仕也、或叉、畠山小弼爲合力云々、不覺悟次第也、事實歟否、
(書き下し文)
細川右京大夫(細川政元)山城寺田辺りへ下向。
鷹仕るためなり。
あるいはまた、畠山小弼(畠山義豊)合力のためと云々。
不覚悟の次第なり。
事実か否か。
乎・・・か・や・より・に・おいて・ああ・こ・ご
(意味)
状態を表す語につけて語調を強めるもの。
または疑問・反語。
(備考)
例文) 『大内氏掟書』より
「猥殺害人之条、其科難遁者乎」
(みだりに殺害人の条、その咎逃れ難しものか)
我意・雅意・・・がい
(意味)
わがまま。身勝手な行動。独善的な言動を指す。
我を通すこと。
(備考)
例文) 『大乗院寺社雑事記』長享二年二月二十三日条より
「参宮路次支配関所共立之、雅意以外事」
(参宮路次の支配、関所ともにこれを立て、我意以てのほかの事)
邂逅・・・かいこう
(意味)思いがけない出会い、偶然出会うこと、めぐりあい
(備考)調べてみると、どうやら漢字検定1級の試験でたまにでるらしい。
皆済・・・かいさい
(意味)借りた金を返しおわること。
年貢や税などを完納すること。
(備考)
例文) 『大乗院寺社雑事記』明応六年三月十二日条より
一、若槻庄御米百六十余石之内、カメ松給六石余事、一石ハ無沙汰分ニテ沙汰人ニ給之、五石分ハ可沙汰旨被仰定了、去年・去々年兩年卯辰分十石皆濟旨、奉行上總寺主披露之、延引分ニハ利平加之了、
(書き下し文)
若槻庄御米百六十余石の内、カメ松給六石余の事、一石は無沙汰分にて沙汰人にこれを給う。
五石分は沙汰すべしの旨を仰せ定められおわんぬ。
去年・去々年両年(卯辰)分十石は皆済の旨、奉行上総寺主に披露。
延引分には利平これを加えおわんぬ。
外実・・・がいじつ
(意味)世間の聞こえ、評判、面目、内実共に等
(備考)外聞・実儀を合わせた語。
例文は「外聞(がいぶん)」の項を参照のこと。
廻文・回文・・・かいぶん・かいもん・まわしぶみ
(意味)
二人以上に回覧する文書のこと。
年貢徴発や訴訟の際、出頭を命じるのに用いられた。
廻状のこと。
または答書・返書のこと。(廻報・回報)
(備考)
例文1)『大乗院寺社雑事記』(文明二年七月二十日条より)
然而栄清之異見ニテ、十六日所々被成廻文云々、
(然して栄清の異見にて、十六日に所々へ廻文をなさると云々。)
例文2)『(永禄十一)十二月二十七日付佐竹義重書状(米沢市上杉博物館所蔵文書)』
去比者、以使僧承候、本望之至候、存分及廻報候キ、然者武田晴信駿州江被及事切、駿符相破、小田原取乱、不及是非由申候、
(書き下し文)
去頃は、使僧を以て承り候。
本望の至りに候。
存分は回報に及び候き。
しからば武田晴信駿州へ事切れに及ばれ、駿府相破れ、小田原取り乱れ、是非に及ばずの由申し候。
関連記事:【古文書解読初級】 翻刻を読んでみよう③(佐竹義重・今川義元編)
外聞・・・がいぶん
(意味)世間の聞こえ、評判、噂のこと。
また、世間に対する体裁や世間体を気にする際に用いる。
(備考)
例文) 『言継卿記』永禄十年十月四日条より
今晩若宮御方上臈御伊茶万里小路大納言女、逐電云々、不可說々々々、昨夕めヽ典侍殿も御暇申捨退出云々、如何、旁外聞實儀不可然事也、
(書き下し文)
今晩若宮御方の上臈御伊茶(万里小路大納言女、)逐電と云々。
不可説不可説。
昨夕めめ典侍殿も御暇を申し捨て退出と云々。
如何。
かたがた外聞実儀然る べからざる事なり。
涯分・・・がいぶん
(意味)身分相応であること、身の程。分際。
(備考)
例文) (享禄三)十月十八日付内藤国貞書状
就今度 御入洛之儀、至此口致着陣、於被抽忠節者、本知事、涯分可申沙汰候、万一不相調候者、相当以自余在所、合力可申候、此段聊不可有相違候、恐々謹言、
(書き下し文)
この度 (闕字)御入洛の儀に就きて、この口に至りて着陣致す。
忠節を抜きんでらるに於いては、本知の事、涯分沙汰を申すべく候。
万一相調わずに候はば、相当を自余の在所を以て合力申すべく候。
この段、いささかも相違有るべからず候。恐々謹言。
廻報・回報・・・かいほう
(意味)「廻文」を参照のこと。
返忠・回忠・反忠・・・かえりちゅう
(意味)
主君に背いて敵方に通じること。
敵方へ忠を尽くすこと。
内通。裏切ること。→「裏帰(うらがえる)」
(備考)
例文) 『応仁広記』より
摂州ノ池田ハ少勢ナレハ大内介ニ降参ス、同国三宅ハ兼テ秋庭ニ恨有テ返忠シケル故、政弘ヲ防ク兵ナクテ大内・河野ヲ始トシ、其外ノ山名勢心安ク上京ス、
※『応仁広記』は『重編応仁記』の一つ。
小林正甫の作で宝永8年(1711)に刊行された書。
『重編応仁記』は『応仁前記』、『応仁広記』、「応仁後記』、『続応仁後記』の全編四部で構成されている。
花押・書判・・・かおう・かきはん
自署(じしょ)の代わりに書く記号のこと。
押字(おうじ)ともいい、その形が花模様に似ているところから花押と呼ばれた。
印判との区別をつけることから「書判(かきはん)」ともいう。
花押は個人の表徴として文書に証拠力を与えるもので、他人の模倣・偽作を防ぐため、その作成には種々の工夫が凝らされた。
大陸の文化を受けて、日本では10世紀ごろから次第に用いられるようになった。
当初は楷書で署名していたが、時代の流れとともに、しだいに行書、草書へと変化していった。
特に実名の下の文字を極端に簡略化し、次第に二字の区別がつかなくなって図様化した。
これを「草名(そうみょう)」という。
なお、偽造を防ぐために頻繁に変える人物もいるため、花押の判別によっておおよその時期を特定できる場合もある。
(備考)
戦国時代末期になると、諱(いみな=実名)とは全く関係のない文字が花押として使われるようになった。
織田信長の「麟」・豊臣秀吉の「悉」などがそれにあたる。
同時に千利休をはじめ、真木島昭光・十河存保・三好宗渭・伊達政宗などは、漢字とは異なる鳥などを図式したものを花押とした。
参考文献:『花押・印章図典(吉川弘文館)』・『戦国大名の古文書<東日本編〉(柏書房)』・『増訂 織田信長文書の研究 上・下巻(吉川弘文館)』・『史料を読み解く1 中世文書の流れ(山川出版社)』など
花押の例
拘・関・抱・・・かかわる
(意味)
関係する。影響する。
(備考)
「不拘(かかわらず)」はかまわず、関係なくを意味する。
「抅」は異体字。
当て字として「抱」も頻繁に登場する。
なお、「拘」は「かかえる」「こだわる」とも読む場合があるので注意が必要である。
書下・・・かきくだし
(意味)武家様(ぶけよう)古文書の文書形式の一つ。
位が守護未満の武家が、自己の管内の者に対する所領給与・所領安堵・施行・覆勘(ふっかん)・軍勢催促・補任・召喚などの命令の伝達に用いた直状(形式の文書のこと。
(備考)形式としては、発給者が差出人として署名しており、「仍状如件(仍って状くだんの如し)」・「之状如件(~の状くだんの如し)」の書留文言(かきとめもんごん)が一般的。
証書の類なので、月日だけでなく年月日が記されることが多い。
戦国時代に入ると、守護以外の者が大きな権力を持つ場合が増えた。
そうした戦国大名が下達する文書も「書下」といえるのだが、このうち大名の花押(かおう)を据えたこの種の文書を基本的には「判物(はんもつ)」と呼ぶ。
書立・・・かきたて
(意味)条書のこと。
箇条書きに記された書状。
(備考)
例文) 『(天正元)十月二十日付北畠氏奉行人奉書(太田家古文書)』
船頭上乗之人数等、則以書立可被仰定事、
(船頭上乗の人数等、則ち書立を以て仰せらるべき定めの事。)
書留文言・・・かきとめもんごん
(意味)書簡を書く際に守らねばならない礼儀作法(書札礼)にのっとり、書簡の書留(かきとめ)部分に記入する語のこと。
現在の「敬具」や「かしこ」にあたる。
中世日本では「恐々謹言(きょうきょうきんげん)」・「恐惶謹言(きょうこうきんげん)」・「恐惶敬白(きょうこうけいびゃく)」・「穴賢(あなかしく)」・謹言(きんげん)」などが多い。
(備考)当時の書留文言は、現代よりもはるかに厳格な書札礼(しょさつれい)があり、差出人はその文言を慎重に選んだ。
最悪の場合、送った書簡を受け取り拒否されるケースもあったからだ。
闕・・・かけ、けつ
(意味)「欠」と同じ意味
懸紙・・・かけがみ
(意味)文書が書かれた本紙に対して、それを包むための包紙のこと。
他に表巻・巻紙と呼ぶこともある。
今日も贈答用の丁重な手紙には、熨斗や水引きを添えたものがあるが、それは昔の名残だろう。
(備考)書状には本紙のほかに礼紙(らいし)や懸紙を添えることがある。
懸紙とは、本紙と礼紙とを重ねて折った上をさらに包んだ一枚の紙を指す。
先方に敬意を示すために用いるが、時には返信用に使用されることもあった。
室町時代になると、一枚の紙を本紙・礼紙・懸紙と三部分に切断して使用することもあった。
この例には礼紙はないが、切封端裏書(きりふうはしうらがき)はこのような躰になることが多い
懸銭・掛銭・賭銭・・・かけせん
(意味)
①月掛け、日掛けなど定期的に支払う掛金のこと。
②領主が臨時に賦課した課税のこと。賦課金。
(備考)
例文) 『多聞院日記』永禄十一年九月二十六日条より
成身院・常如院・吉祥院・蓮成院各々法隆寺邊へ離了、先段多聞山ヨリ懸銭以下彼是氣遣之故也、
(書き下し文)
成身院・常如院・吉祥院・蓮成院各々法隆寺辺りへ離れおわんぬ。
先段多聞山(松永久秀)より懸銭以下かれこれ気遣いの故なり。
※ここでの気遣は心配・警戒を表すのだろう。
欠郡・・・かけのこおり
(意味)
室町時代以降、摂津国内に見える郡名。
神崎川以南の地域「西成郡」「東生(ひがしなり)郡」「住吉郡」あたりを指す呼称として用いられた。
(備考)
以下は『角川日本地名大辞典(角川書店)』「欠郡」の項から引用したものである。
参考文献:「角川日本地名大辞典」編纂委員会,竹内理三(1983)『角川日本地名大辞典』角川書店
[中世]戦国期に見える摂津国の郡名。「長興宿禰記」の文明9年9月28日条に「摂津国欠郡於木村合戦」とあり、応仁・文明の乱の時期にはすでに史料上に見える。文明14年3月22日の守護細川政元奉行人奉書(多田神社文書/川西市史4)には「多田院領摂津欠郡善源寺村地頭職事」と見え、延徳2年2月29日の細川政元奉行人奉書(北野社家日記/纂集)に「同(摂津)国欠郡内榎並庄上東西半分・下一円・郡戸庄等事」とあり、東成(ひがしなり)郡・西成(にしなり)郡あたり一帯を欠郡と呼んだことがわかる。また、「証如日記」の天文7年5月10日条には「従山中藤左衛門方、闕郡徳政事、自細川被申候」とあり、細川晴元が守護として徳政を行っている。天文5年6月4日条には守護代山中氏が欠郡の半済を行い、住吉の神領までも半済を行ったとある(石山日記)。したがって、欠郡は住吉郡をも含んだのではないかと推定される。なお、当郡域については、百済(くだら)郡の後名で、西成郡中島も含むとする見解や(地名辞書)、東成・西成・百済・住吉郡をさすとする見解もあるが(府史)、戦国期に見える欠郡については後者が妥当と思われる。また、欠郡の呼称については、住吉郡が住吉社の神領とみなされ、南北朝期には中立の立場にあり、住吉郡を欠郡と呼んだとする見解もあるが(兵庫県史2)、必ずしも明らかでない。
例文) 『細川両家記』
同十二年癸卯、七月廿五日に細川次郎殿氏綱と申候は、常植御跡目と申て諸浪人集、泉州玉井取立申、境南庄へ打入、蘆原口にて松浦肥前守此津に有と出会一戦に及に、氏綱衆玉井衆負て、卅人計討死して引退也、
(中略)
同十月十二日に氏綱、欠郡内喜連・杭全と云處へ御出張候へども、泉州横山合戦玉井惣じて引退候間、同十九日に則氏綱も御歸陣也、然ば世上しづか也、
(書き下し文)
(天文12年)癸卯、七月二十五日に細川次郎殿氏綱(細川尹賢子)と申し候は、常桓(細川高国の戒名)御跡目と申して諸浪人を集む。
泉州の玉井を取り立て申し、堺南庄へ打ち入り、蘆原口にて松浦肥前守この津に有りと出会い一戦に及ぶに、氏綱衆玉井衆負けて、三十人ばかり討死して引き退くなり。
同(年)十月十二日に氏綱、欠郡のうち、喜連・杭全と云うところへ御出張候へども、泉州横山合戦玉井総じて引き退き候間、同十九日に則ち氏綱も御帰陣なり。然らば世上静かなり。
過去帳・・・かこちょう
(意味)寺院で檀家の死者の俗名・法名・死亡年月日などを記入する帳簿のこと。点鬼簿。
重而、重・・・かさねて
(意味)繰り返して、ふたたび
菓子・果子・・・かし
(意味)
常食以外に食べる食物。
朝夕以外の間食として食すもの。
古くはくだものを指した。
そこから間食として食す穀物や豆の加工品を指すようになった。
(備考)
「菓」は木の実の意。
「子」はものを示して添える接頭語。
例文1) 『大乗院寺社雑事記』明応五年正月四日条より
若君御方瓶子一双・円鏡・果子進之、自舊冬虫氣之間、不及御見参、悦仰了、
(若君御方へ瓶子一双・円鏡・菓子(果物)をまいらす。旧冬より虫気の間、御見参に及ばず、悦び仰ぎおわんぬ。)
例文2) 『政宗記』巻十「政宗一代之行儀」より
扨膳下り茶菓子の上りけるを、座中へ廻し手水に立給ふと、相伴衆も次へ立手水相済、本座有て何れも本の如しと宣ふ。
其とき茶道床脇なる台子へ向ひ、茶を立、薄茶・菓子迄相済。
賢・恐・畏・可祝・・・かしく・かしこ
(意味)
①おそれ多いこと。慎むべきこと。
②利口であること。賢いこと。
(備考)
「かしく」は「かしこ」が転じたもの。
おもに仮名書きの書簡の終わりに用いる文言で、①の意味合いをもって相手に敬意を払ったものである。
「穴賢」も強い感動を表す言葉として、似たような意味合いで用いられる。
例文) 『慶光院文書』年次不明五日付滝川一益書状
御上人之近年之御当知行次第違乱無用候、かしく、
五日 一益(花押)
百姓なとに、わろくあたり候由、風聞候、無勿躰候、かしく、
(書き下し文)
御上人(周養上人)の近年の御当知行の次第、違乱無用に候。かしく
五日 一益(花押)
百姓などに悪くあたり候由、風聞に候。
勿体無く候。かしく
書状の翻刻などを読む際、一部分だけ合字として下記のように記されることもある。
興味のある方は覚えておいて損はないだろう。
畏・賢・恐・怖・・・かしこし
(意味)
①(その物が強力で)恐ろしい。恐るべきであること。
②(尊い者に対して)おそれ多い。慎みべきであること。
③(すぐれた価値高いものに対して)つつましい。もったいないこと。
④尊い。ありがたいこと。
⑤才が優れていること。賢いこと。立派。素晴らしいこと。
(備考)
原義は畏怖の感情を表し、時代の下りとともにさまざまな意味合いに転議した。
「かしこまり」・「かしこまる」・「かしこむ」なども同じような意味合いである。
また、書簡に出す際の書留文言に用いられる「賢(かしく・かしこ)」や「穴賢(あなかしく)」も、この語を原義としている。
加地子・加持子・・・かじし
(意味)
本来納めるべき年貢や地子、課役とは別に、名主などの在地領主に支払う米などの租税。加徴税。
ややこしい用語の一つなのでざっくり説明すると
本役は本来納めるべき年貢や課役
加地子は本役とは別に納めるべき租税
地子(銭)は貸地代、地代。
嘉定・嘉祥・・・かじょう
(意味)
陰暦の6月16日、室町幕府の将軍が士に16個の菓子を賜う儀式のこと。
(備考)
嘉祥元年(848)任明天皇の執政期が起こりとされ、陰暦の6月16日に疫病を除くため、16個の餅・菓子を神前に供えたことから始まった。
新年の挨拶である”賀正”の当て字として「嘉祥」が用いられる例もあるので注意が必要である。
春日祭・・・かすがさい・かすがのまつり
(意味)
春日社が2月・11月の上申日(月のはじめにくる申の日)に催す恒例の祭のこと。
春日社は藤原氏が氏神とされ、氏神・氏寺の関係から興福寺も深く関わった。
祭の日は宮中からも勾当内侍(長橋局)をはじめ、上卿・弁官職の人物が訪れた。
しかし、中世末期になると度重なる戦乱により徐々に規模が小さくなっていった。
(備考)
例文) 『大乗院寺社雑事記』明応五年二月二十三日条より
