信玄西上!息子を人質に取られた信長が、上杉謙信に送った決意とは(2)

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信玄西上!息子を人質に取られた信長が、上杉謙信に送った決意とは
らいそくちゃん
らいそくちゃん

元亀3年(1572)11月20日に、織田信長が上杉謙信へ宛てた書状の解読第2回目です。
今回は上杉謙信の視点からこの時代の外交をご紹介します。
越後の龍と恐れられた謙信でしたが、関東と北陸で辛酸を嘗めていた時代でした。
裏で糸を引いていたあの男とは!?

  1. 11月20日に織田信長が上杉謙信へ宛てた書状 1
  2. 11月20日に織田信長が上杉謙信へ宛てた書状 2(当該記事)
  3. 11月20日に織田信長が上杉謙信へ宛てた書状 3

武田信玄の西上作戦

 元亀3年(1572)10月。
武田信玄は徳川家康を討つべく東海道を西進。
瞬くうちに徳川方の諸城を攻略します。
11月には謀略を用いて美濃岩村城を降します。
信長の子で城主の御坊丸は捕らえられ、甲斐へと送られました。

今回記事にしている書状は、織田信長が上杉謙信に宛てたもので、岩村城が武田方となった6日後の11月20日に書き送っています。

上杉謙信肖像

上杉謙信肖像(出典不明)

  上杉謙信 (1530~1578)

通称越後の龍。
兄の隠居により家督を相続し、見事な軍略で越後一国を統一。
関東管領上杉憲政の名跡を継ぎ、上杉政虎、ついで輝虎と名乗った。
武田信玄や北条氏康らと幾度となく戦い、軍神と恐れられる。
その一方で青苧あおその生産を奨励し、それを北陸の海路で流通させるなど経営の才能もあった。

信長が上杉謙信へ宛てた書状を解読(中盤)

息子を人質に取られた織田信長が、上杉謙信へ送った決意の古文書(元亀三年)十一月二十日付織田信長書状写

(元亀三年)十一月二十日付織田信長書状写(真田宝物館所蔵)

長い文書ですので、当記事では21行目から36行目までを解読します。

原文

(元亀三年)十一月二十日付織田信長書状写c

(元亀三年)十一月二十日付織田信長書状写c

(元亀三年)十一月二十日付織田信長書状写d

(元亀三年)十一月二十日付織田信長書状写d

(元亀三年)十一月二十日付織田信長書状写e

(元亀三年)十一月二十日付織田信長書状写e

どの文字も基本通りのくずしをしているため、古文書を学習中の方は良い腕試しになるかもしれません。

釈文

(c)

一、遠州表信玄備之躰、一向不
首尾之由候、駿遠間之通路
慥切留候、然而自此方令出勢
之条、信玄近日之陣場を引
崩、信刕を後ニ、當山奧へ夜中ニ
執入候、信刕へ道を作、可往還
候歟、是も深山莭所、人馬之
足も輙不立之由候間、可為難
儀之旨候、畢竟可敗軍候、

(d)

一、越中富山表之模様、具承届候、
一揆ホ(等)幷諸牢人種々懇望
申由候、雖不珎候、堅固ニ被仰
付之故候、就其愚意可啓達
之由候間、乍憚申試候、敵陣
廿日三十日之間ニ可相果之趣ニ
付てハ、押詰可被決事尤候、若
又来春迄も可続之様ニ候者、
先々差赦、被納馬候て、信 上
表御行可然候歟、さ候ハバ、従此
方信刕伊那郡其外成次第

(e)

可發向候、遠州者家康与此
方加勢之者共、一手ニ備、信玄ニ
差向候者、彼是以敗軍案之
圖ニ候、信玄足長ニ取出候事、
时莭到来、幸之儀候間、不可
遁此期子細候、信玄を被討
果候上ニ、別而ハ賀 越之一揆
御成敗、雖何时候、更以不可入手
間候歟、前後之処御校量、御分
別専要候、

この書状を朗読させてみました。
再生ボタンを押すと音声が流れます。(スマホも可)

『VOICEROID+ 結月ゆかり EX』(株式会社AHS)

補足

 ここでは難しい表現や紛らわしい字を、補足という形で説明させていただきます。
古文書解読に関心のある方はご覧ください。

(a)

(元亀三年)十一月二十日付織田信長書状写c+釈文

1行目の「一、遠州表信玄備之躰、
「一、」は箇条書きを示すもので、「ひとつ、〇〇の儀につきて、☆☆に候。」などと表現します。

「遠州(えんしゅう)」とは遠江国(とおとうみのくに)のことで、現在の静岡県浜松一帯を指します。
州とは国名のことを唐風(中国風)に表現したもので、尾張国を尾州びしゅう、駿河国を駿州すんしゅうと呼びました。
この表現は今回の史料にも頻繁に登場します。

「表(おもて)」とはその地方を指す程度の意味で、”面”と同じです。
この場合は「遠州表」なので、遠江国。つまり、静岡県西部を指します。

「州」の字は”別”の字に似ているので注意が必要です。
次の字が「表」なので、ここには国名か土地の名前が入ると推測しましょう。

「躰(てい)」とは体裁、様子を意味します。
この時代は”体”の字よりも、こちらの字の方が用いられる頻度が高い傾向にあります。

読み下すと「一(ひとつ)、遠州表(えんしゅうおもて)の信玄の備えの体(てい)、」。
即ち「②遠州(遠江)に陣を張る武田軍の備えは、」という文意になります。

2行目の「駿遠間之通路、慥切留候、
これも国名が入ります。
「駿」は駿河国のことで、静岡県東部を指します。
「遠」は遠江国なので、静岡県西部となります。

「間」の字は原型をとどめていませんが、これが基本的なくずしです。

間のくずし方

「間」のくずし字

もんがまえが大きくくずされ、ひらながの”る”のように下で一旦巻くのが特徴です。
“聞”や”関”などのもんがまえも、このように大きくくずされます。

「通路」とは街道、あるいは補給路と考えても良いでしょう。
「路」の字も原形をとどめていませんが、偏の部分で判別できそうです。

「慥」とは、これ一字で”たしかに”と読み、意味は読みと同じです。
古文書ではどちらかというと「慥」のほうがよく出るような気がします。

「留」も原形をとどめていませんが、これが基本です。
特徴的な字のため、覚えやすいかもしれませんね。
やや”為”の字とにているため、そこは注意が必要です。
ひらがなの”る”と似た字をしているのは、この字が字母だからです。

