武田信玄の侵略からたった一人で寺を守りきった住職の苦労とは!?

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【古文書解読】武田信玄の侵略から寺を守りきったある住職の苦労(受連覚書)
来世ちゃん
来世ちゃん

こんばんは~。
今回は久しぶりに古文書解読記事を投稿します。
永禄年中に甲斐武田家と長野家を中心とする上州勢が、激戦を繰り広げた上野国(群馬県)が舞台です。

来世ちゃん
来世ちゃん

受連覚書じゅれんおぼえがき)」といいまして、住職がたった一人になりながらも寺を守り抜いた執念を感じる古文書です。
そこからは住職の苦労と、権力者が発給する制札のメリット・デメリットが見えてきます。

来世ちゃん
来世ちゃん

今回はいくつかある受連覚書の中から、一部を取り挙げます。
なかなか面白い内容ですので、是非ご覧ください。
今回もいつものように原文と釈文、書き下し文、現代語訳、当時の時代背景もご紹介します。

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この記事はこんな方にオススメです。

  • 古文書解読を実際の文書で見てみたい
  • 武田信玄や上州長野氏に興味がある
  • 禁制や制札に興味がある
  • 制札のメリット・デメリットを教えて
  • 戦国の武士や貴族以外の文書を見たい

まずは実際の文書からご覧いただきたい。

一人になりながらも寺を守りきった ある住職の執念の文書(永禄十年三月七日付け受連覚書)

原文

受連覚書 永禄十年三月七日付け受連覚書

永禄十年三月七日付け受連覚書(長年寺所蔵)

 少し長いのでaとbに分けて解読する。

永禄十年三月七日付け受連覚書(a)
永禄十年三月七日付け受連覚書(b)

釈文

 (a)

 制札、辛酉之歳、霜月廿四日、当国小幡向
國峯、晴信御出張之時、直遂参上、
(申)請制札也、数箇度箕輪於、當地
動之時者、愚僧一人、當寺二残留、捧彼御
判形持、諸軍立向利、問答七ヶ年也、
(?)触仞戦事一ヶ度、被剥執事三度、仁馬雑物
被取事者、不知数、及餓死事多年、寺家門前
二百余人之僧俗、悉離散し、於他方二失死、只

 (b)

吾一人、終此地不退、臥山隠里守當寺、上下
百里之内、神社仏閣一所不残、人境断絶ス、
愚僧心事之(苦?)労、以一身之稼、此長年寺
計、昔之屋躰堅固ナリ、次之一通之判形者、同永禄六年
癸亥之年十二月之五日、向倉賀野木部、御
陣取之時、令参陣、重而申請御印判、此両通之
以判形、寺家無恙相続、同永禄九年九月廿九日、
箕輪落居上、晴信以御自面、當寺々領、御前(如)
無相違渡被下者也、

  永禄十年丁卯三月七日  受連(花押)

原文に釈文を記してみた

永禄十年三月七日付け受連覚書(a+釈文)

永禄十年三月七日付け受連覚書(長年寺所蔵)+釈文a

永禄十年三月七日付け受連覚書(b+釈文)

永禄十年三月七日付け受連覚書(長年寺所蔵)+釈文b

書き下し文

 (a)

 制札 辛酉(かのととり)の年、霜月(11月)二十四日、当国小幡国峯
に向かい、晴信ご出張(=出陣)の時、直ちに参上を遂げ、
(申し)受くる制札なり。数ヶ度
箕輪みのわ当地において、働くの時は、愚僧一人当寺に残り留まり、かの御
判形(はんぎょう)を捧げ持ち、諸軍に立ち向かわり、問答すること七ヶ年なり。
仞戦じんせん(=いくさ)に触れること一ヶ度、剥ぎ取らる事三度、人馬雑物ぞうもつ(=資材)
を取らるる事は数知らず。餓死に及ぶ事多年、寺家門前
二百余人の僧俗ことごとく離散し、他方においては失せ死すなり。

 (b)

