信長と斎藤道三の知恵比べ?正徳寺の会見

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 「織田信長」と「斎藤道三」は婿舅の関係である。実は、この「正徳寺」の会見が行われた時期は定かではない。「父信秀の存命中に行われていた説」や、「実は信長と道三は二度あっていた説」もある。

確かに信長関連の第一級資料である「信長公記」ばかり信用していたら、整合性が取れなくなることも多々あるのだ。(信長公記が本気の力を見せ始めるのは、永禄の終わりの方から)

今回はとりあえず定説である天文22年(1553)4月説を採択することとする。傅役の平手政秀自害の直後ということだ。なるべくわかりやすく説明するので、このまま読み進めていってほしい。

正徳寺の位置
戦国時代勢力図と各大名の動向ブログ様より引用

会見の背景

 織田家中で随一の教養の持ち主であった平手政秀が死んだ。織田家の足元の土台が揺らいでいるのではないかと最も敏感に感じ取ったのは、隣国美濃の戦国大名斎藤道三であった。

斎藤道三

突然舞い込んだ斎藤家から会見の申し入れ

那古野城内にて

林秀貞「殿、斎藤家から会見の申し入れが来ておりますが、いかがなさいますか?」

織田信長「左様か。会おう」

佐久間信盛「場所は濃尾の国境、富田の正徳寺となっておりまする。
いかに身内とはいえ、今の情勢では…危険すぎはしますまいか」

林秀貞「万が一のため、それがしがお供いたしましょうか」

織田信長「無用じゃ。代わりに共として長槍500、弓鉄砲500を連れて行く。
佐久間、用意しておけ」

佐久間信盛「ははっ」

  数日後

道三が会見前にこっそり見た信長の姿とは

堀田道空「お屋形様こちらでございます。」

斎藤道三「うむ。おお、ここの民家からなら
織田家の行列がよく見えるわい」

堀田道空「来ましたぞ。あれが織田勢でしょうな。」

斎藤道三「…!! なんじゃあの槍の長さは。
我が軍の3倍は長いぞ…。」

堀田道空「長い行列ですな。当家に負けまいと、
無理にかき集めたのやもしれませぬな」

斎藤道三「…!! それにあの鉄砲の数。いつの間にあれだけ揃えたのか。
あれはただの寄せ集めの兵には見えぬ…。」

堀田道空「お屋形様、恐らくあれが旗本本隊でござりましょう。
ああ!あの真ん中にあるのが上総介殿では?」

斎藤道三「どれ、見せてみよ。ん、な、なんと…!」

堀田道空「噂に違わぬうつけぶり。
お屋形様との会見にもあのような出で立ちでやってくるとは!」

道空「道空、会見はこのままの服装でよい。
ワシだけ正装になったのでは笑い者じゃ」

この当時の信長がよくする着こなしとは、「髪は茶筅髷、腰には瓢箪をぶら下げ、着物は上が上半身半分裸、太刀脇差をわら縄で結び、さらに火縄銃も持ち歩いていた。鉄砲はこの当時はまだまだ高級品で手に入りづらく、また実戦で効果が実証されるのはまだ先の話なのである。

織田信長

いざ婿と舅の初顔合わせ

春日丹後「上総介様、こちらが山城守殿にございます」

織田信長「ふん、ようやくおいでになったか」
敷居に通され、信長は道三に一礼して座した。

堀田道空「上総介様、こちらにおわすのが、
我があるじ山城守殿にござります」

織田信長「で、あるか」

斎藤道三「…!!!(こやつ、ただものではない。
なんという堂々とした態度!しかもいつあのような立派な正装に着替えたのか…!)」

会見では酒肴が振舞われ、淡々と終了したと伝わる。道三は「また近いうちにお目にかかろう」と言い、20町(約2.2km)ほど見送った。

外交

道三が帰路に残した言葉

猪子高就「いやぁ、大したものじゃ。
噂に違わぬうつけぶりでしたな」

道三は不機嫌な表情でこう呟いた
斎藤道三「残念だが、わしの息子たちは皆、
あのうつけ殿の門前に、馬を繋ぐことになるであろう」

猪子高就「な、なんと…!」

斎藤道三「言うな。残念だが、あれは帰蝶にふさわしい男だったのよ」

門前に馬を繋ぐとは、臣下となるという意味だ。この言葉通りになったかどうかは、歴史ファンなら言わずともわかるであろう。

知られざる暗殺の匂い

 この会見で信長の器量を見極め、明らかな無能であれば、信長はどうなっていたかわからない。娘を嫁いではあるが、次の代になれば婚姻関係など平気で破られる時代なのだ。奥州伊達家然り、信虎追放後の甲斐武田家然り。

正徳寺の会見 その後

 この翌年、斎藤道三は家督を嫡男の義龍に譲り隠居。しかし、実権は道三が握っていた。この2年後に今川勢が尾張に侵攻した際は、道三は信長の要請に応じて援軍を派遣している。この会見は信長にとって大いにプラスに働き、強固な同盟関係であったことが窺える。なお、信長の正室であるきちょうとは、既に冷え切った関係ではなかろうかと私は考えるが、あまりに史料が乏しすぎて判然としないのが残念である。

常識破りの信長の発想

 「常識」を疑うことは簡単だ。

私は若い頃そうであった。しかしながら、あれは根拠のないただの懐疑心に過ぎなかった。

何故そうなり、そういう結論に達して「常識」となったのか。
私はこの歳(33くらい)になって、ようやく常識を疑うのにも「根拠」がいると知った。

私が研究した限りでは、信長はかなり早熟なタイプの武将である。まだ10代後半の頃から、いわゆる常識というものを疑っていた。

模擬合戦で得た用兵術と統率力

 信長は若い頃から「模擬合戦」をことさらに好んだ。鉄砲の集中運用ばかり注目されているが、私の調べたところ、初期の信長の強さはそこではない。確かに鉄砲の数も多い方ではあったが、それよりも通常の3倍もの長さの長槍と、旗本である信長親衛隊こそが、強さの原動力だと見ている。

石合戦の様子

長槍には熟練された戦士が必要

信長は模擬合戦で長槍が使えると体感した。しかも、”長すぎる長槍”の扱いなど、寄せ集めの農兵にできるものではない。金で常に雇っている訓練された「戦士」が必要だと信長は既に知っていたのだ。

兵学・用兵に長けたる武将

「用兵」を学ぶものは戦国の世にあって珍しいものではない。だが、恐らく多くの戦国武将は、書物で学んだだけで、覚えた気になってただけなのかもしれない。実戦で取り入れて、アウトプットができた武将こそが、真の戦術家なのである。また、それ以外にも今でいうマネジメント能力や、人を引っ張る統率力、人を惹きつける魅力が必要だということを忘れてはならない。

兵学書

ご覧いただきありがとうございました!もっと面白いの目指して書いていきます\(^o^)/

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