読み下すと「駿・遠間の通路は、確かに切り留め候。」
つまり、「駿河-遠江間の通路は、確実に遮断しました。」という文意になるでしょう。本当に補給路を遮断したとなれば、武田軍は孤立し窮地に陥るので、どこまで徹底できたのかは甚だ疑問ですが。

3行目の「然而自此方令出勢之条、
「然而」で”しかして”と読みます。
「然」のくずしは、下部のレンガが完全になくなり、”龍”のような字になっています。
実はこれが基本のくずしで、他の文書でも頻繁に登場するので、覚えておくと便利です。

「而」の字は、これはまだ親切な方です。
もっと崩れるとひらがなの”る”のようになります。
助詞になるためか、場合によっては右側に小さく記されます。

「自」は”~より”と読み、返読文字になります。
従って「しかして、此方(こなた)より」と語順を組み替える必要があります。
此方とは、こちら側・当方といった意味です。

「令」は”せしめ”と読み、こちらも返読文字になります。
~させる、~をなさる、~をあそばす、~させていただくなど、さまざまな用途や場面で登場する言葉です。
今回は前後の文脈を考えて、”~せしむる”と読むのが自然かと思います。
此方より~せしむる~なので、”こちら(織田信長方)が〇〇を致した”となるでしょう。

此方こなた」のくずしはどちらも難読です。
特に「方」の方は”事”にも見えなくないので、注意が必要です。
また、「令」と「之」もなかなか難しいですね。
実は私もこの二つの見分けは苦手です(^-^;
分からない場合は文脈から判断しましょう。

読み下すと「然してこなたより出勢せしむるの条、」。
つまり、「また、当方の軍勢が出陣したので」。
もっとかみ砕いた語訳をすると「しかも、わが軍が徳川勢に加勢したので」という文意になります。

5行目の「當山奧へ
これは富山県のことではありません。
「當」は”当”の異体字となりますので、「当山奧へ」という意味になります。

6行目の「信刕へ道を作、可往還候歟
「刕」という見慣れない文字は、「州」の異体字です。
古文書にはこのような異体字や旧字体も頻繁に登場します。
“信州(しんしゅう)”は信濃国のことで、現在の長野県となります。

「を」の文字が”与”や”者”と非常に似ているためややこしいですね。
“与”であれば”~と”と読みます。
“者”であれば”~は”となるので、助詞も覚えておくと便利です。

「可」は”~すべく”と読み、返読文字です。

「往還」の「往」は、典型的なぎょうにんべんのくずしをしています。

「候」ですが、これも見慣れていないと混乱するかもしれません。

候のくずし方

候のくずし字

「歟」は”か”とよみます。
候の次にこの字がくると、「候か?」のような感じで、疑問・反語として表現されました。
にわかには信じがたいですが、この時代はひらがなで「~に候か」と書かずに、「候歟」と書く古文書が非常に多いです。
不思議ですね。

読み下すと「信州へ道を作り、往還すべく候か。」
つまり、「(遠江の国から)信濃の領国への街道を整備し、往来を容易くする狙いがあるのか」といった文意になります。

6行目の「節所」の「節」のくずしは明らかに違う字に見えますね。
それもそのはず。
これは「節」をくずしたものではなく、旧字の「莭」をくずしたものだからです。

7~8行目の「人馬之足も輙不立之由候間、
「輙」は”たやすく”と読み、”容易く”と同じ意味です。
古文書でもあまり出現頻度は高くないので、優先して覚える必要はないかもしれません。

「不立之由」も返読文字となっていますので、「立たず(不)之由」と読みましょう。
「不」がひらがなの”ふ”に見えるのは、この字が元となっているからです。

読み下すと「人馬の足も容易く立たざるの由に候間、」となります。

8~9行目の「可為難儀之旨候
これは、返読文字が二つ続けて入っています。
この場合、「難儀たる(為)べき(可)の(之)旨に候」と読むのが自然かと考えます。

すなわち「人馬も容易く立たぬほどだから、(街道の整備・普請は)難儀しているとのことである」という文意になります。

最後の行の「畢竟(ひっきょう)」とは、つまるところ・結局はという意味です。

(d)

(元亀三年)十一月二十日付織田信長書状写d+釈文

1行目の「具承届候
「具」は”つぶさに”と読み、”詳しく”という意味です。
読み下すと「つぶさに承り届け候」となります。

2~3行目の「一揆ホ幷諸牢人種々懇望申由候
「ホ」のように見える字は、”等”の異体字です。
また、「幷」は「並(ならびに)」の旧字になります。

「諸牢人」の「諸」のごんべん、「者」ともに基本的なくずしをしています。
「牢人」は”浪人”と同じ意味です。

「懇望」はどちらも原形をとどめていないほど難読ですね。
実はこれも基本的なくずしなので、理屈抜きで覚えた方が良いでしょう。
古文書では頻出します。

読み下すと「一揆ら並びに諸浪人、種々懇望申すの由に候。」とするのが自然でしょうか。
つまり「(越中国の)一向一揆や諸浪人らが、多数降伏を申し出ているとのこと。」となります。