ただ我一人、ついにこの地を退かず、山に臥し里に隠れ当寺を守る。上下
百里のうち、神社仏閣一所も残らず、人境断絶す。
愚僧心事の(苦?)労、一身の稼ぎをもって、長年寺
ばかり昔の
屋躰おくてい堅固なり。次の一通の判形は、永禄六年(1563)
癸亥(みずのとい)の年十二月の五日に、倉賀野に向かい、木部に
(武田晴信が)御陣取りの時、(私が現地へ)参陣せしめ、重ねて申し請くる
御印判ごいんばん、この両通の
判形をもって寺家つつがなく相続け、同永禄九年(1566)九月二十九日、
箕輪
落居らっきょ(落城)の上に、晴信御地面ごじめん(=謁見)をもって、当寺々領を前の
如く
相違あいたがいなく渡し下さるものなり。

 永禄十年(1567)丁卯(ひのとう=干支年)三月七日  受連(花押)

原文に書き下し文を記してみた

永禄十年三月七日付け受連覚書(長年寺所蔵)+書き下し文a

永禄十年三月七日付け受連覚書(b+書き下し文)

永禄十年三月七日付け受連覚書(長年寺所蔵)+書き下し文b

難読箇所の解説

 (a)

辛酉=(かのととり)60通りある干支年の一つ。
戦国時代末期の辛酉年は永禄4年(1561)にあたる。
干支年についての詳しい解説はこちらをご参照いただきたい。

関連記事:2020年の干支は庚子!日本における干支の算出方法とそれぞれの意味とは(1)

余談だが辛酉は古来より警戒すべき年だとされ、日本では781年から大正になるまで、辛酉年が巡ってくると必ずといって良いほど改元されてきた。
過去の改元の例と辛酉年に起きた主な出来事はこちらをご参照いただきたい。

関連記事:2020年の干支は庚子!日本における干支の算出方法とそれぞれの意味とは(3)

(辛酉年については下から3番目の干支となる)

霜月廿四日=(しもつきにじゅうよっか)旧暦の11月24日。
かつては20を「廿」、30を丗(卅)とあらわした。

小幡・国峯・倉賀野・箕輪=いずれも現在でも群馬県に存在する地名。
特に箕輪は当時、武田晴信(信玄)に敵対する長野業盛(なりもり)の領地であった。(詳しいことは後述する)

晴信=武田信玄のこと。
実際にはこの時期、既に剃髪して「信玄入道」と名乗っていた。

御出張=御出陣、あるいは出征。

直遂参上=直ちに(私が武田の陣所へ)参上を遂げ。
「遂」というような動詞形は返り文字になりやすい点に注意。

申請=「申し請くる」。

=「当」の旧字体。

動之時者=「働くの時は」
誤字ではなく当時は「働く」を「動」と書く場合もあった。
「者」はかな文字でも頻出する「~は」という意味。
もちろん「もの」と読む場合もあるので、前後の文脈から判断しよう。

関連記事:【古文書独学】これを覚えるだけで変わる! くずし字でよく出る文字8選

残留=「残り留まり」

捧彼御判形持=「彼(か)の御判形(ごはんぎょう)を捧げ持ち」
判形とは寺社領安堵状のような許可証、証明書のようなもの。
動詞形は返り文字になりやすい。ならない場合もある。

立向利=「立ち向かわり」
「利」の漢字を崩してひらがなの「り」ができあがった。

(?)触仞戦事=「(?)仞戦じんせんに触れること」
(?)の部分は料紙が擦り切れて解読不能な部分。
仞戦(じんせん)とは合戦、戦闘の意味。

被剥執事=「剥ぎ執(と=取)被(らる)事」
」は「られ」「らる」と読み、受動態をあらわす。
古文書では必ずといって良いほど出現する最頻出文字。
(べく)」が右の本格派エースなら、「被(られ)」は左の軟投派エース。

仁馬雑物=「人馬(じんば)雑物(ぞうもつ」
この文脈なら雑物は細々した資材等を表すのだろう。

被取事者=「取被(らるる)事者(は)

