織田信長の年表のちょっと詳しめ 誕生~叔父信光死去まで

4.5

 私は「織田信長公」が好きだ。小学4年生の頃からずっと好きだ。信長公のことなら日付単位で調べている。私には真似できないものをたくさん持ってるからここまで惹かれるのであろうか。
織田信長の性格や、なぜ成功したかについては、サーチエンジンの検索結果を見るに、あまり世の人は関心がないようだ。嘆かわしいことだ。逆に検索上位にくるのは、「年表」、「子孫」、「肖像画」、「家紋」、「家系図」、「弥助」、「fgo」である。

信長公の内面に触れるものは何一つない。いや、愚痴はやめておこう。
このページに来てくれたということは、簡単な年表では物足りず、もうちょっと詳しいのが知りたいという方々であろう。非常に嬉しいものだ。

当サイト織田信長の年表の概要

今後、私は信長公の取った軍事行動、経済政策、外交戦略の「一つ一つを別の記事に詳細に書き」、「なぜそうなったか、そうする必要があったかを考察」、そしてこの年表記事とリンクしていく。つまり、この記事が基準となって、詳細な内容を別に書くということだ。

とりあえず最初は清州に居城を移す天文23年5月までとさせていただく。更新は別の新たなページを使用していく方針だ。お手数だが、ページ更新はTwitter(来世で使える速報)にて告知をさせていただくので、是非フォローしていただくか(フォロバします^^)、リストにぶちこんでほしい

一人でも多く信長公のことについて知っていただきたい!

この年表の見方

  • 当サイトでは、信長の人生で大きな転換期となった時代時代で、一区切りにしている
  • 他サイトや歴史本、教科書で紹介されている簡単な年表に書いている内容は、赤太文字
  • 年代や日付について諸説ある場合は、年代や日付の個所に黄色いアンダーライン
  • 内容に関して不明確で諸説ある場合は、事績欄に黄色いアンダーライン
  • 当時は数え年であるから、信長の年齢は生まれた瞬間を1歳とする。誕生日についても詳細不明のため、1月1日で1つ歳を取る
  • 太陽暦、太陰暦がある。当サイトでは、他のサイトや歴史本と同じように、太陰暦を採用している。中には「」なんていう聞きなれないワードがあるかもしれないが、あまり気にせず読み進めていってほしい
  • キーとなる合戦、城攻め、政治政策、外交での取り決めは青太文字
  • 何か事柄に補足したいときは、下の備考欄に書く

それではリンパマッサージ年表表記の方はじめさせていただきます。(ゲス顔)

織田信長の年表(詳しめ)

 誕生から元服まで

初陣

天文3年(1534)

1歳

5月11か12日

織田信秀の次男として生まれる。生母は正室の土田氏。幼名は吉法師。

 (備考)長男は側室との子であった為、嫡子は吉法師ということになる。信長が生まれるまでの織田信秀の活躍は下記の記事に載せているのでご覧いただきたい。

???

誕生後はただちに乳母の元で養育されることとなった

(備考)ただ、非常に癖が強く、乳母の乳をよく噛み破るため、何人もの乳母が交代したといわれている。池田恒興の生母になった途端、その癖は収まった。

天文11年(1542)

9歳

???

この年、父の命で那古野城に移る。宿老に林秀貞、平手政秀、青山右衛門尉、内藤勝介を付けさせ、信秀自身は翌年、古渡城へ移る。

天文13年(1544)

11歳

父信秀、越前の朝倉氏と呼応して美濃の稲葉山城を攻めるが、敵大将の斎藤利政(道三)に撃破される。

 (備考)織田勢は木曽川に追い詰められ、2~3000人が溺死するという大敗北を喫する(信長公記など)

天文14年(1545)

12歳

5月2日

父・織田信秀、足利将軍家の大舘晴光(左衛門佐)に宛てて、尾張領国内の道中の安全を保証する旨の書状を送る。

天文十四年五月二日付け織田信秀書状+釈文
天文十四年五月二日付け織田信秀書状+釈文

関連記事:【古文書講座】織田信秀が足利将軍家へ宛てた書状 そこから見えてくるものとは

 (備考)この書状からも当時の織田信秀が尾張で一番の実力者と目されていたことが窺える。

天文15年(1546)

13歳

???