3行目の「雖不珎候
これも返読文字が入ります。
そろそろどれが返読文字かわかってきたでしょうか。

「珎」は”珍”の旧字なので、旁の部分が「尓」のくずしとなります。
読み下すと「珍しからず(不)候と雖(いえど)も」となりますが、文脈から察して「上杉殿の武勇をもってすれば、珍しいことではないでしょうが、」と私は訳しました。

4~5行目の「就其愚意可啓達之由候間、
まず、「就其」で「其(そ)れに就(つ)きて」と読みます。
「愚意」の「意」は難解ですが頻出します。
形ごと覚えてしまった方がよいでしょう。
「可」が返読するため、「愚意を啓達す可(べき)となります。

「間」はさきほど出てきた通りのくずしをしていますね。

読み下すと「それにつきて、愚意を啓達すべきの由に候間、」となります。

5行目の「乍憚申試候
で、「憚(はばかり)り乍(ながら)申し試し候」と読みます。

「申」は「P」のようなくずしをするため、かえって覚えやすいでしょう。

ここの語訳は難解ですが、前後の文脈から考えて「それについて私の愚意を啓達せよとの仰せなので、憚りながら試しに申しましょう。」としました。

織田信長がここまでへりくだった書き方をするのは、上杉謙信の武名を頼みに思っているのも確かでしょうが、謙信が関東管領職で、七免許も許された数少ない大名なので、ある意味当然かもしれません。

6行目の「廿日」は二十日という意味です。
次の三十日は、文書によっては「卅日」あるいは「丗日」と記される場合があります。

7行目の「押詰可被決事尤候
「可(べく)」と「被(られ)」が返読します。

この場合は「押し詰めて決せらる(被)べき(可)の事、尤(もっとも)に候。」と読みましょう。
すなわち「一気に攻め込んで決戦に及ぶのがよろしいでしょう。」という文意になります。

7~8行目の「若又来春迄も可続之様ニ候者、
「若又」で「若(も)し又(また)」です。

「も可」の部分が、「もの」と見えなくもないですが、”の”のうえに少し点が入るのが「可」の基本的なくずしのため、注意が必要です。
ひらがなの「も」の字母は、”毛”のため、文書によっては”毛”と記されている場合もあります。

読み下すと「もしまた来春までも続くべきの様に候はば、」
すなわち「もし、来春まで対陣が続くようであるならば、」という文意になります。

9行目の「先々差赦、被納馬候て、
「々」の字は”被”と非常に似ているので注意が必要です。

次の字の「差」も、”恙(つつがなく)”と似ています。

「馬」のくずしは、原形をとどめていませんが、これが基本です。

「候て」は慣れていないと難しいかもしれませんが、頻出するじのため、”候ハバ”とセットで覚えておくと便利です。

読み下すと「先々差し赦し、納馬被(せられ)候て、」となります。
つまり「このあたりで戦闘を止めて帰陣し、」
もう少しかみ砕くと「一旦は矛を収めて帰国し、」と訳すのが適当かと思います。

9~10行目の「信 上表御行可然候歟
「信 上」は人名ではなく国名です。
この場合は、信濃国(長野県)と上野国(群馬県)を指します。

表(おもて)は先ほど述べたように、その土地や地方を指します。

「御行」と書いて、”おんてだて”。
手段や方策を意味します。

「可(べく)」は返読文字ですので、「然るべく」と読みましょう。

「候歟」の「歟」はさきほども登場しましたね。
これは疑問形・反語となるので、「そうろうか?」という意味です。

読み下すと「信・上表御行(おんてだて)然るべく候か。」となります。
然るべく候か。が何を指すのか非常に抽象的ですが、先の文脈から判断し「(来春まで対陣が続くようであるならば、一旦は矛を収めて帰国し、)信濃国・上野国を攻撃するのが良いでしょう。」
という文意になります。

10行目の「さ候ハバ、従此方信刕伊那郡其外
はじめの「さ候ハバ」がなかなか難しいですね。
正確に書くと「さ候ハゝ」です。
左様に候はば、つまり、そうであるから、という意味になるでしょう。

「従(より)」が返読文字ですので、「此方(こなた)従(より)」となります。

「信刕伊那郡」の「刕」は、先にも述べたように”州”の異体字です。
「伊那郡」は現在の長野県伊那地方になりますが、当時は郡を”ぐん”と読むより、”ごおり”と読むのが主流でした。
“部”と似たくずしですが、伊那が地名ですので、郡という解を推測から導き出しましょう。

「其外」は”そのほか”と読みます。
どちらの字も難読ですね。
しかし、「外」が特徴的なため、そこから「其」が特定できそうです。
「其」のくずしは、”貴”など、ほかの字にも似ています。

読み下すと、「さ(左様に)候はば、此方(こなた)より信州伊那郡其の他」となります。
つまり、「そうすれば、わが軍が信濃国伊那郡、あるいはその他の地方を・・・」
という文意になります。

(e)

(元亀三年)十一月二十日付織田信長書状写e+釈文

1行目の「發行」は「發向」の誤りです。
編集の段階で間違いに気づきませんでした。
申し訳ありません。

3行目の「彼是以敗軍案之圖ニ候、
「以(もって)」は返読文字になる場合が多いのですが、ここは返読せずにそのまま読みます。
「彼是以」と書いて、”かれこれもって”と読みます。
この3文字はどれも頻出するので、覚えておいて損はありません。
特に「彼」はぎょうにんべんが特徴的です。

「案之圖」ですが、「圖」は”図”の旧字です。
案の図とは予想した通り・計画通りという意味です。
この場合は”間違いないだろう”と訳したほうが前後の意味が噛み合うでしょう。

5~6行目の「不可遁此期子細候
「不可」はどちらも返読文字ですので、後から読みます。
これだけで”べからず”です。
しかし、文脈から見て、ここは”べからざる”とした方が自然です。