不知数=「数知ら不(ず)」
先ほど動詞形は返り文字になりやすいと述べたが、「不」「有」といった成否をあらわす文字も返り文字になりやすい。

関連記事:古文書解読の基本的な事 返読文字によくある傾向を実際の古文書を例に説明

及餓死事=「餓死に及ぶ事」

 (b)

終此地不退=「終(つい)に此の地を退か不(ず)」
ここでは「不」が返り文字となる。

臥山隠里守當寺=「山に臥(伏)し、里に隠れ、當(当)寺を守る。」
ちょっとムズカシイネ。

愚僧心事之(苦?)労以一身之稼=「愚僧(は)心事の(苦?)労(を)一身の稼ぎを以(もっ)て」
少し解読が難しいが、次の文節の「この長年寺の建物ばかりが昔のように堅固なり」としているあたり、住職の心労辛苦が窺える。

癸亥=(みずのとい)60通りある干支年の一つ。

参考までに
1558年(弘治4・永禄元)・・・戊午(つちのえうま)
1559年(永禄2)・・・己未(つちのとひつじ)
1560年(永禄3)・・・庚申(かのえさる)
1561年(永禄4)・・・辛酉(かのととり)
1562年(永禄5)・・・壬戌(みずのえいぬ)
1563年(永禄6)・・・癸亥(みずのとい)
1564年(永禄7)・・・甲子(きのえね)
1565年(永禄8)・・・乙丑(きのとうし)
1566年(永禄9)・・・丙寅(ひのえとら)
1567年(永禄10)・・・丁卯(ひのとう)

令参陣=「参陣令(せしめ)」

重而=「重ねて」

寺家無恙相続=「寺家(じけ)恙(つつが)無く相(あい)続け」

落居之上=落居(らっきょ)とは城が落城すること。
ここでは”箕輪城が落城した時期に”という意味だろう。

晴信以御自面=「晴信御自面を以(もっ)て」
御自面とは面会・謁見という意味。

當寺々領、如前無相違渡被下者也=「當(当)寺々の領を、前の如く相(あい)違(たがい)無く渡し下(くだ)被(さる)者(もの)也(なり)。」
これもちょっとムズカシイネ。
しかし、安堵状にはよくあるパターンなので慣れたら読める。

現代語訳

 この制札は1561年11月24日、武田信玄が上野国(群馬県)小幡国峰に在陣中の際、私が当地へ赴き信玄と拝謁して申し請けた制札だ。
過去に幾度も長年寺一帯では戦乱が続き、皆が離散して、とうとう私一人が寺に残ってしまった。

私は制札を捧げ持ち、寄せ手の武田軍の陣所へ赴いて、
「この制札は信玄様からいただいたものであるから、乱暴狼藉はやめていただきたい」
と抗議して7年になる。

その間、戦闘に巻き込まれること1度、追い剥ぎに遭うこと3度、人馬や資材などを奪われることは数えきれないほどあった。

私の住む地域では、戦乱が長く続いたため、作物の刈り入れが思うようにできずに、餓死者が多発した年も多かった。

我が寺の門徒は二百人ほどいたが、皆がことごとく離散してしまい、野垂れ死んだ者もいたと聞く。
ただ私一人がこの地を退かずに山に伏し、時には里に隠れ住んだりして寺を守った。
この上野国(群馬県)一円では、長く続く戦乱で神社仏閣が一つも残らず、人はひとりもいなくなった。

私は苦心しながらも、なんとか寺を存続させようと努力したことで、長年寺ばかりは焼失や倒壊を免れることができた。

次の1通の判形は、1563年12月5日に武田信玄が倉賀野木部に在陣中の際、私が当地へ赴き、ようやく認可された制札である。
この両通の判形をもって、長年寺は以前のように存続することができた。