一、春日祭内侍参向、長橋之妹云々、山車事雖承色々指合、巨細申述之了、仍如先年被用板輿了、上卿山階殿、弁不参、使近來一向無参向、其余諸職如常、難波・幡磨來、色々物語、京都無殊事、大内代官可上洛之由風聞、和與事可申云々、
(書き下し文)
春日祭内侍参向。
長橋(長橋局)の妹と云々。
(内侍の山車、本路は二の鳥居の北の脇を木屋の前、内侍門の内まで乗り入ると云々。)
山車の事、色々指し合い承るといえども、巨細を申し述べおわんぬ。
仍って先年の如く板輿を用いられおわんぬ。
上卿は山科殿、弁は参らず。
使は近来一向に参向無し。
其余、諸職は常の如し。
難波・播磨は来たり。
色々と物語る。
京都は事なきのこと。
大内(大内義興)代官上洛すべきの由との風聞、和与の事を申すべくと云々。
※内侍は内侍所。恐らく当時の長橋局の妹にあたる人物だろう。
※弁は弁官職のことで、太政官の左/右大弁・左/右中弁・左/右小弁の人物。
掠申・・・かすめもうす
(意味)
ある事を目上の人に取り次ぐ際に、ありのままを言わないで、それとなくほのめかして申し上げること。
または偽って上申すること。
倅者・・・かせもの・かせきもの・かせぎもの
(意味)
侍の最下層の階級。
中間の上に位置する層で、上層農民であると同時に武士に仕えたもの。
基本的には武家の主に奉公し、小禄を以て仕えた。
方違・・・かたたがえ
(意味)
陰陽道の説で、外出の時、天一神(なかがみ)の巡行する所に出合わすと禍いを受けるという迷信から、その方角へ向かうことを忌諱すること。
方忌(かたいみ)ともいう。
例えば、A地にいる者がB地に行こうとした時、予定の日にはA地に対するB地は凶の方角にあたるとすると、出発の前日に別方向のC地へ赴き、当日はC地からB地を目指して出かけることを指す。
(備考)
こうした風潮は平安時代の上流階級を中心に広まった。
当時の日記や随筆などには、旅行や行楽に出かける前には必ず方違を行っている。
鎌倉時代に入ると武士の間にも方違の風習が広まり、室町期に入るとしだいに形式化した。
しかし、方角を禁忌する思想は一般庶民にも深く浸透した。
方違を行う際、特に気を付けるべき方位神は
・天一神(なかがみ)
天の神は60日を周期とし、16日間は天上。
あとは巡行し、東・西・南・北はそれぞれ5日間、北東・東南・南西・西北にはそれぞれ6日ずつ滞留する。
・太白神(たいはくじん)
太白は金星の意で、太白星の精が大将の姿となり、兵事や凶事をつかさどる。
陰陽道では日ごとに遊行の方角を変えため、その方角に向かうことは忌まれる。
・大将軍(だいしょうぐん)
もともと大陸では明けの明星を啓明、宵の明星を長庚または太白と呼び、軍事を司る星神とされた。
日本ではおもに仏教や陰陽道で用いられ、荒ぶる神として暦や方角を改める大きな判断材料となった。
大将軍は3年ごとに居を変え、その方角は万事が凶。
特に土を動かすことが禁忌とされた。
ただし、大将軍には遊行日があり、その日にその方角へ赴くことは凶とされない。
・金神(こんじん)
この神がいる方位に土木を起こしたり、移転したり、嫁取りをすることをきらう。
これを犯せば金星七殺といって、家族7人が殺されるという。
1年ごとに居を替える神。
これも遊行日があり、その日にその方角へ赴くことは凶とされない。
・王相(おうそう)
王も相も1か月半同じ方角に留まる。
続けて来るので3か月間ひとつの方角が塞がる。
ほかにも八将神をはじめ凶神とされる神が多々あり、ここでは記しきれない。
これは、全国の神社で購入できる小冊子。
その中に1年の方違の早見表が載っているのは、かつては民間にも広くこの文化が根付いていた名残であろう。
喝食・・・かっしき
(意味)
もとは禅宗の用語で大衆誦経ののち、大衆に食事を大声で報らせる役僧のことを指した。
有髪の小童が勤めることが多い。
転じて、武家社会において元服するまでの小童が、頭の頂の上で髪を平元結いで結い、さげ髪にして肩のあたりで切りそろえる髪型のことを意味した。(時代劇によくある小姓の頭髪スタイル)
(備考)
喝とは称える・唱えるの意。
例文) 『勢州軍記 巻上』より
然ニ神戸家在女子無男子、故以政具卿之末子爲養子聟、此子息元爲相國寺之喝食、永正中頃爲神戸之養子號神戸四郎具盛、
(書き下し文)
然るに神戸家女子有り男子無く、故に以て政具(北畠政具・政郷)卿の末子を養子聟とす。
この子息、元は相国寺の喝食として、永正中頃、神戸の養子として神戸四郎具盛(※神戸家四代目)と号す。
合期・・・がっこ・ごうご
(意味)合期(ごうご)を参照のこと。
曽・嘗・都・・・かつて
(意味)
①否定文に用いる。
ぜんぜん。けっして。
いままで。ついぞ。
②(①が転じて)肯定文に用いる。
すべて。ことごとく。
③むかし。あるとき。いつぞや。
(備考)
中田祝男編『新選古語辞典(1984)』によると、平安時代ではおもに男性用語に用いられたとある。
ということは、古くは漢文調主体の文章で用いられていたのかもしれない。
なお、「かつてもって」はついぞもってという意味。
「曾」に続く字が地名や人名でない場合、「かつて」の可能性を疑ってみよう。
「曾不可忘失候」。
何があっても忘れはしないという意味である。
首途・門出・・・かどで
(備考)
出発。旅立つこと。
または新たに物事をはじめること。
苛法・・・かほう
(意味)厳しい掟のこと。苛烈な法。
可也・可成・・・かなり
(意味)
まあまあ、まずまず
彼・・・かの
(意味)
自分には遠い方の物事・方向・場所を指すのに用いる遠称。
あれ。あちら。
(備考)
近称で用いられる「是・之・此(これ・この)」・中称として用いられる「其(それ・その)」に対する語である。
例文) 『大湊文書(伊勢市大湊町振興会所蔵)』天正元年十一月五日付大湊老分衆書状
角屋七郎次郎許へ御尋物之儀、申付候処、彼御預ヶ物之儀者秋中、 (闕字)氏実様江送申、其上七郎二郎儀も此一儀付、十日以前ニ浜松へ罷下候由、親ニ之ても七郎左衛門尉申事候、
(書き下し文)
角屋七郎次郎の元へ御尋ね物の儀、申し付け候ところ、かの御預け物の儀は秋中、 (闕字)氏実様(今川氏真)へ送り申し、その上、七郎二郎(角屋七郎次郎)儀も、この一儀に付き、十日以前に浜松へ罷り下り候由、親にしても七郎左衛門尉申す事に候。
構・搆・・・かまい・しぼる・こう・く
(意味)
刑罰の一つで追放刑のこと。
「○○(人名)者搆無之」で”○○はかまいこれなく”
上郡・・・かみのこおり
(意味)
南北朝期~戦国期に見える郡名。
摂津国島上郡・島下郡を指す。
(備考)
以下は『角川日本地名大辞典 27 大阪府』「上郡」項の記述である。
[中世]文和元年2月10日の摂津国真上村田地注文(集古文書/高槻市史3)に「摂津国上郡真上村」とあるのが早い時期のものである。また、文安元年5月10日の細川道賢安堵状案(藻井家文書/吹田市史4)には「摂津国上郡新開窪跡事」と見えるが、新開窪跡は他の文書に「吹田庄内〈新開窪跡〉」とあり、島下郡のうちであることが知られる。したがって先の真上郡は島上郡のうちであるところから、島上・島下郡を上郡と称したことがわかる。「細川両家記」の大永7年2月の記事には「摂州上郡芥川城・太田城・茨木城・安威・福井・三宅城」と見え、戦国期の国人芥川氏・茨木氏などの勢力の及ぶ地域であった(群書20)。これに対し、下郡は豊島・河辺・武庫郡をさす呼称である。このような呼称が生じたことについて、南北朝期に摂津の守護であった赤松氏の勢力下にあった地域が下郡となり、国大将であった仁木氏の勢力下の地域が上郡となり、このような状況を前提に室町期に入って、守護となった細川氏が守護代を上郡と下郡とに置いたためとする見解がある(兵庫県史2)。
竹内理三(1983)『角川日本地名大辞典(角川書店)』より引用
例文) 『増野氏所蔵文書』(天文十九)閏五月十四日付野田代秀成ほか13名連署書状
態注進令申候、仍去五月芥河中務丞・入江藤四郎、至摂州入国ニ付而、於西岡可手合候由、被申越候、殊江州勢衆白川江着陣候之間、勝軍以下之御敵旁以、西岡江要用之由之間、則罷越候、其以後各可致参陣之処、波多野孫四郎・池田筑後守山崎口打明候者、摂州上郡之陣取、可雑踏之旨、被申越ニ付而、于今於大沢在陣仕候、此旨従両人も致得御意之由候間、先延引申候、然間京都・摂州之御敵、通路堅固ニ差塞候、此等之趣、可然様御取合所仰候、恐惶謹言、
(書き下し文)
わざと注進申せしめ候。
仍って去五月に芥河中務丞・入江藤四郎、摂州に至り入国に付きて、西岡に於いて手合すべく候由、申し越され候。
殊に江州勢衆白川へ着陣に候の間、勝軍以下の御敵かたがた以て、西岡へ要用の由の間、則ち罷り越し候。
それ以後おのおの参陣致すべきのところ、波多野孫四郎・池田筑後守山崎口で打ち明かし候はば、摂州上郡の陣取り、雑踏すべきの旨、申し越さるるに付きて、今に大沢に於いて在陣仕り候。
この旨両人よりも御意を得らるるの由に候間、まず延引申し候。
然る間京都・摂州の御敵、通路堅固に差し塞ぎ候。
これらの趣き、然るべきよう御取合い仰せ候ところ、恐惶謹言。
唐名・・・からな
(意味)
日本で朝廷から任ぜられる官職を、大陸の官称に当てていったもの。
右大臣を右府、左大臣を左府、内大臣を内府、近衛大将を幕府、中納言を黄門、左京大夫・右京大夫のことを京兆尹など。
なお、天皇の住まいである内裏を「禁中」や「禁裏」と呼ぶのも唐名である。
(備考)
官制表(延喜式制)
搦出・・・からめいだす
(意味)
罪人などを捕まえて、官位や身柄を引き渡すこと
搦進(からめまいらす)も同じ意。
搦手・・・からめて
(意味)
城砦や敵の背面のこと。相手の弱い所。
苅田狼藉・・・かりたろうぜき
(意味)
他人の稲を不法に刈り取ること。
敵領に侵入し、田畠を刈り取る行為のこと。
(備考)
苅田は苅田狼藉の略。
例文) 『多聞院日記』元亀二年十月十四日条より
山城打廻木津苅田被成闕焼了、當坊領一圓無足了、咲止々々、
(書き下し文)
山城(松永久秀)打廻り木津へ苅田を成され、焼き掛けおわんぬ。
当坊領一円無足(収入がなくなること)おわんぬ。
笑止笑止。
彼此・彼是・・・かれこれ・あちこち・あれこれ
(意味)
いくつもの事がらが関わっている様子。
とにかく。いろいろ。
いろいろ合せて。全て。
(備考)
例文) 『(天正元)十月十九日付鳥屋尾満栄書状(太田家古文書)』
今日々と申候ヘハ、悉桑名表御筈者相違仕候、我等共もうつけに成候て、乍存知、逗留仕候やうに、可被仰付候、彼是迷惑千万候、御分別候て、御急奉憑候、恐々謹言、
(書き下し文)
今日今日と申し候へば、悉く桑名表への御筈は相違い仕り候。
我ら共もうつけに成り候てと存知ながら、逗留仕り候様に、仰せ付けらるべく候。
かれこれ迷惑千万に候。
御分別候て、御急ぎ頼み奉り候。恐々謹言。
官位・・・かんい・つかさくらい
(意味)
①官職と位階。官等と位階。
②官等。官の等級。官階。
(備考)
古くは「つかさのくらゐ」ともいった。
なお、「官位相当(かんいそうとう)」とは、官職の高下を位階の貴賤に配して等級を規定してあること。
たとえば、
太政大臣は正・従一位。
左・右・内大臣は正・従二位。
大納言は正三位。
中納言は従三位など。
看経・・・かんきん・かんぎん・かんきょう
(意味)
①声を出さずに経文を読むこと。
②声を出して経文を読むこと。読経(どきょう)。誦経(じゅきょう)。諷経 (ふぎん) 。
(備考)
読みは「かんきん」・「かんきょう」どちらでもよい。
経(きょう)が漢音読み。経(きん)が唐音読みという違い。
日本における禅宗は唐音や宋音の読みをよく用いることから、「かんきん」と読む。
詳細は「字音」の項を参照のこと。
例文)『言継卿記』永禄十年七月十八日条より
今日御靈祭之間令行水、般若心經二卷上下社、書之、看經了、
(書き下し文)
今日御霊祭の間行水せしめ、般若心経二巻(上下社)、これを書く。看経おわんぬ。
漢字・・・かんじ
(意味)
古代中国に発生し、中国を中心に東アジアで広く用いられた文字。
その性質は、一字に形と意味と音とをそなえる表意文字であり、また、一字が一単語を表す表語文字でもある。
字数は、説文解字(1世紀終わりごろ)に9353字、玉篇(6世紀)に1万6917字、康煕字典(18世紀)に4万9030字がおさめられてあり、時代がくだるとともに増加している。
現在最古のものは、殷代の甲骨文字(亀甲獣骨文字)でさらに周代に古文(「文」は文字の意)や籀文ができた。
籀文は大篆と呼ばれるが、字画の複雑なものが多かったので、秦代に改正を加えて小篆ができ、それを実用化して隷書ができた。
漢代には八分や草書が生じ、一般には隷書が用いられたが、この頃から六朝時代にかけて隷書から楷書が生まれ、そこから行書が分かれた。
唐代にはこれらが並び存じたが、宋代以降、古文と大篆は用いられなくなり、楷・行・草の三体が広く用いられた。
日本への漢字の伝来は、記紀によれば応神天皇16年(285)ということになる。
広く、しかも国語を表記するのに用いられだしたのは、推古天皇のころからとされる。
(備考)
日本への影響は「字音」の項にも詳述。
本項のおもな参考文献:
中田祝男(1984)『新選古語辞典』小学館
高木昭作,佐藤進一,高木昭作,坂野潤治(2000)『文献史料を読む―古代から近代』朝日新聞社
久留島典子,五味文彦『史料を読み解く 1.中世文書の流れ』山川出版社
還住・・・かんじゅう・げんじゅう
(意味)
住民がもとの居住地に還ること。
または、そのために打ち出された政策。
(備考)
例文1) 『摂津名塩村文書』天正七年三月日付織田信長条書
定 摂州名塩
一、百姓等、その外悉還住すへき事、付、たたいま不帰之輩、以後かへすへからさる事、
一、還住の百姓にわつらひをなし、乱妨・らうせき停止の事、
一、山林・竹木をきり取、当毛あらすへからさる事、
一、人夫の往来煩あらは、その在所せいはいすへき事、
一、還住の在所、放火すへからさる事、
右相定之訖、若いほんのともからあらは、忽罪科にしよすへき者也、
(書き下し文)
定め 摂州名塩
一、百姓等、そのほか悉く還住すべき事。(付けたり、ただいま帰らざるのともがら、以後かえすべからざる事。)
一、還住の百姓にわずらいをなし、乱妨・ろうぜき 停止の事。
一、山林・竹木をきり取り、当家あらすべからざる事。
一、人夫の往来煩いあらば、その在所せいばいすべき事。
一、還住の在所、放火すべからざる事。
右、これを相定めおわんぬ。
若い凡(ぼん)のともがらあらば、忽ち罪科にしょすべきものなり。
※1条目は、この条書が出ても還住しない農民は、以後還住させてはならないとしている。
恐らく戦後の復興を早めようとする意図があるのだろう。
例文2) 『前田家所蔵文書』永正十五年十一月二十八日付室町幕府奉行人連署奉書
慈聖院領摂州有馬郡福嶋村事、先庄主慶隆首座、連年々貢難渋之条、改易之、申付別人之処、右京兆被官能勢源五郎依令放火、当村百姓等逃散云々、於能勢所行之咎者、追可有御成敗、所詮不日地下人可還住之旨、被成御下知之上者、差下寺家代官、速可被全所務之由、所被仰下也、仍執達如件、
(書き下し文)
慈聖院領摂州有馬郡福嶋村の事、先庄主景隆首座、連年、年貢難渋の条、これを改易し、別人に申し付くるのところ、右京兆(細川高国)の被官能勢源五郎放火せしむるによりて、当村の百姓等逃散し云々。
能勢所行の咎に於いては、追って御成敗有るべし。
所詮 不日に地下人還住すべきの旨、御下知成さるるの上は、寺家代官を差し下し、速やかに全く所務せらるべきの由、仰せ下さるところなり。仍って執達くだんの如し。
感状・感書・・・かんじょう・かんしょ
(意味)合戦に参加した将士の戦功を賞して発給される文書のこと。
感書(かんしょ)・御感書(ごかんしょ)ともいう。
よく出る文言として「戦功無比類候(戦功比類なき候)」・「無比類働、神妙之至(比類無き働き、神妙の至り)」・「弥可励忠節(いよいよ忠節励むべく)」・「弥可抽粉骨之条(いよいよ粉骨抜きんでるべきの条)」などが登場する。
感状は武士が誇りとする戦功の証明書であり、武士に取っては最高の名誉のしるしであったから、判物(はんもつ)と同様に大切に保存された。