「遁」は逃げるという意味です。
現在でも”遁走”や”隠遁”などで使われていますね。

「此期」で”このき”と読みます。
「此」が一見すると”無”に見えてややこしいですね。

読み下すと「此の期を逃すべからざる子細に候」
即ち「この期を逃してはなりません」という文意になります。

7~8行目の「別而ハ賀 越之一揆御成敗、
「別而ハ」は難しいですね。
「別」は原形をとどめておらず、どちらかといえば”至”に見えなくもありません。
「而」も”被”に非常によく似ていますので、文脈から判断するしかなさそうです。
この3字で「別しては」と読みます。

「賀 越」はどちらも国名です。
賀は加賀国(金沢県)・越は越中国(富山県)です。
この文書の冒頭に出てきた越は越後国(新潟県)ですので、ややこしいですが文脈と地理から判断するしかありません。
さらにややこしいことに、越はほかにも越前国(福井県)がありますのでご注意ください。

読み下すと「別しては賀・越の一揆御成敗、」
即ち「(信玄さえ討ち果たしてしまえば、)加賀国・越中国の一揆勢を討ち滅ぼすことなど、」
という文意になります。

8~9行目の「雖何时候、更以不可入手間候歟、
「雖」は”~といえども”と読み、やや特殊な返読文字になります。
「时」は「時」の異体字です。
「雖何时候」で、「なんどき候といえども」です。

「以(もって)」は返読する場合が多いのですが、ここは返読せずに「更に以て」と読みます。

「不可」は返読するため、「手間入るべから(可)ず(不)」と読みます。
少し難しいですね。

「歟」は今回3度目の登場になります。
“~か?”といった疑問・反語を表す言葉ですが、ここは文脈から考えて、語気を強めた感じで「~に候はんか」と訳しても良いかもしれません。

読み下すと「何時候といえども、更にもって手間入るべからず候はんか。」
語訳するのがやや難しいですが「(加賀・越中の一揆を討ち果たすことなど)何時でも手間が入らないでしょう。」と私は訳しました。

原文に釈文を記してみた

(元亀三年)十一月二十日付織田信長書状写c+釈文

(元亀三年)十一月二十日付織田信長書状写+釈文c

(元亀三年)十一月二十日付織田信長書状写d+釈文

(元亀三年)十一月二十日付織田信長書状写+釈文d

(元亀三年)十一月二十日付織田信長書状写e+釈文

(元亀三年)十一月二十日付織田信長書状写+釈文e

注)一行目の「發行」は「發向」の誤りです。

書き下し文

(c)

一、遠州表の信玄の備えの体、一向に不首尾の由に候。
駿・遠間の通路は、確かに切り留め候。
然してこなたより出勢せしむるの条、信玄近日の陣場を引き崩し、信州を後ろに、当山奧へ夜中に取り入り候。
信州へ道を作り、往還すべく候か。
これも深山節所(しんざんせっしょ)、人馬の足も容易く立たざるの由に候間、難儀たるべきの旨に候。
畢竟(ひっきょう=つまるところ、つまり)敗軍すべく候。

(d)

一、越中富山表の模様、つぶさに承り届け候。
一揆ら並びに諸浪人、種々懇望申すの由に候。
珍しからず候といえども、堅固に仰せ付けらるるのゆえに候。
それにつきて、愚意を啓達すべきの由に候間、憚りながら申し試し候。
敵陣を二十日、三十日の間に相果たすべきの趣きに付きては、押し詰めて決せらるべきの事もっともに候。
もしまた来春までも続くべきの様に候はば、先々差し赦し、納馬せられ候て、信・上表御行(おんてだて)然るべく候か。
さ候はば、此方(こなた)より信州伊那郡其の他成り次第に

(e)

発向すべく候。
遠州は家康と此方(こなた)加勢の者ども、一手に備え、信玄に差し向け候はば、かれこれもって敗軍案の図に候。
信玄足長に取り出で候事、時節到来、幸の儀に候間、此の期を逃すべからざる子細に候。
信玄を討ち果たされ候上に、別しては賀・越の一揆御成敗、何時候といえども、更にもって手間入るべからず候はんか。
前後の所を御校量、御分別専要に候。

原文に書き下し文を記してみた

(元亀三年)十一月二十日付織田信長書状写c+書き下し文

(元亀三年)十一月二十日付織田信長書状写+書き下し文c

(元亀三年)十一月二十日付織田信長書状写d+書き下し文

(元亀三年)十一月二十日付織田信長書状写+書き下し文d

(元亀三年)十一月二十日付織田信長書状写e+書き下し文

(元亀三年)十一月二十日付織田信長書状写+書き下し文e

現代語訳

(c)

二、遠州(遠江)に陣を張る武田軍の備えは、どうも整然としないとのことです。
駿河と遠江間の通路は、確実に遮断しました。
しかも我らが徳川勢に加勢したので、信玄は大事を取って陣を後退させ、信濃国の深い山々を背にして、夜間に山中へ入りました。
ここで街道を整備し、人・物流の流れを良くしようとしているとのことです。
しかし、ここは深山で峻厳。
人馬も容易く立たぬほどだから、難航していると聞いています。
つまるところ、信玄は負けるでしょう。

(d)

三、越中の情勢の詳細は聞きました。
一向一揆や諸浪人らが、多数降伏を申し出ているとのこと。
上杉殿の武勇をもってすれば、珍しいことではないでしょうが、それも備えを堅固にされているからでしょう。
それについて私の愚意を啓達せよとの仰せなので、憚りながら試しに申しましょう。
敵陣を20~30日のうちに打ち破れる見通しがあるのであれば、決戦に及ぶのがよろしいでしょう。
もし、来春まで対陣が続くようであるならば、一旦は矛を収めて帰国し、信濃国・上野国を攻撃するのが良いでしょう。
そうすれば、わが軍が信濃国伊那郡、あるいはその他の地方を手当たり次第に

