元亀3年(1572)11月20日に、織田信長が上杉謙信へ宛てた書状の解読第3回目です。
今回は武田信玄の視点からこの時代の外交をご紹介します。
甲斐の虎と恐れられた信玄の優れた外交手腕に、謙信・信長・家康はどう立ち向かったのでしょうか。
- 11月20日に織田信長が上杉謙信へ宛てた書状 1
- 11月20日に織田信長が上杉謙信へ宛てた書状 2
- 11月20日に織田信長が上杉謙信へ宛てた書状 3(当該記事)
武田信玄と織田信長の同盟関係
武田信玄が織田信長との交流を持った契機は、遠山氏の存在からでした。
遠山氏は東美濃の恵奈郡を支配するいわゆる国衆です。
この時代の遠山氏は、岩村城を本拠とする景任が当主で、その弟の直廉が苗木城主であることが近年明らかになりました。
永禄5年(1562)10月の信玄書状には
「信玄は近日中に北条氏康と協力して関東へ出馬するゆえ、斎藤家の襲撃に備えて城の備えを堅固にせよ」
とあることから、この時期にはすでに東美濃は武田家の影響下にあったと考えられます。
武田家と織田家の友好的な交流は、織田信長が美濃攻略中の永禄7年(1564)頃から始まりました。
同年6月13日の遠山氏へ宛てた信玄書状には
「尾州(織田信長)金山(美濃兼山城主)へ其の方昵懇の由に候。誠に安堵せしめ候」
とあることから、斎藤陣営よりもそれに敵対する信長方と誼を通じている方が、武田家にとって都合がよかったのでしょう。
織田信長と武田信玄はその後急速に接近し、婚姻同盟へと発展します。
この時、両家の間を取り持ち、奔走したのが遠山氏でした。
苗木城主遠山直廉の娘を信長の養女とし、永禄8年(1565)に信玄四男の四郎勝頼へ嫁がせました。
これにより両家は固い絆で結ばれ、遠山氏は織田・武田両家に両属するという形で家名を保ちます。
この時、信玄は上洛志向があったために、織田家との同盟を悩んだとする説がありますが、その可能性は低いでしょう。
当時の武田家は、今川氏の姫を妻としている嫡男を幽閉し、家中が大きく揺れていた時期でした。
それに加え、宿敵ともいえる上杉家の存在もあり、その上、西の勢力との面倒事はなんとしても避けたかったと考えるのが自然かと思われます。
永禄10年(1567)に織田信長が稲葉山城を攻め落とし、美濃を攻略します。
翌年には足利義昭を奉じて上洛。
将軍を補佐するポジションを得ました。
武田家はその協力者としてしばらく友好関係を保ちますが、やがて徳川家康との対立や上方情勢の変化、相模の北条家との再同盟などを経て、両者は干戈を交えることになります。
今回記事にしている書状は、こうした武田外交の大きな転機となった時期のものです。
美濃岩村城が武田氏の手に落ちたのが元亀3年(1572)11月14日のこと。
それからわずか6日後に織田信長が上杉謙信へ宛てた長文の書状です。
それでは早速書状の内容をご覧いただきましょう。
詳しい外交の経緯は後で述べます。
信長が上杉謙信へ宛てた書状を解読(終盤)
原文
(元亀三年)十一月二十日付織田信長書状写f
(元亀三年)十一月二十日付織田信長書状写g
どの文字も基本通りのくずしをしているため、古文書を学習中の方は良い腕試しになるかもしれません。
釈文
(f)
一、江州小谷表之事、落着不可有
幾程候、朝倉義景帰國之
調儀無油断候へ共、懸留候間、不
任心中由相聞候、士卒共以
難堪不過之旨候、然間、籠
城之躰沙汰之限候、
(g)
一、度々如申候、虎御前山其外諸
城ニ人数淘々入置、信長自
由ニ可働支度候、聊無越度様ニ
令覚悟候、於时宜者可御心易候、
猶長与一可為口上候、恐々謹言
十一月廿日 信長(花押)
不識庵
進覧之候
この書状を朗読させてみました。
再生ボタンを押すと音声が流れます。(スマホも可)
『VOICEROID+ 結月ゆかり EX』(株式会社AHS)
補足
ここでは難しい表現や紛らわしい字を、補足という形で説明させていただきます。
古文書解読に関心のある方はご覧ください。
(f)
1~2行目の「落着不可有幾程候、」
「落着」が難しいですね。
一見すると”落居”に見えますし、誤読してもさほど意味が変わりません。
この「着」の字は”居”の字に似ていますが、他の文書ではどちらかと言えば”恙”の字に似ている気がします。
「不可有幾程候」は、「不」「可」「有」の3文字とも返読文字ですので、”幾程有る可(べから)不(ず)”と読みます。
つまり、「(小谷城の事は)落着いくほど有るべからず候」となり、砕いた訳し方をしますと「落城するのももはや時間の問題でしょう。」となります。
3行目の「候へ共、」
これは難しいですね。
「候」は”之”にも見え、「へ」は”可”に見えなくもありません。
「共」はこれが基本のくずしです。
しかしながら、これはよく出るパターンなので、慣れが必要と言えるでしょう。
同じく3行目の「懸留候間、不任心中由相聞候、」
「懸」の字は原型を留めていないので難しいですね。
しかし、よく見るとしたごころの部分が残っています。
このように最下部に横棒を引いたようなくずしは、したごころ・れんが・しんにょうがついた漢字である可能性が高いです。
「留」と「間」はこれが基本のくずし方です。
懸も留も古文書でよく登場しますので、優先的に覚えた方が良さそうです。
「不」は返読文字です。
ひらがなの”ふ”に見えるのは、これが元の字だからです。
「不任」で通常は”任せず”、あるいは”任さず”と読むのですが、ここは前後の文脈から見て”任せざる”としたほうがよさそうです。
「間」と「聞」の2文字。
下図は前回投稿した記事に使用したものですが、もんがまえはこのように大きくくずされる傾向にあります。
読み下すと「懸け留まり候間、心中に任せざるの由に相聞こえ候。」
となります。
「相聞こえ」の「相」には特別な意味はなく、単に語調を整えるために用いられています。
つまり「(朝倉義景は帰国したがっているので、いろいろと外交の使者を送っているようですが、)その工作も上手くいかずに現地で懸け留まっていると聞いています」といった意味です。