(備考)感状は鎌倉時代末期から江戸時代初期にかけて発給された。
直状(じきじょう)形式で、日付の下に差出書を署し、次行に宛所を記す日下署判の書下(かきくだし)書式が多いが、特に地位の高い者から出された感状には、袖に花押を加えた袖判(そではん)形式のものもある。
将軍などの場合は御教書(みぎょうしょ)・御内書(ごないしょ)・奉書などの様式を用いるが、これは御感御教書・御感奉書などとよばれた。
戦国時代以降は朱印状・黒印状などの略式された印判状(いんばんじょう)になる傾向にあった。
参考:『花押・印章図典(吉川弘文館)』など
勧請・・・かんじょう
(意味)
神仏の来臨を請うこと。
神仏の分霊を他の場所に迎えて祀ること。
(備考)
「かんじょう」の「ん」が撥音便のため、「かじょう」と記される場合も多い。
古語辞書にない場合は「く」行で調べてみよう。(くぁんじゃう)
款状・・・かんじょう・かじょう
(意味)
官位を望み、または訴訟をするときなどの嘆願書。
(備考)
元来、「款」は誠からきている。
誠を述べることを意味する。
「かんじょう」の「ん」が撥音便のため、「かじょう」と記される場合も多い。
古語辞書にない場合は「く」行で調べてみよう。(くぁんじゃう)
勧進・・・かんじん
(意味)
仏界用語。
仏や寺などを建立するために必要な金銭や材料を集めること。
また、その人。=「勧化(かんげ)」
そのために催される相撲を「勧進相撲(かんじんずもう)」。
そのために行われる能楽を「勧進能(かんじんのう)」。
勧進の際、銭を受ける長柄のひしゃくを「勧進柄杓(かんじんびしゃく)」。
勧進のために諸国を廻り歩く僧のことを「勧進進聖(かんじんひじり)」という。
また、仏像や新寺などを建立する趣旨を書いた巻物のことを「勧進帳(かんじんちょう)」といい、僧や山伏が寄付を集めて人々に読み聞かせる。
(備考)
→奉加(ほうが)
古語辞書にない場合は「く」行で調べてみよう。(くぁんじん)
例文) 『安国寺所蔵文書』長禄四年閏九月二十二日付内藤元貞書下
丹波國安國寺爲御當家御氏寺上者、臨时課役・勧進等事、可令停止催促、次自然
於僧中、乱行不法輩幷門前百姓以下、於寺家有不忠緩怠者、以寺家評定之儀、堅加成敗、可處罪科、猶々於國不可有等閑之儀者也、仍状如件、
(書き下し文)
丹波国安国寺御当家たる御氏寺の上は、臨時の課役・勧進等の事、催促を停止せしむべし。
次いで自然僧中に於いて、乱行・不法の輩並びに門前・百姓以下、寺家に於いて不忠・緩怠有るは、寺家を以て評定の儀、堅く成敗を加え、罪科に処すべし。
猶々国に於いては等閑有るべからざるの儀のものなり。
仍って状くだんの如し。
語訳)丹波国安国寺は足利氏の氏寺であるため、所領にたいする臨時の課役・勧進等をかけることを禁じる。さらに僧中に於いて、僧や百姓らが乱行や不法行為を働いた場合、寺内で評議して罪科に処すことを命じる。なお、分国内で定めた決まりについては、決してなおざりにしてはならない。以上のことを取り決めた上で通達する。
巻数・・・かんず・かんじゅ
(意味)
僧が依頼を受けて、経文・陀羅尼などを音読した場合、その経文の題名・巻数をしるした文書。
特に中世では、武運長久や敵に呪詛を掛ける目的で寺に依頼した。
依頼を達成した僧は、これを木などにつけて依頼者に送る習わしがあった。「巻数木(かんずぎ)」
(備考)
古語辞書で「か」行にない場合、「く」行で調べてみよう。(くゎんず)
例文) 『剣神社文書』(年次不詳)十月十六日付織田信長書状案
神前祈念之巻数、殊種々贈給候、即得其意候、委細使僧可相達候、謹言、
(書き下し文)
神前祈念の巻数、殊に種々贈り給い候。
即ちその意を得候。
委細使僧相達すべく候。謹言。
緩怠・・・かんたい
(意味)
①いいかげんな言動を繰り返し怠けること。
②ぶしつけなこと。不作法。無礼。
③失敗すること。過失。手落ち。
(備考)
例文) 『大乗院寺社雑事記』明応四年十月二十六日条より
東門院來、見参、伊勢國司内者共、色々緩怠申状共在之、入道殿致無爲計略云々、定不可有殊事、然者閣丹波合力、先以可有歸陣云々、凡比興作法也、
(書き下し文)
東門院に来たる。見参。
伊勢国司の内者ども、いろいろ緩怠な申し条ともにこれあり。
入道殿(北畠政郷カ)無為な計略を致すと云々。
定めて殊事有るべからず。
然らば、丹波(斎藤丹波守=石丸利光)をさしおいての合力、まず以て帰陣あるべしと云々。
およそ卑怯な作法なり。
官途・・・かんど・かんと
(意味)
①官吏としての仕事や地位。または官吏になること。
②転じて、室町時代以降は子どもが成人し(元服)、その属する集団の有資格者と認められて与えられる「衛門(えもん)」・「尉(じょう)」などの名を指す。
(備考)
②のために催される式典や祝宴のことを、一般的に「官途成り」という。
(浅学ゆえ、実際の史料では「成官途(かんとなり)」か「官途成」。どちらで記されるのかよくわからない。後日追記。)
観音経・・・かんのんぎょう
(意味)
仏典のひとつ『法華経』の第八巻二十五品の「観世音菩薩普門品」のみを別出して一巻としたもの。
鳩摩羅什が散文を、闍那崛多が韻文を漢訳したとされる。
観世音菩薩の衆生救済を教え弘める経典として知られる。
旱魃・干魃・旱抜・干抜・・・かんばつ
(意味)
ひでりが原因の田畑の損害の総称。
干害・旱害・旱損のこと。
「旱」はひでりを意味し、「魃(妭)」は大陸の神話に登場するひでりの神のこと。
(備考)
日本では大河の少ない地域が旱魃の被害に遭いやすい傾向にある。
なお、日照りで受けた田畑の被害を「日損(ひそん)」とよぶ。
例文) 『多聞院日記』天正十一年正月十九日条より
十九日、昨夜子刻歟大地震了、戌刻ヨリ至辰巳火神動、火才旱拔、沈思ゝゝ、
(十九日、昨夜子の刻か。大地震おわんぬ。戌の刻より辰巳に至りて火神動(火才旱魃)、沈思沈思。)
勘文・・・かんもん
(意味)
吉凶などの諸事を調べて、天皇などに上申する文書。
朝廷での儀式の際、先例や故実・吉凶を占い調べることを勘申(かんしん・かんじもうす)という。
貫文・・・かんもん
(意味)
銭の束。
銭を緡に貫くことから、貫銭(ぬきぜに)・ 銭緡(ぜにさし)と呼んだ。
(銭貫は中世以降、明国から輸入した銅銭の孔方(穴の開いた)部分に糸を通して、一つの束にする道具をいった。)
①転じて「貫」は銭の単位を意味する。
古くは1貫=1,000文(もん)という共通認識があった。
近世では1貫=960文とされている。
②鎌倉時代以降、武家の知行高の換算に用いられた単位。
租税としての米を銭に換算して充てられた。
一貫文はおよそ10石(じっこく)にあたり、田地一段、三段、または五段として、土地の遠近、時勢の変遷によって一定しなかった、
③尺貫法での「貫」は、目方(質量)の単位で1,000匁(もんめ)のこと。3.75キログラムにあたる。
(備考)
中世の日本は、銭を自国で鋳造せず、もっぱら大陸からの流入に頼っていた。
しかしながら、戦国期に入るとそのシステムが崩れ、「貫」の信用度は下がる。
詳細は「撰銭(えりぜに)」・「撰銭令(えりぜにれい)」の項を参照のこと。
例文) 『言継卿記』永禄十年十月一日条より
供給之残不相渡之間、今日出仕遅引也、最前十五貫渡之、今朝叉十一月會之分三貫文渡之、今日叉八貫文渡之、相残七貫之儀也、
(書き下し文)
供給の残り相渡さずの間、今日出仕遅引なり。
最前十五貫これを渡す。
今朝また十一月会の分三貫文これを渡す。
今日また八貫文これを渡す。
相残るは七貫の儀なり。
願文・・・がんもん
(意味)
神仏に祈願する際、その趣意を述べた文書。
願書ともいう。
また、供養の趣旨を述べた文書も願文という。
(備考)
例文) 『安土考古博物館所蔵文書』(推定天正七年)八月二十四日付惟任光秀書状
最前出陣之砌、奉籠願書候き、氷上郡之儀、任存分申付候条、於柏原弐百石令奉納候、
(書き下し文)
最前に出陣のみぎり、願書を籠め奉り候き。
氷上郡の儀、存分に任せ申し付け候条、柏原に於いて二百石奉納せしめ候。
肝要・簡要・・・かんよう
(意味)
非常に重要なこと。大切なこと。
(備考)
ある辞書には「簡要」の意味を簡単で要領を得ていること。手短で簡潔にまとめた事がらとしている。
しかしながら、中世の文書を読む限りではどちらの区別は無いように見受けられる。
例文) 村井章介(2018)「甲州式目(松平文庫本)校訂原文・注釈・現代語訳」,『立正大学大学院文学研究科』, 34,1-30.より
耽乱舞、遊宴、野牧、河狩等、不可忘武道、天下戦国之上者、抛諸事、武具用意可為肝要、
(書き下し文)
乱舞・遊宴・野牧・河狩等に耽りて、武道を忘るべからず。
天下戦国の上は、諸事をなげうち、武具の用意肝要たるべし。
勘落・・・かんらく
(意味)土地や財産を没収、または横領されて失うこと。
き
聞済・・・ききすます
(意味)聞き届ける
聞召・聞食・・・きこしめす
(意味)
①「聞く」の尊敬語。
お聞きになる。お聞き入れになる。
②「飲む」「食う」の尊敬語。
召し上がる。お召しに上がりになる。
③「治む」「行う」の尊敬語。
お治めになる。御統治なされる。
(備考)
鈴木一雄『全訳読解古語辞典(2007)』には以下の内容が記されている。
“上代の尊敬の動詞「聞こす」の連用形「聞こし」に、尊敬の動詞または補助動詞の「召す」が付いて一語化したもの。本義は治める意であるとも、聞く意であるともいわれる。(中略)聞くの意の尊敬語に、上代の「聞こす」があるが、その敬意は「聞こし召す」より低い。中古のふつうの敬語は「聞きたまふ」であり、最高敬語としては、「聞かせたまふ」が「聞こし召す」とともに用いられるようになった。”
(例文1) 『沢文書』(永禄十年六月九日付北畠具教安堵状)
就今度不慮之紛、雖本所不審之儀候、覚悟無別義の通申被處ニ、無異儀被聞召分、本領等諸事、前々如判形筋目、不可有別儀候、御書被遣之、珍重ニ候、猶真柄宮内丞・稲生左衛門尉可申候也、謹言、
(書き下し文)
この度不慮の紛れに就きて、本所(北畠具房)不審の儀候といえども、別儀無き覚悟の通り、申さる処に、異儀無く聞こし召さるるの分、本領等諸事、前々の如く判形の筋目、別儀有るべからず候。
御書これ遣わされ、珍重に候。
猶真柄宮内丞・稲生左衛門尉申すべく候なり。謹言。
(例文2) 『勝部神社文書』元亀三年三月二十四日付南郡高野庄ほか数名起請文
一、万一従当郷出入、内通之輩、聞召於被出者、親類、惣中共、可被加御成敗之事、
(書き下し文)
一、万一当郷よりの出入り、内通の輩を聞こし召し出さるるに於いては、親類・惣中どもに御成敗を加えらるべきの事。
刻・・・きざみ
(意味)
~の時。~の折。
(備考)
語源は「きざむ」の連用形から。
細かく切る。切り刻む。彫るところからきている。
例文1) 『石清水文書』(元亀二)十二月二十三日付木下秀吉書状
「石清水八幡宮田中御門跡御領年貢、諸成物等、堅可相拘候、双方へ納所候而者、不可然候、来春可罷上候条、其刻可相済候、以上」
(書き下し文)
石清水八幡宮田中御門跡御領の年貢・諸成物等、堅く相拘うべく候。
双方へ納所候ては、然るべからず候。
来春に罷り上るべく候条、その刻みに相済ますべく候。以上
語訳)石清水八幡宮の田中門跡領の年貢等、諸々の財物は、まだ納めずに保管しておいてください。双方へ(田中門跡と訴訟で争っている御牧氏)納めることはよろしくありません。信長が来春に上洛しますので、この件はその際に処理いたします。以上。
「刻」のくずしは「新」や「知」に近い形をしているが、よく見ると篇・旁ともに典型的なくずし方をしている。
ほかに「其刻(そのきざみ)」・「此刻(このきざみ)」などが史料でよく出る傾向にある。
この字が見えた場合、ここで句点をおいて一区切りできるので安心である。
起請文・・・きしょうもん
(意味)
神仏の前で誓約する内容を書き記した文書。
誓詞・誓紙・誓書・誓句とも呼ぶ。
神仏に誓って願いを立て、その誓いに違反すれば罰を受けることを記す。
和睦の際や、大名間での縁組が決まった際、家臣団に忠誠を誓わせる際などに用いられた。
護符の裏に書くのが通例で、ここから起請文を書くことを「宝印を翻す」などと表現した。
特に和睦交渉の際は、互いに信頼関係が不足している。
従って、相手に誓うのではなく神仏に誓うのである。
(備考)
基本的に起請文は「前書き(前文)」と「神文(罰文)」によって構成される。
まず、文書の柱書(タイトル)として、「起請文ノ事」などの文言が入る。
次に続く文が誓約内容となる「前文」。
その後に「この内容に偽りがあるようであれば神仏の御罰を蒙る」とした内容の「罰文」が入る。
罰文の部分は、自らが信仰している神仏を記すが、キリシタンの場合はそこにデウスなどが入ることもあった。
なお、語源の「起請(きしょう)」は物事を主君や上級者に希うこと。請願を意味した。
例文) 『飯野八幡宮所蔵文書』永禄十二年十一月三日付岩城親隆起請文
起請文之事
右之意趣者、今度世間就雑意、別而以神名承候、忝本望之至候、於自今已後者、於于親隆も、毛頭不可存別心候、若此儀偽候者、
上ニハ梵天・帝尺・四大天王、下ニハ堅牢地神・熊野三所権現・日光・鹿嶋大明神・當社八幡大菩薩・摩利支尊天、惣而ハ日本国中大小之神祇、各可蒙御罸者也、仍而如件、
永禄十二乙巳
霜月三日 親隆(花押)
飯野式部太輔殿
(書き下し文)
起請文の事
右の意趣は、この度世間の雑意に就き、別して神名を以て承り候。
忝く本望の至りに候。
自今以後に於いては、親隆(岩城親隆)に於いても、毛頭別心存ずべからず候。
もしこの儀偽り候はば、
上には梵天・帝釈・四大天王、下には堅牢地神・熊野三所権現・日光・鹿島大明神・当社八幡大菩薩・摩利支尊天、惣じては日本国中大小の神祇、各々御罰を蒙るべきものなり。仍ってくだんの如し。
永禄十二乙巳
霜月三日 親隆(花押)
飯野式部大輔(飯野隆至)殿
寄進・・・きしん
(意味)
社寺に土地や財物を自ら進んで寄付すること。奉納。
土地・酒・魚・太刀・弓矢・馬あるいはその土地土地の特産物が多い。
寄進に際し発給される書状のことを寄進状とよぶ。
(備考)
語源は「寄(よせ)」「進(まいらせる)」からきている。
社寺に属する者が寄付を呼びかけて金品を集めることを「勧進(かんじん)」とよぶのに対し、「寄進」は自ら進んで寄付する違いがある。
寄進状には寄進する「もの」を記した目録のほかに、祈願する旨を記した「願文(がんもん)」が添えられることもある。
寄進状の場合、書き留め部分に記される文言は「仍寄進状如件(よってきしんじょうくだんのごとし)」とされることが多い。
例文) 『霊松寺文書』大永五年五月十二日付能勢国頼寄進状
寄進申
摂州嶋上郡之内牛飼山之事
四至限東芝築地西田道同南堀溝、南先寄進芝築地北谷山堀切、
右件山者、芥河寄進山之継壱所、重而為山林霊松禅寺江、永代所寄進申実正也、然上者、於子々孫々、不可有違乱煩者也、仍為後証寄進状如件、
(書き下し文)
寄進申す
摂州島上郡の内、牛飼山の事
四限に至る(東芝築地西田道同南堀溝、南先寄進芝築地北谷山堀切)、
右くだんの山は、芥川寄進の山の一所を継ぎ、重ねて山林として霊松禅寺へ、永代寄進申すところ実正なり。
然る上は、子々孫々に於いて違乱・煩い有るべからざるものなり。
仍って後の証として寄進状くだんの如し。
急度・急与・・・きっと
(意味)確実にそうなるだろうと予測、 動作・状態が瞬間的であるさま、取り急ぎ
(備考)
例文) 『剣神社文書』(天正元)閏九月十三日付木下祐久書状
織田大明神領百姓等、自餘江被官人ニ罷出族在之者、急度可有御成敗候、前々猥ニ方々出頭之者あらは、地下ニ被置間敷候、恐々謹言、
(書き下し文)
織田大明神領百姓等、自余へ被官人に罷り出るともがらこれ有るは、きっと御成敗有るべく候。
前々みだりに方々出頭の者あらば、地下に置かる間敷く候。恐々謹言。
後朝・衣々・・・きぬぎぬ
(意味)翌朝のこと。
特に男女が一夜を共にした次の日の朝を指す。
棄破・・・きは
(意味)
これまでの取り決めごとを無効とすること。
約定を反故にすること。
破棄すること。
