こんばんはー!
今回は信長28歳の時の話、「森部の戦い」を取り上げます。
時は永禄4年(1561)5月14日。
この戦いは信長にとって初めて美濃勢に勝った戦であり、自身の兵の運用と動員に、より自信を深めた戦だったのではなかろうか。
今回はこの「森部合戦」について、どのブログサイトよりも詳しく、且つわかりやすく説明しよう。
1561年当時のおおよその勢力図
信長を取り巻く当時の情勢
永禄3年(1560)5月19日。信長は今川義元を討ち取り、今川家の影響力を尾張から取り除くことに成功した。
翌年、三河の岡崎城主・松平元康と和睦し、国境が取り決められた。
信長は奥三河の梅ヶ坪や伊保城を攻撃、翌月には挙母城を攻め奪うなど、独立化して今川や松平、織田の支配を拒む勢力を一掃した。
しかし、飛ぶ鳥を落とす勢いの信長だが、ただ一つ上手くいかぬ点があった。
美濃である。美濃の大名・斎藤義龍は手強く、実は桶狭間の合戦と同じ年に二度にわたって美濃を攻めたが、美濃の強兵と濃尾を挟む大河に阻まれ、いずれも失敗しているのであった。
好機到来!斎藤義龍急死の報せ
永禄4年(1561)5月。突然驚くべき情報が信長にもたらされた。美濃の戦国大名で六尺五寸殿と仇名される斎藤義龍が、33歳(35歳説もあり)の若さで急死したと。
信長はこれを好機と捉えた。
急ぎ陣触れを出し、わずか2日で軍の編成をし、西美濃へと出陣したのであった。
ある老臣は「いかに敵と言えども、葬儀が終わらぬうちに攻めたとあらば一大事。たとえ美濃を取ったところで、信用されませぬぞ」と引き止めたようだが、信長は意に介さなかったという。
現在の地図との位置関係(Googleマップより)
4倍もの兵力差
5月13日の早暁。信長は1500の兵を率いて国境を越え、西美濃の勝村に布陣して野営をした。
新しく当主となった斎藤龍興の名代で、侍大将の長井利房、日比野清実が森部方面から、総勢6000余の大軍で信長と対峙した。
森部合戦進軍図(Googleマップより)
森部合戦の詳報
雨の中の決戦
雨が降り始めた。信長は「これぞ天の与うる所!」とほくそ笑んだという。昨年の桶狭間の戦い以降、「雨」は織田家にとって良いイメージだったのである。
織田勢は楡俣川(にれまたがわ)を一気に渡り決戦に挑んだ。
魚鱗の陣形対鶴翼の陣形
ところが密集隊形の織田勢を小勢と見るや、長井・日比野勢は包囲網を敷くように、両翼を広く広げ出した。
鳴り響く法螺貝や攻め太鼓、槍と槍の鋭い叩き合い、打ち合い、金属の音が各所で鳴り響いた。雨の泥土を一気に駆ける騎馬持ちの侍大将・・・。
戦場はみるみるうちに赤く染まった。
敵総大将斎藤利房の討死
激戦が数刻にわたって繰り広げられたが、次第に密集陣形で中央突破を図る織田勢に押されだし、やがて散り散りに敗走しだした。鶴翼の陣を敷き、翼を広げたことがかえって斎藤勢の不利を招き、中央が手薄になってしまったのだ。
そういった中、中央の本陣を守る旗本が一人死に、また一人死にと、だんだんと護衛する人数が減っていった。
そしてついに、敵総大将・斎藤利房を服部平左衛門が討ち取り、日比野清実を恒川久蔵が討ち取り、歴戦の勇士として名高い神戸将監を川村久五郎が討ち取りと、織田勢は思い思いの戦果を挙げたのであった。
この大戦果に、皆が感動を分かち合った。終わってみれば織田勢が討ち取った敵の首級は、百七十余に及んだという。
敵総大将・斎藤利房を討ち取った服部平左衛門に至っては「津島神社の天主様のお恵み・・・!」と降りしきる雨空に向かって合掌したと伝わる。
前田又左衛門(利家)の活躍
さらにはこんなこともあった。
かつて信長が寵愛していた小姓を喧嘩で斬殺した咎で、追放されていた前田又左衛門(利家)が、密かに桶狭間の合戦に駆けつけた。満身傷だらけになりながらも、敵将3人の兜首をもって信長の面前に駆け寄り、跪いた。
だが、この時は信長の勘気は解けず、又左衛門は悄然と立ち去ったことがあった。
その又左衛門がどこから現れたものか、この森部合戦にも密かに馳せ参じた。
そして、2つの首級をあげた手柄によってようやく信長の勘気が解かれる一幕があったのだ。
彼が討ち取った首の一つは、「頸取り足立」と謳われ、近隣の国中にその武名を轟かせていた足立六兵衛という剛の者であった。
信長は「この猛将を討ち取るは城一国の価値あり」と斜めならぬ上機嫌であったという。
その後前田利家は信長の親衛隊の一人として、佐々成政らと常に功を競い合い、出世していくのである。
ある猿楽の2人のイケメン
一方、戦には悲劇がつきもので、ことに負けた側は悲惨なものだった。
かつて近江の猿楽座一行が美濃を訪れた中に、目立って麗美たおやかな二人の若者♂がいた。
一座が去った後も、この若者一人は長井利房、もう一人は日比野清実のもとに留め置かれていた。
そしてこの森部の合戦の場に、「勝利はもはや疑いなし」として同伴されていたのだが、思いがけぬ大敗に二人とも討死したのであった。
ともあれ、この戦いは信長が初めて掴んだ美濃攻略戦初の勝利であり、この後ますます信長は野心を燃やしていくのであった。
考察
斎藤義龍急死のことだが、「6尺5寸殿」とあだ名される大巨漢の質実剛健な大男が、33歳の若さで命を落とすとは考え難い。しかも一説によれば、「妻子合わせて3名も急死」とある。あくまで一つの説なので、詳しいことは分からない。何にせよ、有能な主君・斎藤義龍の跡を継いだのが、嫡子である斎藤龍興なのだが、彼がなかなかの無能だったらしい。こういう幸運もあって、信長の武運も開けてゆくのであった。
その後の信長
その後も美濃との激しい戦は続く。この数日後には「十四条軽海合戦」という、まさかの一日2回合戦(しかも1回は夜戦)というダブルヘッダーをすることになるのだ。
また、翌年にはまたもや一族に背かれて、窮地にも立たされて、一時は美濃攻略に暗雲が立ち込める事態にもなる。
信長の美濃攻略戦はまだ始まったばかりなのだ。
この時代について信長公のちょっと詳しい年表つくってます。もしよろしければ下のリンクから
面白い新説や、ここでは書いていない伝説。個人的な見解等、コメント欄かTwitterでコメントしてくれると嬉しいです^^
今回もご覧いただきありがとうございました!
コメント
Pretty nice post. I simply stumbled upon your blog
and wished to mention that I have truly loved browsing
your weblog posts. After all I will be subscribing
on your rss feed and I hope you write once more very
soon!