こんばんはー。
今回は久しぶりに古文書解読記事を投稿します。
現存する中では織田信長が発給した最古の古文書です。
そこには「藤原信長」と名乗っていますが、その理由とは!?
今回もいつものように原文と釈文、書き下し文、現代語訳、当時の時代背景もご紹介します。
現存する織田信長最古の制札(天文十八年十一月付け織田信長制札)
原文
釈文
制札 熱田八ヶ村中
一、当社為御造営、宮中可被収人別、然上者、国次棟別並
他所他国之諸勧進令停止事、
一、悪党於現形者、不及届可成敗事、
一、宮中任先例、他国当国敵味方並奉公人足弱、同
預ヶ物等、不可改之事、付、宮中へ出入之者江
於路次非儀申懸事、
一、宮中え使事、三日以前□□□並其村へ相届之、遂
糺明、其上就難渋者、可入譴責使事、
一、俵物留事、任前々判形之旨、宮中へ無相違可往反事、
右条々、於違反之輩者、速可処厳科者也、仍
執達如件、
天文十八年十一月日 藤原信長(花押)
原文に釈文を記してみた
書き下し文
制札 熱田八ヶ村中
一、当社御造営の為、宮中に人別収めらるべく、然る上は、国次の棟別並びに他所他国の諸勧進を停止せしむ事。
一、悪党現れ(?)るに於いては、成敗届けるに及ばざるべき事。
一、宮中の先例に任せ、他国当国の敵味方、並びに奉公人、足弱、同じく預け物等を改めざること。
付いて宮中へ出入りの者へ、路次に於いて非儀を申し懸かる事。
一、宮中への使い事、三日以前に(解読不可)並びに其の村へ相届け、速やかに糾明。
其の上で難渋するについては、譴責使が入るべき事。
一、俵物留めの事、前々からの判形の旨に任せ、宮中へ相違い無く往反すべき事。
右の条々、違反の輩に於いては、速やかに厳科を処すべきものなり。
仍って執達件の如し。
天文十八年十一月日 藤原信長(花押)
難読箇所の解説
可=(べく、べき)返読文字右の本格派右腕エース。
被=(られ、らる)受け身系。返読文字左の軟投派左腕エース。
人別=(にんべつ)人ごとに割り当てること。
棟別=棟別銭(むなべつせん)のこと。
特定の国郡または全国の家屋の棟単位で賦課(ぶか)された租税のこと。
足弱=(あしよわ)老幼婦女のこと。
令=しむ。ここではせしむ。命令形。返読文字。
非儀=(ひぎ)正義に背くこと。
譴責使=(けんせきし)といい、年貢などを納める百姓を勘責し、催促を行うための使い。
仍執達如件=(よってしったつくだんのごとし)仍如件(よってくだんのごとし)と同じく書留文言にあたる。
「以上が〇〇様の御意向である」といった感じ。
織田信長が足利義昭を奉じて上洛して以降は、たびたび「仍執達如件」のワードが見受けられる。
※熱田八ヶ村は熱田社領である。
※内容は熱田社領の権利を認め、保護することを記したもの。
現代語訳
制札 熱田八ヶ村中
1.熱田社造営のために人別を収めているので、国の棟別銭や他所・他国の勧進への供出を停止すること。
2.悪党が現れた際には、届け出はせずに成敗してよいこと。
3.熱田社の先例に任せて他国の敵味方・奉公人・老幼婦女とそれらの預け物などを改めないこと。
なお宮中へ出入りの者に、路次において非儀を申付けないこと。
4.熱田社への使者については三日以内に届け出をして糺明(きゅうめい)すること。
その上で難渋する場合は譴責使(けんせきし)を入れること。
5.俵物(米)留めのことについては以前の判形によって宮中への移送を行ってよいとすること。
これらの条目に違反する者がいた場合は、すぐに信長が成敗を加えるものなり。
1549年11月 藤原信長(花押)
この書状の時代背景
この制札は現存する中で、織田信長が発給した最初の文書である。
天文18年(1549)とあるが、この当時の信長は弱冠16歳。
信長初陣時の姿
父である織田信秀はいまだ健在ではあったが、三河の利権をめぐって今川義元との抗争に敗れ、三河安祥城を落とされてしまう。
美濃の斎藤道三とも敵対していた。
さらに犬山織田氏が楽田(がくでん)城主・織田寛貞ととも攻め寄せてきたが、これには打ち勝っている。
そうした危機的状況から、織田信秀は美濃の斎藤道三との和睦を推し進め、この年に道三の娘を信秀の嫡男・信長に嫁いで婚姻同盟を成立させた。
今回の制札はそうした時期のものである。
熱田社とは織田家が支配する那古野城のすぐ近くにあることから、織田信秀が支配していた。
なお、当時の熱田神宮はすぐ南には港があり、港町としても栄えた土地であった。
これは江戸時代の末期に記された「尾張名所図会」という古文書に記されている熱田社である。
高画質拡大したやつがこちら。
尾張名所図会は国立国会図書館デジタルコレクションから閲覧可能である。(外部サイト)
熱田社が紹介されているページはこちら。 (外部サイト)
数年後の天文23年(1554)。
織田信長は熱田の港から渡船し、村木城の戦いで大勝利している。
「藤原信長」の謎について
織田信長の家系は平氏なので、「藤原信長」とあるのはおかしい。
信長が藤原姓を用いた文書を発給したのは、現存する中ではこれだけである。
このことについて、研究者の間では現在でも様々な議論を呼んでいる。
織田氏の発祥は越前国織田荘、あるいは織田神社(現在も存在)である。
織田氏と思われる人物の史料上の初見は、織田常松という人物で、斯波氏を補佐するために尾張へ下り尾張守護代に任じられている。
一説によると、織田常松の祖父にあたるのが「藤原信昌」という人物のようだ。
誠に申し訳ないが、そこから導き出される結論は私には分からない。
なお、「藤原信昌」とは別人で、平安時代に藤原信長(外部リンクwikipedia)という人物は実在した。
この制札の現物は戦争で焼失してしまった
保存状態が悪いものの、この制札が拝見できることは奇跡だ。
これは昭和6年(1931)に刊行された「尾張国遺存織田信長史料写真集」に謄写されているものである。
しかしながら、大東亜戦争(太平洋戦争)の空襲の為に現物が消失してしまった。
もし、尾張国遺存織田信長史料写真集の発行がもう十数年遅れていたら、我々は永久にお目に掛かれなかったかもしれない。
なおこの時代の織田信長の年表はこちらです。
1.誕生~叔父信光死去まで(1534~1555)
ご覧いただきありがとうございました。
古文書の解読は独学でまだまだなレベルですが、なかなか面白いです。
今年はお世話になりました。
皆さん良いお年を!