または破り捨てること。
(備考)
中世では権力者がその地を新たに支配した際に、これまでの権力者が取り決めた政策を無効とすることがしばしばある。
その際によく用いられる文言として「棄破せしめ了んぬ」が登場する。
また、徳政令を発給する際にもよく用いられる。
例文1) 『永禄七年八月十七日付小寺政職判物(個人所蔵)』
然者借銭・借米事、令奇破訖、向後忠儀肝要候、委細地蔵院申候、仍状如件、
(然らば借銭・借米の事、棄破せしめおわんぬ。向後忠儀肝要に候。委細地蔵院申し候。仍って状くだんの如し)
例文2) 『東京大学史料編纂所所蔵文書(元亀二年十二月日付織田信長領中方目録写)』より
右令扶助畢、然上、前後之朱印何方へ雖遣候、令棄破申付之条、不可有相違之状如件、
(書き下し文)
右、扶助せしめ畢。
然る上は、前後の朱印、何方へ遣わし候といえども、棄破せしめ申し付くるの条、相違有るべからざるの状くだんの如し。
関連記事:~忠義か家名存続か~戦国時代の書状から見える闕所(欠所)の無常さ
脚力・・・きゃくりき
(意味)発給された書状を送り届ける人物のこと。飛脚。
身分の低い人物、あるいはその家の内情を知らない外部の人物である場合が多い。
(備考)飛脚は書状の詳細を語れない(内情をよく知らない)ので、急を要する際や適切な使者がいない場合に選ばれた。
リスクとして飛脚が敵方に捕縛されたり、飛脚自身が裏切ることが挙げられる。
戦国時代の書状の後半部分に「猶〇〇申すべく候」などと記される場合が多い。
この場合、〇〇が副状発給者なのか、使者なのか判断が難しい場合がある。
しかし、飛脚であれば「飛脚を差し遣わし候」などとするので判別がしやすい。
「□□差し下し候。〇〇申すべく候」の場合、多くの場合は□□に使者(飛脚ではない)が、〇〇に副状発給者のケースが多い。
なお、書状に「幸便の条、筆を染め候」とある場合、飛脚に書状を託している可能性が高い。
幸便は「幸いそちらへ赴く者がおりますので」とした意味があるからだ。
丸島和洋(2013)「戦国大名の「外交」」講談社参照
給金・・・きゅうきん
(意味)奉公人のお給料
旧字・・・きゅうじ
(意味)
日本でかつて使われていた漢字の字体。
明治期以降、政府が度重なる教育改正を行ったことにより、漢字が厳格化、かつ簡略化して現在に至る。
旧字とは、そのような改正が行われる前のいわゆる常用外の漢字を指す。
(備考)
古文書に頻繁に登場する旧字の中でも、常用漢字と大幅に字形が異なる漢字を例に挙げると
「舊」→「旧」 「當」→「当」
「闕」→「欠」 「臺」→「台」
「與」→「与」 「點」→「点」
「實」→「実」 「傳」→「伝」
などがある。
旧字の例 辻善之助(1933)『大乗院寺社雑事記 第10巻,尋尊大僧正記 144-162』(三教書院) 明応四年三月五日・六日条より
『(永禄十三)三月二十三日付織田信長書状(毛利博物館所蔵)』より
「忠節抜きんでらるべきこと」と読むが、「莭→(節)」が旧字にあたる。
しかしながら、長い歴史を経て旧字から徐々に現在の漢字へと変化したわけであるので、その中間のくずし方をしている漢字も多々見受けられる。
従って、厳密に新字旧字を区別できるものではない。
なお、旧字のほかに異体字も存在する。
弓箭・・・きゅうせん
(意味)
弓と矢。「箭」は”や”と読む。
転じて武道やいくさそのものを指すようになった。
(備考)
弓箭のほかに、「干戈(かんか)」・「弓矢」・「鉾楯(ほこたて)」などもいくさそのものを指す場合が多い。
給人・・・きゅうにん
(意味)年貢取得者。
戦国期における給人は、大名などの公から恩給地を与えられた家臣を指す。
逆に武家(給人)には軍役などが課せられた。
一方、年貢納入責任者のことを「名請人」と呼び、百姓は年貢・公事(くじ)を負担することで、その身分と所有を認められた。
(備考)
『塵芥集』(七十六条)・『甲州法度之次第』(六条)・『新加制式』(十四条)などには給人に関する用例がある。
糺明・・・きゅうめい
(意味)
①不正を問いただして明らかにすること。
②よく調査すること。させること。
(備考)
「糺明」のくずし方
いとへんは、一字前の筆の運びからそのまま流れでうねうね走らせる傾向にある。
「明」も大きくくずされて原型をとどめないパターンが多い。
中世の史料には頻繁に登場するため「糺明」の形をセットで覚えると良いだろう。
なお、文意については「支証(ししょう)」の項を参照のこと。
御意・・・ぎょい
(意味)
人の考え、心に尊敬を表す「御」を加えたもの。
貴人や目上の人を敬って、御心、思し召しを意味する。
それがさらに、貴人や目上の人の御命令、仰せを意味するようになった。
現在の時代劇やシュミレーションゲームではそうした貴人の命令に対し、もっともであると肯定することから「御意(御意にございます)」と返答するシーンが頻繁に見られる。
他に「御意に入る」「御意に叶う」はお気に召される。
「御意を得る」はお考えを承る。お目にかかる。ご意見を聞く。
「御意を得られず」はその反対となる。
「御意を懸けらる」はお心にかけてくださる。御心配してくださる。あるいは御配慮してくださる。
「御意を得らるべく」は同意を得られるように・・・とすることが多いか。
(備考)
例文1) 『大乗院寺社雑事記』明応五年閏二月二十六日条より
随而只今ヨリハ武藏郷住人與三郎男ニ申付候、可得上意旨申上之、御返事、被得御意了、仍未進納者早々可致其沙汰之由也、畏入皆以可進上云々、
(書き下し文)
従って、ただ今よりは武蔵郷の住人与三郎男に申し付け候。
上意を得るべきの旨を申し上げる。
御返事。
御意を得られおわんぬ。
仍って未だ納めまいらずの者、早々にその沙汰を致すべきの由なり。
畏み入り皆以て進上すべしと云々。
例文2) 『(天正元)九月二日付小松原正勝書状(興敬寺文書)』
次私へ同三分被懸御意候、遠路不輙義、御懇志難有無冥加存候、
(次いで私へ同じく三分御意に懸けられ候。遠路容易からずの儀、御懇志有難く冥加無きに存じ候。)
恐々謹言・・・きょうきょうきんげん
(意味)相手に対して敬意をあらわす書留文言(かきとめもんごん)。
書状の最後に記される決まり文句。
直訳すれば「恐れ謹んで申し上げます」
向後・・・きょうこう・こうご
(意味)今後、これからのち
(備考)江戸時代あたりからしだいに現在の「こうご」と呼ばれるようになったようだ。
恐惶謹言・・・きょうこうきんげん
(意味)相手に対して最上級の敬意をあらわすために用いられた書留文言(かきとめもんごん)。
将軍などの貴人のほか、寺社に宛てたものに多い。
現代の「敬具」や「かしこ」に該当するもの。
(備考)
書簡を書く際に守らねばならない礼儀作法(書札礼)にのっとり、宛名との距離感や社会的身分の隔たりによって大きく変わる傾向にある。
恐惶謹言の場所に入る文言はほかに「恐々謹言(きょうきょうきんげん)」・・「恐惶敬白(きょうこうけいびゃく)」・穴賢(あなかしく)」・謹言(きんげん)」などがある。
例文) 『(元亀三)六月二十三日付松井友閑副状(大徳寺文書)』
就当寺領儀ニ、御使僧指被下候、則披露申候処、弥々無別儀様御書を被遣候、塙九・木藤江も此方にて申渡候、若於違乱者、重而可承候、恐惶謹言
(書き下し文)
当寺領の儀に就きて、御使僧を指し下され候。
則ち披露申し候ところ、いよいよ別儀無きの様に御書を遣わされ候。
塙九(塙直政)・木藤(木下秀吉)へも此方にて申し渡し候。
もし違乱に於いては、重ねて承るべく候。恐惶謹言
夾名・交名・校名・・・きょうみょう
(意味)
文書に複数の名を書き連ねること。
連署状のこと。
(備考)
例文) 『法雲寺文書(天正元年九月七日付前波長俊書状)』
高田専修寺末寺幷門弟等、任先規之旨、可致馳走、若於違犯者、交名可有注進候、恐々謹言
(高田専修寺末寺並びに門弟等、先規の旨に任せて、馳走致すべし。若し違犯に於いては、交名注進あるべく候。恐々謹言)
語訳:高田専修寺の末寺並びに門徒たちは、先例の通りに処務をこなせ。
もし法に背く者があれば、その者たちの名を書き連ねて報告せよ。
御画日・・・ぎょくがにち
(意味)天皇が詔案の原案に承認の意で書く日付のこと。
御出・・・ぎょしゅつ・おいで・おいでる・おんいで
(意味)
貴人が外出すること。
尊敬する人物がお越しになること。
(備考)
中世古文書では主語が記されていない場合が多いので、どちらの意味なのか推察する必要がある。
金子・・・きんす
(意味)金貨。小判。貨幣。金銭。単位は両(りょう)。金1両が銀60匁=約13万円(江戸時代の相場で)
銀子・・・ぎんす
(意味)銀貨。多くは丁銀(ちょうぎん)を指す。長さ約9センチメートル、重さ約160グラムの長円形の銀塊で、紙に包み、封をしたまま用いて「銀何枚」と数える。贈答などに用いた。単位は匁(もんめ)。銀1匁あたり約2166円(江戸時代の相場で)
禁闕・・・きんけつ
(意味)「禁裏・禁裡」と同じ意。
禁制・・・きんぜい
(意味)権力者が寺社や惣中に対して、その保護と統制を目的として、自軍が乱妨や狼藉、竹木伐採・陣取寄宿等を行わないことを約束・通知するために出した文書。
禁札(きんさつ)・制札(せいさつ)とも呼ばれる。
『円徳寺所蔵文書(永禄十一年九月日付織田信長禁制)』釈文
(備考)権力者にあらかじめ金品を渡して禁制を発給してもらう例もあった。
関連記事:武田信玄の侵略からたった一人で寺を守りきった住職の苦労とは!?
禁中・・・きんちゅう
(意味)「禁裏・禁裡」と同じ意。
禁裏・禁裡・・・きんり
(意味)
天皇が常に居住しているところ。
内裏(だいり)・禁中・宮中・皇居・禁庭(禁廷)・禁闕(きんけつ)・御所これ全て同じ意である。
古くは内裏とよぶことが多かった。
これらの語は天皇その人を指すようにもなり、敬称を用いて「内裏様」・「禁裏様」・「禁中様」などと呼ばれた。
また、禁野(きんや)は天皇の御猟場。=標野
禁門は皇居を守護する門を意味する。
(備考)
中世では、相手のことを在所名で呼ぶことは失礼にあたらず、むしろ厚礼とされる。
なお、「禁中」は内裏の唐名である。
同じく「宸居(しんきょ)」なども唐名のため、天皇自身の御心のことを「宸襟」、天皇の直筆を「宸筆(しんぴつ)」と呼ばれる。
例文1) 『言継卿記』永禄十年九月七日条より
禁裏へ菊之綿進上、如例黄赤白三色、文如此、
かしこまりて申入候、きくの御なかあひ、かはらぬ世々のためしにしん上いたし候、御心え候て、御ひろうにあつかり候へく候、かしく、
とき繼
なかはしとのヽ御局へ
(書き下し文)
禁裏へ菊の綿進上。
例の如く黄赤白三色。
文かくの如し。
「畏まりて申し入れ候。
菊の御なかあい、かわらぬ世々のためしに進上いたし候。
御心得候て、御披露に預かり候べく候。かしく(以下略)」
例文2) 『(永禄十一)九月十四日付正親町天皇綸旨案』
入洛之由既達叡聞、就其京都之儀、諸勢無乱逆之様可被加下知、於禁中陣下者、可令召進警固之旨、依天気執達如件、
九月十四日 左中弁経元
織田弾正忠殿
(書き下し文)
入洛の由既に叡聞に達す。
それにつきて京都の儀、諸勢乱逆無きの様に下知を加えらるべし。
禁中陣下に於いては、警固を召しまいらしむべきの旨、依って天気執達くだんの如し。
(永禄十一年)九月十四日 左中弁経元(甘露寺経元)
織田弾正忠(織田信長)殿
※京都に乱妨しないように下知せよ。
禁中(皇居)や陣下(政務をとる場所)に警護人を出せとの文意。
例文3) 『(元亀二)十月十五日付松田秀雄・塙直政・島田秀満・明智光秀連署状(京都上京文書)』
禁裏様御賄、八木京中江被預置候、但一町ニ可為五石充条、此方案内次第罷出、八木可請取之、利平可為三話利、然而来年正月ヨリ、毎月一町ヨリ壱斗弐升五合充可進納之、仍本米為町中永代可預置之状如件、
(書き下し文)
禁裏様御賄として、八木京中へ預け置かれ候。
但し一町に五石充てたるべきの条、此方案内次第に罷り出で、八木これを請け取るべし。
利平は三割たるべし。
然して来年正月より、毎月一町より一斗二升五合これを充て進納すべし。
仍って本米は町中として永代預け置くべきの状くだんの如し。
関連記事:織田信長の年表ちょっと詳しめ 義昭と信長による幕府・禁裏の経済改革
く
悔返・悔還・・・くいかえし
(意味)
一度譲与した所領や家督などを再び取り戻すこと。
(備考)
近年は悔返も法制史学において注目されているようだ。
特に『御成敗式目』第二十六条には悔返についての定めがある。
一、譲所領於子息、給安堵御下文後、悔還其領、譲与他子息事、右可任父母意之由、具以載先条畢、仍就先判之譲、雖給安堵御下文、其親悔還之、於譲他子者、任後判之譲、可有御成敗、
(書き下し文)
一、所領を子息に譲るに於いて、安堵の御下文を給わるの後、その領を悔返し、他の子息に譲り与うる事。
右、父母の意に任すべきの由、つぶさに以て先条に載せおわんぬ。
仍って先判の条に就きて、安堵の御下文を給わるといえども、その親これを悔返し、他の子に譲るに於いては、後判の条に任せて御成敗(ここでは決定することの意)有るべし。
公験・・・くげん
(意味)
「公(おおやけ)」が発給する証「験」の意。
所領や財産、権利を譲渡・売買する際に発給される証書。
中世では所有権の移転を公認する文書として丁重に扱われた。
律令制時代の公験は官庁から下付される証書を指したが、時代が下るにつれて、その意味が拡大解釈されるようになった。
国司が所有権を公認したもの。
幕府や荘園領主などが公認したものも指す。
(備考)
例文) 京都大学総合博物館所蔵『松尾月読社文書』(天正元年十月二十日付物集女疎入書状)
拙者給領大原野内、重清御買得分事、依有 御倫旨・公験、坂東大炊助幷杷木殿・後藤殿御存知时モ、無御違乱由候、則得其意、聊不可有別儀候、全可有御知行候、恐々謹言、
(書き下し文)
拙者の給領大原野の内、重清(松室重清)御買得分の事、御綸旨・公験有るに依りて、坂東大炊助並びに杷木殿・後藤殿御存知の時も、御違乱無きの由に候。
則ち其の意を得、聊かも別儀有るべからず候。
全く御知行有るべく候。恐々謹言。
※おおまかな内容は物集女家当主の疎入が、自らが給領とする大原野の内で、松尾月読社神官の松尾重清が買い取って所有している土地(買得地)について、これまでどおりの権利を認めるといったもの。
公事・・・くじ
(意味)
①朝廷における公式行事。
②命じられた夫役や課役などの雑役をこなすこと。
③公の機関が調停する紛争(相論)のこと。
(備考)
「公事銭(くじせん)」はおもに②の代銭納として支払う銭を指し、公用銭(くようせん)・公事役銭(くじやくせん)ともよばれた。
場合によっては、棟別銭や地子銭が公事銭と名を変えて表現されることもある。
例文) 『言継卿記』永禄十年十二月二十四日条より
大津之公事銭代二百疋、米一石持来了、
(書き下し文)
大津の公事銭代二百疋・米一石を持ち来たりおわんぬ。
具・・・ぐす
(意味)
①数が備わること。揃うこと。
②仕度などがととのうこと。
③加わること。加勢すること。
④従うこと。連れだって行くこと。
⑤連れ添うこと。
(備考)
接頭語の「相(あい)」が付く場合もある。
「具」はほかに「つぶさに」や「そなえ」とも読む場合があるので注意が必要である。
例文) 『大乗院寺社雑事記』明応六年七月二十六日条より
一、古市夜前四時分歸陣、自屋形太刀以遊佐送陣所、遊佐叉馬・太刀出之云々、凡高名者也、譽田ハ和泉堺ニ歿落、甲二百計相具云々、
(書き下し文)
古市(古市澄胤)夜前四時分に帰陣。
屋形より太刀を以て遊佐(遊佐順盛?)陣所へ送り、遊佐もまた、馬・太刀を出すと云々。
およそ高名なものなり。
誉田は和泉堺に没落。
兜二百ばかり相具すと云々。
曲・曲事・・・くせごと
(意味)不正な事柄、違反、法に背くこと
(備考)
例文) 『瀧谷寺文書』天正元年九月四日付前波長俊書状
神波吉祥坊知行分、如前々以、御朱印、被爲安堵候條、年貢・諸済物等、急度可沙汰、於延引者可爲曲事者也、謹言、
(書き下し文)
神波吉祥坊知行分、前々の如く、御朱印を以て、安堵たるべく候条、年貢・諸済物等、急度沙汰すべし。
