【内府ちかひの条々】関ケ原の合戦前夜 石田三成が五奉行を動かし、家康に送りつけた弾劾状

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来世ちゃん
来世ちゃん

こんばんはー!
内府ちかひ(違い)の条々
今回はこれを取り上げます。

来世ちゃん
来世ちゃん

関ケ原の合戦の合戦の約2か月前。
石田三成が挙兵し、五奉行の増田長盛長束正家前田玄以に相談。
この時に家康への弾劾状として送り付けたのが、この「内府ちかひの条々」です。

石田三成
石田三成肖像画

今回は原文を記した画像がない。
読点(、)の位置は原文通りではないかもしれない。
なにとぞご了承のほどをm(__)m

内府ちかひの条々 原文

一、五人の (闕字)奉行、五人之年寄共
上巻誓紙連判候て無幾程、年
寄共之内、弐人被追籠候事、

一、五人之奉行衆内羽柴肥前守事
遮而誓紙を被遺候て、身上既可被
果候処ニ、先景勝為可討果、人質を
取、追籠候事、

一、景勝なにのとかも無之ニ、誓紙之筈
をちかえ、又ハ太閤様被背御置目、今度
可被討果儀歎ケ敷存、種々様々其
理申候へ共、終無許可被出馬候事、

一、知行方之儀、自分二被召置候事ハ
不及申、取次をも有るましく由
是又上巻誓紙之筈をちかへ、忠節も
無之者共ニ被出置候事、

一、伏見之城、太閤様被仰出候留主
居共を被追出、私ニ人数被入置候事、

一、拾人之外、誓紙取やりあるましき由
上巻誓紙ニ載せられ、数多取やり候事、

一、政所様御座所ニ居住之事、

一、御本丸のことく殿守を被上候事、

一、諸侍の妻子、ひいきひいきニ候て、国元へ
被返候事、

一、縁篇之事、被背御法度ニ付て、各
其理申、合点候て、重而縁辺不知其
数候事、

一、若き衆ニ、ろくろをかい、徒党を立させ
られ候事、

一、御奉行五人一行ニ、一人として判形之事、

一、内縁之馳走を以、八幡之検地被免候事

右、誓紙之筈ハ少も不被相立
太閤様被背御置目候ヘハ、何を以たのミ
可在之候哉。如此一人宛、被果候て之上
秀頼様御一人被取立候はん事
まことしからす候也

内府ちかひの条々  現代語訳を時代劇っぽく

一、誓紙を取り交わして幾らとも経たないのに、五奉行のうち石田三成と浅野幸長の両人を勝手に罷免せしめたる事、

一、羽柴肥前守(前田利家)に誓紙を差し出し、違背の無き事を誓ったにもかかわらず、まず上杉景勝を討つといって前田利長から人質にとり、追い込めたる事、

一、上杉景勝には何のとがもないのに、誓紙の約定を違え、太閤様の御遺命を背き、このたび上杉景勝討伐を企てたのは嘆かわしく、様々に思い留まるように申し述べたにかかわらず、許可なく出馬せし事、

一、知行の儀は自分が受けることはもちろんのこと、取次ぎをもしてはならぬという決まりがあるにもかかわらず、この誓紙にも違えて忠節も無きものに知行を与えたる事、

一、太閤様が命じた伏見城の留守居役を追い出し、私兵をもって占拠せし事、

一、(五大老五奉行の)十人以外の者との誓紙のやりとりが禁じられているにもかかわらず、数多く誓紙のやりとりをせし事、

一、北政所様の御座所たる西ノ丸を占拠し、自ら居住せし事、

一、西ノ丸に本丸同様の天守閣を築かせし事、

一、自分がひいきにしている大名の妻子を、国もとへ返されし事、

一、縁組の事、(太閤殿下の)御遺命に背いていることを幾度も指摘し、承知したにもかかわらず、重ねて数多くの縁組を行いし事、

一、若い者ども(福島正則や黒田長政らの武断派七将のことか?)を扇動し、徒党を組ませたる事、

一、五大老が連署すべき書状に、一人で署名せしめたる事、

一、内縁の者に便宜を図り、八幡の検地を免除せし事、

右(上記の)、誓紙の内容にすこしも従おうとせず、太閤様の御遺命に背いては、何をもって政(まつりごと)なのか。
この上は一人残らず決意の上、秀頼様おひとりを主人と仰ぎ奉ること、
まことに当然のことである。

「 内府ちかひの条々 」の時代背景

 豊臣秀吉が没したのは慶長3年(1598)8月18日。
関ケ原の合戦があったのは慶長5年(1600)9月15日のこと。

慶長4年(1599)に天下のことを憂いていた加賀百万石の前田利家が死去。

徳川家康(五大老筆頭ともいえる身分で、江戸を中心に関東256万石を領有)は京都伏見城に居座り、亡き秀吉の遺命に背いて伊達政宗黒田長政らと婚姻関係を結び、さらに大坂城西ノ丸に住み着いた。

大坂城西ノ丸は秀吉の正室である北政所きたのまんどころ(おね)が住んでいたが、隠居を決意して京都にある高台寺へと移った。
今日では京都の観光スポットとして、ねねゆかりの地として高台寺が有名である。

さらに、”若いものども(福島正則や黒田長政らの武断派七将)”が朝鮮出兵の奉行の配慮や論功行賞に怒りが爆発し、石田三成を殺そうと立ち上がった。

これを家康が仲裁し、三成を佐和山城へ隠居させて命を助けた。

石田三成
令和最初の年こそ必勝疑うべくもなしと確信する石田三成

翌慶長5年(1600)
上杉景勝に難癖をつけて家康は会津征伐へ。

家康が江戸についた頃にこの「内府ちかひ(違い)の条々」が到着した。
家康との全面対決する決意表明と、”これは秀頼公の命令である“と強調し、諸大名を味方につけようとしたのだ。

その後、かの有名な小山会議にて豊臣恩顧の大名たちは家康側について戦うことを表明。
家康の先遣隊として清州城へと兵を返し、岐阜城を1日で攻め落とした。

それからひとつきも経たずして、関ケ原の合戦が始まる。
ちなみに秀頼公、このとき8歳のことであった。

コメント

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