1566年9月29日に箕輪城が落城した際、武田信玄と直に対面して、長年寺寺社領を失った分も含めて全て安堵してくれると正式にお約束いただいたのだ。


 1567年3月7日 受連

この書状の時代背景

 詳しいことを書くと凄まじい文章量になってしまうので、大雑把に当時の情勢を説明する。

甲斐の武田信玄は信濃統一(長野県)に強い野心を燃やし、それを阻もうとする越後の上杉政虎(上杉謙信)と幾度となく戦っていた。
それに加え武田家は小田原の北条家と盟友関係にあったため、北条家と協力して上野国こうずけのくに(群馬県)に攻め込むこともたびたびあった。

武田信玄肖像画

武田信玄肖像 (高野山持明院所蔵)

 武田信玄 (1521~1573)

甲斐源氏武田家第19代当主。
父信虎を追放して当主となる。
信濃の諸豪族を支援した上杉謙信と幾度となく戦った。
戦う前から敵の内部を切り崩す調略に長け、情報の入手には特に力を入れていたようだ。
また、信玄堤や金山の採掘など、内政手腕にも定評がある。
「甲斐の虎」の異名を持ち、その軍略には織田信長も恐れた。

一方、箕輪城を根城とする長野業正なりまさも、老練な戦術眼をもった人物として有名である。
業正は上野国の守護職ではないものの、その類まれなる統率力と人望により、上野国のエースといえる存在であった。
武田軍の侵攻を幾度となく退けた名将として知られ、信玄に「業正ひとりが上野にいる限り、上野を攻め取ることはできぬ」といわしめたという伝説がある。(出典なし)

しかし、長野業正は永禄4年(1561)に病死してしまう。
長野家の跡を継いだのは弱冠17歳の長野業盛なりもりであった。

信玄はこの報せを聞くとすぐさま兵を動かした。
業盛も武勇に秀でた将で、一度は撃退に成功したものの、父の死は多くの上野国衆に動揺を与えたようである。

永禄9年(1566)。
武田信玄は2万の大軍をもって箕輪城を攻め立てる。
業盛は懸命に防戦したものの、刀折れ矢尽き、衆寡敵せず自害して果てた。
享年23。

これにより箕輪城は武田家の支配下となったものの、上州(群馬県)は北条家も支配し、越後の上杉謙信も引き続き上州へ激しい攻勢を仕掛け、以後も戦火の絶えない不安定な地域となってしまった。

受連という人物について

 この文書に出てくる年は永禄4年(1561)から永禄10年(1567)となっているので、ちょうど「上州の黄班」と恐れられた長野業正なりまさが病死したあたりから、子の長野業盛なりもりが敗れて自害し、箕輪みのわ城が信玄の手に落ちた時期となる。

受連とは当時、上野国長年寺の住職をしていた人物のようだ。
残念ながら受連の人物像は詳しく分からないが、長年寺は現在も群馬県高崎市に存在する曹洞宗の寺院である。

今回は受連覚書じゅれんおぼえがきという、受連が記した日記の一部を記事にしている。

武田軍と長野家を盟主に据える上州国人衆の戦いにより、田畑は荒れ、放火等の破壊活動・略奪が行われた。
これを当時「乱暴狼藉らんぼうろうぜき」といい、戦国時代にはよく行われていた行為だった。

次はそれを防ぐために、受連がとった行動をみてみよう。

制札をもらうメリット 発給するメリットとは

 受連が取った行動。
それは侵略してきた側の武田信玄から制札せいさつをもらうことだった。

制札とは、先に述べた「乱暴狼藉」を防ぐために、寺の前に掲げる注意版のようなものである。

例えば

織田信長加納に掲げた制札+釈文を加えた

織田信長が美濃加納市場に掲げた制札
(永禄十一年九月付け織田信長発給制札 円徳寺所蔵文書)

関連記事:【古文書講座】美濃攻略!織田信長の楽市・楽座政策の真相

このように木の札に、教養の乏しい侍にもわかりやすいように書くのが一般的だった。

制札をもらうメリットは、もちろん戦乱の被害から身を守ることである。
戦乱にはどうしても避けられない放火・略奪・婦女暴行・人狩りなどの被害から、寺社や町村を防衛することが目的だ。

