信長が病の家臣を気遣い医者を呼ぶも、既読無視された時の書状

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来世ちゃん
来世ちゃん

こんばんはー。
今回の記事は「信長が病の家臣を気遣い、わざわざ宣教師の医者を呼んだ時の書状」の解読です。
信長が秀吉の妻であるおねを気遣い、書状を送り遣わしたエピソードはあまりにも有名です。
有名すぎる書状の解読などしても面白くないので、あまり知られていないエピソードを書いてみました。
今回はどのような面白いことが記されているでしょうか。

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信長が近江に滞在中の宣教師の医師に宛てた書状(元亀三年正月晦日付け織田信長朱印状)

原文

元亀三年正月晦日付け織田信長朱印状
元亀3年(1572)正月晦日付け織田信長朱印状

釈文

其方ニ候外教
くすしを早々
申付、可被越候、友閑ニ
腫物出候間、可見
ためニ候、不可有油
断候、恐々謹言

正月晦日 信長(朱印)
あし浦
  観音寺

原文に釈文を記してみた

正月晦日付け織田信長朱印状+釈文
元亀3年(1572)正月晦日付け織田信長朱印状+釈文

現代語訳

宣教師の薬師に急ぎ来てもらい、松井友閑の腫物を診てほしい。

1月30日 信長(朱印)

松井友閑(ゆうかん)とは何者か

 茶の湯に精通し、外交手腕に長けた。
村井貞勝武井夕庵と並んで、信長の吏僚として活躍した人物。

松井友閑とは足利将軍家家臣の松井氏の一族のようだ。
私も今まで「信長公記 首巻」に登場する”友閑”のことだと思っていたが、どうも現在では別人だとする説が有力らしい。

永禄11年(1568)信長上洛の頃から織田家に仕えはじめ、畿内の政務、名物奉行、茶会の幹事、さらに信長の右筆に加えて副状も発給するなど、信長の側近としての活躍も見られる。

この腫物事件の後、天正3年(1575)からは堺の代官も務めた。

書札礼について

 少し専門的な説明をすると、この書札礼(しょさつれい)には相手に対しての敬意が見て取れる。
(※書札礼とは書簡を出すときに守るべき礼法のこと)
もう一度書状をご覧いただきたい。

正月晦日付け織田信長朱印状+釈文
元亀3年(1572)正月晦日付け織田信長朱印状

書き留め文言(かきとめもんごん)にあたる「恐々謹言(きょうきょうきんげん)」。
これは対等な立場の相手に対して用いられる書き方だ。

対等の場合
対等な立場の場合

今回の書札礼はこれにあたる。

目上の場合
目上の場合

こちらが目上の立場に宛てる書札礼。
信長ならば、天皇や将軍が目上になるだろう。

目下の場合

こちらが目下の立場に宛てる書札礼。
本来ならばこれを用いるのが普通だ。

宛所の芦浦観音寺は寺院。
宣教師たちは信長よりも低い身分の人物なので、これはかなり気を使った書札礼になるだろう。
信長としては非常に気を使った、どうしても彼らに来てほしいという焦りが見えなくもない。
(そのかわり脇付は記されていない)

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信長が家臣を気遣った数少ない逸話

 これは元亀3年(1572)1月30日。
腫物を患っていた松井友閑のために、信長が近江芦浦観音寺に滞在中の耶蘇会(やそかい)宣教師の医師を招致するよう指示を下した書状だ。

宛所の観音寺というのは、佐々木六角氏が居城としていた近江観音寺城のことではない。
これは現在の滋賀県草津市芦浦にある天台宗の寺院であり、聖徳太子が開基、秦河勝(はたのかわかつ)の創建という伝説がある。

「外教くすし」とはキリスト教の医師という意味。
友閑の生没年は不明なのだが、恐らく信長よりはるかに年上の家臣だろう。

信長が友閑を気遣った様子が見て取れる面白いエピソードがある。

再三にわたって芦浦観音に使いを送っていたが、2月8日になっても一向に宣教師も医師も岐阜城に来なかった。

それどころか返答もなかった。
苛立った信長は武井夕庵(信長の家臣)を叱責。
さらに、早急なる招致のため、夫丸(ぶまる=人夫、人足)・馬の手配は佐久間信栄(佐久間信盛の子)に命じ、速やかに招致に応ずることを促す書状を出した。(観音寺文書)

この時代で返事が来ないということは、愚弄されたと取られてもおかしくはないことだ。
信長の苛立ちを容易に想像できてしまう。
友閑は茶の湯にも精通していることから、信長が茶の師匠として個人的にも親しかったのだろう。

その後、宣教師の医師が信長の招致に応じたのかどうかは不明だ。
松井は病状が回復したと見え、3年後には堺奉行に就任。
少なくとも天正10年(1582)の本能寺の変までは存命していたようだ。

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