(g)
3行目の「聊無越度様ニ令覚悟候、」
「聊」は”いささか”と読みます。
「越度」は”おちど”=落ち度のことです。
「無」が返読しますので、「いささかも落度なきように」となります。
次の「令」も返読文字ですので、「覚悟せしめ候」と続きます。
4行目の「於何时宜者可御心易候、」
「於」は「~において」と読み、返読文字となります。
ひらがなの”お”に似ているのは、この字が字母だからです。
「时」は”時”の異体字です。
「者」は”もの”と読む場合もありますが、「~は、」という助詞として用いられることもよくあります。
この場合は後者ですので、「時宜においては、」と読みましょう。
「可」も返読します。
「候」のちょんと打った点が書ききれなかったためか、横にはみ出してしまっている点にご注意ください。
ここは「御心(みこころ)安かるべく候」と読み、ご安心くださいといったニュアンスになります。
他の文書でも「可御心易(安)候」は定型文化しているほど頻出するため、優先して覚えた方が良いでしょう。
先の文章から読み下すと「いささかも落ち度無きの様に覚悟せしめ候。時宜に於いては、御心安かるべく候。」
すなわち「少しも落度がないように努めていますので、時宜についてはご安心ください。」といった文意になるでしょう。
5行目の「猶長与一可為口上候、」
「猶」は”尚”と記される場合もあり、「なお、」といった補足を示す接続詞となります。
木へんに旁がにょろにょろした感じなので読みにくいかもしれませんが、外交文書の最後にこれがくれば、だいたい「猶」です。
「可」、「為」の2文字と続けて返読文字のため、「口上(こうじょう)為(たる)可(べく)候。」と読みましょう。
長与一(郎)は人物名で、上杉謙信家臣の長景連のことです。
彼は能登の国衆である長氏の一族で、早くから上杉謙信に協力して織田信長との橋渡し役として活躍しました。
この時は謙信の誓書を携えて信長と対面し、信長はこれに応えて景連の面前で牛王宝印に誓書血判を据えたと考えられています。
なお、景連はその後、織田家と上杉家が仲違いをした際に、織田方についた同族に攻められて壮絶な最期を遂げました。
読み下すと「なお、長与一口上たるべく候。」
すなわち「なお、(詳細は)長景連に申し渡しましたので、彼が口上するでしょう。」という文意になります。
最後の「恐々謹言(きょうきょうきんげん)」は書留文言の一つで、現在の敬具や草々にあたる部分だと考えてください。
非常に崩した文字なのは、それだけ多く用いられた文字だからでしょう。
原文に釈文を記してみた
(元亀三年)十一月二十日付織田信長書状写+釈文f
(元亀三年)十一月二十日付織田信長書状写+釈文g
書き下し文
(f)
一、江北小谷の事、落着幾程有るべからず候。
朝倉義景帰国の調儀、油断無く候へども、懸け留まり候間、心中に任せざるの由に相聞こえ候。
士卒共を以て堪え難く、これに過ぎざるの旨に候。
然る間、籠城の躰、沙汰の限りに候。
(g)
一、度々申し候如く、虎御前山その他諸城に人数淘々と入れ置き、信長自由に働くべき支度に候。
いささかも落度無きの様に覚悟せしめ候。
時宜に於いては、御心安かるべく候。
猶長与一口上たるべく候。恐々謹言
十一月二十日 信長(花押)
不識庵
進覧之候
原文に書き下し文を記してみた
(元亀三年)十一月二十日付織田信長書状写+書き下し文f
(元亀三年)十一月二十日付織田信長書状写+書き下し文g
現代語訳
(f)
四、江北小谷表の事は、落着するのももはや時間の問題でしょう。
朝倉義景は帰国したがっているので、いろいろと外交の使者を送っているようですが、その工作も上手くいかずに現地で懸け留まっています。
士卒共にとっては堪え難いことでしょう。
小谷に籠城している者どもはこのような状況です。
(g)
五、度々申しましたように、虎御前山やその他の詰城に屈強な兵を多数入れ置き、信長は自由に行動できる準備をしています。
少しも落度がないように努めていますので、時宜についてはご安心ください。
なお、詳細は長景連に申し渡しましたので、彼が口上するでしょう。敬具
(1572年)11月20日 信長
上杉謙信殿
信玄外交の転換点 駿河侵攻と徳川家康との確執
武田家と織田家の関係は前述した通り、概ね良好な関係を保っていました。
比叡山焼き討ちにより法主の覚恕が信玄を頼ってきた時も、信長へ一定の配慮をしていたほどです。
武田家が織田家との外交断絶へ至った要因として、徳川家康の存在抜きでは語れないでしょう。
信玄が家康と本格的な外交のやり取りをするようになったのは、永禄11年(1568)頃だと考えられています。
交渉の内容は、駿河の大名今川氏真をいかに挟撃し、その後の国境をどのように分けるかでした。
(史料1)
其れ以来、申遠意外に候。
そもそもこの度当国に向かい出馬候のところに、手合わせのため急速に御出張、本望満足に候。
即ち遠州(=遠江国)へ罷り立つべく候といえども、当国諸士の仕置き等申し付け候の故、一両日の間延引、三日の内に越山せしむべく候。
早々懸川(=掛川)へ詰陣尤もに存じ候。
まことに面談を遂ぐべきの条、大慶これに過ぐべからず候。恐々謹言
(永禄十一年)十二月二十三日 信玄(花押)
徳河殿(徳川家康)
(出典不明・『戦国遺文 (武田氏編第2巻) 』)
この時信玄・家康の間では、国境を分ける文言に「遠州の川を境にして」とする約定を取り決めたようです。
しかし、それが後に両家の絆に亀裂を生むこととなります。
永禄11年(1568)12月。
武田信玄は大軍を率いて駿河の今川氏真領へ攻め入りました。
徳川家康も約定の通りに軍を東へ進めます。
今川氏真はこれに対抗すべく縁者の北条家へ救援を要請。
さらに、もしもの事態に備えて友好関係を築いていた上杉謙信にも助けを求めます。
しかしながら、今川方の家老衆はすでに武田へ内通していたため、今川家の情報は筒抜けでした。