(e)

攻め入ります。
遠江国は家康と私が派遣した援軍が一手に備え、信玄に対陣するから、四面楚歌となった信玄の敗北は必定です。
信玄が遠距離まで出陣してきたことはむしろ好都合なので、この期を逃してはなりません。
信玄さえ討ち果たしてしまえば、加賀国・越中国の一揆勢を討ち滅ぼすことなど、何時でも手間が入らないでしょう。
前後どうなるかを校量なさった上で、御作戦を立てられることが大事です。

上杉謙信の関東出兵

 元亀2年(1571)早々。
織田信長が畿内の平定に苦しんでいるこの時期。
甲斐武田家を共通の敵として持つ上杉謙信徳川家康は、盛んに使者を派遣して連絡を取り合っていました。

2月6日に徳川家康は新春を賀して謙信へ太刀を送って機嫌を伺っています。
上杉謙信は、2月下旬に越中へ出陣し、椎名康胤の富山城を攻めるなど、快進撃を続けていました。
この時期のものと思われる書状が遺されています。

(史料1)

御使者本望之至りに候。
随って関東表一篇に仰せつけらるるの由、大慶尤もに存じ候。
然らば、駿州口に至りて働くの儀、油断有るべからず候。
やがてこれより使いを以て申すべく候の際、不克僟候(ここ読めない)。
恐々謹言

  (元亀二年)三月五日  家康(花押)

上杉殿

   『(元亀二年)三月五日付徳川家康書状(歴代古案)』

(史料2)

謙信よりの御使者祝着に候。
手合わせの事、油断無く申し付くべき候。
たびたび申す如く、首尾いささかも別条有るまじく候。
近日これより使いを以て申すべく候。
委曲いきょくの口裏に申し渡し候。
恐々謹言

  (元亀二年)三月五日  家康(花押)

村上源五(国清)殿

   『(元亀二年)三月五日付徳川家康書状(歴代古案)』

村上国清は武田信玄に領主の座を追われた村上義清の子です。
彼は当時、徳川家康への取次役(外交担当者)としてたびたび連絡を取り持っていました。

ここには家康が謙信と示し合わせて駿河国へ攻め入り、撹乱することが記されています(手合之事)。

越中の陣で椎名康胤を敗走させた謙信ですが、この陣中に武田信玄が上野国や関東地方に兵を出したため、急遽陣を引き払って4月に帰陣しました。

この年の秋から冬にかけて、同盟国であった北条家からの救援要請により関東へ出陣。
この年は関東の陣中で越年します。

しかしながら、この時期に謙信との同盟を主導してきた隠居の北条氏康が死去したことにより、関東甲信越地方の情勢は大きく変わることになります。

明けて元亀3年(1572)1月15日。
かねてより上杉家へ不信感を露わにしていた北条氏政は、上杉謙信と突如手を切り武田信玄と和睦します。
さらに、北条勢は武田勢と合流。
これにより、にわかに不利な状況へ追いやられた謙信は、利根川を挟んで武田・北条連合軍と長い睨み合いが始まりました。
水面下で武田信玄は、北条を味方につける工作を展開していたのです。

前年上杉謙信に、越中で手痛い敗北を喫していた椎名氏や一向一揆衆らがここで動きます。
関東の陣で謙信の身動きが取れない隙を見て軍勢を立て直し、越中国で上杉勢を追い詰めていました。

この時期の上杉勢の苦境を示す史料がこちらです。

(史料3)

わざと脚力(=飛脚のこと)を以て申し達し候。
仍って一昨今夜、塩屋筑前守(秋貞)下山へ罷り退き、即ち昨夜中、猿倉之地へ取り登り、飛州(飛騨国)之者共を引き出でて普請半ばに候。
兼日(=きまった期日より前の日)より世間申し廻る儀も御座候条、塩屋(秋貞)貴府(=越後)へ下し召さるべくの由、何もへ申し入れ候へども、拙者の申し試す事、御本に成されず候間、是非無く存じ候。
千言万句増山当城不運眼前に候。
只今の分は、大切に存じ候。
この旨御心みこころを得預かるべく候。
恐々謹言

    長尾小四郎
 (元亀二年)卯月二十三日     景直

    上村庄右衛門尉殿

  (元亀二年)四月二十三日付長尾景直書状『歴代古案・越佐史料』

この越中の一向一揆や椎名氏を支援して、裏で手を引いていたのは、言うまでもなく武田信玄です。
一揆勢の勢いは凄まじく、謙信の留守中に日宮、白鳥、富山などの重要拠点が陥落しました。

この動きを見て、謙信は越後へ退却します。
これにより、関東での上杉の勢いは影を落とす結果となりました。

(史料4)

この度厩橋(上野国群馬郡)之儀に就きて、雨宮淡路守指し越し候ところ、別して肝煎りの由、祝着に候。
然らば、北丹(北条丹後守高広)凝聊相違い之ところ、密談の為、雨宮淡路守遣わし候。
いよいよ馳走本望たるべく候。恐々謹言

   (推定元亀二年)十一月十日   信玄

      小幡民部少(輔)殿(小幡昌高)

 (推定元亀二年)十一月十日武田信玄書状『別本歴代古案第三』

これは北条氏康死去直後の時期と思われるもので、甲斐の武田信玄が当時上杉謙信に属していた北条きたじょう高広を味方に引き入れようとしていたとする史料です。

高広は以前、上杉に属していたものの、武田信玄と通じて謙信に攻められ降伏した過去があります。
それから厩橋うまやばし城主に抜擢され、関東において大きな利権を認められるも、今度は北条家に鞍替えします。
しかしながら、北条と上杉が同盟を結んだことにより、高広は宙に浮いた状態となり、北条家の取り成しにより三度みたび謙信に帰属しました。

