【古文書入門】解読の基本を織田信長の書状から学ぶ

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【古文書入門】解読の基本を織田信長の書状から学ぶ
らいそくちゃん
らいそくちゃん

今回の記事は、戦国古文書解読の基本を、永禄13年(1570)3月に織田信長が毛利輝元へ宛てた書状を題材にして説明するものです。
古文書自体の文字数はさほど多くありません。
どの字も典型的なくずし方をしているため、古文書解読の勉強をしはじめた方にはちょうど良い史料です。
ある程度読める方も、腕試しにしてみてはいかがでしょうか^^

戦国時代古文書の基本

 戦国時代の古文書は、やはり「~に候」で終わる候文そうろうぶんが特徴的でしょう。
他にも、現在の日本語では理解し難いような独特な言い回しが多く出てきます。
従って、古文書を読めるようになるには、この時代の文化や風習をある程度理解する必要があります。

さらに古文書を難しくしているのが、日本語とは語順が異なる漢文チックな文章でしょう。
例:「仍如件」=「ってくだんの如し」

しかしながら、当サイトで扱うような戦国時代の外交文書もんじょには、似たような文言が多く登場するため、パターンを覚えてしまえばしだいに読めるようになります。

初めから一気に覚えようと気負わず、クイズ感覚で楽しんで学習するのが良いでしょう。

さて、今回紹介する史料も戦国時代の外交文書です。
どの字も基本通りのくずしをしているため、教材としては申し分ないものだと思います。
ある程度古文書が読める方は、腕試しにしてみてはいかがでしょうか。

信長が毛利輝元へ宛てた書状を解読

原文

織田信長が永禄13年に毛利輝元へ宛てた書状(三月二十三日付織田信長書状)

(永禄十三年)三月二十三日付織田信長書状(毛利博物館所蔵)

今回の書状は織田信長が安芸の戦国大名毛利輝元へ宛てた書状です。
年次が記されていませんが、信長の花押の形状(永禄12年(1569)~元亀2年(1571))や書状の内容から見て、永禄13年(1570)のもので間違いないでしょう。

本状のように、この時代の外交文書には年次が記されていないケースが多々あります。
なお、この数日後の4月に元号が元亀へと改まりました。

古文書を学習中の方は釈文を見る前に、読めた字を紙に書いてみると良いでしょう。

釈文

 官途之儀、被任
右衛門督候、依之被成
下  御内書候、尤御
面目之至、珍重候、
連々可被抽忠莭
事簡要候、恐々謹言

 三月廿三日 信長(花押)
  毛利少輔太郎殿

       進之候

この書状を朗読させてみました。
再生ボタンを押すと音声が流れます。(スマホも可)

『VOICEROID+ 結月ゆかり EX』(株式会社AHS)

補足

(1)被任右衛門督候、

被任右衛門督候、

これは漢文が混じったもので難しいかもしれませんが、右衛門督うえもんのかみから読み、任→被と戻ってから最後に候となります。
即ち「うえもんのかみに任ぜられ候」と読みます。

このように、返って読む文字のことを返読文字といい、動詞などがそれになる場合があります。
返読文字の詳細は後述します。

この7文字の中で、恐らく「任」と「右」は読めたと思います。
右衛門は人物名で非常によく出るため、このようにくずしがひどくなる傾向にあります。

「被」のくずしはこれはまだ甘い方で、さらにくずされるとひらがなの「ら」のようになります。

「候」も今回の文書で多く登場しますが、さらにくずされると「、」だけで表現されることが多いです。

「被」と「候」のくずし方

なお、右衛門督(うえもんのかみ)とはもともと朝廷から任官される官職のひとつで、右衛門府の長官職となり、従四位下じゅしいのげ相当のポストでした。

(2)依之被成下 御内書候、

依之被成下 御内書候、

日本語の語順に直すと
之依 御内書成下被候、=これにり、御内書ごないしょを成し下され候と読みます。

先にも登場した「被」の字が出てきましたね。
しかし、今回はひらがなの「ら」に似たくずしになっています。
~なさる、~せらる、といったような受け身をあらわす文字で、古文書では頻繁に登場します。

「依之」と書いて”これにより”です。
古文書にはこのようなセルフ送り仮名もよく用いられました。

闕字(けつじ)御内書(ごないしょ)に関しては後述します。

(3)5行目の可被抽忠節事、

可被抽忠節事、

これも漢文風となっているため、語順を組み替えて読まないと意味が通じません。
この場合、「忠節」から読みはじめ、抽→被→可と順に返り、最後に「事」と読みます。
すなわち、忠節を抽(ぬき)んで被(らる)可(べき)事、となります。

「可」の字は墨がかすれているため、非常に読みずらいですね。
前の文字の「、」があるため、不申抽忠節・・・と誤読してしまいそうです。
しかしながら、それでは意味が通じないため、「可被」と読む必要があります。