これを武田信玄から発給してもらうことにより、制札を寺社の門前に掲げておくと、武田陣営の武者たちは乱暴狼藉ができなくなる。

しかしながら、制札を受けるデメリットもあった。
それは、まずそれを受けるために莫大な費用を献金せねばならぬこと。
もう一つは、場合によっては制札の発給者(ここでは信玄)に協力する義務を負い、反抗したり発給者と対抗する勢力の軍勢(ここでは地元の長野氏をはじめとする上州勢)を引き入れてはならないということである。

つまり、今日まで寺領を保護してくれていた地元勢力を敵に回すことにもなりかねないというリスクもあったのだ。

制札を発給するメリットは、一つは即金でまとまった軍資金が手に入ること。

もう一つは、侵攻する先の敵勢力内に楔を打ち込めることだろう。
そのために発給した寺社や町村に対して、自軍の乱暴狼藉を抑制する義務を負い、そこだけは平和地域として焼き払ったり、略奪したりしないことを宣言するものだった。

場合によっては対象とする人々を、食糧など物資の輸送や落ち武者狩りなどに動員することができる。
要するに敵領内にあって「味方中(みかたちゅう)」を作る政治的効果も多分に含まれていた。

例えば永禄11年(1568)9月に岐阜の織田信長が、10万をも超える大軍(諸説あり)を動員して上洛した際、莫大な資金や物資の調達を、これから攻め込む先の近江・京都・河内・摂津・播磨等の国々の諸寺・自治都市から、禁制きんぜいや制札を発給することで賄うことができた。

特に京都では応仁の乱以降、たびたび戦火に見舞われたため、この時も町の荒廃を恐れる人々が多かったが、織田軍の「一銭斬り」といわれる厳しい軍律により、禁制や制札を発給した寺社には被害が一切なかったとある。

これにより、京都はいち早く治安が回復し、百姓や公家、天皇に至るまで信長を信頼するようになった。

関連記事:戦国時代の古文書 判物とは何か 書き方のルールは?

制札をもらっても必ずしも安心というわけではなかった

 しかしながら、実際には制札のみで平和が保たれたわけではなかったようである。
今回の受連上人のように、懸命な自助努力もないと平和は実現されなかった。

同文書には

私はこの制札を捧げ持ち、武田の陣所に抗議へ行ったにも関わらず、7年間あまり改善はされなかった。
その間には戦闘に巻き込まれること1度、追い剥ぎに遭うこと3度、さらに、人馬や資材などを奪われることは数えきれないほどだった。

とあるように、制札をもらったからといっても、必ずしも安全というわけではなかったようである。
私は甲斐武田家についての知識はあまり明るくないので、武田軍の軍律が緩かったのか、それともどこの勢力もその程度の軍律だったのかはわからない。

余談だが、これまで箕輪城落城の時期は不明確とされていたのが、受連覚書が発見されたことにより、箕輪城落城は永禄9年(1566)9月29日であるということが通説となったようだ。

このときの受連の奔走がなかったら、高崎市にある長年寺は今日存在していなかったかもしれない。
知行などの安堵状もそうだが、こうした制札も遺すことが、後の大きな証明書となったのだろう。

これは以前読んだ本に知っただけで、真実かはわからないのだが、家が火災に見舞わた際には重要な書類や制札の類は、自宅の井戸に投げ入れるのだそうだ。

まあ、それはともかく・・・。
知的好奇心を満たしてくれる、興味深い史料を数多く残してくれた先人たちに深く感謝したい。

来世ちゃん
来世ちゃん

ご覧いただきありがとうございました。
受連の文書は他にもいくつかあるそうです。
書かれていたことが真実なら、めちゃくちゃかっこいい生きざまですね( ゚Д゚)
長年寺がその後どのようにして復興を遂げたのか調べてみましたが、ネットからは今一つはわかりませんでした(^^;)

来世ちゃん
来世ちゃん

そういえば武田信玄関連で、以前このような記事を書いたことがあります。
もしご興味がありましたら。

関連記事:【古文書講座】山本勘助が実在したことを示す武田信玄の書状を解読

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