高広の真意はともかく、こうした関東国衆の不審も、謙信が関東で影響力を失うに至った原因の一つでしょう。

上杉勢苦戦 武田信玄の外交戦略

 越後へ帰陣した上杉謙信ですが、彼に味方していた関東の国衆にとっては地獄そのものだったでしょう。
常陸国の小田城を根城とする小田氏治もその一人です。

(史料5)

御帰国以来通路不自由故、申し入れず候条、種々了簡せしめ、此の度申し入れ候。
然るべく様に馳走預かるべく候。
当口の模様(=常陸国)、かれこれの段々、直に申し述べ候間、細書能わず候。
恐々謹言

  (元亀三年)四月二十一日  氏治(花押)

   井田(飯田?)与三右衛門(尉)殿

 (元亀三年)四月二十一日付小田氏治書状『歴代古案・東京大学史料編纂所所蔵飯田文書』

「常陸の情勢を直に申し述べる」とありますが、この時謙信に何を伝えたかったのかは判然としません。
しかしながら、この当時の情勢を考えると、以下のように申し述べたであろうことは想像に難くありません。

「上杉殿の合力なくば、我らにもそれなりの覚悟があり申す」

謙信にとって捨て置けない敵は越中の椎名氏や一向一揆衆でした。
越中の上杉方がそっくり敵に寝返れば、本国の越後も危なかったのです。

この時期の越中陣の苦境を示す史料は数多く残されています。

(史料6)

当地御加勢の為、半途迄御着陣の由に候間、啓せしめ候。
仍ってここもとの儀、一昨日十五(日)各々談合致し、火宮(=日宮)助動のため、五福山へ打ち上げ、火の手合い申し候のところ、敵大軍砦をもって、「除口慕詰申候、(ここの部分不明)」
然りといえども、味方中何事も無く、罷り除かれ候。
拙者者共は、野本玄蕃允、四月一日新右衛門尉、木村善介、これらの者共をはじめとして、二十余人討死申したる候。
心底御察しあるべく候。
はたまた、当地備え堅固に候。
各々早速御着陣有りて、ここもと御備おんそなえ御談合あるべきの事、簡要に候。
(「諸餘以面可申承候間、」ここの部分不明)
つぶさに能わず候。恐々謹言

     (山本寺)伊予守
  (元亀三年)六月十七日  定長(花押)

   直和(直江大和守景綱)

     参

 (元亀三年)六月十七日付山本寺定長書状『越佐史料・新潟県史・上杉家文書』

上杉謙信家臣の山本寺定長さんぼんじさだながが、上杉家家老の直江景綱に宛てた書状です。
ここには日宮城救援のために、山本寺定長らが出陣している様子が窺えます。
そこで戦闘があったのか、上杉勢20名余りが討死とあります。

この翌日にあたる史料には

(史料7)

謹じて申し上げ候。
新庄の儀、心元なき余りに候いて、飛脚を以て申し越し候のところ、鯵坂清介(長実)所、これを返札差し越し候間、御披見のため進上し候。
然らば、火宮(=日宮)の儀、落城仕り候。
これにより、小島六郎左衛門尉(職鎮)をはじめとして、何れも石動へ罷り上るの由に申し候。
この上の儀、御備おんそなえ如何なさるべくの候や。
御先衆の儀は、以前より申し上げる如く候。
未だ石田に滞留仕り候。
併せて河田豊前守(長親)に談合致し、何遍も豊前守取り計らう次第にこれを致され、尤もの由、再三申し届け候。
彼はこのたび新庄へ召し遣わし申し候間、自然じねん御尋もこれを為さるべく、指し越し申し候。
相替の儀御座候は、夜中と限らず注進申すべく候。
はたまた、我等の事は何趣も (闕字)御掟おんおきて次第たるべく候。
これらの旨、御披露預かるべく候。恐々謹言

     直江大和守
  (元亀三年)六月十八日  景綱(花押)

   山吉孫次郎殿(山吉豊守)

  (元亀三年)六月十八日付直江景綱書状『越佐史料・新潟県史・上杉家文書』

直江景綱がこの書状を謙信側近の山吉豊守へ発した直後に、最前線に陣する鯵坂長実あじさかながざねより注進があり、すぐさま追加の文書を発しています。

(史料8)

(後筆)

新庄へ飛脚指し遣わし候のところ、昨夜中罷り帰り候間、鯵坂清介(長実)よりの返書、かの脚力(=飛脚)が持ちたり。
すなわち、これをまいらせ候。
然るべく様に御心得おんこころえ頼み入り候。
火宮(=日宮)の儀は、(「自敵曖を」ここ不明)落居入り候て、小島六郎左衛門尉(職鎮)をはじめとして、何れも石動へ罷り上るの由に申し候。
是非無く次第迄に候。
然らば御先衆は、いまだ石田に在留候。
併せて河豊(河田豊前守長親)の指図にまかせられ、尤もの由、数度申し届け候。
さて又、この上の御備おんそなえ、如何これあり候や。
我らの事は、いかようにも御意次第ぎょいしだいたるべく候。
彼は新庄へさしこし申し候間、(「才覺なと可申者ニ者雖無之候、)ここ不明」
自然じねん様躰ようていきこしめし候はんかと存じ候て、差し越し申し候。
なお、委細は鯵清(鯵坂清介長実)よりの書中に披露の候間、不具候。恐々謹言

     直江大和守
  (元亀三年)六月十八日  景綱(花押)

   山吉孫次郎殿(山吉豊守)