「抽」の字は現在ではほぼ使いませんが、昔はそれなりに使われました。
意味は”抜きんでる”と同じです。

「節」のくずしは難解ですね。
実はこれは異体字の「莭」をくずした文字なので、たけかんむりではなく、くさかんむりとなっているのです。
古文書にはこうした異体字や旧字体もよく出ます。

(4)6行目の簡要候、

簡要候、

簡のたけかんむりは、これが典型的なくずしです。
下部の間も、もんがまえが潰れてこのようになるのがよくあるパターンです。
読み下すと「簡要に候。」となり、現在の肝要と同じ意味です。
つまり、(幕府に対して)忠節を尽くすことが重要であると説いています。

(5)恐々謹言進之候

恐々謹言・進之候

6行目の「恐々謹言」は”きょうきょうきんげん”と読みます。
これは書留文言(かきとめもんごん)というもので、現在の敬具や草々にあたります。

最後の行の「進之候」は”しんじそうろう”と読み、脇付(わきづけ)部分にあたります。
脇付部分以外にこの文言が入ると、”これをまいらせ候”と読むので、少しややこしいですね(^^;)
こちらは贈り物を送る場合などに用いられるワードです。

関連記事:戦国時代の外交文書のルールとしきたり ポイントは礼儀の厚薄にあり

8行目の毛利少輔太郎については後述します。

原文に釈文を記してみた

織田信長が永禄13年に毛利輝元へ宛てた書状(三月二十三日付織田信長書状)+釈文

(永禄十三年)三月二十三日付織田信長書状+釈文

書き下し文

 官途の儀、右衛門督うえもんのかみに任ぜられ候。
これにより、
御内書ごないしょを成し下され候。
もっとも御面目の至り珍重に候。
連々れんれん忠節を抜きんでらるべき事、肝要に候。
恐々謹言。

 三月二十三日 信長(花押)
  毛利少輔太郎殿(毛利輝元)

       進之候

原文に書き下し文を記してみた

織田信長が永禄13年に毛利輝元へ宛てた書状(三月二十三日付織田信長書状)+書き下し文

(永禄十三年)三月二十三日付織田信長書状+書き下し文

現代語訳

 毛利殿の官途の件は奏上の結果、右衛門督に任ぜられました。
取り急ぎ、将軍義昭公からの御内書がそちらに送られます。
とても異例のことなので、あなたもさぞかし面目が保てることでしょう。
今後もより一層、幕府に忠節を尽くされることが肝要です。
   敬具

 1570年3月23日  信長(花押)
  毛利輝元殿

返読文字とは

 この当時の外交文書の多くは漢文形式で記されていることが多いです。
従って返読へんどく文字として、文字を返って読む場合があります。
私たちが中学や高校で習ったレ点や一二点の箇所がそれにあたります。
当時の教養ある人たちは、そのようなものがなくても読めていました。
私たち現代人は慣れていないので、読むのが難しいかもしれません。
しかしながら、返読する漢字は一おおよそ決まっています。

すなわち

動詞っぽい単語
可・・・ベク・ベキ ~すべき
被・・・ラレ・ラル ~される (受け身)
令・・・シム・セシメ (命令形)
遣・・・ツカワス・ツカワシ 派遣する
尽・・・ツクス・ツクシ 尽力する
など

有り 無し 多い 少ない 肯定 打ち消し
有・・・アリ・アル 有る
無・・・ナシ・ナク 無い
不・・・フ・ス・ズ ~にあらず(否定形)
多・・・オオイ・オオク・オオキ 多い
少・・・スクナク・スクナキ 少ない
など

前置きに用いる単語・文と文を繋ぐ単語
従・・・ヨッテ 従って
然而・・・シカシテ しかし
以・・・モッテ ~をもって(前提を示す)
若・・・モシ 仮に
尤・・・モットモ 道理に、ただし
剰・・・アマツサエ その上、それだけでなく
為・・・タメ、ナス、ナシ、タル ~のため、~となす
雖・・・イエドモ ~だけども
など

関連記事:古文書解読の基本的な事 返読文字によくある傾向を実際の古文書を例に説明

しかしながら、これらの文字も必ずしも返読文字になるわけではありません。
史料によってまちまちなところがあるので、そこは文脈から判断する必要があります。

闕字とは何か

 今回の古文書を再びご覧ください。

織田信長が永禄13年に毛利輝元へ宛てた書状(三月二十三日付織田信長書状)

(永禄十三年)三月二十三日付織田信長書状(毛利博物館所蔵)

3行目の文字の羅列に違和感を感じませんか。
下( 空白 )御内書候、尤御
となっていて、ここだけ不自然な空白があります。

闕字とは何か

これが闕字(けつじ)というもので、上の立場の人物に対して、敬意を表しているのです。
この場合は、御内書の直前に空白がありますので、時の室町幕府15代将軍足利義昭が出した書状に対して敬意を払っているのです。