この年、元服。名を三郎信長と名乗る。(信長公記)

 (備考)「三郎」とは父信秀も称した仮名であり、この時には既に世継ぎの第一候補と目されているのが窺える。

元服から清州城攻略まで

天文16年(1547)

14歳

???

この年、初陣を果たす。吉良大浜の戦い。三河吉良大浜に出陣し、所々に放火してその日は野営。翌日那古野に帰陣した。 (信長公記)

 (備考)後見役は平手政秀が務めた。

天文17年(1548)

15歳

11月頃

信秀と美濃の斎藤道三との間で和睦婚姻が成立。信長が道三の娘「帰蝶」を娶る約束をする。

 (備考)この同盟に奔走したのが、家老の平手政秀である。(信長公記・土岐累代記)

天文18年(1549)

16歳

2月24日?

斎藤道三の娘「帰蝶」が織田信長の元に嫁ぐ。(美濃国諸旧記)

11月9日

駿河の今川軍の太原雪斎、三河安祥城を攻め落とす。城主で庶兄の織田信広が捕虜になり、後に尾張に抑留していた「竹千代」=後の徳川家康と捕虜人質を交換する。(創業記考異)

 (備考)この安祥城の陥落により、織田家の三河への影響力は完全に失うこことなった。

11月

熱田八カ村中に制札を下し、「藤原信長」署名している。(加藤秀一氏旧蔵文書)

 (備考)現存している信長発給文書最古のもの。なぜ藤原姓なのかは不明。

天文21年(1552)

19歳

3月9日?

父信秀、流行り病により末森城にて病死。享年41歳。(万松寺過去帳・定光寺年代記)

 (備考) なお、信秀の没年には天文18・20・21年説がある 。

3月10日~4月?

父信秀の葬儀が執り行われる。喪主は嫡男信長。織田家の主だった者たちが参列する中、信長が焼香の際に抹香を投げつけたのはあまりにも有名である。(信長公記など)

4月10日

 熱田の加藤元隆(佐助)に、座の買得を許可する。

 (備考)この古文書についての詳細記事を書きましたので、よろしければ次のリンクからご覧ください。

4月?

信秀の死去により、鳴海城主の山口教継・教吉父子が謀叛。駿河の今川義元方に寝返る。駿河衆を引き入れて信長領内に侵入。笠寺に砦を築いた山口教継は中村まで兵を進める。

 (備考)鳴海城が今川方の手に渡ったということが、その南に位置する知多半島ほぼ全域の影響力を失うことを意味し、当時の織田家にとっては大きな痛手であったに違いない。

4月17日

信長、兵800を率いて那古野城を出陣。赤塚にて山口父子率いる兵1500と戦う。=赤塚合戦。朝から夕刻まで野戦に及ぶが勝敗は決せず。信長の寄騎30騎ほどが討死。尾張兵同士、顔見知り同士が争った戦でもあり、その日のうちに捕虜や馬を返し合った。信長はその日のうちに那古野に帰陣。(信長公記)(年次については諸説あり)

7月28日

浅井充親に竹二十本礼状を送り、「三郎信長」と署名。(浅井文書)

8月15日

守護代織田信友が信長に対して牙をむく。家宰の坂井大膳が松葉城主の織田伊賀守を人質とる。

 (備考)織田信長の家系は、元々は守護代織田信友の配下であったが、父信秀の方が名声、実力ともに凌駕していた。信秀の死により好機と見て反旗を翻したのである。当時の織田家のややこしい家系、家柄については、こちらの図をご参照ください。

織田信秀・信長の家系
織田信友は清州織田家(大和守)。信秀、信長は弾正忠家。

8月16日

守山城主・織田信光(信長の叔父・信秀の弟)が信長の援軍に駆けつける。信長が那古野城を出陣し、海津村付近で坂井大膳勢を撃破。=萱津合戦・または海津村合戦。ついで、松葉・深田両城を奪い返す。(信長公記)

10月12日

知多郡と篠島の商人の守山往還を認め、種々の保護(郷質ごうじち所質ところじちの禁止など)を与える措置を講じている(古今消息集)

 (備考)これによって、恐らく熱田などの交通の要衝も交易によって大いに繁栄したであろう。これが信長による関所撤廃、楽市楽座の原点なのかもしれない。

10月21日

織田秀敏(玄蕃・信長の大叔父)に中村方三郷を安堵(尊経閣文庫所蔵文書)

12月20日

熱田の加藤全朔紀左衛門尉に徳政などを免除する。(加藤文書)

天文22年(1553)