今川軍は薩埵峠で武田軍を迎え打つものの、徳川勢と挟み撃ちにされては満足に戦えません。
氏真はたまらず駿府を捨てて遠江掛川城ヘ逃れます。
この時氏真正室の早川殿の保護を武田軍が怠ったため、彼女は取る物も取り敢えず館を脱出するという一幕があったようです。
早川殿は北条氏康の娘です。
かつては武田の姫を北条氏政に、今川の姫を武田義信に、そして北条の姫(早川殿)を今川氏真へそれぞれ嫁ぎ、次世代を見据えて三国同盟を結んでいた仲でした。
信玄の一連の行動に懸念を抱いていた北条氏。
早川殿の一件を聞いた北条氏康は怒りを顕わにしたと伝わっています。
明けて永禄12年(1569)1月。
駿府を攻略した武田勢でしたが、重要拠点の薩埵峠を北条氏に握られていたため、苦しい戦いを強いられます。
膠着状態となった戦況に見切りをつけた信玄は、江尻城に穴山氏らを残して甲斐へ帰陣しました。
同年5月。
武田家を取り巻く周辺勢力に大きな動きがあります。
関東の北条家が、越後の上杉氏と同盟を結んだのです。(越相同盟)
さらに、武田軍が遠江へ兵を動かしたことで徳川家康から抗議があり、武田・徳川間の外交関係は急速に悪化します。
駿遠国切「川を境に」という約定について
この時、曖昧に規定した国境の川を巡って両家の間で、大きな見解の食い違いがあったと考えられています。
この「川を境にして」とするものが、一次史料には残されていないため、信憑性は落ちますがいくつかの軍記物から紹介します。
まずは『家忠日記増補』です。
(史料2)
(永禄11)十二月小六日、今川氏真ガ家臣等、志ヲ武田信玄ニ通ズ。
是ニ依リテ、信玄、駿州ヲ略サント欲シテ兵ヲ率シテ甲州ヲ発ス。
大神君、武田信玄ト、大井川ヲ堺トシテ、遠州ヲ領セント約ヲ成シ給フ。
『家忠日記増補 三より抜粋』
これとほぼ同じ内容のものは、他にも『三河物語 ニ』や『創業記考異 一』があります。
続いて『浜松御在城記』には
一、同年(永禄11)、信玄ト大井川ヲ境として、駿州ハ武田、遠州ハ権現様御切取成され候様ニト、国キリノ御約信に御座候。
此の取り持ちハ、信長公、甲州ヨリノ御使ニ、山県三郎兵衛頼実来ト申す説に御座候。
日限使者ノ名は未詳。
追テ考え申し上ぐべく候。
頼実イニ(異に)昌景となす。
『浜松御在城記 一より抜粋』
(漢文調のため、私が書き下した部分はひらがなで表記)
とあり、これには織田信長が両者の間を取り持つ形で絡んでいるので少し驚きですね。
『武徳編年集成』巻九には信玄の書状が所収されています。
その内容は
いささか疑心に及ばず候といえども、誓詞(=起請文)の儀、所望申し候のところ、すなわち調い給い候。
祝着に候。
信玄の事も案文の如く、書写に於いて、使者の眼前で血判致しこれをまいらせ候。
愈々御昵懇希む所希む所に候。恐々謹言
二月十六日 信玄(判)
徳川殿
『武徳編年集成』巻九』より抜粋
この時代の外交文書には年号が記されていないことがよくあるのですが、内容的に永禄12年(1569)の2月だとしたら前後が嚙み合いません。
永禄11年(1568)の2月のことだとしたら、かなり早い段階から両者はすでにこのような取り決めをしていたことになります。
これまでの通説では、大井川を境にして徳川が西側を、武田氏が東側を領する約束をした。
しかし、武田氏が大井川を越えて小山城に入った。
徳川氏がこれに抗議したが、武田側は大井川ではなく、それよりもはるか東の天竜川を境として取り決めたのだとして、以後は両家の外交は断絶状態となり、やがていくさへと発展したというものです。
しかしながら、本当にそれが真実なのか。
私はどうもこのような初歩的な交渉ミスがあったとは信じがたいです。
さすがに天竜川・大井川で相論になるのは無理があると思いますので、より現実的な点で見れば、古来から氾濫を繰り返す大井川の境を巡っての相論ではないでしょうか。
先に示した3つの史料の他にも、大井川説を裏付けるものがあります。
あの信憑性が疑問視されている『三河物語』です。
「大井川ヲ堺トシテ」 『家忠日記増補』
「大井川ヲ為境(境として)」 『浜松御在城記』
「大井川ヲ限リ」 『創業記考異』
「大井川を切て駿河之内をバ信玄の領分、大井川を切て遠江の内をバ某領分」 『三河物語』
真実はわかりませんが、大井川を境とするならば、両家の国境問題は必ずしも信玄に非があるとは限らないのかもしれません。
国境を取り決める約定をした後に、信玄が小川の地の利の重要性に気づき、曖昧な大井川の境目を利用して強引に普請を開始した可能性もあります。
いずれにせよ、この国境問題で徳川家康が激昂し、武田信玄を討つべく北条家と誼を通じます。
さらに越後の上杉謙信とも気脈を通じ、武田包囲網を築く工作に乗り出すのです。
今川氏真の籠る掛川城を包囲していた家康は、北条家の仲介により開城にこぎつけました。
以後、織田信長は徳川・上杉陣営と武田陣営の板挟みに遭い苦しむこととなります。
和平を願う足利義昭の和を乱す御内書
永禄12年(1569)5月に掛川城を手に入れた徳川家康は上杉謙信に急接近。
今川氏真夫妻を領内に招き入れた北条家も上杉家と和を結び、信玄打倒に燃えていました。
武田包囲網の気運が盛り上がる中、信玄が事態打開の切り札に使ったのが、同盟国の織田信長でした。
信玄は信長に徳川家との和睦の仲介を依頼します。
併せて信玄は、信長と将軍足利義昭に働きかけて上杉謙信との和睦の仲介を依頼します。
(史料3)
この度凶徒ら蜂起せしむるのところ、則ち織田弾正忠(信長)馳せ参り、悉く本意に属し、今に在洛の事に候。
次に越甲此の節和与せしめ、いよいよ天下静謐の馳走、信長相談ずべき儀肝要、そのため智光院(智光院頼慶)差し下し候也。
(永禄十二年)二月八日 (足利義昭花押)
上杉弾正少弼(輝虎)とのへ
『(永禄十二年)二月八日付足利義昭御内書』(上杉家文書 一)
(信長の副状)
越甲の御間和与の儀に就き、御内書を成され候。
此の節入眼あり、公儀御馳走簡要に候。
別して取り申さるべき事、信長に於いて快然たるべく候。
