こんばんはー!
今回は和歌や俳句などおなじみの「ほととぎす」について。
古人はホトトギスにどのような意味を込めて詠んでいたのかを考えます。
ほととぎすってなに?
ホトトギスとはどういった生物なのか。
鳥だということはわかっていても、実物を見たことがない方も多いのではないだろうか。
ハトのような見た目だが、それより少し小さい。
頭部と背中は灰色で、翼と尾羽は黒褐色をしている。
胸と腹は白色で、黒い横しまが入るが、この横しまはカッコウやツツドリよりも細くて薄い。
目のまわりには黄色のアイリングがある。
肉食で毛虫などを食べる。
自分で子育てをせず、ウグイス等に托卵する習性がある。
渡り鳥で、越冬するために日本には5月中旬ごろにやってくる。
昔は太陰暦だった為、当時の人たちは5月中旬は初夏という認識だった。
ついでにホトトギスの鳴き声も聴いてみよう。
そういえば正岡子規も自らをほととぎすに例えて俳号を子規にしている。
ほととぎすの漢字は数パターンあるのだが、そのうちの一つが子規なのだ。
古来からほととぎすを詠んだ歌はたくさんある
ほととぎすは血を吐いても泣き続ける鳥と言われており、別名で文無鳥(あやなしどり)とも呼ばれている。
他にも杜鵑、杜宇、蜀魂、不如帰、時鳥、子規、田鵑などとも呼ばれている。
どれも「ホトトギス」と読む。
日本では古来から一般的な鳥として親しまれており、初夏の訪れとともに飛来して多くの人々を魅了してきた。
ホトトギスが詠まれた和歌は万葉集で153例。
古今和歌集で42例。
新古今和歌集で46例。
あの百人一首にも有名なほととぎすの歌が入っている。
「ただありあけの月ぞ残れる」
意味は分からなかったけど、なぜか子どもの頃からこの歌が一番好きだった。
ほととぎすに込められた思いとは
平安時代頃からホトトギスは「黄泉の国へと導く鳥」とされていた。
5月中頃(昔の感覚では初夏)に飛来し、秋に南へと去っていく。
その為、ホトトギスの鳴き声が聞こえてきたら田植えを始める合図であったり、
激しい鳴き声から連想して恋を詠んだ歌が多い。
また、恋の終わりを告げる初秋の儚さを詠んだ歌もある。
そして、人の死を連想させることから、徳川家康がほととぎすを詠んだ歌もある。
(家康が前田利家の死を待っていたとする説がある歌だが真偽は不明)
「ほととぎす」を詠んだ代表的な句
ほととぎす鳴きつる方を眺むればただ有明の月ぞ残れる
後徳大寺左大臣(藤原実定)の句(百人一首)
(ほととぎす 鳴きつる方を 眺むれば ただ有明の 月ぞ残れる)
だいたいの意味:ほととぎすが鳴いた方を眺めれば、ほととぎすの姿は見えず、ただ有明の月が淡く空に残っているばかりだった
時鳥血爾奈く声盤有明能月与り他爾知る人ぞ那起
久坂玄瑞辞世の句
(時鳥 血爾奈く声盤有明能 月与り他爾知る人ぞ那起)
(ほととぎす 血に鳴く声は有明の 月より他に知る人ぞ無き)
だいたいの意味:我が志は有明に輝く月の他に知る人はいない
目には青葉山ほととぎす初鰹
山口素堂の俳句
(目には青葉 山ほととぎす 初鰹)
だいたいの意味:目には鮮やかな青葉。耳からは美しい鳴き声のほととぎす。食べておいしい初ガツオ。
本来俳句は季語が重なるのはタブーとされているが、この句は3つも季重なりがあっても人々の印象に残りやすくて秀逸だと思う。
谺して山ほととぎすほしいまヽ
杉田久女の俳句
(こだまして 山ほととぎす ほしいまま)
だいたいの意味:山々にこだましながらほととぎすが鳴いている。実に悠々と自由に・・・。
個人的には俳句の中でこの句が一番好き。
最後にほしいままとするのがずるい。
こんな句作れたらいいなぁ・・・。
当時はまだ女性の社会進出が進んでおらず、若い杉田久女もそうした苛立ちを抱えていたのかもしれない。
そうした観点からこの句を見るとより面白く秀逸な句だ。
宇能花毛未開者霍公鳥佐保乃山邊来鳴令響
大伴家持の句 (万葉集)
(宇能花毛 未開者 霍公鳥 佐保乃山邊 来鳴令響)
(卯の花も いまだに咲かねば ほととぎす 佐保の山辺に 来鳴きとよもす)
だいたいの意味:卯の花もまだ咲いていないのに、ほととぎすは佐保の山辺(奈良県)にやってきて鳴いています
古代日本でもこのクオリティ( ゚Д゚)
最後に柴田勝家とお市の方の辞世の句でも
お市とは信長の妹で、浅井長政へ嫁いだが信長に攻められて切腹。
共に自害しようとしたが許されず、三人の娘とともに信長の元へ送り返される。
後に柴田勝家と再婚するが羽柴秀吉に攻められ、勝家とともに自害した。
お市に関連した記事を書いたことがあるので是非~
関連記事:信長暗殺 遠藤直経と浅井長政 お市が人生で最も幸せだった7日間
柴田勝家とは信長の宿老としていくさの駆け引きと政治に活躍した名将。
その武功によって北陸方面を与えられて、上杉謙信らと戦った。
本能寺の変後、羽柴秀吉らに敗北し、結婚して間もないお市とともに北ノ庄城で自害した。
この二人の辞世の句は連句となっている。
小谷御前(お市)の句
さらぬだに打ちぬる程も夏の夜に別れを誘うほととぎすかな
小谷御前(お市)辞世の句
(さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜に 別れを誘う ほととぎすかな)
だいたいの意味:それでなくても短い夏の夜が終わってしまった。ほととぎすが誘うから、そろそろ旅立たなくてはならない
この句に対し、柴田勝家はこう返した。
夏の夜の夢路はかなき跡の名を雲井にあげよほととぎす
柴田勝家辞世の句
(夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ ほととぎす)
だいたいの意味:夏の夜のように儚い生涯であったが、我らが生きた証として、この名を高めてくれよほととぎす
ここまでは有名だが、実はこの話には続きがある。
柴田勝家は辞世の句を書き留め、留守居役を任されていた中村文荷斎に歌を披露した。
(中村文荷斎は和歌の名手としても有名な人物だった)
二人の句を受けた文荷斎は
おもうどち打つれつつも行道のしるべやしでの山ほととぎす
中村文荷斎の句
(おもうどち 打つれつつも 行道の しるべやしでの 山ほととぎす)
だいたいの意味:思うのですが、黄泉の国へと旅立とうとするお二人には、きっとほととぎすが道しるべとなってくれますよ
と返したという。
なかなか泣けますね。
2度も落城の憂き目にあった浅井三姉妹ですが、この後も戦国のラストを彩る数奇な運命を辿ることとなります。