延引に於いては曲事たるべきものなり。謹言。
※諸済物(しょさいもつ)・・・租税などで上納する品物、貢物
口宣・・・くぜん
(意味)
天皇の秘書官にあたる蔵人(くろうど)が、天皇の意を承って、太政官など朝廷の上層に伝達すること。
(備考)
口頭で伝えられた天皇の命令を、蔵人が間違いのないように案文(あんもん)を作成し、これを上卿など朝廷の意見を動かす人物に送る。
これが「口宣案(くぜんあん)」である。
口宣案も綸旨と同じように、宿紙とよばれる漉き返しの紙が使用される。
例文) 『言継卿記』永禄十一年正月十三日条より
一條殿従二位御加級之事、舊冬令披露之處、近日舊冬十二月廿七日分に勅許也、仍下知之事頭中将に申遣之、宣案到之間、則桃花坊へ進之、
(書き下し文)
一條殿(一条内基?)従二位御加級の事、旧冬披露せしむるのところ、近日旧冬(十二月二十七日)分に勅許なり。
仍って下知の事、頭中将にこれを申し遣わす。
宣案(口宣案)到の間、則ち桃花坊へこれを進す。
下文・・・くだしぶみ
(意味)
上級の機関に属する人間が下位の機関に属する者に下した公文書のこと。
下文の書式の特徴として
「
〇〇〇〇(将軍家政所など)下(宣) 〇〇〇〇(某所)、
〇〇〇〇(補任下司職など)事、
〇〇〇〇(宛名)
右、〇〇〇
以下、
〇年〇月〇日(年月日) 〇〇〇〇(発給者官位声明)
」
が基本形となっている。
(備考)
下文は律令制の崩壊期である平安時代中期に生まれたもので、非公式様文書の一形式である。
公式様文書の詔・勅・符と異なる様式として用いられたので、誕生当時は律令制の建前と異なるということで、重大な問題を抱えていた。
しかし、平安時代末期以降は公家・武家を問わず下文が主流となり、公的な分野における上意下達文書の主要部分を担うようになった。
その役割は、室町時代に入って書札様文書が新しい公的文書として台頭するまで続いた。
参照:瀬野精一郎(2018)『花押・印章図典』,林陸朗(1989)『古文書・古記録難訓用例大辞典』
草伏・草臥・・・くたびる
(意味)
疲れること。
くだびれること。
物を長く使い込み、古びてくたくたになること。
件・・・くだん・くだり・けん
(意味)
①(文章の前の部分で述べた事項をさして)上述の。あの。
②例の。いつもの。
(備考)
語源は「件・行(くだり)」から。
くだりは文書の書き下された「行」の意が転じて、文章に述べられた事項を指す古代期の用語である。
⇒「仍如件・仍状如件」
如件・・・くだんのごとし
(意味)
(上記の意味をふまえて)証文の類で文章の終わりに用いる語。
以上述べた通りである。
(備考)
⇒「仍如件・仍状如件」
証文の類には「仍如件(よってじょうくだんのごとし)」・「執達如件(しったつくだんのごとし)」・「起請文如件(きしょうもんくだんのごとし)」など数多くの派生パターンがある。
時には「不可有相違状如件(そういあるべからざるのじょうくだんのごとし)」や「不混自餘状如件(じよにこんせざるのじょうくだんのごとし)」など、前後の文がつながる例も存在する。
『真田宝物館所蔵文書』(永禄六年十一月日付織田信長判物)釈文
『真田宝物館所蔵文書』(永禄六年十一月日付織田信長判物)書き下し文
口書・・・くちがち
(意味)
訴訟時の調書で、本人の返答や申し立てを記したもの。
口遊・口順・・・くちずさむ
(意味)
詩や歌などを思いつくままに口にしたり歌ったりすること。
口銭・・・くちせん・くちぜに・こうせん
(意味)
「口銭・貢銭(こうせん)」の項を参照のこと。
例文もそちらに。
国質・・・くにじち
(意味)その国で抵当権を執行すること。
債権者が債務者に対して質取(私的差し押さえ)行為を行うこと。
債権者が他国の債務者による債務不履行に際し、その債務者にかわり債務者と同じ両国に所属し差し押さえ可能な人、またはその人の土地・所領を実力で質取する行為。
(備考)
詳しくは所質を参照のこと。
例文もそちらに。
首実検・・・くびじっけん
(意味)
討ち取った敵の首の真偽を検視・検分すること。
また、その一連の儀式のこと。
中世では論功行賞を行う際の重要な決め手となった。
(備考)
「首」の旧字は「頸」。
「実」の旧字は「實」。
「検」の旧字は「檢」。
例文) 『大乗院寺社雑事記』明応七年四月六日条より
一、昨日片岡責落之、小泉・有野・目安・藥井入道切腹了、片岡自害云々、或不見云々、此外龍田・岡以下此間籠衆歿落歟云々、可然頸五十余屋形被實檢云々、
(書き下し文)
昨日片岡が攻め落つ。
小泉・有野・目安・薬井入道切腹おわんぬ。
片岡は自害と云々。
あるいは見えずと云々。
このほか龍田・岡以下、此の間籠もる衆は没落かと云々。
然るべき首五十余、屋形(畠山尚順)が実検せらると云々。
首帳・・・くびちょう
(意味)
合戦の際にうちとった首の数と、討ち取って戦功を立てた者の名を記した帳簿のこと。
首塚・・・くびづか
(意味)
討ち取った敵や死刑に処した罪人などの首を埋めて築いた塚(墓)のこと。
組頭・・・くみがしら
(意味)組織の一隊を指揮する頭、江戸時代や農村では村方三役の一つ。名主、庄屋を補佐する
庫裡・庫裏・・・くり
(意味)
寺などで台所となる場所。
また、住職らの住む場所。
厨・・・くりや
(意味)
「御厨(みくりや)」の項を参照のこと。
委事・・・くわしきこと
(意味)詳しいこと、詳細、委細のこと。
(備考)送り仮名をつけるならば「委わしき事」となる。
古文書ではしばしば文章の終りの方で登場する。
「委事、〇〇可申候也、(委しき事は〇〇申すべく候なり)」
のように書かれている場合が多い。
“委事”の部分は「委曲(いきょく)」と記されていることもよくある。
郡・・・ぐん・こおり
(意味)
大化改新で規定された国に次ぐ行政単位のこと。
数郡から十数郡をもって一国を構成する。
奈良時代末には500余郡を数えたが、その後旧郡を基準に分裂を重ね、明治・大正期の群制廃止を迎えるまで統廃合が繰り返された。
(備考)
大化改新から約半世紀にかけては、「評(こおり)」の字を用い、「郡」となったのは大宝令以後のことである。
古代から明治・大正期を迎えるまでの長い年月で、川の流れが大きく変わるなど、時代によって郡境が異なる地域も存在する。
「郡」のくずし字は「郷・・・ごう・さと」に載せたので、そちらを参照のこと。
け
敬白・・・けいびゃく
(意味)
うやまって申し上げること。謹んで申し上げること。
仏事を行った際、その趣旨や功徳を表すもの。
表白文・表白・啓ともいう。
現代では”けいはく”と呼ぶのが一般的か。
(備考)
中世ではおもに僧籍に対する書留文言でも頻繁に用いられた。
「恐惶敬白(きょうこうけいびゃく)」・「敬白如件(けいびゃくくだんのごとし)」などがそれである。
なお、起請文(誓詞)の冒頭部分でも頻繁に見られ、「敬白 〇〇〇起請文之事」・「敬白天罸〇〇起請文之事」などと記された。
例文1) 『(元亀三)六月二日付島田秀満書状(妙心寺文書)』
尊札重而拝見仕候、仏心寺・竜安寺伇人共夫丸免除事、則折帋調、進覧候、村民も同前之由承尤候、我等猶以如在不存候条、相応御用可蒙仰候、不可有疎意候、委細御使僧申入候間、不能巨細候、恐惶敬白、
六月二日 秀満(花押)
(書き下し文)
尊札重ねて拝見仕り候。
仏心寺・竜安寺役人共夫丸免除の事、則ち折紙を調べ、進覧候。
村民(村井貞勝)も同前の由承り、もっともに候。
我ら猶以て如在に存せず候条、相応の御用仰せ蒙るべく候。
疎意有るべからず候。
委細御使僧に申し入れ候間、巨細に能わず候。恐惶敬白。
六月二日 秀満(花押)
例文2) 『勝部神社文書(元亀三年三月二十四日付駒井さわ村惣代等起請文前書)』
敬白天罸霊社起証文之㕝、
一、金森、三宅江出入、内通一切不可仕㕝、
右之両城江自然出入之輩在之者、任御高札之旨、雖為六親、見隠不聞隠、御注進可申上㕝、
(書き下し文)
敬白天罰霊社起証文前書の事
一、金森・三宅へ出入、内通一切仕るべからざるの事。
右の両城へ自然出入りの輩これ在らば、御高札の旨に任せて、六親たりといえども、見隠し聞き隠さず、御注進申し上ぐべきの事。
競望・・・けいぼう・きょうぼう
(意味)
争って希望すること。
強いて願うこと。
(備考)
古語辞書にない場合、「けいばう」で調べてみよう。
例文) 『飯尾文書』文明十七年十二月二十三日付飯尾家兼奉書
摂州江口関事、当知行無相違之処、今度刻長塩弥四郎掠給奉書、違乱之条、言語道断之次第也、早退彼競望、如元可被全関務由候也、仍執達如件、
(書き下し文)
摂州江口関の事、当知行相違無きのところ、この度長塩弥四郎奉書を掠め給うるの刻み、違乱の条、言語道断の次第なり。
早く彼の競望を退け、元の如く全く関務せらるべきの由に候なり。仍って執達くだんの如し。
下司・・・げし・げす・したづかさ
①身分の低い官人。下級職員。
②中世以降、荘園の事務をつかさどる職名。荘官。沙汰人。
現地の公文や田荘、惣追捕使らを指揮して年貢・公事・夫役の徴収や治安の維持などを行った。
その関係から、下司は惣公文(そうくもん)とも呼ばれる。
(備考)
浅学のため「雑掌」との違いは説明できない。
後日追記予定。
仮瑕・怪我・・・けが
(意味)
傷を負うこと。負傷。あるいは過ちをしでかすこと。
下行・・・げぎょう
(意味)
米などの物品を下賜すること。
また、その物。くだされ物。
(備考)
例文) 『言継卿記』永禄十一年二月四日条より
勧修寺黄門被來、富田之武家将軍宣下可爲來八日、上卿之事内々被示之、
(中略)
次勧修寺黄門へ罷向、八日之将軍宣下之下行以下之事申談了、
(書き下し文)
勧修寺黄門(勧修寺晴右)来たる。
富田の武家(足利義栄)の将軍宣下は来たる八日たるべし。
上卿の事内々にこれを示さる。
(中略)
次いで勧修寺黄門へ罷り向かう。
八日の将軍宣下の下行以下の事申し談じおわんぬ。
懈怠・・・けたい
(意味)怠けること。おこたること。
(備考)
もとは仏界用語「精進(しょうじん)」の対比として用いられたと考えられる。
例文) 『武家事紀』(元亀四)五月二十四日付織田信長判物写
其方幷与力等知行方無沙汰由候、誰々雖為家来、与前不納所者、可為曲事候、次河崎将監蟹江名代軍役懈怠之旨、無是非次第候、堅可申付儀、肝要候也、
(書き下し文)
其方並びに与力等の知行方無沙汰の由に候。
誰々の家来たりといえども、与前不納の所は、曲事たるべく候。
次に河崎将監蟹江名代の軍役懈怠の旨、是非無き次第に候。
堅く申し付くべき儀、肝要に候なり。
掲焉・・・けちえん・いちじるし
(意味)はっきりした様子。明らかなこと。
下知状・・・げちじょう
(意味)
「下知(げち)」は命令を表す語。
「下知状」は中世武家文書の文書様式の一つで、貴人の意図を汲んで、その臣が発給する奉書形式をとった命令を下達する書状のこと。
「裁許状」ともよばれた。
永続的に効力を発揮する特権免許状・制札・禁制・訴訟判決・譲与安堵などの公的なものに用いられた。
(備考)
鎌倉幕府成立後に発生した下文(くだしぶみ)と御教書(みぎょうしょ)を折衷した様式で、書留文言を「下知如件(下知くだんの如し)」とする特徴がある。
鎌倉時代初期から中期にかけては書き出し部分が「下」で始まり、「依鎌倉殿仰(鎌倉殿の仰せにより)」となっていたが、時代が下るとともに「下」が省かれ、署名部分も複数人でないものが増えていった。
宛所は最初か文中に書かれ、日付の後に書かれることはない。
鎌倉幕府滅亡後も戦国時代に至るまで広く用いられた。
※本項の大部分は瀬野精一郎(2018)『花押・印章図典』を参照
闕・・・けつ、かけ
(意味)「欠」と同じ意味
闕字・欠字・・・けつじ
(意味)書状を書く際、意図があって一字分スペースを空けること。
立場が上の人物に対して敬意を払うためのもの。
(備考)
以下の例は織田信長が将軍足利義昭の御内書(ごないしょ)に対して敬意を払っているもの。
このような形で一字分空けられることがある。
闕字の例
関連記事:【古文書入門】解読の基本を織田信長の書状から学ぶ-4.闕字とは何か
なお、最大限に敬意を払った書き方だと、一行分まるまるスペースを空けることもある。
これを「平出(へいしゅつ)」と呼ぶ。
闕所・欠所・・・けっしょ
①領主の決まっていない土地。
②領地または財産などを官が没収すること。
③裁判で改替されたりした荘園の諸職。
(備考)
中世では、戦闘に敗れた領主が所領を奪われ、その土地が「闕所」と表現されることがあった。
知行目録等の文書で「〇〇(氏名)分」と記されている場合、その可能性が高い。
験気・減気・・・げんき
(意味)
①病勢が衰えて快方に向かうこと。
②治療の効果により気分がよくなること。
(備考)
例文) 『言継卿記』永禄十一年二月一日条より
近衛殿へ御禮に参、御盃被下之、次寶鏡寺殿へ参、今御所尋申之、御腫物は御験氣、御氣煩御不食云々、
(書き下し文)
近衛殿へ御礼に参る。
御盃これを下さる。
次いで宝鏡寺殿へ参る。
今御所(足利義栄)これを尋ね申す。
御腫物は御験気。
御気煩い・御不食と云々。
検校・・・けんぎょう
(意味)
東大寺など重要な寺社に置かれた職。
事務を担当した。
鎌倉時代までは荘園の役人のことを言った。
近代以降は、単に盲目の僧を指すようになり、
次第に僧以外の人物も指すようになった。
見参・・・げんざん・げざん
(意味)
①節会・宴会などに出席した人の名を書いて、その主人の前に出すこと。またその名簿のこと。見参の文。
②目下の者が目上の人に会うこと。お目にかかること。
(備考)
中古期は「ん」を表す音の表記に統一性がなかったため、文書に記す際は無表記のことも多い。
従って「げんざん」を「げざん」と記すことも珍しくはない。
還住・・・げんじゅう・かんじゅう
(意味)
「還住(かんじゅう)」の項を参照のこと。
見除・・・けんじょ
(意味)無視すること
(備考)
例文) 『吉川家文書』(元亀三)四月五日付織田信長書状
浦上遠江守与宇喜多間之事、長々鉾楯之処、此方見除之儀、外聞如何候条、以使者申候、被遂分別、属和与候様ニ御才覚専要候、委曲三人申含候、恐々謹言、
(書き下し文)
浦上遠江守(浦上宗景)と宇喜多(宇喜多直家)間の事、長々鉾楯のところ、此方を見除の儀、外聞如何に候条、使者を以て申し候。
分別を遂げられ、和与に属し候様に御才覚専要に候。
委曲三人に申し含め候。恐々謹言。
譴責使・・・けんせきし
(意味)年貢などを納める百姓を勘責し、催促を行うための使い。
督促使。
(備考)
例文) 『賀茂別雷神社文書』元亀三年四月日付織田信長朱印状
当所徳政除之旨、去々年朱印雖遣之、于今一揆等相構之由、無是非題目也、弥買主任覚悟、入譴責使、可収納者也、猶木下藤吉郎可申届之状如件、
(書き下し文)
当所に徳政を除くの旨、去々年朱印をこれ遣わすといえども、今に一揆ら相構うるの由、是非無き題目なり。
いよいよ買主の覚悟に任せて、譴責使を入れ、収納すべきものなり。
猶木下藤吉郎(木下秀吉)申し届くべきの状くだんの如し。
語訳)賀茂社境内を徳政令の除外区域とする旨を、2年前にあたる元亀元年(1570)に朱印状をもって通達したが、未だに徳政一揆の残党が徳政を強訴しているというのは残念なことだ。
いよいよ買入主の決心で督促させて収納せよ。
なお、この件は木下秀吉の処理に任せる。
検断・・・けんだん
(意味)
「検」は検察してその不法を糾弾すること。
「断」は断獄(罪を裁く)すること。
中世日本における警察・治安維持・刑事裁判を総括する言葉で、論人(被告人)の取調と裁判・判決・執行までを含めた広い意味で用いられる。
(備考)
検断を行う権限を検断権、その訴訟のことを検断沙汰、その職責にあるものを検断職(けんだんしき)、裁判の結果、没収された財産のことを検断物(けんだんもつ)と呼ぶ。
『室町・戦国時代の法の世界(吉川弘文館)』によると、室町幕府の裁判の特色は、将軍(室町殿)による親裁(御前沙汰)が主流であり、特に義持・義教期には判決手続きに管領職(細川・斯波・畠山の中から)が関与する形式をとりつつ、訴人(原告)と論人(被告)との対審をふまえて裁許を下す傾向にあったようだ。