       御宿所

  (元亀三年)六月十八日付直江景綱書状『越佐史料・新潟県史・上杉家文書』

この書状からは、最前線で一向一揆勢と戦う日宮城が落城してしまったこと。
小島職鎮らは越中石動に陣し、御先衆は石田に在陣している様子が記されています。
宛名は山吉豊守ですが、実際には主君の上杉謙信に報告するために書かれたものです。

このように、元亀3年(1572)6月時点の上杉家の情勢は、西からは一向一揆や椎名氏らが、南からは武田信玄・北条氏政らが挟撃し、とても織田家や徳川家の要請に応える余裕はなかったでしょう。

この時点で越中や加賀の一揆を扇動し、さらには北条氏政をも味方に引き入れた武田信玄の外交戦略は上手くいったと見てよいでしょう。

前回の記事で述べましたが、この時期、将軍足利義昭の意を受けて織田信長が武田-上杉間の和睦の斡旋に奔走していました。
しかしながら、信玄はこれに何かと理由をつけて交渉を長引かせています。
それは、こうした武田有利の外交情勢があったからなのかもしれません。
信玄は足利義昭、浅井長政、本願寺顕如とも連絡を密に取っていました。

織田・徳川を蹴散らして、一気に勢力を拡大させる大きな好機と捉えていたのかもしれませんね。

謙信反撃 越中で勢いを盛り返す

 日宮城を攻略した一向一揆勢らは、神通川を渡って白鳥城、富山城も攻略。
新庄城も落城寸前まで追い詰められていました。

この事態を受けた謙信は、関東より急ぎ越後へ帰国します。
そこで、このような願文を神前に捧げました。

(史料9)

  願文之所

右の意趣は、賀州(加賀国)並びに瑞泉寺(越中国礪波郡) 安養寺(越中国新川郡)の一揆蜂起の由、申し唱うべく候。
これにより、当郡能化衆六人に申付け、摩利支天法十七日修行、並びに仁王経、尊勝陀羅尼、衆僧に申し、読誦どくじゅたる候条、賀州 越中の凶徒悉く退散、雑意ぞうい喪失、越中 信州(信濃国) 関東 越後、藤原謙信分国、無事有りて安全長久堅固、諸人歓喜を得、(「可住安堵思者也」ここ不明)
仍って願文くだんの如し
  元亀参年壬申みずのえさる

   六月十五日   藤原謙信(朱印)

   御宝前

 元亀三年六月十五日付上杉謙信願文『上杉家文書・新潟県史・越佐史料・歴代古案』

最初の文に「右の意趣は」とあるので、先文が切り取られてしまっているのかもしれません。
謙信の信心深さが伺えて興味深いですね。
北陸一揆衆の勢いが日に日に強まることを警戒する様子も見える気がします。

同年8月10日に謙信は1万の兵を率いて越中へ出陣します。
8月18日には新庄の山の根に着陣し、前線の部隊と合流しました。
対する一揆勢は富山城に陣を張り、各所で既に小競り合いが起きていたと考えらます。

この越中の陣中より出したと思われる謙信の書状が遺されています。

(史料10)

便宜候間申し候。
宝幢寺八幡別当に申すべく様は、夏中千手の法を千座五十余日行いたる候のところ、吉事はこれなく、結句かくの如く分国未だ落居にて、(「身之為撲(磔?)馬之腹候」ここ不明)
ひとえに加持、力の足無き候か。
この時はかんたん(肝胆)を砕いて、留守中分国何事も無く、無事長久堅固に、当陣に於いて大利を得、有望ままに納馬候様、これを祈念、(「夜之目をねす、」ここ不明)
帰陣の内、(「帰陣之内可被抽城(精?)誠由此書中其方持)ここ不明」
両寺へ急度きっと申しつけらるべく候。
さるとては、両僧に惣別の祈念申し付け候の条、身命に替えて祈らるべくの由、申し届かるべく候。
万吉ゝゝ、恐々謹言

  留守中何事も無く、祈念第一に候。
ここもとは見詰候間、勝利眼前に候。以上

    八月二十四日   謙信(花押)

     発心坊

  (元亀三年)八月二十四日付上杉謙信書状『上杉家文書・新潟県史・越佐史料』

これは同年8月24日に寺社へ宛てた上杉謙信の書状です。
読めていない箇所が多くて非常に申し訳ないですが、ここからは戦勝を祈願する謙信の姿と、ぼやきともとれるような迷いのある謙信の姿が見て取れます。

一説には一揆勢やそれに迎合する椎名・神保氏らの兵力は3万を超えていたとあるので、謙信自らが出陣したところで挽回できる自信はなかったのかもしれません。

同年9月。
初秋の越中で雨が降りしきる中、謙信と一揆勢の間で一大決戦が行われました。
富山城と新庄城の間にある尻垂坂で激戦が繰り広げられたようで、上杉軍が大勝利を収めます。
しかしながら、このことを示す史料が乏しく、現在でも果たして尻垂坂で戦闘があったのかは不明です。

ただ、上杉謙信が勝利を収めたことは事実のようで、勢いを得た上杉軍は猛追撃を仕掛けます。
さらに、飛騨国高原諏訪城主の江馬輝盛も呼応して一揆勢を挟撃。
瞬くうちに富山城を奪還し、椎名康胤が籠る松倉城を取り囲みました。

元亀3年(1572)10月の情勢

 謙信が越中の決戦に勝利したこの時期、近江国では浅井長政の救援のために越前の朝倉義景が在陣を続け、虎御前山などに要害を構えた織田勢と対陣中でした。
信長は当時、将軍足利義昭と対立しており、石山本願寺や伊勢長島などの一揆衆も健在でした。

そんな中、甲斐の武田信玄が大軍を率いてついに西進。
遠江・三河国の徳川領を攻めると同時に、東美濃の岩村城一帯も降しました。

今回記事にしている(元亀三年)十一月二十日付織田信長書状写は、この岩村城が武田方となった6日後に発したものです。
書状の内容からは、あたかも織田・上杉・徳川方が有利かのように書いていますが、実はそれほど旗色がよくなかったのです。