なお御使僧漏脱あるべく候。恐々謹言
二月十日 信長(花押)
直江大和守(景綱)殿
『(永禄十二年)二月十日付織田信長副状』(上杉家文書 一)
謙信はこの和議をあまり快く思っておらず、交渉は難航しました。
しかし、上杉氏も将軍の命を無下にはできません。
また信長の面子を立てるためもあって、この要求を受け入れ、同年8月に和議が成立します。
この上杉氏の心変わりに強い不快感を抱いたのが同盟国の北条氏。
上杉が和睦した以上、不利を悟った徳川家康はなすすべもありませんでした。
このように徳川・北条・上杉間の外交は、様々な思惑が絡み合い、連携が全く取れていませんでした。
これにより武田氏は窮地を脱します。
かくして武田信玄は、自らの外交の失敗を挽回したのでした。
そして、今度は武田氏が一転、攻勢に転じます。
信玄の第二次駿河侵攻
信玄は上杉-北条氏の同盟に不満を抱く関東の国衆たちを味方につける工作を本格化させます。
その結果、下総の簗田氏・安房の里見氏・常陸の佐竹氏らが蜂起し、関東地方で大小含めさまざまな戦闘が発生します。
永禄12年(1569)8月。
信玄はこの隙を利用し、駿河国へ再侵攻。
さらに北条氏の本拠である小田原城を取り囲み、追撃を試みた三増峠で激しい戦闘があったと伝えられています。
この戦いの詳細は定かではありませんが、この後の展開は武田有利に事が動きました。
北条氏も再三にわたって上杉家へ救援の要請を出しましたが、信玄が扇動した越中一向一揆勢との死闘。
さらに、和議の手前がある以上積極的には動けませんでした。
年が明けた元亀元年(1570)になっても戦況は依然武田有利のまま動きます。
この年の7月に徳川家と北条家の要請を受け入れた上杉氏は、武田信玄との和議を破棄しますが、ついに武田領を直接攻撃するには至りませんでした。
元亀2年(1571)1月。
武田勢は駿河国における北条方の最後の拠点深沢城を陥れ、駿河の大半を平定。
安堵状などの判物を多く発給し、新領の安定化を図ります。
龍勝寺院殿死去 織田信忠へ松姫を嫁ぐ約束
この時期、信長の養女として信玄四男の勝頼へ嫁いでいた龍勝寺院殿が病没します。
織田との縁が切れたことを危惧した信玄は、娘の松姫を信長嫡男の信忠へ嫁がせたいと申し出ます。
信長も信玄の傍若無人な外交姿勢に内心快くは思っていなかったでしょうが、畿内や越前の予断を許さない状況から、この縁談を受け入れます。
徳川家からの妨害があったものの、依然信長は武田との同盟を最優先に考えていたのでしょう。
なお、その後両家の外交関係は急速に悪化したため、実際に信忠のもとへ輿入れすることはありませんでした。
元亀2年(1571)は畿内でも大きな動きがあり、信玄は将軍足利義昭の命を受け、織田-本願寺間の和睦の仲介役として奔走します。
信玄の正室は公家の三条家の姫であり、その妹が石山本願寺の法主顕如へ嫁いでいた関係から、武田と本願寺は関係が良かったのです。
一方信長も、義昭の命で武田-上杉間の再和睦を命じられていました。
関東で上杉謙信と対峙
この頃から、信玄は戦略の再構築を考え始めたのではないかと思います。
元亀2年(1571)9月。
織田信長は経済的な利害の不一致や治安悪化への懸念、また、この地に再び敵が陣を敷くことを防ぐために、比叡山焼き討ちを敢行します。
たまたま在京していた延暦寺法主の覚恕は難を逃れ、その足で甲斐の武田信玄を頼りました。
覚恕は正親町天皇の弟です。
信玄としてはこれ以上ない大義名分を手に入れたと見て良いでしょう。
この時期から信玄が越前の朝倉義景や本願寺顕如へ宛てた書状が増え始め、上洛をほのめかす内容も散見されることから、信長と敵対する陣営からしきりに味方につくように誘われていたと考えられます。武田氏も朝倉氏、浅井氏も、滅ぼされて館が焼かれてしまっているので、受け取っているはずの文書が遺されていないのが残念です。
同年冬。
越中国の攻略に掛かりきりだった上杉謙信がようやく北条家の要請を呑み、上野国の武田家属城に攻め込みました。
さらに武田と手を結んだ佐竹義重が、上杉陣営に属す小田氏治を攻めたため、謙信はその救援に動きます。
これを見て信玄も上野国へ出陣します。
そんな中、信玄を憎み上杉家との同盟を主導してきた北条家隠居の氏康が病死します。
この時期に信玄側近が上野厩橋城主北条高広へ宛てた書状が遺されています。
(史料4)
存じ寄らず候ところ、先日は御礼珍重に候。
仍って御密談有るべきの旨に候条、雨宮存哲これを遣わし置くべきの趣き、仰せ蒙り候間、御作意に任せ、内藤修理亮(昌秀)と談合致し、これをまいらせ候。
然るに三ヶ条の御書に付き承る通り、つぶさにその意を得せしめ候。
但し、彼の修理(内藤昌秀)は、去る頃殖野の陣に於いて相互いに仰せ究められ候。
筋目に相替えず候。
しからば信玄 勝頼に申し聞かすに及ばず候間、これを黙止候。
総別は、当時甲(甲斐国)相(相模国)昵懇、無二に申し合わさる上は、三和一統のほか、成就し難く候。
畢竟此の所、御分別過ちべからず候。
委曲、金井淡路守申し達すべく候。恐々謹言
跡大(跡部大炊助)
(元亀二年)十二月十七日 勝資(花押)
北丹(北条丹後守高広)
北弥(北条弥五郎景広)
御宿所
『(元亀二年)十二月十七日付跡部勝資書状』(高橋大吉氏所蔵文書)
注目すべき点は、北条高広はすでに武田に内通していること。
北条氏康の死後、北条氏は外交を大転換させ、再び武田との和を模索していること。
でしょうか。
さらに信玄は越中の一向一揆をしきりに扇動し、彼らを再挙兵させることに成功しました。
上杉謙信が関東へ注力できなくしたのです。
続いてこちらもご覧ください。
(史料5)
このたび弱兵の籠もる石蔵の出城(上野国)、まことに夫(それ?)累年の誉れ無念に候。
幸い駿州表悉く静謐存分に候条、分国の諸勢を引率し、無二に一戦を遂ぐべくとして出馬候ところ、敵厩橋(上野国)に至り退き候哉。
なおもって遺恨に候。
