戦国時代の古文書に「判物(はんもつ)」というものがありますが、どのような意味を持つのかを理解している人はあまり多くないのかもしれません。
今回はそんな判物にスポットを当ててみました。
「印判状と判物の違いは?」そんな疑問を実際の判物を例に解説します。
また、昔の人はなぜ判物を大事に保管し続けていたのかなども書いています。
判物とはいわゆる証明書のひとつ
まず、判物とはなにか。
これは「はんもつ」と読み、室町時代から江戸時代にかけて権力者が出した証明書の一種です。
wikipedia・weblio等のインターネット媒体の辞典と、手持ちの古語辞書に書かれている内容を要約すると
「判物(はんもつ)」室町時代から江戸時代にかけて発給された武家文書の一つで、征夷大将軍・藩主・大名などの権力者が、所領安堵などを行う際に差出人の花押を据えて下達した文書のこと。
江戸幕府の将軍が用いた判物は御判書といった。
この内容では少々難しいと思いますので、詳しい説明を次章で述べます。
判物にもグレード(ランク)がある
先の辞書から引用した文章に「差出人の花押を据えて下達した文書」という一文がありました。
花押(かおう)というのは、いわば武将オリジナルのサインです。
偽造されないようにどの人物も複雑に書いていました。
例えばこのようなものです。
小和田哲男氏著(1979)『図録中世文書の基礎知識』より抜粋
こうした花押が据えられた安堵状などの書状のことを「判物」というわけです。(もっと詳しい説明は後述)
一方、判物以外の安堵状も存在しました。
それが、花押の代わりに判子(ハンコ)を捺して発給された(だされた)文書です。
こうした文書のことを「印判状(いんばんじょう)」とよびます。
当然ながら、花押を一つ一つ書くよりも、ハンコをぽーんと捺した方が楽です。
従って、印判状よりも判物の方が格式が高いとされています。
また、印判状にも大きく分けて2種類あり、
赤いハンコで捺された文書を「朱印状」
黒いハンコで捺された文書を「黒印状」
とよびます。
つまり、このようになります。
判物と印判状の違い
実際の判物
ここで実際の判物をご覧いただきましょう。
永禄十年六月十日付木下秀吉ほか四名連署状 (名古屋市秀吉清正記念館所蔵)
この判物は織田信長家臣の木下秀吉(藤吉郎)他4名による連署で、同じく織田信長家臣の佐々平太と兼松正吉(又四郎)に宛てた所領の安堵状です。
書状の左側をご覧ください。
“秀吉”の署名の下に「悉」というサインめいたものが記されていますね。
これが花押(かおう)といって、武将オリジナルのサインです。
大名(織田信長)自らが発給した判物ではありませんが、判物の一例として紹介しました。
なお、この文書の解読に関してはこちらをご覧ください。
関連記事:【古文書講座】猿の出世は早かった!? 秀吉が出した最古の書状から見えるもの
これはあまり知られていないことですが、この木下秀吉(藤吉郎)がのちに豊臣秀吉と名を改めて、日本を統一した人物です。
実際の印判状(朱印状・黒印状)
続いて印判状をご覧いただきます。
印判状には朱印状・黒印状がありますがどちらも判物よりはグレードの落ちるものです。
今日も寺社等に参拝すると、御朱印を書いてもらえるサービスがあります。
これはもともと、写経を収めた証として寺社からもらえるものだそうすね。
もしかすると、昔は偉い人が写経を収めた場合は、御朱印ならぬ御花押をもらえたのかもしれません(笑)
(推定文禄五年)四月十八日付井伊直政定書
さて、この書状は徳川家康家臣の井伊直政が発給したもので、上野国箕輪(群馬県)の領主時代に領内の村に出した黒印状です。
この書状の左側の印判がその黒印です。
よく見ると小さく”直政”とあります。
このように著しく身分に隔たりのある人物や組織に対しては、花押を用いずに印判で書状を発給する傾向にありました。
なお、当サイトではまだこの古文書を記事にしたことがありませんが、領民たちにとって極めて厳しい定めの条々が記された内容となっております。
判物の書き方やルール
判物とは所領の安堵や感状、当主交代を容認するといった書状ですので、目下の者に宛てたものが多いです。
従って、書札礼(しょさつれい)もそれに対応したものが多いです。
書札礼とは礼儀に則った外交文書のことで、書簡を出す際の暗黙のルールのようなものです。
笠寺別当職、備後守任判形之旨、御知行分参銭、開帳、寺山、寺中御計之上者、雖誰々申掠候、不可有相違者也、仍如件、
(笠寺別当職、備後守(=織田信秀)の判形の旨に任せ、御知行分参銭・開帳・寺山・寺中御計の上は、誰々申し掠め候といえども、相違あるべからざるものなり。仍ってくだんの如し)
天文拾九(1550)