三河・遠江・駿河

三河・遠江・駿河地図

信長としては越中を鎮めた猛将上杉謙信をなんとか味方に留め置き、西進する武田の動きを鈍らせたいと考えていたのでしょう。
今回解読した文中には「信玄を討ちさえしたら、越中加賀の一揆などどうにでもなる」と甚だ無責任なことを書いていますが、上杉は上杉で無理して強がっているような文書を信長へ書き送っています。

まとめ

 信長が上杉謙信へ宛てた長文の文書第2回目をご覧いただきありがとうございます。
この約一月後に三方ヶ原において、武田信玄は徳川・織田連合軍を打ち破りますが、甲斐の国へ謎のUターンをします。

この情報はすぐさま徳川家康が織田信長に報せており、やがて上杉方にも情報が伝わりました。
最後に信玄の容態について様々な風説が飛び交い、警戒する上杉方の史料をご覧いただき、当記事を締めたいと思います。

(史料11)

わざと啓上せしめ候。
仍って此の間は申し述べず候。
御床敷存じ奉り候。
従って先度は (闕字)御屋形様(上杉謙信)松倉(越中国松倉)迄御馬を納められ候旨、示し預かり候。
信長と仰合なさる子細に御座候旨、御もっともに候。
新地両城とも、御堅固に相調え候条、恐れながら御心みこころ安く存じ置き候。
従って、拙者罷り下るべく候といえども、諸事用所等付け遅れ候。
敵方の備え指す儀、これ有るまじく存じ候。
併せて御油断無く仰せ付けらる事、専一せんいつに候。

一、上方の儀、信長御上洛につき、公方様(足利義昭)去られ御座候て、御懇望なされ、二才の (闕字)御曹司様人質に信長へ御渡し有り、御無事の由。
然れども、御館石垣以下直され候。
京中一変に候て、若君様御供奉ごくぶあり。
江州ごうしゅう(近江国)佐和山迄御納馬候ところ、都に残し置かれ候。
信長臣下衆、 (闕字)公方様へ申され有ること、再乱の由にて、また、佐和山より御上洛と承り候。
如何と相果たし申すべく候や。
海道説之分申し入れ候。

一、信玄の儀、甲州へ御納馬に候。
然る間、御わずらいの由に候。
また、死去なされ候とも申すなり候。
如何、不審と存じ候。

一、濃州のうしゅう(美濃国) 尾州びしゅう(尾張国)の儀、甲州こうしゅう(甲斐国)に入りて陣触れ有るの由と申し候。
此の段に候はば、信玄御落度おんおちども実説かと存じ候。
右この条々、 (闕字)御屋形様(上杉謙信)へ申し上ぐべく候といえども、巷説不実こうせつふじつと存じ候に付き、その儀無く候。
事実を承り候はば、申し入れるべく候。
定めて其の方へも種々聞こし召さるべく候といえども、海道説之分申し入れ候。
子細に替えて候はば、追って申し上ぐべく候。恐惶謹言

          河上中務丞なかつかさのじょう
  (元亀四年)卯月二十五日  富信(花押)

   河田殿

      まいる人々御中

  (元亀四年)四月二十五日付河上富信書状『上杉家文書・新潟県史・越佐史料』

河上富信は当時上杉家へ臣従していた飛騨江馬氏の家老です。
3条目には、信玄が死んだとの風聞がありますが、それについても不審な点があるとしています。
宛名の河田殿とは、上杉謙信に仕える侍大将の河田長親です。
当時の河田長親は、越中国に大きな利害関係をもっていました。

続いて、河田が主君の謙信へ報告した文書をご覧いただきましょう。

(史料12)

謹じて言上。
仍って濃州のうしゅう(美濃国) 遠州えんしゅう(遠江国)へ脚力(=飛脚)を使い召され罷り帰り候間、すなわち差し上げ候。
様躰ようていに於いては直書申し上げられ候。
従って、信玄遠行(=死ぬこと)は必定の由、不穏な便申し廻る由に候。
如何様煩いの儀は、疑い無く存じ奉り候。
塩屋筑前守(秋貞)近日罷り下るべく候間、委しく相尋あいたずねなる儀、確かに承り言上致し候。
はたまた、当表(=越中国)の儀、先日本郷(越中国新川郡)へ相はたらき候以後、別条無く候。
就中なかんづく、諸城何れも無事に候。
浜邊用心存じ奉らず油断に候。
魚津(越中国新川郡)の普請堅く申し付け候。
相替の儀御座候はば、夜中なりとも注進奉るべく候。
この旨宜しく御披露預け候。恐惶謹言

         河田豊前守
   (元亀四年)四月晦日(三十日)   長親(花押)

    吉江喜四郎(資賢)殿

  (元亀四年)四月晦日付河田長親書状『山形県吉江宮之助氏所蔵文書・新潟県史・越佐史料』

これは同年4月30日に河田長親が謙信側近の吉江資賢へ宛てた披露状です。
武田信玄が死去したとの風聞は「不穏な便申し廻る由」としていますが、次の文には
「信玄が患っていたことは間違いない。そのことは塩屋秋貞から直接この耳で聞いた。」と書いています。

武田信玄が世を去ったのが元亀4年(1573)4月12日のことですので、信玄が遺言したとされる「わが死を3年は隠せ」という話は、虚しくもすぐに敵方へ知れ渡ってしまったことになりますね。

次回の最終回は、(元亀三年)十一月二十日付け織田信長書状の最終盤を解読するとともに、武田信玄の視点から元亀3年(1572)の元亀争乱時代を書きたいと思います。

参考文献:
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