但この上も、所当の行(てだて?)工夫の旨に候の間、来(月)十日に越山、委曲、面談を期し候。恐々謹言
(猶々書き部分)
追而、近年の擬無念候といえども、前非を悔い悃望候間、(北条)氏政和睦を遂げ候。
その上、興国寺(駿河国)請け取り、平山(駿河国)を破却、駿州平均に御心易かるべく候。以上
(元亀三年)正月八日 信玄(花押)
信竜斎(小幡憲重)
小幡上総介(小幡信真)殿
『(元亀三年)正月八日付武田信玄書状写』(東京大学史料編纂所所蔵・中村不能斎氏採集文書)
これは信玄が元亀3年(1572)の年明け早々に、上野国にいる家臣の小幡氏へ宛てたものです。
城が攻め落とされ、敵に遺恨は深長だけれども、北条家との和睦は成立した。
国境の取り決めにより、駿河国の興国寺は武田のものとなり、平山城は破却することが決定されたようです。
関東で多大な影響力を持つ北条氏の心変わりは、さぞ大きな出来事だったでしょう。
北条氏のために関東で越年し、長陣を強いられていた謙信にとっては、到底受け入れられないことでした。
信玄が扇動した越中一向一揆勢の勢いも凄まじく、たまらず上杉謙信は越後へ撤退します。
(史料6)
其の地へ出陣、苦労察し入り候。
仍って相(北条氏政) 甲(武田信玄)前々の如く昵懇、定めて大慶たるべく候。
従って、輝虎(上杉謙信)備えの術を失い、ようやく退散の砌に候の間、氏政と申し合わせ、此の節に亡くすべく越軍(兵を出すこと)し候。
別して戦功を抜きんでらるべきの条、肝要に候。恐々謹言
(元亀三年)閏正月十日 信玄(花押)
大藤式部丞(政信)殿
『(元亀三年)閏正月十日武田信玄書状』(湯浅家所蔵文書)
これはこの時期に信玄が大藤政信という北条家の家臣へ宛てた書状です。
大藤氏は相模田原城主です。
上杉謙信が元亀3年(1572)閏正月の時点で、ようやく撤退するという興味深い情報が記されています。
武田信玄の雄大な外交戦略
関東地方はこのような情勢である一方、畿内では織田陣営と反織田陣営が、互いに味方を増やさんとしてさまざまな風説が飛び交います。
同年1月14日には本願寺顕如が信玄へ、信長の背後を脅かすように依頼する旨の書状を出すなど、武田を巻き込む動きがあったことが窺えます。『顕如上人御書札案留』
しかし、信玄は未だ織田家と同盟中との立場を崩さず、このような書状を信長側近へ出しています。
(史料7)
遼遠の堺(大阪府)よりの無音意外に候。
甲(武田信玄) 相(北条氏政)は存外に和睦を遂げ候。
これに就きて礼式に従い、三(三河国) 遠(遠江国)両州、虚説あるべく(候)か。
縦(たとい=例え)扶桑国(日本国のこと)過半を属手裏に候とも、宿意(前々からの恨み事)何れも以て信長へ疎遠に存ずべく候や。
勘弁遂げられ、妄者の讒言、信用油断無き候様、然りといえども、存じ旨候の間、許容致さず候。
委曲、市川十郎右衛門尉申すべく候。恐々謹言
(元亀三年)正月二十八日 信玄
夕庵(武井夕庵)
『(元亀三年)正月二十八日付武田信玄書状写』(国立国会図書館所蔵・武家事紀 三三』
なかなか興味深い内容です。
武井夕庵とは、当時の信長の側近中の側近として知られる人物で、奉行を歴任したほか、茶道にも通じ、その優れた教養から老齢ながらも信長から重用されていました。
北条との和議が成立した旨を伝え、例え日本の過半が敵になろうとも、信長のことを決して疎意にはしないと誓っています。
その上で、妄者の讒言に惑わされてはならないと、信長を安心させつつ、脅しともとれる文言が書き連ねられているのが面白いですね。
しかしながら、同年3月頃には奥三河に位置する奥平氏・菅沼氏らを調略によって徳川家から鞍替えさせるなど、信長の頭を悩ませ続けました。
また同時期に将軍足利義昭は、大和淡路守と竹田梅咲軒の両名を使者として信玄のもとへ派遣し、本願寺との和平の仲介を依頼します。
本願寺は蜂起以降、門徒の組織力を利用して兵力や物資を各地から大坂へ送り込んでいます。
美濃国の専福寺もその一つで、末寺からも門徒を集めて共同謀議を行うなど、岐阜城近辺でも予断を許さない状況でした。
信長は同年7月13日付けでそれらを阻止する掟書を発給しています。『専福寺文書』
武田信玄は将軍義昭の意向を受けて、信長と本願寺の和睦に本腰を入れます。
以下の史料は信玄が本願寺側へ宛てたものです。
(史料8)
京都より下さるる御両使、貴寺と信長との和睦に、信玄の中媒尤もの趣き、御下知に候。
これにより、まず飛脚を以て申し候。
是非急度回札に預かるべく候。
委曲竜雲軒、堀野左馬允の所より申し越さるべく候。
恐々謹言
(元亀三年)八月十三日
下間上野法眼御房 信玄(花押)
進せ候
『本願寺文書』
これら信玄の和睦周旋を本願寺は「信長に対し遺恨は深長だが、貴辺の斡旋は受諾する」と返しています。『顕如上人御書札案留』
信玄はこれで信長に一つ貸しを作ったつもりだったのかもしれません。
この時期の信玄外交は2年前とは大きく違い、非常に大胆かつ緻密でした。
織田信長が将軍の意を受けて推し進めていた武田-上杉間の和睦調儀に対し、信玄は色よい返事を返さなかったのです。
次々と内応を申し出る織田・徳川・上杉陣営
信玄はこのような外交姿勢を採る中、積極的に調略を用いて徳川や上杉方の国衆の切り崩しを行っています。
(史料9)
定
飛州(飛騨国)の調略、祝着に候。
これにより、濃州(美濃国)の内に於いて、一所相渡すべく候。
名所等言上有るべく候ものなり。仍って件の如し
元亀三年壬申
九月二十六日 信玄(花押)
山村三郎左衛門尉(良利)殿
『元亀三年九月二十六日付武田信玄判物写』(長野県木曾福島町・山村家文書)
これは、この時期に信玄が従属する信濃国の国衆木曾氏の家老へ宛てた判物の写しです。
木曾氏は古来より近隣の国衆らと良好な関係を築いていたことから、飛騨への調略を任されていたと考えられています。
この工作は実を結び、江馬氏らを内応させました。
同月二十九日付けで江馬輝盛らに、雪解け次第に姉小路(三木)自綱を討伐する旨の書状が遺されています。『(元亀三年)九月二十九日付武田信玄・勝頼連署状』