さらに御前沙汰(将軍の親裁)はおもに所領・所職をめぐる訴訟、政所(まんどころ)は執事(頭人とも)と執事代はおもに徳政令の適用・債権債務関係をめぐる訴訟(政所沙汰)、侍所(さむらいどころ)は所司(赤松・京極・山名・一色の中から)と所司代はおもに洛中の検断に関する訴訟(侍所沙汰)をそれぞれ管轄した。
各機関には奉行人(寄人)が分属し、時には兼任もあった。
例文) 『大乗院寺社雑事記』明応五年七月一日条より
昨日神人喧嘩事在之、一方死了、自衆中使等付之、檢斷云々、
(昨日神人喧嘩事これあり。一方が死におわんぬ。衆中より使等これを付け検断し云々。)
元服・・・げんぶく・げんぷく
(意味)
男子成人の儀式。
総角(あげまき)をやめ、初めて冠をかぶり、闕腋(けってき)から縫腋(ほうえき)に変わる。
古代中国の風習を模したもので、おもに公家や武家で6歳ごろから20歳ぐらいまでの男子が行った。
武家では上記の冠の代わりに烏帽子が用いられ、貴人が理髪と加冠の役に当たった。(烏帽子親)
(備考)
語源の「元」は、かしら・こうべ(頭)から。
「服」は身に着けるところからきている。
例文1) 『朽木家文書』(大永元)十二月二十六日付六角定頼書状
今度公方様御元服段銭之事、所々棟別仁申付候条、高嶋郡事同前候、委細對越中・田中申遣候間、時宜被示合、急度可被申付候、猶後藤但馬守可申候、恐々謹言、
(書き下し文)
この度公方様(足利義晴)御元服段銭の事、所々棟別に申し付け候条、高島郡(近江国高島郡)の事も同前に候。
委細に対し、越中・田中申し遣わし候間、時宜を示し合わされ、急度申し付けらるべく候。
猶後藤但馬守申すべく候。恐々謹言
例文2) 『言継卿記』永禄十一年二月八日条
高倉宰相息千菊丸今日元服、午時先罷向、理髪之具以下調之、未刻始、先公卿着座、予、源中納言、水無瀬宰相各衣冠、檜扇、持之、北面兩三人、加冠父卿別に着座、南面、次新冠出座、南面水干、次新冠着圓座、次布衣粟津式部丞、持参冠、居柳筥、次粟津肥前守烏帽子小襖、雑具置之、次同名對馬守湯摺器、居柳、置之、次極臈理髪着圓座、作法如常、次理髪先退、次加冠進髪立左、次右、三櫛宛かヽ、次復座、次理髪参進、櫛以下入之如元調之退、次本役人三人撒雑具、次新冠入廉中、於内々着冠、新眉檜扇持之、父卿再拜、次着座以下起座、次各以太刀禮申之、次三獻有之、相伴之衆予、庭田、水無瀬相公、藤相公、甘露寺、水無瀬少将、藤侍従、極臈等也、初獻雑煮、二獻吸物鯛、半予起座、今晩宣下上卿参勤之故也、三獻有之云々、
(書き下し文)
高倉宰相(高倉永相)の息千菊丸今日元服。
午の時まず罷り向かう。
理髪の具以下これを調え、未の刻に始まる。
先に公卿着座。
予、源中納言、水無瀬宰相(各々衣冠・檜扇)これを持つ。
北面に両三人、加冠父卿別に着座(南面)。
次いで新冠が出座(南面水干)。
次いで新冠円座に着く。
次いで布衣(粟津式部丞)持参の冠(柳箱)。
次いで粟津肥前守(烏帽子小襖)雑具これを置く。
次いで同名対馬守(粟津対馬守)湯摺器(柳箱)これを置く。
次いで極臈が理髪し円座に着く。
作法常の如し。
次いで理髪に先退。
次いで加冠の髪を進める。(左を立て、次に右)
三櫛ずつかヽ。
次いで復座。
次いで理髪に参進。
櫛以下これを入れ元の如くこれを調え退く。
次いで本役人三人雑が具を撒く。
次いで新冠が廉中に入る。
内々に於いて着冠、新眉檜扇これを持ち、父卿と再拝。
次いで着座以下起座。
次いで各々太刀を以って礼を申す。
次いで三献これ有り。
相伴の衆予・庭田・水無瀬相公・藤相公・甘露寺・水無瀬少将・藤侍従・極臈等なり。
初献は雑煮、二献は吸物(鯛)。
半ばに予座を起こす。
今晩宣下の上卿は参勤の故なり。
三献これ有りと云々。
※「笏(しゃく)」は貴族や陰陽師が右手に持つ板。
※宰相(さいしょう)や相公(しょうこう)は参議の唐名。
※「筥(はこ)」=箱
※極臈は六位の蔵人で年功を積んだ者。
検分・見分・・・けんぶん
(意味)
①役人などが立ち会って取り調べること。検見。
②外見。みてくれ。
検見・・・けんみ・けみ
(意味)
①物事を改めて見ること。
またはその職責にある人物。検分。
②中世の徴税法のひとつ。
秋に稲作の豊・凶の状態を調べ、年貢米の額を定めること。
例文) 『大樹寺文書』天文十六年十二月五日付松平広忠寄進状
道甫十三廻為供養、御寺近所ニ候以、真如寺領内参十貫目、永代寄進候、従此内公方年貢、大門梁田方へ従御寺弐貫五百五十文可有御納所候、但依其年体、けんミ可為次第候、田畠小日記別紙有之、作人者誰々雖為被官、被召放、御寺之可為御計候、於子々孫々、聊不可有違乱者也、仍末代之証状如件、
(書き下し文)
道甫(松平清康)十三廻の供養として、御寺近所に候以て、真如寺領のうち、三十貫目を永代寄進し候。
この内より公方年貢、同門の梁田方へ、御寺より二貫五百五十文を御納所有るべく候。
但しその年体により、検見次第たるべく候。
田畠小日記は別紙これ有り。
作人者は誰々の被官たるといえども、召し放たれ、御寺の御計いたるべく候。
子々孫々に於いて、いささかも違乱 有るべからざるものなり。
仍って末代の証状くだんの如し。
※例文中のルビは『戦国遺文 今川氏編 第1巻(東京堂出版)』によるもの。
権門・・・けんもん
(意味)権勢のある家格・門閥・官位官職を有する家、または集団を指す。
勢家(せいか・せいけ)と同義。
こ
希・庶・庶幾・乞願・請願・・・こいねがう
(意味)
強く希望すること。
心から願うこと。
切望すること。
乞い願うこと。
(備考)
「所希候」で”こいねがうところにてそうろう”と読む。
例文) 『(天正元)十一月七日付羽柴秀吉・武井夕庵連署副状(小早川家文書)』
北国之儀、被任存分付而、早々被仰越候、御懇之至、畏存之由候、在洛之条、切々可被仰通候事、所希候、猶以遠路示預候、大切存之由候、可得御意候、恐惶謹言、
(書き下し文)
北国の儀、存分に任せらるるに付きて、早々仰せ越され候。
御懇ろの至り、畏み存ずるの由に候。
在洛の条、切々仰せ通ぜらるべく候事、乞い願う所にて候。
尚もって遠路を示し預かり候。
大切に存ずるの由にて候。
御意を得るべく候。恐惶謹言。
郷・・・ごう・さと
(意味)
古代期の律令制で、「郡」の下に置かれた行政単位のこと。
もとは全国を国・郡・里(り)の3段階で編成していたが、霊亀元年(715)に令制で里を改め、新たに50戸1里で「郷」を設置。
国郡制の最末端の行政区画として機能した。
その関係から「郷」を「さと」と訓読する場合もある。
平安中期には約4000郷を数えたが、平安後期から律令制の郷制が崩壊すると、50戸1郷にこだわらない自然村落的な郷が発生。
その流れが太閤検地の村制まで続いた。
江戸期以降も多くの史料で「郷」の名が頻出するが、公領の単位としての意味は大きく失われ、単なる広域にわたる地域称にすぎない。
本項のおもな参考文献:『角川日本地名大辞典(角川書店)』
(備考)
なお、文書内に「郷次」とある場合は「ごうなみ」と読み、郷村別を意味することが多い。
「郡」と「郷」のくずし
「郷」のくずしは大きく省略された形で登場することが多い。
「次」・「口」・「々」・「候」・「而」など誤読しやすい点に注意が必要。
固有の郷名以外にも「於當郷(当郷に於いて)」と表記されることも多い。
勾引・・・こういん
(意味)人を捕らえてつれていくこと
甲乙人・甲乙仁・・・こうおつにん
(意味)
①一般庶民のこと。地下人と同じ。
②誰と限らずすべての人。貴賤上下の人。
(備考)
例文)
「令申子細於國司云々、仍甲乙人以下悉以通路不叶者也、」
(仍って甲乙人以下、通路を悉く以て叶わざるものなり。)
=誰と限らずすべての人は、街道を封鎖されて通行ができないとのことである。
『大乗院寺社雑事記(文明二年六月十二日条より抜粋)』
公儀・・・こうぎ
(意味)
①おおやけ。世間への表向き。世間の作法。
②朝廷。公方。
③幕府。将軍。
④官・役所。
(備考)
「公儀立て」とある場合は、わざわざ表沙汰にすることを意味することが多い。
例文) 『(天正元)十二月二十八日付織田信長朱印状(伊達家文書)』
仍天下之儀、如相聞候、公儀御入洛令供奉、城都被遂御安座、数年静謐之処、甲州武田、越前朝倉已下諸侯之佞人一両輩相語申、妨公儀、被企御逆心候、無是非題目、無念不少候、
(書き下し文)
仍って天下の儀、相聞こえ候如く、公儀(足利義昭)御入洛に供奉せしめ、城都に御安座を遂げられ、数年静謐のところ、甲州武田(武田信玄)、越前朝倉(朝倉義景)以下、諸侯の佞人一両輩相語らい申し、公儀を妨げ、御逆心を企てられ候。
是非無き題目、無念少なからず候。
合期・・・ごうご・がっこ
(意味)
①期日に違わぬこと。間に合うこと。
②物事が上手く事が運ぶこと。思うようになること。
(備考)
「不合期」でそれを打ち消す意味となる。
例文1) 『大乗院寺社雑事記』明応六年五月二日条より
一、小五月猿楽事、自衆中及一兩度申入之、不合期子細在之間、不可始行旨返事、
(小五月の猿楽の事。衆中より一両度に及び申し入る。不合期の子細これ在るの間、始行すべからざる旨の返事。)
※「小五月」は「小五月会(こさつきえ)」の略で、陰暦5月9日に春日社で行われる祭礼のこと。近江の日吉社でも同様の祭礼が行われている。
※「一両度」は1回・2回の意。
例文2) 『(推定天正三)五月四日付六角承禎書状(長浜城歴史博物館所蔵文書)』
「御入魂之旨、別而芳情不浅候、猶以毎事無隔心、御指南専一候、切々可申処、路次不合期故、無音所存之外候、」
(書き下し文)
御昵懇の旨、別して芳情浅からず候。
なお以て毎事隔心無く、御指南専一に候。
切々申すべきのところ、路次合期せざるの故、無音(=音信がないこと)所存の外に候。
関連記事:信長をやっつけろ!武田勝頼の快進撃に再起を賭ける六角承禎の覚悟とは
小路名・・・こうじな
(意味)
書簡で宛所を記す際、相手方の官名や姓名などを記す代わりに、その居住地を書いて敬意を表すこと。
「御在名(ございみょう)」・「所書(ところがき)」も同じ意。
(備考)
例えば武田信玄に書簡を送る際、「武田大膳大夫殿」などを記さずに「甲府殿へ」と書いて送るものが小路名にあたる。
こうすることによって、相手に直接宛てているというニュアンスが薄まる。
従って書札礼においてなかなか厚礼なものとされている。
しかしながら、さらに厚礼な出し方は、宛所に相手方の側近の名を記すことだろう。
庚申・・・こうしん・かのえさる
(意味)
60通りある干支の一つで57番目が「かのえさる」。
庚は「金の兄(かのえ)」の意で、古代中国では「更」ともいい、植物の生長が止まって新たな形に変化しようとする状態を表す。
申は呻(うめ)くという意味で、果実が成熟して固まって行く状態を表しているとされる。
のちに動物の猿が割り当てられた。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 |
甲子 | 乙丑 | 丙寅 | 丁卯 | 戊辰 | 己巳 |
きのえね | きのとうし | ひのえとら | ひのとう | つちのえたつ | つちのとみ |
7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 |
庚午 | 辛未 | 壬申 | 癸酉 | 甲戌 | 乙亥 |
かのえうま | かのとひつじ | みずのえさる | みずのととり | きのえいぬ | きのとい |
13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 |
丙子 | 丁丑 | 戊寅 | 己卯 | 庚辰 | 辛巳 |
ひのえね | ひのとうし | つちのえとら | つちのとう | かのえたつ | かのとみ |
19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 |
壬午 | 癸未 | 甲申 | 乙酉 | 丙戌 | 丁亥 |
みずのえうま | みずのとひつじ | きのえさる | きのととり | ひのえいぬ | ひのとい |
25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
戊子 | 己丑 | 庚寅 | 辛卯 | 壬辰 | 癸巳 |
つちのえね | つちのとうし | かのえとら | かのとう | みずのえたつ | みずのとみ |
31 | 32 | 33 | 34 | 35 | 36 |
甲午 | 乙未 | 丙申 | 丁酉 | 戊戌 | 己亥 |
きのえうま | きのとひつじ | ひのえさる | ひのととり | つちのえいぬ | つちのとい |
37 | 38 | 39 | 40 | 41 | 42 |
庚子 | 辛丑 | 壬寅 | 癸卯 | 甲辰 | 乙巳 |
かのえね | かのとうし | みずのえとら | みずのとう | きのえたつ | きのとみ |
43 | 44 | 45 | 46 | 47 | 48 |
丙午 | 丁未 | 戊申 | 己酉 | 庚戌 | 辛亥 |
ひのえうま | ひのとひつじ | つちのえさる | つちのととり | かのえいぬ | かのとい |
49 | 50 | 51 | 52 | 53 | 54 |
壬子 | 癸丑 | 甲寅 | 乙卯 | 丙辰 | 丁巳 |
みずのえね | みずのとうし | きのえとら | きのとう | ひのえたつ | ひのとみ |
55 | 56 | 57 | 58 | 59 | 60 |
戊午 | 己未 | 庚申 | 辛酉 | 壬戌 | 癸亥 |
つちのえうま | つちのとひつじ | かのえさる | かのととり | みずのえいぬ | みずのとい |
陰陽五行では庚は陽の金、申も陽の金で比和となる。
比和は同じ気が重なるとその気は盛んに、その結果が良い場合にはますます良く、悪い場合にはますます悪くなるそうだ。
大陸から伝わったもので、古来から庚申の年・日は金気が天地に充満して、人の心が冷酷になりやすいとされた。
翌年・(日)の辛酉(かのととり)も金性が重なり、かつ、辛(かのと)は陰の気なのでさらに悪くなるとの風習から、政変が起きやすいと警戒されている。
そのためなのか、庚申の年と辛酉の年で2年続けて改元された例もある。(特に辛酉年の改元例は非常に多い)
中国では中世にはこの風習は擦れたものの、外海を隔てた日本では強く残った。
例文) 『言継卿記』永禄十一年三月十日条より
十日、庚申、天晴、八専、
(中略)
未刻参内、昨日之細工之残仕立了、今夕御庚申に可参之由有之、暮々又参了、今日當番衆経元朝臣、橘以繼、外様藤宰相、予参御三間、碁三盤有之、田樂にて御酒盃、被下了、夜半之後御寝了、無殊事、
(書き下し文)
未の刻に参内。
昨日の細工の残りを仕立ておわんぬ。
今夕御庚申に参るべきの由これ有り。
暮々にまた参りおわんぬ。
今日当番衆の経元(甘露寺経元)朝臣、橘以継(薄以継)、外様藤宰相と予御三間に参り、碁三盤これ有り。
田楽にて御酒(盃)を下されおわんぬ。
夜半の後に御寝了。
こと無きの事。
庚申信仰(こうしんしんこう)・庚申待(こうしんまち)・庚申堂(こうしんどう)
(上記の意をふまえた上で)
道教の「三尸説(さんしせつ)」をもとに、日本風にアレンジされたいわゆる迷信の一つ。
穢れを取り入れないようにするため、庚申日での結婚が禁止されたり、その日は男女同床を控えるといった風習のこと。
その関係からかこの日結ばれてできた子供は盗人の性格があると恐れられた。
また、庚申日の夜に眠ると体から三尸虫が抜け出して、天帝にその人の悪事を告げるための天罰が下るので、眠らずに過ごす俗習を「庚申待(こうしんまち)」と呼んだ。
「庚申堂(こうしんどう)」はこうした庚申信仰に基づいて建立された仏堂のひとつで、庚申青面を祭った御堂のこと。
庚申青面も道教に由来するもので、日本の俗習(民間信仰)と合わさり、三尸を押さえる神のこと。
これらの民間信仰は江戸時代をピークに広く信じられてきたが、大正期以降は急速に衰えた。
薨・・・こうす・おわる・こうじゅ
(意味)
