こんばんはー!
久しぶりに織田信長の合戦を記事にします。
今回は大坂が舞台の「野田・福島の戦い」です。
大坂の陣にも野田・福島で戦いがありましたが、今回はそっちではないのでご了承ください。
信長を取り巻く当時の情勢
ときは元亀元年(1570)6月。
姉川の合戦で浅井・朝倉連合軍に勝利を収めた信長であったが、摂津三守護の一人である池田城主・池田勝正が、同族の池田知正と家老の荒木村重の謀叛により追放されてしまった。
池田知正と荒木村重は三好三人衆と通じていたのだ。(諸説あり)
動員兵力3000以上にもなる池田家の離心による影響は深刻で、信長にとって看過できない事態であった。
阿波へと逃れて好機を窺っていた三好三人衆らは、これを聞いて出陣の準備に取り掛かった。
三好三人衆ら 摂津中島に上陸し、野田・福島に砦を築く
元亀元年(1570)7月19日。
堺の商人らの援助を受けた三好三人衆、讃岐の十河存保、淡路の安宅信康らが摂津中嶋(中島)に上陸。
野田と福嶋(福島)に砦を築き、迎撃態勢を整えた。
信長が岐阜へと帰った隙をついての軍事行動であった。
野田・福島近辺の古地図
これは野田・福島近辺の古地図である。
視力ないけど目を凝らして分かる所に地名を記してみた。
大阪に住んでる人ならばこれでだいたいの位置関係は把握できたかと思う。
右の島、太融寺や北野天神があるあたりに梅田駅がある。
実は野田砦があったとされる場所には石碑が立っているだけで、石垣や堀跡など当時を偲ぶものは全く残されていない。
福島砦はどこにあったのか位置すら特定できていないのだ。
日が経つごとに三好三人衆に加担する者が増えてきた。
そこにはかつて信長が攻め滅ぼした美濃の大名・斎藤龍興の姿もあった。
細川昭元と紀州から雑賀(鈴木)孫市も三好三人衆側の援軍として到着。
総勢1万3000にもおよんだという。(松井家譜)
古橋城 榎並城の戦い
同元亀元年(1570)8月17日。
三好三人衆らが摂津より出撃し、織田方の若江城主・三好義継の所領である河内古橋城を攻撃する。
急な作戦だったらしく、高屋城主(飯盛山?)の畠山昭高150の兵と三好義継の手勢150、合わせて300の兵で交戦した。=古橋城の戦い
結果は散々な敗北に終わり、この時討ち取られた首級は218とあるから、ほぼ全滅で命からがら逃げ延びたのであろう。(言継卿記、多聞院日記、細川両家記)
古橋城を落とした三好三人衆らは余勢を駆って摂津榎並城も攻め落とした。=榎並城の戦い
信長、三好三人衆討伐のため岐阜を出陣
8月20日。
信長はついに重い腰を上げて岐阜城を出陣。
近江横山城、長光寺城を経由して23日入京した。
信長は将軍・足利義昭に三好三人衆討伐を要請し、摂津平定の総大将になることを承諾させた。
将軍御自らの出馬を内外にアピールすることで、これは親征であり、信長の征討は正当なものであると知らしめるのが狙いであった。
関連記事:【悲報】足利義昭さん、自分で作った反信長連合軍を討伐する総大将にされてしまう
8月25日。
辰の刻(午前7~9時)に京を出陣。淀川を越えて河内牧方に着陣する。
野田・福島の戦い序盤 摂津中嶋城で激しい交戦
8月26日。
摂津国中嶋で織田軍と三好三人衆軍が激しく交戦。
織田軍は多数の死傷者を出しながらもなんとか中嶋城(別名:堀城)の攻略に成功する。(多門院日記)
そして織田軍主力部隊はついに野田・福島からは目と鼻の先にある天満森、渡辺津、神崎、上難波、下難波、浜の手、川口に着陣。
信長自身は天王寺に布陣した。
野田・福島の戦い いきなり力攻めはせず、まずは調略
8月26日。
するとここで敵方から降伏する者が現れた。
三好政勝、香西長信(越後守)、細川信良らである。(武徳編年集成)
野田か福島いずれかの砦で内応し、織田勢を引き入れる画策をしていたが警備が厳重で断念。
城を抜け出して信長陣所へと走ったようである。
将軍・足利義昭が2000の兵を率いて京を出陣し、9月4日に細川藤賢のいる中嶋城に着陣した。
浦江城の戦い 日本初の大口径火縄銃が火を噴く
9月8日。
三好義継・松永久秀に命じて浦江城(海老江城)を攻略させる。
この戦いでは初めて「大鉄砲」という大口径の火縄銃が使用されたという説があるが、真偽は不明である。
また信長は楼岸砦と川口砦を築き、織田軍先鋒隊を北海老江に移動させ、さらに本陣を天満森に移した。(松井家譜)
野田・福島の戦い いざ開戦
9月11日。
信長の号令の下、織田軍は野田・福島両砦に面する川を埋め、対岸に土手を築き、さらに櫓まで建てた。
水の利を得たこの砦を無力化しようという作戦だ。
この日から本格的な攻城戦が始まり、さっそく敵兵の首級7つを挙げた。
翌日の9月12日。
織田方の援軍として紀伊国から雑賀衆、根来衆など2万の軍勢が遠里小野、住吉、天王寺に到着。
紀州からの鉄砲集団が参着したことで織田軍の士気が上がった。
紀州勢はそのまま北上し、野田・福島の両砦の攻撃に加勢。
鉄砲を使った大規模な銃撃戦となった。
敵方にも援軍として紀伊国から雑賀孫市(鈴木孫一)率いる傭兵鉄砲集団が籠城していたので、双方とも凄まじい戦闘であった。
信長公記の著者・太田牛一もこのいくさを間近で見ていたようで、
根来・雑賀・湯川・紀伊国奥郡衆二万ばかり罷立ち、遠里小野・住吉・天王寺に陣取り候。鉄炮三千挺これある由候。毎日参陣候て攻められ候。御敵身方の鉄炮誠に日夜天地も響くばかりに候
信長公記
とこの日の出来事を記している。
貧しい紀州から2万の傭兵軍勢には疑問を感じるし、鉄砲が3000丁にもさすがに違和感がある。
しかし、それだけ彼らが頼もしい存在であり、それだけ多くの鉄砲だと錯覚したのかもしれない。
たまらず和議を申し入れる三好三人衆
三好三人衆らも中嶋(堀)、浦江(海老江)、和泉の畠中城も落とされた挙句、川を埋められ、見渡せば櫓が無数にあり、さらには紀伊から大軍が信長方に合流したとなると慌てふためいた。
そして信長に和議を申し入れた。
しかし、信長はこの機に一気に三好三人衆とそれに加担する者たちを攻め滅ぼす覚悟であったため、この申し出を拒絶。
かつて天下を取っていた三好家と、現在の天下人である織田家との熱い戦いが、まさにこの大阪市で行われたのだ。
力攻めを避け、クレバーに攻めた織田家が次第に有利となり、三好三人衆側の戦意も下がってきた。
もはや信長の勝利は目前であった(フラグ)
ごらんいただきありがとうございます。
この時期の信長の年表はこちらです。