江馬氏は上杉謙信、姉小路氏は上杉謙信・織田信長に従属に近い関係でしたが、信玄がそこに食い入った形です。
「濃州の地に於いて知行を相渡す」とある点が気になるところですね。
美濃は言うまでもなく織田信長の領国です。
これは織田信長と対決する決意を既にしていたのか、それとも何かの間違いなのか・・・。
実はこの時期の信玄の真意について、学者先生の間でも意見が割れています。
このことについては、後でもう少し詳しく述べたいと思います。
それはさておき、謀略家信玄の大胆不敵な外交・調略を、武力でへし折った男がいます。
その男こそ上杉謙信です。
(史料10)
其の国の様子心許無き余りに候条、飛脚を以て申し候。
そもそも不慮の仕合ゆえ、富山落居、是非無き次第に候。
去年以来加(加賀国)越(越中国)両州対陣の事に候の間、随分手合いの儀、油断無く候き。
然りといえども、信玄自身が越後へ乱入に至るの儀は、遠(遠江国)三(三河国)の動き無きによるゆえ、遅々、それ以後彼表へ、隙明きに帰陣候。
直に越府へ向かい干戈働くの旨儀定せしめ、既に信(信濃国)越(越後国)の境まで先衆を立ち遣わし候のところ、途中病気を得るに於いて、躊蹰(ちちゅう=ためらってなかなか進まないさま)のみぎり、輝虎(上杉謙信)退散について、無役に納馬候。
信玄の煩い、(平元之願候 ここ読めない)。
然らば、後詰の行、いささか用捨あるべからず候。
無二に父子出馬せしめ候間、加州衆重ねて出張、其の国静謐に候の様、御肝入り尤もに候。
委曲、来信を期すの時に候。恐々敬百
(元亀三年)十月一日
信玄(花押)
勝頼(花押)
勝興寺
几下
『(元亀三年)十月一日付武田信玄・勝頼連署状』(高岡市・勝興寺所蔵文書)
簡単に訳すと、(信玄が扇動した越中の一向一揆勢が、同年9月に上杉謙信に決戦で敗れた。)
富山城は落城してしまったが、これも是非も無いことである。
越後へ攻め入ることについては、三河・遠江に不穏な動きがあるので遅れてしまった。
もうすでに越後へ出陣する手はずは整えている。
先衆の者たちに国境まで出陣を命じたところで、私が病にかかってしまってどうしようか思案に暮れていた。
その間に上杉勢が兵を退いたので、戦果なく兵を納めたところだ。
私の病は間もなく治癒するだろう。
従って、援軍には必ず駆けつける。
信玄勝頼父子が自ら兵を出すゆえ、加賀の衆はもうひと頑張りし、国内の平穏を取り戻すように奔走しよう。
といった内容です。
秋の小雨が降りしきる中、上杉謙信は越中国で一向一揆勢や椎名・神保氏ら連合軍と一大決戦を行い、大勝利を収めました。
これはその時期のものです。
何とも微妙なことが記されていますが、助けに行かなかったことを自らの病を言い訳にしている点が面白いですね。
少し日にちは前後しますが、元亀3年(1572)10月。
武田信玄は大軍を率いて遠江の徳川家康を攻めます。
上杉謙信は越中戦線に釘付けで武田領を攻める気配がありません。
また、織田信長も江北の陣で朝倉義景と対峙中でした。
信玄としてはこの時織田信長と戦う決意があったのか。
それとも、信長は畿内の戦いに懸かりきりだから、武田-徳川の戦いは憂慮しながらも静観せざるを得ないだろうと読んでいたのか。
信玄の真意は誰も分かりませんが、ここで一つの手がかりとして興味深い史料があります。
(史料10)
其の表に於いて、別して当方に荷担の由、祝着に候。
当国過半存分に任せ候か。
岩村(美濃国)へ人数を移す候条、春に至るは、濃州へ出馬せしむべく候。
其れ以後、岐阜へ向かい敵対(の意を)顕わされ候。
悉く皆馳走、本望たるべく候。
委細、三村兵衛尉口上候。謹言
(元亀三年)十一月十二日 信玄(御判)
遠加々守(遠藤加賀守)殿へ
『(元亀三年)十一月十二日付武田信玄書状写』(鷲見栄造氏所蔵文書)
宛名となっている遠藤氏とは、美濃郡上八幡一帯を治める国衆です。
遠藤加賀守は当主ではなく、その一族にあたる人物です。
当然織田信長の陣営ですが、信玄の調略に応じて複数の書状をやりとりしていることが明らかになっています。
なお、遠藤氏は浅井長政とも気脈を通じており、領内の寺で武田・浅井氏の仲介をしていたような節があります。
(史料11)
未だ申し通せず候といえども、啓せしめ候。
仍って甲州の役者(やくもの=奉行人)差し越し候ところ、胤繁御昵懇の段、謝り難く存じ候。
殊に貴辺種々御馳走の由、快然至極に候。
遠(遠江国) 三(三河国)早速信玄に属され存分の儀、珍重比事候。
向後飛脚に切々と罷り通すべき候条、御退屈無く御調え、畏悦たるべく候。
万吉来音を期し候。恐々謹言
(元亀三年)十一月十五日 (浅井)長政(花押)
遠藤加賀守殿
御宿所
『(元亀三年)十一月十五日付浅井長政書状』(古今消息集・岐阜県史)
これは浅井氏が初めて遠藤氏へ宛てた書状だと考えられます。
信玄に内通したことを喜び、武田に加えて浅井家とも昵懇にしてほしいという内容です。
当時の浅井家の戦況は悪化の一途を辿り、小谷山城の麓にまで織田勢が砦を築いて兵が詰めている状態でした。
織田・武田間で揺れる遠山氏
冒頭で遠山氏が織田家と武田家の仲を取り持ったことについて少し触れました。
これにより東美濃の地は安定し、平和が訪れました。
しかしながら、元亀2年(1571)には早くも暗雲が漂います。
遠山氏の配下である土豪の小里氏が、武田氏に対して謀叛を起こしたのです。
信玄は遠山家当主の景任、その弟の直廉に対し「信玄は他の作戦に従事しなければならないため派兵することはできないが、時期が来たら必ず小里氏を屈服させる」と伝えています。『神宮文庫所蔵文書』
この小里氏の謀叛を、織田氏側への寝返りと見ることができるかもしれません。
さらに悪いことが続きます。
翌元亀3年(1572)8~10月にかけて、遠山家当主で岩村城の景任、苗木城の直廉が相次いで病死します。
この時期の織田信長は、浅井長政を討つべく江北の陣中におり、虎御前山などに砦を築いて朝倉義景と対陣中でした。