十二月廿三(23)日
座主 信長(花押)
床下
尾張如法院座主宛判物 『密林院文書』
この書状を朗読させてみました。
再生ボタンを押すと音声が流れます。(スマホも可)
『VOICEROID+ 結月ゆかり EX』(株式会社AHS)
これは織田信長が家督を相続して間もない頃の天文19年(1550)に、領内の寺社に発給した判物です。
先例の通りに利権を与え、たとえ誰があなたの領内を侵略しようとも、その権益は保護しますといった内容です。
文章を締める部分の書留文言には「仍如件(よってくだんのごとし)」が入る場合が多いです。
これは現在の敬具にあたる部分です。
しかしながら、相手が有力な寺社や国衆の場合は、大名とはいえもう少しへり下った書き方をする場合もありました。
また、信長のように大名としての権威や官職が上がるにつれて、判物などの文書も横柄なものへ変わっていく場合もあります。
その場合は、書留文言(仍如件など)が無く、「〇〇候也(そうろうなり)」で文を締めることが多いです。
さらに、宛名を日付よりもさらに下に書いて身分の差を見せつけ、花押もやがて朱印→黒印へ変わっていくこともありました。
信長ならば天下布武の印判。
後北条氏ならば禄寿応穏の印判が有名ですね。
瀬野精一郎氏著(2018)『花押・印章図典』より抜粋
ここは少し内容が難しいので、読まなくても大丈夫です。
判物についてもう少し詳しく説明しますと、判物とは、直状形式の文書の一種として、発給者の花押が捺されている文書のことで、厳密にいうと書状以外のものを指します。
鎌倉時代以降、守護大名以下の武士が政務を執り行う際、下位者に出す直状形式の文書を下達文書という意味で書下(かきくだし)と呼びます。
書下は、書状に下知状の様式が加味されたもので、直状形式である点から、奉書とは異なります。
書状と書下の違いは、内容的に書状が私的なものであるのに対し、書下は政務に関わる命令であるという点です。
また、形式的には書状の書留文言(かきとめもんごん=文書をしめくくる文言)が「〇〇候、恐々謹言」となるのに対し、書下の書留文言は「〇〇也、仍状如件」、あるいは「〇〇之状如件」などとなる点で異なります。
また、戦国時代以降、判物は特別視されるようになり、発給者は相手をより丁重にあつかう必要がありました。
一字書出、感状のように、発給者の人格が直接文書に表現される必要のある場合に使用される傾向にあります。
昔の人はなぜ判物を大事に遺していたのか
今日私たちが博物館や書籍などで見ることができる古文書の多くは判物です。
それも所領の安堵状や定書き、感状の類がかなり多いと思います。
それらが多く残っているということは、意図して特別大事に保管していたのでしょう。
では、昔の人はなぜこうした判物を大事に遺していたのでしょうか。
それは後の世代にも効力を発し得る証明書となるからです。
例えば、20年経って判物をもらいうけた主人が病によって亡くなりました。
跡を継いだ息子が、引き続き同じ土地で生活していたとき、他所からならず者が入ってきて土地を横領されてしまった。
その際に御家の窮地を救ってくれるのが判物です。
この判物を武器に領主に訴えて、権利を守るのです。
私が聞いた話では、屋敷が火災に見舞われた際、真っ先に駆け寄る先が子供のいる場所か、判物がある場所だそうです。
判物を手に取り、それを井戸の中に投げ入れます。
当時の和紙は水に浸かっても溶けにくく、墨も落ちにくいため、万が一の時にはそうしたようですが、にわかには信じがたいお話ですね(^-^;
逆に都合の悪い文書は焼き捨てられたことでしょう。
特に敵に内通している書状などは、残しておくと後の世の禍いになり得ますからね。
まとめ
今回は判物とは何か。印判状とは何か。
どのような書き方をしていたのかを中心に記事にしました。
古文書の勉強をされている方も、判物の類はどれも同じようなことが書かれていて面白みがないと感じているかもしれません。
しかしながら、その背景にはなにがあるのか、どういう状況でこれが発給されたのかがわかると、味気ない判物も面白くなるかもしれません。
今回もご覧いただきありがとうございました!
関連記事:武田信玄の侵略からたった一人で寺を守りきった住職の苦労とは!?
参考文献:
山本博文,堀新,曽根勇二(2013)『戦国大名の古文書 東日本編』柏書房
小和田哲男(1979)『図録中世文書の基礎知識』柏書房
奥野高廣(1988)『増訂 織田信長文書の研究 上巻』吉川弘文館
瀬野精一郎(2018)『花押・印章図典』吉川弘文館
中田祝男(1984)『新選古語辞典』小学館
鈴木一雄,外山映次,伊藤博,小池清治(2007)『全訳読解古語辞典 第三版』三省堂
など