20歳

閏1月13日

家老で傅役の平手政秀が自害

(備考)自害に及んだ原因は諸説ある。信長の行状を諫めてのことか、平手父子と信長の個人的な確執なのかは不明。のち、信長は政秀の菩提を弔うために、平手家の所領に政秀寺を建立した。

4月下旬

美濃の戦国大名であり、舅の斎藤道三と国境に近い富田の正徳寺で会見。(信長公記)

 (備考)道三が平手の自害で、信長の足元の土台が揺らいでいるとみて、信長の器量を確かめるために会見を申し込んだとみて間違いないだろう。この会見により信長の力量を大いに感じ入り、斎藤家と織田家の同盟関係は強固なものとなる。詳細については下記の記事をどうぞ^^

5月20日

津島社の禰宜九郎太夫の借銭を破棄する(張州雑志)

7月12日

尾張守護職の斯波義統が、守護代の織田信友に殺害される。(信長公記)義統の嫡男・斯波義銀、那古野城主織田信長を頼る

 (備考)この事件により、信長は守護代の織田信友を討つという大義名分を得たのであった。

7月18日?

信長の命を受けた柴田勝家が清州へ出陣し、 三王口で開戦 。清州勢は乞食村でも戦うがさらに後退し、 誓願寺まで追い詰められ、 河尻左馬丞、織田三位といった重臣が討死した。=安食村の戦い

 (備考)合戦自体が翌年だという説もある。しかしながら、清州城落城が翌年5月という説をとれば整合性が取れなくなる。この時期の信長の事績には不明な点が多いのだ。柴田勝家についてはすごーく詳しく書きましたので、是非下記の記事をご参照ください。

11月22日

服部弥六郎に買得の田畠を安堵する(津島社旧記)

12月

津島社神主の兵部少輔の借銭を破棄して所領を安堵する。(三輪庄吉氏所蔵文書)

天文23年(1554)

21歳

1月

駿河の今川勢、尾張に侵攻。村木に砦を築き、緒川城の水野信元を攻める。信長、ただちに美濃の斎藤家に援軍を依頼。(信長公記)

1月20日

斎藤家の援軍・安藤守就、手勢1000を率いて那古野城に到着。 (信長公記)

1月21日

信長、安藤守就を那古野城の留守居を任せて出陣。熱田に泊まる。 (信長公記)

1月22日

暴風の中を知多半島西岸に強行渡海し、緒川に着陣。 (信長公記)

村木城の戦い
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1月24日

明け方に出陣し、村木城を攻める。=村木城の戦い。一日中激しく攻め立て、その日のうちに陥れる。 (信長公記)

 (備考)正面から信長旗本本隊、側面から織田信光水野信元が激しく攻める。双方に大きな死傷者を出したが、信長の武勇と統率力に、駿河にいて報告を聞いた今川義元は舌を巻いたであろう。

詳細については下記の記事をどうぞ^^

1月25日

信長、那古野城に凱旋。 (信長公記)

1月27日

安藤守就、那古野城を引き上げ国もとに戻る。 (信長公記)

5月

叔父の信光、清州の織田信友の誘いを受けて清州城に入城。しかしそれは罠であった。信長が清州城に攻め込んだ時に、信光は内応清州城を攻略。=清州城の戦い。守護代の信友を殺害し、家宰の坂井大膳は駿河に出奔した。(信長公記)

5月~

同年、信長は清州城居城を移す。叔父信光に那古野城を譲り、守山城を織田信次(信長の叔父)に与えた。(信長公記・定光寺年代記)年次には諸説あり。

 (備考)信長は弱冠21歳にして、父信秀をも成しえなかった主家を滅亡させたのであった。

来世ちゃん
来世ちゃん

織田信長公の年表を御覧になりたい方は下記のリンクからどうぞ。

  1. 誕生~叔父信光死去まで(1534~1555) イマココ
  2. 叔父信光死去~桶狭間の戦い直前まで(1555~1560)
  3. 桶狭間の戦い~小牧山城移転直後まで(1560~1564)
  4. 美濃攻略戦(1564~1567)
  5. 覇王上洛(1567~1569)
  6. 血戦 姉川の戦い(1570 1.~1570 7.)
  7. 信長包囲網の完成(1570 7.~12.)
  8. 比叡山焼き討ち(1571 1.~9.)
  9. 織田信重(信忠)の初陣(1571 9.~1572 9.)

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