武田信玄は北条家との和睦を成立させて上杉謙信を関東から追い返し、徳川家康の遠江へ攻め入ろうと準備していた時期です。
同年10月。
これを受けて信長は、自らの子である御坊丸を岩村城へ送り込み、遠山家の当主として据え置きました。
さらに織田信広と河尻秀隆を、岩村城の保護を名目に派遣します。『河田重親宛上杉謙信書状写』
信長としては、武田信玄のたび重なる勝手気ままな振る舞いに、灸を据えたつもりだったのかもしれません。
それに併行するように、恵那では延友信光(佐渡守)が織田家と結んで武田氏に対抗します。
このように、遠山氏が織田か武田のどちらに帰属するのかという問題に併行して、こうした土豪たちの反乱も東美濃の地を不安定にさせる大きな要因となりました。
しかし、翌月になると事態は一変します。
事実上織田氏に制圧されていた岩村城が、一転して武田氏の手に渡ったことが信玄が朝倉義景へ宛てた書状から明らかになっています。『(元亀三年)十一月十九日付け武田信玄書状』(徳川黎明会所蔵文書)
この中の一文で特に気になる点が
「岩村江移人数候条、至春者、濃州江可令出馬候、其以後、向岐阜江被顕敵対候、」
とあることです。
つまり、岩村城へ人数を移し、来春に信玄が岐阜へ出陣する。以後は織田家へ敵対の意を明らかにするという意味です。
なお、信玄は同日付で美濃遠藤氏へも書状を発しており
「(11月)十四日に岩村城を請け取り、人数を籠(こ)め置いた」と伝えています。『(元亀三年)十一月十九日付武田信玄書状写』(鷲見栄造氏所蔵文書)
これらの史料には、武田が岩村城を攻撃したという記述はありません。
同時期に信長が東美濃の豪族である延友信光(佐渡守)へ宛てた書状には「岩村城逆心」と記されています。
以上のことから、これまで通説とされてきた信玄家臣の秋山信友なる人物が岩村城へ攻め入り、おつやの方と婚を通じて城に居座ったとする説は怪しくなってきます。
そうなれば、織田家と武田家の外交関係が断絶状態になったのはいつなのかについて考え直す必要があるでしょう。
信玄の真の狙いはどこにあったのか 学者を悩ますさまざまな説
信玄の真の狙いはどこにあったのか。
このことについて、二人の著名な学者先生は以下のような見解を示しました。
いささか文章か長くなってしまいましたので、要点だけまとめます。
鴨川達夫氏
- 信玄の目標は徳川領ではなく、織田信長の岐阜。
- 徳川家康に対して一撃さえ加えれば十分だった。
- 織田を攻めるため、あるいは織田と上杉の連絡を絶つために飛騨の国衆を調略した。
- 岐阜をいずれ攻めるつもりだった。
- しかし、信玄は信長との対決は必ずしも本意ではなかった。
柴裕之氏
- 信玄の主目的はあくまで徳川領で岐阜方面ではない。
- 山県昌景に加え、秋山虎繁も遠江・三河の諸城を攻めているので、美濃が主目的ではないのは明らか。
- 武田の岐阜侵攻は、遠江攻略中に岩村城の遠山氏が従属したことで初めて持ち出されたものである。
- 遠山氏の帰順は自発的なもの。
また、本多隆成氏は秋山虎繁の岩村城攻撃はなかったとする柴氏の説に賛同しながらも、信玄が家康の本拠である浜松城を落とさなかったことから、信玄の主目的は織田領だったとの見解を示しています。
柴辻俊六氏は概ね柴氏の説に賛同。
丸島和洋氏は、信玄の目標は徳川家康で、信長は徳川・武田の戦いを静観するだろう。
ところが織田が援軍を家康に派遣したことで織田との対決を決意するようなったとの見解のようです。
遠江進撃 三方ヶ原の戦い
元亀3年(1572)10月。
武田信玄は大軍を率いて徳川家康の遠江へ攻め入ります。
北条家からの援軍も加わり、数万の大軍をもって徳川方の諸城を次々と陥落させます。
武田信玄の行動に激怒した信長は徳川家康を支援。
援軍を徳川方へ派遣します。
信玄も朝倉義景、浅井長政、本願寺顕如、足利義昭らと連絡を密に取っており、彼らへ激励する旨の書状がいくつか遺されています。
(史料12)
条目
一、当備遂日任存分候事、
付、二俣之地取詰候、落居可為近日之事、
一、岩村之城属当手候之間、人衆相移候事、
付、条々有口上、
一、此上両様行之事、
付、条々
一、如聞得者、織田信長岐阜へ帰、引間へ三千余加勢、不審存候事、
一、当陣下風聞之事、
付、依大坂貴辺御催促如此、信長為当敵動干戈所御分別之事、
一、信長例式謀略察入候間、為可散御叡心、以誓詞申候、従貴辺も可給之事、
付、条々、
一、郡上之遠藤向岐阜なたをの取出、早々可築之旨、令催促候、自其も同前ニ可被仰越之事、
一、至来年五月御張陣之事、
一、大坂門徒中蜂起御催促之事、
付、長島之事、
已上
(元亀三年)十一月拾九日 (信玄朱印)
越陣江
『(元亀三年)十一月十九日付武田信玄条書』(武田黎明会所蔵文書)
これは、この時期に信玄が朝倉義景へ宛てた条書です。
釈文のままお伝えしたかったので、この史料だけは読み下さずに載せました。
先に述べた「岩村に人数を移した」の根拠となる史料です。
また、信長が徳川へ送った手勢は三千余と記されていますね。
これも非常に興味深い点で、もし三千騎という意味であるならば、解釈の仕方が変わってきます。
あくまで武田側の見立てで、朝倉氏を励ます書状ですので、どの程度信を置いて良いのか難しいところです。
今回解読した『(元亀三年)十一月二十日付織田信長書状写』には、「朝倉義景は帰国したがっていて、いろいろと外交の使者を送っているようですが、その工作も上手くいかずに現地で懸け留まっています。」という一文があったと思います。
この時期の朝倉義景はまさにそういう状況で、陣中から織田方へ寝返る者が出ていることからも、戦意は低かったのかもしれません。
一方、武田軍の戦意は高く、二俣城が12月19日に陥落。
遠州の北部が武田の手に落ちました。
後詰に行かねば戦わず降伏するのが戦国の常です。
12月22日。
家康は浜松城に籠城する策を捨て、生涯をかけた一大決戦を挑みます。
それが三方ヶ原の合戦です。