皇族や三位以上の高位の人物が死ぬこと。
薨去・薨世・薨逝・薨御(こうぎょ)も同じ意。
(備考)
例文1) 『公卿補任』五十
十日、壬辰、神祇大副兼右兵衛督從二位吉田兼右薨ズ、
(書き下し文)
(元亀四年一月)十日、壬辰
神祇大副兼右兵衛督従二位吉田兼右薨ず。
例文2) 『大乗院寺社雑事記』明応六年十月十四・十五日条より
十四日
一、二条關白殿、去十日葬給之由、自一乗院殿罷上者云々、珍事ゝゝ、御息二歳、
十五日
一、自難波方注進、二条殿十日早旦薨給云々、
(書き下し文)
十四日
一、二条関白殿(二条尚基)、去十日薨じ給うの由、一乗院殿より罷り上ると云々。
珍事珍事。
御息(のちの二条尹房)二歳。
十五日
一、難波方よりの注進。
二条殿、十日早旦に薨じ給うと云々。
号・・・ごうす
(意味)称する。呼ぶ。名づける。
または言いふらす・号令するの意。
巷説・・・こうせつ
(意味)
世間のうわさ。風説。取沙汰。
または世上の評判。外聞のこと。
(備考)
中世の史料では、ほかに「浮説」・「雑説」・「流説」・「風聞」などもよく登場するが、概ね同じような意味合いである。
例文) 『米沢市上杉博物館所蔵文書』(元亀四)四月十九日付結城晴朝書状
其以来依無指題目、令絶音問候、誠意外ニ候、抑如巷説者、於越州輝虎如思召、被属御本意之由、簡要此事ニ候、従越国珎說候哉、無御心元候、
(書き下し文)
それ以来指し無き題目により、音問絶えせしめ候。
誠に意外に候。
そもそも巷説の如くは、越州に於いて輝虎(上杉輝虎)思し召しの如く、御本意に属さるるの由、簡要この事に候。
従って越国珍説に候哉。
御心元無く候。
「巷」のくずしは、大きく簡略化されて「益」に似た形となるのが一般的。
「説」のくずしは、旧字である「說」に近いものが多く、やや違和感を覚える人がいるかもしれない。
なお、ごんべんはこのくずしが一般的で、旁も基本通りのため、覚えてしまえば他の字の判読に流用できる。
口銭・貢銭・・・こうせん・くちせん・くちぜに
(意味)
売買取引の仲介料。手数料のこと。
(備考)
例文) 『三国地志(上野市立図書館所蔵文書)』(推定元亀二)十二月五日付北畠具房免許状写
於黒辺・阿和曽・蛸地鋳物師家来之事、諸役従先規御免之上者、上使口銭等之儀茂罷成御用捨候、得其意鋳物師之面々共可被申聞候也、謹言、
(書き下し文)
黒辺・阿和曽・蛸地に於いて鋳物師家来の事、諸役、先規より御免の上は、上使口銭等の儀も御容赦罷り成り候。
その意を得、鋳物師の面々どもへ申し聞かさるべく候なり。謹言。
強訴・嗷訴・・・ごうそ
(意味)
徒党を組んで訴えること。
(備考)
特に中世から近世にかけて、朝廷や幕府に要求を飲ませるため、武装した僧兵や神人などが武力に訴えた行為のこと。
山門(比叡山延暦寺)の強訴などが有名である。
口達・・・こうたつ
(意味)
口頭での指示、命令
勾当・・・こうとう
(意味)
特定の官人や僧侶が、雑事をもっぱら処理すること。
また、法務を司る僧・別当の下の役、検校と座頭の間に位置する盲目の官など特別な役職を指す。
勾当内侍・・・こうとうのないし
(意味)宮中女官の四等官のうち、掌侍の第一位の者で、天皇への取次や天皇の意思伝達を役目とした。
長橋局(ながはしのつぼね)とも呼ばれた。
向後・・・こうご・きょうこう
(意味)「向後(きょうこう)」に同じ。
郡・評・・・こおり
(意味)
「郡(ぐん)」の項を参照のこと。
御画可・・・ごかくか・ごかっか
(意味)
天皇が奏聞を受けた文書に承認の意で書く「可」の文字のこと。
また、それを記す行為。
御気色・・・ごきしょく・みけしき
(意味)御気色(みけしき)の項を参照のこと。
沽却・・・こきゃく
(意味)売却すること
(備考)売券の中に登場する「沽渡進(うりわたしまいらす)」は決まり文句のようなもの。
沽却状・・・こきゃくじょう
(意味)売券に同じ。
五経・・・ごきょう
(意味)
儒学で聖人の述作として尊重する五部の経書のこと。
即ち易経・書経・詩経・春秋・礼記の五書。
五行・・・ごぎょう
(意味)
①中国古代の学説で、天地の間に運行してやまないという五代元素のこと。
即ち木・火・土・金・水をいう。五行説。
②仏界用語の一つ。
布施・持戒・忍辱・精進・止観の五つの修行のこと。五門修行。
③大陸から取り入れた古代兵法思想にによる陣立ての名。
情勢や地形に応じて、方・円・曲・直・鋭の五つの隊形を敷くこと。
実際にはどの程度運用されたのかは不明。
(備考)
①は木から火、火から土、土から金、金から水、水から木が生じるのを相生といい、木は土に、土は水に、水は火に、火は金に、金は木に剋つのを相剋という。
天と地の五行は互いに密接な連絡があり、天の現象は地の現象に影響する。
これを五行説といい、陰陽道の基本理念となっている。
古今伝授・・・こきんでんじゅ
(意味)
室町時代以後に行われた「古今集」の釈義の口伝と秘密の伝授。
美濃の東常緑が集大成して宗祇に伝えたのがはじまりといわれる。
(備考)
中でも「三木」(おがだまの木・めどの削り花・かはな草)
「三鳥」(稲負鳥・百千鳥・呼子鳥)は著名。
学問の衰えた当時の所産で、学説としてはたいした価値はない。
江戸期に入ると庶民層にも文学を親しむ者が増え始め、新たに古今和歌集の研究がなされると、次第に陳腐化した。
国衙領・・・こくがりょう
(意味)
国衙(こくが)は国司が執務する役所。国府(こくぶ)。国庁。または公領のこと。
すなわち、私領である荘園に対して、公領たる国司が直接管理する土地のこと。
古代期の律令制が破綻して以降は、墾田永年私財法によってしだいに荘園化、あるいは国司の私領と化していった。
(備考)
『角川日本地名大辞典(角川書店)』には、以下の記述がある。
古代末期~中世を通じて国家が直接的に支配した地域。国司が常住する政庁を中心に、その権力が所務権、進止権ともに完全におよぶところが基本的な国衙領である。11世紀以降、律令制の衰退とともに地方国衙の在庁官人、郡司らは公的な権限を利用しつつ自ら武士化する動きをみせ、在庁に結集しはじめた。そしてその組織を通じて農民を支配するようになった。広い意味での国衙領は彼らの共同の私領となったといえよう。国衙領の支配は名(みょう)・在家(ざいけ)を通じて国役を徴収することでなされた。そのための基準となったものが大田文(おおたぶみ)・図田帳(ずでんちょう)・田文(たぶみ)などと呼ばれる土地台帳である。これらは国衙に保存され、鎌倉幕府はこの制度を基本的に取り入れて、地方行政機構一国衙を通じて支配した。中世後期にはほとんどが有名無実化して衰退した。
竹内理三編(1978)『角川日本地名大辞典(角川書店)』より引用
国司・・・こくし
(意味)
①律令制時代の地方官。
大きく分けて守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)の職があり、戸籍・計帳の整備、租・庸・調の徴収、軍の動員などにあたった。
国の司。
転じて「国司の長官職」を指すようになり、国司の守(かみ)・国守(こくしゅ)・受領(ずりょう)などと称された。
律令制衰退以後、南北朝の動乱期を迎えると朝廷の権威は失墜する。
それに伴い、国司の制度も陳腐化。
代わって国の長官職は幕府が任命する「守護職」が担うようになった。
(備考)
律令時代、国司には中央貴族が「県召」で任命され赴任した。
任期は大宝令で6年。
平安時代は4年が一般的であった。
天長3年(826)、東国の上総・常陸・上野の三国が親王の任国となってからは、現地に赴任しないことも多くなる。
この三国では次官にあたる「介(すけ)」が政務を代行し、「かみ」と呼ばれることもある。
また、国司が治める土地を「国領(こくりょう)」と呼ぶ。
「國司ニハ守、介、掾、目ノ四等官アリ、史生等之ニ属ス、大實ノ制、諸國ヲ大、中、小ノ四等ニ分テ、介以下の吏員ニ増減ノ差アリ、又陸奥、出羽、佐渡、隠岐、壱岐、對馬ノ四國二島ヲ邊要ノ國ト稱シ、伊勢、美濃、越前ノ三國ハ、各、關門アルヲ以テ之ヲ三關國ト稱シテ、共ニ吏員諸國ト同ジカラザルモノアリ、又上総、常陸、上野ノ三國ハ、天長三年以降定メテ親王ノ任國ト爲し、其親王ハ特ニ太守ト稱シ、介ヲ或ハ守ト稱ス、建武中興ノ時、義良親王ヲ以テ陸奥太守ト爲シヽハ、盞シ其遺制ナリトモ云フ、但シコハ足利氏ノ頃ニ一時之ヲ稱セシニ過ギズ、
國司ノ名ノ史上ニ見エタルハ、仁徳天皇六十二年ニ在リト雖モ、其制度上ニ現ハレシモノハ、孝徳天皇大化新政ノ時ニシテ、其元年八月、東國ノ國司ヲ拜セシヲ始トスベシ、
國司ハ大實令ノ制ニテハ、六年ヲ以テ任限トセシガ、慶雲三年ニ四年ト爲シ、天平寶字二年復タ六年トシ、其八年ニ四年ト爲シ、大同二年ニ六年ト爲シ、其翌年ニ五年ニ改メ、弘仁六年復タ四年ト爲シ、其七年ニ五年ニ改メ、承和二年ニ邊要國ヲ除キ、其餘ヲ四年ト爲シ、爾後永ク、渝ルコトナシ、而シテ任限満チテ後、仍ホ職ニ居ルヲ延任ト云ヒ、任限満チテ後、更ニ其國國司新ニ補任セラルレバ、太政官之ヲ其国衙ノ吏ニ通知ス、
(中略)
中世以降、賜封ノ制弛ミテ、國ヲ賜フ例ヲ開ケリ、盞シ大臣、納言ハ、當時國守ヲ兼ヌルヲ得ザレバ、権リニ此制ヲ設ケ、其人ヲシテ別ニ人ヲ推擧セシメ、其俸禄ノミヲ得シムルナラン、是介掾等ノ官ヲ賜ヒテ、以テ人ニ付與スルヲ云フ、而シテ其付與ヲ受ケテ職ニ蒞マザルヲ揚名ノ介掾ト云フ、即チ有名無實ノ謂ナリ、然レドモ國守ヲ以テ付與スルコトハナカリシヲ、賜國ノ制行ハルヽニ至リ、名國司、名代國司ト云フモノヲ生ゼリ、即チ揚名守ナリ、ナホ國司ノ事ハ、政治部ニ關係スルモノ少カラズ、彼ニ詳ニシテ此ニ略セルモノ多シ、・・・」
『古事類苑』官位部二より引用
守・・・かみ
介・・・すけ
掾・・・じょう
目・・・さかん
稱・・・称
渝・・・変
擧・・・挙
與・・・与
蒞・・・望
国宣・・・こくせん
(意味)
国司が国内に下す公文書のこと。
国司庁宣。
(備考)
基本的には御教書として奉書の形式をとり、国務を代行する任国の執政者へ下されることが多かった。
書留文言には「国宣所候也(こくせんそうろうところなり)」や「依国宣執達如件(よってこくせんしったつくだんのごとし)」などと記される特徴がある。
虎口・・・こぐち
(意味)
城砦や陣営などのもっとも要所となる出入り口のこと。
猛虎の牙に例えた呼び方。
国府・・・こくぶ
(意味)
律令時代、国ごとに置かれた地方官の役所。府中。庁のこと。
⇒「国司」を参照のこと。
国分寺・・・こくぶんじ
(意味)
聖武天皇の天平13年(741)に国家安穏の祈願のため、国ごとに建てられた寺のこと。
正式には僧寺を「金光明四天王護国之寺」、尼寺を「法華滅罪之寺」といい、国内の僧尼を監督する役目を担った。
奈良東大寺を総国分寺とする。
例文) 『大乗院寺社雑事記』明応七年三月六日条より
一、東大寺國分寺門破損崩、珍事前表相也、昨日事也、卯剋雷電了、
(書き下し文)
東大寺国分寺の門、破損し崩れる。
珍事の前表相なり。
昨日の事なり。
卯の刻に雷電しおわんぬ。
国民・・・こくみん
(意味)
在地土豪、地侍のこと。
特に大和国興福寺や春日社の在地武士で、末社の神主であったものを指す。
僧兵である衆徒と合わせて衆徒国民と呼んだ。
(備考)
例文) 『大乗院寺社雑事記』明応四年三月十日条より
來十六日譽田屋形可進發紀州云々、越智・古市・番条以下衆徒・國民悉以自身可罷立旨相觸之、山城衆同前、以外大邊也、屋形ハ自元自去年出陣分也、
(書き下し文)
来たる十六日、誉田屋形(畠山義豊)、紀州(畠山尚順陣営)へ進発すべしと云々。
越智・古市・番条以下の衆徒・国民ことごとく以て自身が罷り立つべきの旨を相触れる。
山城衆も同前、もってのほか大変なり。
屋形(義豊)は元より去年より出陣分なり。
爰元・爰許・・・ここもと
(意味)
こちら、当方、わたくしの方。
または身近なあたり。すぐ近くのことを指す。
(備考)相手方のことを其許(そこもと)などと呼ぶ。
例文1) 『林文書』(天正元)八月十日付織田信長書状
就在陣御所畏入候、殊一面十帖拝領、寔御懇情之至候、爰元開隙候者、可為上洛之条、万端其節可申展候、御用之事不可存疎意候、此旨洩可有披露候、恐々謹言、
(書き下し文)
在陣に就きて御書畏み入り候。
殊に一面・十帖拝領、誠に御懇情の至りに候。
ここもと暇が明け候はば、上洛たるべきの条、万端その節申し述ぶべく候。
御用の事は疎意に存ずべからず候。
この旨洩し披露あるべく候。恐々謹言。
例文2) 『顕如上人御書札案留』(元亀二)八月十五日付(浅井長政宛)
就中其近所敵對城之體調略等察申候、爰許無異子細候、若於有替事者、態可啓達候、
(書き下し文)
就中その近所敵対城の体、調略等察し申し候。
爰元の子細異なり無きに候。
もし替事有るに於いては、わざと啓達すべく候。
巨細・・・こさい
(意味)
細大もらさず詳しいこと。
詳細。委細。委曲。一部始終。
(備考)
中世の書状では「委細は誰々が申し述べますので、巨細の記述は省略します(詳しくは書きません)」と文章を締めることが多い。
例文1) 『(元亀四)三月七日付織田信長黒印状(細川家文書)』
中嶋之儀、去廿七日ニ退城之由、さてもゝゝゝおしき事ニ候、公方所為ゆへニ候、右京兆御心中令察候、質物出ニ付てハ進上候て尤候、猶巨細口上ニ申渉候、
(書き下し文)
中嶋(摂津国中嶋)の儀、去二十七日に退城の由、さてもさても惜しき事に候。
公方(足利義昭)の所為ゆえに候。
右京兆(細川昭元)の御心中察せしめ候。
質物(=人質)を出すに付きては、進上候てもっともに候。
なお、巨細口上に申し渡し候。
例文2) 『(文禄五)九月七日付小早川隆景書状(東京大学史料編纂所所蔵文書)』
定治少ゟ彼是具可被申入候へ共、如此候趣、可為御存之条、不能巨細候、随而拙者事、昨日御暇被下、早々罷下心安可致養生之由候間、忝存候、
(書き下し文)
定めて治少(石田三成)より、かれこれつぶさに申し入れらるべきに候へども、かくの如くに候おもむき、御存知たるべきの条、巨細にあたわず候。
従って拙者の事、昨日御暇を下され、早々に罷り下り心安く養生致すべき由に候間、忝く存じ候。
「巨」が特に難読。
究極にくずされると原型をとどめず、1文字に見えない場合もある。
「細」はこのくずしが基本形。
「使者が直接あなたに申し述べますので詳細な記述は省きます」
書簡の文脈を理解すれば「巨細」はある程度推測が可能である。
御在名・・・ございみょう
(意味)
「小路名」の項を参照のこと。
五三日・・・ごさんにち
(意味)数日間の意。
故障・拒障・拒請・・・こしょう
(意味)
①物事が行われる際にさしつかえがあること。妨げ。障害。
②不服を申し立てること。異儀と唱えること。拒否。
③気に入らないこと。嫌だと思うこと。
④他からの要請を辞退すること。
(備考)
例文) 『言継卿記』永禄十一年二月十一日条より
富田へ供澤路隼人佑召寄申付之處、妻煩之由申故障了、路中調之事者可申付之由申、然者大澤右兵衛大夫に申付了、但可隋天氣也、
(書き下し文)
富田へ供澤路隼人佑を召し寄せを申し付くるのところ、妻煩いの由を申し故障しおわんぬ。
路中を調うるの事は申し付くるべきの由を申す。
然らば大澤右兵衛大夫に申し付けおわんぬ。
但し天気に従うべくなり。
拵・・・こしらえ
(意味)
①構える。造る。
②準備する。用意。
③身支度を整える。身なり。
④和睦をすること。
和睦の調停役として奔走すること。拵手(こしらえて)のこと。
⑤日本刀の外装部分。
(備考)
中古では「慰(こしら)ふ」・「喩(こしら)ふ」といい、多くはなだめる。とりなす。取り繕う。あざむきを誘う。さとして誘うといった意味で用いられていた。
それが次第に拡大的に解釈され、中世では上記の意味合いに変化したと考えらえる。
⑤の刀の外装部分を指すこしらえも、もとは装飾するところからきているのだろう。
例文1)『松平奥平家古文書写』(元亀四)七月七日付長坂光堅書状写
始衆山県、典厩事、過半駿州へ出陣、地利普請最中ニも、諸事令期来信之時候、恐々謹言、
追而山三兵就御普請、駿州へ出陣候間、釣閑斎無御拵候、道紋へも此由頼入候、以上、
(書き下し文)
