こんにちはー!
今日は永禄11年(1568)8月13日。
浅井家のもてなしを受けていた時に、もしかしたら信長は暗殺されていたかもしれない!
という話です。
今回のお話は、「盲目物語」を元に、主役は小谷御前(お市)・・・の側近になってもらいました。
当時の情勢
永禄11年(1568)
既に美濃を征服し、足利義昭を奉じて上洛を模索していた織田信長は、南近江の六角義賢(承禎)、義治父子に協力を要請する。
信長自身も近江の佐和山城まで出向き、六角家との交渉を指導した。
信長、六角氏説得のため佐和山へ出向く(国土地理院より)
織田信長は妹の「お市」を北近江の浅井長政に嫁がせ、婚姻同盟を結んでいた。
佐和山城は浅井家の領地である。
のちに石田三成の居城として有名な地だ。
六角承禎(義賢)に室町幕府の役職である所司代を約してまで協力を呼びかけたが、すでに三好三人衆と結んでいた六角氏は聞き入れず、交渉は失敗に終わった。
信長は7日間の佐和山逗留もむなしく岐阜へと引き上げるのだが、その最後の夜に柏原で浅井家と名残の酒宴を開いた。
今回はその時の話である。
交渉失敗。信長、岐阜へ帰る途中に柏原にて一泊(国土地理院より)
信長暗殺 (お市の昔話)
お市「長政公は摺針峠までお送りなされ、そこでお別れになりまして、遠藤喜右衛門尉(直経)、浅井縫殿助、中島九郎次郎の三人をもって、柏原まで信長公のお供をおさせなされた由にござります。」
「織田殿は柏原にお着きになりますと、常菩提院(天台宗の寺)の御宿へおはいりなされ、「ここは長政の領分だから少しも心配ない」と仰って、御馬廻の侍衆達を町方へお預けになり、お近習の小姓衆と当番役の者だけをおそばへお置きなされました。」
「遠藤殿はそのありさまを見てとって急に引き返し、馬に鞭打ちもろあぶみにて小谷へ馳せつき、人を遠ざけて長政公へ申されました。」
遠藤直経「それがし、つくづく信長公の御用代を伺いますに、物事にお気をつけられることは猿猴の梢を伝うがごとく、御発明なことは鏡に影が映るがごとく、末恐ろしい御大将でござりますゆえ、とてもこののち殿さまとの折り合いが上手くいくはずがござりませぬ。」
浅井長政「・・・」
遠藤直経「今宵信長公はいかにも打ち解けておいでなされ、お宿にはほんの十四、五人が詰めているだけでござりますから、所詮今のままにお討ち取りなされるのが上分別かと存じます。」
遠藤直経「急ぎ御決心なされて御人数をお出しあそばされ、織田殿主従をことごとく討ち取って岐阜へ乱入なされましたら、濃州(美濃)尾州(尾張)はさっそくお手に入ります。その勢いにて江南の佐々木(六角)を追い払い、都に旗をお揚げなされて三好を征伐あそばされるものならば、天下を御支配なされますのは瞬くうちでございましょう。」
浅井長政「およそ武将となる身には心得がある。謀をもって討つのはよいが、こちらを信じて来たものを騙し討ちにするのは道でない。信長が今心を許して我が領内に留まっているのに、その油断に付け入って攻め滅ぼしては、たとい一旦の利を得てもついには天の咎めを蒙る。」
浅井長政「討とうと思えばこの間佐和山においても討てたけれども、俺はそんな義理に外れたことは嫌いだ。」
遠藤直経「それなら致し方ござりませぬが、あとで必ず後悔あそばされる時がござりますぞ。」
その後、直経は何げない体で柏原の信長宿所まで戻り、信長を饗応し、明くる日無事に関ケ原まで見送った。
「しかし、遠藤の言ったことにも、今考えれば尤もな節があるように思われる。」
と、そうおっしゃるのでございましたが、その時不意にお声が震えて異様に聞こえましたので、何か私もハッといたしてうろたえておりますと、
「一方がいくら義理を立てても、一方が立ててくれなかったら何にもならない。天下を取るには畜生にも劣った真似をしなければならないのかしら・・・。」
とひとりごとのようにおっしゃって、それきりじっと息を堪えていらっしゃるではございませんか。
「憚りながら、お察し申し上げております」
と覚えず平伏いたしました。
すると、奥方はもう何事もなかったように
「ご苦労でした。」
とおっしゃって、
「よいからあちらへ行っておくれ」
というお言葉でござりますので、急いでお次の間へ下がりましたけれども、その時早くも鼻をすすっていらっしゃる音が襖を隔てて聞こえたのでござります。
お市の人生で一番幸せだった時期
思えば、信長が佐和山に逗留したわずか7日間の時ほど、お市が人生で最も幸せだった時期はなかったのかもしれない。
お市の輿入れがあってから、さほど時が経っていない時期のことで、信長は佐和山で六角の説得にあたる傍ら、浅井長政と初対面を果たしているのだ。
信長は善をつくし美を尽くしたるもてなしを受け、家宝の交換をし、さらに小谷山からお市を呼んだ。
お市と久々に対面した信長の喜びは”一廉ならず”だったという。
信長と長政とお市は楽しい時間を共に過ごした。
・・・これから先のことはとても悲しくて書けません( ノД`)
また別の記事にということで(´;ω;`)
この時代の信長の年表はこちらです
このお話のわずか数日後。
六角家を粉砕した箕作城の戦いや観音寺城の戦いはこちらです
箕作城の戦い 六角氏の立てた戦略VS織田信長の戦略