その結果、徳川・織田軍は敗走。
信玄は大きな勝利を掴み、ここに織田の援軍が加わっていたことで信長と戦う口実も手に入れます。
しかし、この時信玄は病に侵されていたのか、武田本隊の動きは鈍いように思えます。
さらに信玄は、我が耳を疑うような情報を耳にします。
(史料13)
使僧を以て承り候条、其の意を得候。
仍って二俣(遠江国)の普請出来候間、三州(三河国)に向かい進陣のみぎり、家康人数を出し候の条、去る二十二日、当国(遠江国)に見方原(三方ヶ原)に於いて一戦を遂げ、勝利を得、三(三河国) 遠(遠江国)両国の凶徒並びに岐阜の加勢衆を千人余人討ち取り、本意を達し候間、御心易かるべく候。
また、巷説のごとくは、御手前(朝倉義景のこと)の衆過半は帰国の由、驚き入り候。
各々の労兵は勿論に候。
然りといえども、此の節信長滅亡の時刻到来候ところ、唯今寛宥の御備労に功無く候か。
御分別に過ぎべからず候。
なお、彼口上に与え付け候。恐々謹言
(元亀三年)十二月二十八日 信玄(花押)
謹上 朝倉左衛門督(義景)殿
『(元亀三年)十二月二十八日付武田信玄書状』(千葉県伊能家所蔵文書)
三方ヶ原の合戦で徳川・織田勢を打ち破ったと報じた上で、朝倉義景が陣を引き払って帰国したことに驚いたと書いています。
寒い冬を前に和議を計るのは当然の習わしなのですが、信長を倒す絶好の好機なのに、大事を取って兵を休ませるのは上分別とは思えないとしています。
このように、反織田陣営も決して足並みは揃っていませんでした。
越中では上杉謙信が不利な戦況を覆し、一向一揆勢や椎名氏を追い詰めている状況でしたから、朝倉家が一向一揆との盟約がある以上、彼らの方へ加勢する義務があったのかもしれません。
では、これまで黒幕とされていた足利将軍家が、一体いつから信長へ敵対する意思を鮮明にしたのか。
それを探る一つの手掛かりを示して、このシリーズを締めくくりたいと思います。
まとめ
この時期、既に織田信長と将軍足利義昭の関係は冷え切っていました。
元亀3年(1572)9月に、信長が将軍の悪行を列挙した条々を記した『異見十七ヶ条』を方々へ送っています。
これはいわゆる弾劾状の一種なのですが、将軍家も実力がない以上、すぐさま敵対したというわけではありませんでした。
実際に将軍が信長に対し敵意を鮮明にして挙兵したのは、翌元亀4年(1573)の2月のことなので、その間に将軍家として挙兵しても勝算が立つ何かがなければなりません。
以下に示す史料は、信玄が足利義昭へ伝える目的で宛てたものです。
そこには信長・家康の行いを激しく弾劾し、悪徒信長を必ずや討ち果たし、公方様(将軍)がご安心頂けるように奔走するという心強い文言が列挙されています。
(史料14)
遠州 三州両国に至り、家康神社仏閣諸仏物押妨、民を害す事、利欲心、恣振逆威の条、前代未聞の次第なり。
然して信玄一挙の義兵を起こし、大軍を靡かせ、発向せしむるのところ、彼ら与党馳せ集め、要害を大半破却せしめおわんぬ。
残党悉く攻め伏すべきのきざみ、寛宥の御教書を成され、積悪等、あげてかぞうべからずの条、御請け申し難く、所詮信長 家康以下の逆党を誅伐し、天下を請け鎮むる旨の趣き、謹じて言上、そもそも信長が逆乱を企み、山上山下(=比叡山延暦寺)焼亡、(諸仏物落取、巳厳私用、極栄花諸人閉口、頻申眉仕立、偏仏法王法破滅、天魔破旬変化也、合昇殿登高官、奉軽尊体之咎、無所遁其罪、 ここ読めない)
一、(不弁己叵、夫向月卿雲客、 ここ読めない)猥りに放言せしめ、権門を侮り、無礼の咎、その罪浅からず。
二、洛中洛外を徘徊し、徳分の課役を相懸け、砂金財宝横領の咎。
三、累年の錯乱以来、或いは敵なり、或いは味方の族と成しこれあり。
然して、一度赦免せしめ、彼高槻(摂津国)今中城高宮以下の士にたちまち死罪を行い、併せて同じ籠の鳥何を以て実を為し、何を以て頼みたるかな。
誰もその罪、悪からず。
四、去る永禄十三年(1570 正確には元亀元年)、東坂本に至り、(朝倉)義景と信長互いに魚鱗 鶴翼の陣を連ねて雌雄を決するのきざみ、掛忝くも (闕字)勅命を蒙り、同じく (闕字)(公方様が)御下知を成さるの上、数通の起請文を捧げて和睦せしめ、自他下国しおわんぬ。
然して翌年元亀二年(1571)九月、(信長が)上洛せしめ、坊舎仏閣は灰燼と成し、 (闕字)勅裁を背く非に、御下知といい、天罰といい、かたがた以て悪逆無道のその罪。
五、此の五逆は、千古未聞、いわんや末代に於いて哉。
もし彼逆徒ら、宥め置かるるは、讒巨乱国、窮鼠かえって猫を噛み、還って怨敵は滅び、傾国を欲す企て有り。
此の条(隠or雖未入上聞 ここ不明)諸国あまねく知るところなり。
行猶予に及び、大乱なすべくして起きるべきか。
はや信長 家康以下の凶徒ら、誅戮致すべきの旨、 (闕字)御下知を賜り、時日を移さず彼の館に馳せ向かい、凶徒亡くし立つところ、軍門に骸を暴き、獄門に首を掛けらるるは、百民愁眉安寧開けるところ、いやしくも信玄不肖の身を以って正義を尽くし、(運策於帷幄之内、 ここ読めない)四海の逆浪を鎮め、台嶺の伽藍、七社霊鑑遂建立、並びに顕密兼学を霊地に成し、現世安民のまつりごと、輝日月余光、天下静謐を致すべきの功、宜しく上聞を達され、誠惶誠恐謹言
(元亀四)正月十一日 僧正法性院信玄
上野中務大夫(秀政)殿
『(推定元亀四年)正月二十七日付武田信玄書状』(醍醐理性院所蔵文書)
(本文書は『甲陽軍鑑 十二』にも収録され、日付を正月七日とするほか、字句に校異が多い。)
ところどころ読めていないところがあって申し訳ない限りですが、大体意味はご理解いただけたかと思います。
足利義昭はこの書状をどのような思いで読んだでしょうか。
このシリーズは以上となります。
非常に長文となってしまって申し訳ありません。
今年もお世話になりました。
来年もどうぞよろしくお願いします!
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