始衆の山県(山県昌景)・典厩(武田信豊)の事、過半が駿州へ出陣。
地利の普請最中にも、諸事これ来信を期せしむ時に候。恐々謹言
追って山三兵(山県昌景)御普請に就き、駿州へ出陣に候間、釣閑斎(長坂光堅)御拵え無く候。
道紋(奥平定勝)へもこの由頼み入り候。以上
※ここでは用意が十分ではないことを指すのだろう。
例文2) 『革島文書』(天正元)九月二十八日付滝川一益副状
芳墨拜領候、仍革嶋知行之儀申聞候、如此申拵候段、失面目候、然者、重而朱印遣候条、自然猥ニ彼知へ不謂儀被申懸候はヽ、可有成敗之由候、其分可被仰付候、恐々謹言
(書き下し文)
芳墨拝領し候。
仍って革嶋(革島秀存)知行の儀申し聞かせ候。
かくの如くに申し拵え候段、面目を失い候。
然らば重ねて朱印を遣わし候条、自然 みだりにかの地へ言われざる儀を申し懸けられ候はば、成敗あるべきの由に候。
その分仰せ付けらるべく候。恐々謹言
※ここでは取り繕う、あるいは(長岡藤孝が)適当なことを上申したことを指すのだろう。
例文3) 『信長公記』巻五 奇妙様御具足初尓虎御前山御要害事 より
七月廿四日 草野之谷是又放火候、幷尓大吉寺と申して高山能搆五十坊の所候、近里近郷の百姓等、當山へ取上候、前者嶮難のほり難きに依て麓を襲ハせ、夜中より 木下藤吉郎、丹羽五郎左衛門うしろ山續尓攻上、一揆僧俗數多切捨られ、海上者打下の 林與次左衛門、 明智十兵衞、 堅田之 猪飼野甚介、 山岡玉林、馬場孫次郎居初又二郎被仰付、圍舟を拵、 海津浦、 鹽津浦、與語之入海、江北之敵地焼拂、竹生島へ舟を寄、火屋、大筒、鐵炮を以て被攻候、
(書き下し文)
(元亀3年)七月二十四日 草野の谷、これまた放火し候。
並びに大吉寺と申して、高山のよき構え、五十坊の所に候。
近里近郷の百姓等、当山へ取り上り候。
前者は険難のぼり難きによりて麓を襲わせ、夜中より木下藤吉郎(木下秀吉)・丹羽五郎左衛門(丹羽長秀)、後ろ山続きに攻め上げ、一揆僧俗数多斬り捨てられ、海上は打ち下ろしの林与次左衛門(員清)・明智十兵衛(明智光秀)・堅田の猪飼野甚介(猪飼昇貞)・山岡玉林(山岡景猶)・馬場孫次郎・居初又二郎に仰せ付けられ、囲い舟を拵え、海津浦・塩津浦・余呉の入海・江北の敵地を焼き払い、竹生島へ舟を寄せ、火矢・大筒・鉄砲を以て攻められ候。
※ここでは製造し、それを運用したことを指すのだろう。
例文4) 『多聞院日記』元亀二年八月四日条
從信貴城久秀・河州大夫殿人數同道ニテ、今日午刻ニ於大安寺著陳、昨日辰市ニ拵タル城へ取寄、酉上刻ニ及一戦、筒井・郡山兩方ヨリ後詰沙汰、城州敗軍了、
(書き下し文)
信貴山城より久秀(松永久秀)、河州大夫(三好義継)殿の人数同道にて、今日午の刻に於いて大安寺に着陣。
昨日辰市に拵えたる城へ取り寄せ、酉の上刻に一戦に及ぶ。
筒井・郡山両方より後詰の沙汰、城州(松永久秀)敗軍しおわんぬ。
※ここでは築いた要害を指すのだろう。
五摂家・・・ごせっけ
(意味)「摂家(せっけ)」の項を参照のこと。
御左右・・・ごそう
(意味)
「左右」に接頭語をつけたもので、御命令、御指図のこと。
または貴人からの書簡を指す。
(備考)
「一左右(いっそう)」や「吉左右(きっそう)」など、左右には下知を意味する面白い表現がいくつかある。
御体御占・・・ごたいのみうら
(意味)
天皇の体の平安について占う神祇官の年中行事。
6月と12月の1日から官に籠もり、9日に儀式を終える。
その結果を翌10日に行うが、これを「御体御占の奏」と呼ぶ。
事書・・・ことがき
(意味)
①箇条書き。
(一、・・・之事)などと記す形式。
②和歌の初めに詠んだ趣意を書いたことば。
詞書(ことばがき)、題詞、言書(ことがき)のこと。
事切・・・こときれ・ことぎれ
①事が終わること。
きまりがつくこと。結着。
②命が絶えること。死ぬこと。
③盟約が破棄されること。
関係が終わること。
(備考)
③も、もとは「事切(こときる)」という動詞からきている。
例文) 『米沢市上杉博物館所蔵文書』(元亀元)十月八日付徳川家康起請文
敬白起請文
(中略)
一、信長・輝虎御入魂之様ニ、涯分可令意見候、甲・尾縁談之儀も、事切候様ニ令可諷諫候事、
(書き下し文)
敬白 起請文
(中略)
甲・尾(武田-織田)縁談の儀も、事切れ候ように、諷諫せしむべく候事。
語訳)武田信玄・織田信長間で進められている縁談話も、破談となるように、遠まわしにいさめるように工作します。
悉・尽・・・ことごとく
(意味)
①全部。すべて。残らず。悉皆(しっかい)。
②非常に。まったく。
(備考)
語源は「事事」から。
しかしながら、「事事」は「事」と「事」を1つ1つ別々に意識して用いた語なのに対して、「ことごとく」は、すべてをひっくるめて用いた語という違いがある。
両者とももっぱら漢文訓読で多く用い、源氏物語を除く和文調の文体の作品には見られない。
例文) 『信長公記』巻六より
去程ニ京都静原山尓楯籠御敵 山本對馬 明智十兵衛 調略を以て生害させ、頸を北伊勢 東別所まて持來進上爲御敵者悉属、御存分御威光不申足、
(書き下し文)
去程にに京都静原山に立て籠もる御敵・山本対馬、明智十兵衛(明智光秀)が調略を以て生害させ、首を北伊勢の東別府まで持ち来たり進上と為す。
御敵は悉く属し、御存分に御威光申し足りず。
如・・・ごとし・ごとく・ごとき・ごと
(意味)
①ある一つのことが他の事と同様であること。同等なこと。
例)「前々の如く全く領知せしむべし。」
②ある一つのことが他の事と似ていること。~のようだ。
例)「動かざること山の如し。」
③ある事物を比較して、その通りになること。~のようだ。
また、多くの中から例としていくつかとりあげること。例示を表す。例えば。
例)「さてもさてもかくの如きのていたらく、不慮の次第に候。」
④不確定な断定を表す。~らしい。ごと。
(備考)
「如(ごと)」と「事(こと)」の語源はともに「同じ」からきている。
それに形容詞を作る接尾語「し」が付き「如(ごとし)」が生まれた。
古代期、「如(ごとし)」は漢文訓読系の文章に専用された。
一方、和文では語幹である「如(ごと)」の形が用いらるといった差異があった。
※古代期でも「如(ごと)」より「やうなり」の形の方が用例は多い。
なお、中世の古文書では「任本知之旨、如前々領知不可有相違之状如件、(本知の旨に任せ、前々の如く領知、相違あるべからざるの状くだんの如し。)」など頻繁に登場する語である。
理・・・ことわり
(意味)道理、筋道。理屈、説明、または理由。
断・・・ことわり
(意味)ことわること、または報告
御内書・・・ごないしょ
(意味)室町幕府の将軍が発給した書状の一種。
元来は従三位以上の高貴な人物が発給する御教書(みぎょうしょ)が公的な文書(書下(あるいは下知状)だったのに対し、御内書は若干カジュアルで私的な書状であった。
時代が進むにつれてその区別が薄れ、やがて御内書も側近の副状(そえじょう)が付されて公的なものへと変化していった。
なお、戦国期は将軍が分裂していた時期もあり、一方がもう一方を将軍として認めず、それぞれが御内書を発給することもあった。
(備考)
天皇が発給する綸旨にも同じことが言えると思うが、発給の手続きが簡便かつ守備範囲の広い形態こそが、やがて公式なものへと変化するものなのだろう。
例文) 『大乗院寺社雑事記』明応五年四月二十八日条より
唐舟三艘當年可歸朝也、各和泉堺地下人一万貫雑物積之、三倍四倍ニ可成之間、三艘ハ數万貫足也、自越中御所大内・大友・嶋津三人ニ爲兵粮米一艘宛被下之、罷上可致運(軍)忠旨、以御内書被仰出、各畏入旨申入御請、其御使春行房定寛也、爲事實者商人共可爲迷惑者也、不思儀ゝゝゝ事也、
(書き下し文)
唐舟三艘、当年帰朝すべしなり。
各々和泉・堺の地下人、一万貫の雑物を積み、三倍四倍に成すべきの間、三艘は数万貫足らずなり。
越中御所(足利義材)より大内(大内義興)・大友(大友政親・義右父子)・島津(島津忠昌)の三人に兵糧米として一艘ずつこれを下され、罷り上り軍忠致すべきの旨、御内書を以て仰せ出さる。
各々畏み入りて、(その)旨御請け申す。
その御使、春行房定寛なり。
事実としては商人ども迷惑たるべくものなり。不思議不思議の事なり。
此方・・・こなた
(意味) こちら、当方、自分のこと。
爰元(ここもと)と同義。
(備考)相手方のことを其方(そなた・そのほう)あるいは其許(そこもと)などと呼ぶ。
あちらは彼方(かなた)。
以来・以降・以還・・・このかた
(意味)過去から現在までの間。今の今まで。
児手柏・・・このてがしわ
(意味)
意図が不明であること。
表裏があり、どちらに転ぶか不明であること。
(備考)
語源はヒノキ科の常緑樹である児手柏(コノテガシワ)から。
大陸原産の植物であるが、日本でも万葉集をはじめとする和歌に登場する。
コノテガシワの葉の表裏が判別しにくいことが由来である。
例文) 『足利季世記』
松山彦十郎・同安芸守、中村新兵衛ハ、日比松永ト一味シ、起請文ヲ書テ弐アラシト約束アリケル、其ノ中ニ松山彦十郎尼崎エ下リケルカ、松山方伊丹大和守親興ト一味シ、彼カ聟ニ成、又敵ニ成リケル、誠ニ児手柏ノニ表哉ト人皆笑ヒケル、
(書き下し文)
松山彦十郎・同安芸守、中村新兵衛は、日ごろ松永(松永久秀)と一味し、起請文を書きて二(心)とあらじと約束ありける。
その中に、松山彦十郎尼崎へ下りけるが、松山方、伊丹大和守親興と一味し、彼が聟に成り、また敵に成りける。
誠に児手柏の二表(ふたおもて)かなと人は皆笑いける。
此則者・此時者・・・このときんば
(意味)
この時には。この場合には。
(備考)
「時には」の撥音便で、おもに漢文体の接続助詞として用いられた。
「則」一字で「ときんば」と訓読する場合もある。
「則」の字は中世以降に「とき」と訓読されるようにようになった。
また、「時」は異体字である「时」と記される場合もある。
護符・・・ごふ
(意味)
神仏の加護によって人を災いから守る力がこめられた札のこと。
紙片にまじない事や神仏の名、像を書いたもので身に付けていたり、飲んだりする。
不思議な力を持つ札ということで「霊符」といわれることもある。
(備考)
護符の種類としては火難除け・水難除け・剣難除け・厄病除け・安産のお守りなどがあるが、現在では交通安全や合格祈願の方が一般的か。
護符の起源は、寺院や陰陽師が信者に配っていた符咒であろうといわれ、神社で作って授与されるようになったのは、かなりあとの鎌倉期頃からである。
護符自体も現在は紙片が一般的だが、かつては木扁が主流であった。
因茲、是由・・・これにより、これによりて
(意味)このことによって。こういうわけだから。隣の中国では今日でも用いられている
之・是・此・・・これ
(意味)
話し手にもっとも近い人や物に対する語で、「ここに」・「こちらに」を意味する。
日本では大陸から伝わった漢文を訓読する際、「之」「惟」などを直訳するために、助字的な意味で用いられた。
他に一人称として用いる自分自身、あるいは身内を指すために用いられた。
「有之」・「在之」・「有是」・「在是」・「有此」・「在此」これらは全て「これあり」または「これある」と読む。
逆に「無之」などでこれなしと読む。
- 「彼是・彼此(かれこれ)」でとやかく、いろいろ、大体。
- 「是迄・此迄(これまで)」で今まで、この時まで。
- 「これぞこの」でこれすなわち、これが例の。
- 「これやこの」は軽い疑いを含む詠嘆のニュアンスを含んだ語。
- 「これはしたり」や「これはさて」などは驚いた際に用いる語。「これ」に特別な意味はない。
(備考)
このように、文章として用いる「これ」自体には特別深い意味はない場合も多い。
読み下す際も「これ」はあえて読まない方が日本語して適切である場合もある。
また、「之」は「~の」と読む場合も多いので注意が必要である。
例文1) 『大乗院寺社雑事記』明応五年三月十四日条より
如此惡行ハ定而修學者中之可為所行者也、近日神ヲモ佛ヲモ不知輩在之、末代至極、
(かくのごとき悪行は、定めて修学者中の所行たるべきものなり。近日神をも仏をも知らず輩これあり。末代至極。)
例文2) 『(天正元)十月十九日付鳥屋尾満栄書状(太田家古文書)』
日夜御会合無疎略之通、令存知候、雖然遅々段不可然候、彼舟之儀者、先刻自我等も相届、荷物無之由被申候、急々板・材木其外入可申道具船中江入被置、明日にも此船出シ申度候、
(書き下し文)
日夜の御会合、疎略無きの通りと存ぜじめ候。
然れども遅々の段、然るべからず候。
かの舟の儀は、先刻我等よりも相届け、荷物これ無きの由と申され候。
急々と板・材木そのほか入れ申すべく、道具を船中へ入れ置かれ、明日にもこの船出し申したく候。
例文3) 『(天正元)十月二十八日付一色藤長書状(別本士林証文)』
態令啓達候、抑御退座以來早々可致言上之處、冤角罷過非所存候、仍就御入洛之御儀、對信長申遣之候之條、於被成御許容者、可爲都鄙安泰之基候哉、
(書き下し文)
わざと啓達せしめ候。
そもそも御退座以来、早々に言上致すべきのところ、とかく罷り過ぎ所存にあらず候。
仍って御入洛の御儀に就きて、信長に対し(これを)申し遣わし候の条、御許容なさるるに於いては、都鄙安泰の基たるべきの候や。
例文4 『(元亀三)二月八日付武井夕庵書状(観音寺文書)』
友閑腫物煩ニ付て、其方ニ候外教くすし早々被遣之様ニと殿様直々御折帋被遣候、于今其御返事無之、くすしも不被越候、如何なる御事候哉、早々御越あるやう、夫丸、馬之事ハ佐甚九へ成共、貴所御馳走候て成共、被仰付候て、早々御越待申候、恐々謹言、
(書き下し文)
友閑(松井友閑)腫物煩いに付きて、その方に候外教(キリスト教)くすし、早々に遣わさるるの様にと、殿様(織田信長)直々御折紙を遣わされ候。
今にその御返事これ無く、くすしも越されず候。
如何なる御事に候や。
早々御越しあるよう、夫丸・馬の事は、佐甚九(佐久間信栄)へなりとも、貴所御馳走候てなりとも仰せ付けられ候て、早々御越し待ち申し候。恐々謹言。
不可過之・・・これにすぐべからず
(意味)「不可過」の項を参照のこと。例文もそちらに。
依之・自是・自爾・・・これより
(意味)これ以降は。これよりのち。
(備考)
例文) 『大乗院寺社雑事記』明応四年十月十五日条より
佛地院増地事、自丑寅方催促之、自是可返事之由、以口状仰了、
(仏地院増地の事。丑寅方より催促。これより返事すべきの由、口上を以て仰ぎおわんぬ。)
此等・・・これら
(意味)これらの、これらの事柄は
悉之・悉之如件・・・これをつくせ・これをつくせくだんのごとし
(意味)奉書形式の書札礼によく見られる書留文言のひとつ。
綸旨によく見られる書留文言。
書状でいう「恐々謹言」、御教書では「仍執達如件」、下文(くだしぶみ)では「以下」となる場合が多い。
(備考)
例としては少々時代が古いが、戦国時代も概ねこのような用い方をしている。
『越前島津家旧蔵文書(後醍醐天皇綸旨)』釈文(元弘三年(1333)十一月八日付)
(書き下し文)
播磨国下揖保東方地頭職、周防又五郎入道覚善に当知行し、相違有るべからず。
てえれば、天気かくのごとし。これをつくせ。以て状す。
元弘三年十一月八日 宮内卿(花押)
御廉中・・・ごれんちゅう
(意味)「御台」の項を参照のこと。
捆意・・・こんい
(意味)心を込めること。誠意。
懇望・・・こんもう・こんぼう
(意味)
強く願うこと。
切に願うこと。
切望。懇願。懇請。哀願。
(備考)
例文1) 『大乗院寺社雑事記』応仁二年十二月三日条より
定源房來、榼一荷・両種持参、自萩原庄只今上洛、自伊勢國司方就懇望色々物云在之、
(書き下し文)
定源房来たる。
樽一荷・両種を持参。
萩原庄よりただ今上洛。
伊勢国司(北畠教具)方よりの懇望に就きて色々物言いこれ在り。
例文2) 『言継卿記』永禄十年九月二十二日条より
勅使廿七日に参向、予可登山之由被申候、連々種々雖故障候、別而懇望之間、可隨體之由返答了、
(書き下し文)
勅使(中御門)二十七日に参向。
予に登山すべしとの由を申され候。
連々種々故障候といえども、別して懇望の間、従うべくの体の由を返答しおわんぬ。