つまり、異例にも将軍足利義昭公から、あなたへ御内書が送られます。
あなたもさぞかし面目が保てることでしょう。
となります。

これは将軍足利義昭の副状だった

 副状(そえじょう)とは、文字通りサブの書状ということで、メインの書状。
つまり、足利義昭が出した御内書ごないしょがメインにあったはずです。

今回の書状は毛利氏が受け取ったものなので、今日でも毛利博物館が所蔵していますが、残念ながら足利義昭が出した御内書の方は残っていません。

この時代の外交文書は、メインの書状だけでは成り立ちませんでした。
発給者に近い人物の副状そえじょうがなければ、正式な外交文書とは認められなかったのです。

なぜ副状が必要だったのかというと、発給者と宛先の間を取り持った取次。つまり橋渡し役となった人物(この場合は織田信長)がこの案件に賛同し、発給者と同じ考えであることを保証するためです。

これはあくまで私の推測ですが、本来存在したはずの足利義昭が発した御内書には
「□□差し下し候、〇〇申すべく候也そうろうなり、」
などと書かれていたと思います。
□の部分には実際に使者として赴いた将軍側近か使僧が入り、〇には副状を発給した織田信長の名(弾正忠)が入っていたのかもしれません。

毛利少輔太郎の謎

 安芸毛利氏の祖先は、鎌倉幕府の初代政所別当を務めた大江広元の四男毛利季光です。
毛利家の当主は代々「治部少輔(じぶのしょうふ)」を名乗ることが多く、毛利元就の父弘元、兄興元も治部少輔を称しました。
元就は次男で、別家を立てて家督を継承する立場にはなかったため、少輔次郎(しょうふじろう)と名乗っていた時期がありました。

やがて毛利輝元が家督を継承するも、若年であったために治部少輔を称さず、少輔太郎(しょうふたろう)を名乗っていたものと考えられます。

毛利輝元肖像(毛利博物館所蔵)

毛利輝元肖像(毛利博物館所蔵)

毛利輝元(1553~1625)

安芸の戦国大名。
吉川元春・小早川隆景らを従えて中国地方の覇者として君臨した。
追放された足利義昭を領内に迎え入れ、織田信長と敵対。
のちに豊臣秀吉に臣従し、五大老の一人に列せられる。
関ケ原の合戦後に領地を大幅に減らされ、長州30万石の藩祖となった。

毛利輝元と足利義昭のつながり

 今回記事にした古文書で、足利義昭の使者として奔走した人物がいます。
それが幕臣の柳沢元政です。
彼の奔走に毛利輝元が感謝の意を伝えた史料が遺されています。

史料1
五月十日付毛利輝元書状案(『長防風土記』六十七)

 追而御状拝見候、我等官途付而、被成下御内書之由候、誠有間敷御事、面目之至候、信長御入魂之故候、旁以拝面可申述候、恐々謹言

    五月十日   輝元御判

     柳沢新右衛門尉殿
             御返報

(書き下し文)
追って御状拝見候。
我ら官途に付きて御内書を成し下さるるの由に候。
誠に有るまじきの御事おんこと、面目の至りに候。
信長御昵懇のゆえに候。
かたがた拝面をもって申し述ぶべく候。
恐々謹言。

    (1570年)五月十日   輝元御判

     柳沢新右衛門尉殿(柳沢元政)
             御返報

このように柳沢元政は安芸の毛利氏との連絡を取り持っていました。
輝元は柳沢の奔走により任官が許されたことを感謝し、これも信長殿の取り成しのおかげ(有るまじき御事)だと記しています。

のちに将軍足利義昭は信長から京を追われ、安芸の鞆の浦に身を寄せますが、これは柳沢らが築き上げた外交の土壌があったからでしょう。
後に起きたことを考えると、いかに外交の成否が重要であるかを考えずにはいられませんね。

以後、柳沢元政は義昭の庇護を引き換えに毛利家の家臣に加わりました。

まとめ

 今回の古文書は、どの字も基本通りのくずし方をしています。
また、闕字けつじ副状そえじょうを説明するのにちょうど良い史料だと思い、記事にしてみました。
古文書は確かに難しいですが、外交文書に関しては決まり文句が多いので、ある程度パターン化しやすいと思います。

これからも面白い題材を見つけましたら記事にしますので、是非ご覧いただければと思います。

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参考文献:
山本博文,堀新,曽根勇二(2016)『織田信長の古文書』柏書房
奥野高廣(1988)『増訂 織田信長文書の研究 上巻』吉川弘文館
丸島和洋(2013)『戦国大名の「外交」』講談社選書メチエ
渡邊大門(2019)『戦国古文書入門』東京堂出版
瀬野精一郎(2017)『花押・印章図典』吉川弘文館
加藤友康, 由井正臣(2000)『日本史文献解題辞典』吉川弘文館
など

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