村井貞勝 信長だけでなく町人、公家、天皇にまで愛された名奉行

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こんばんはー!
信長公の家臣団の6人目は「村井貞勝」だ。
信長の若い時期から仕えており、
上洛後はほとんどの時間を京で過ごした武将だ。

はじめに

  • 重要な部分は赤太文字
  • それなりに重要なポイントは赤や青のアンダーラインで
  • 信憑性が疑われている部分は黄色のアンダーライン

それでははじめていきます。

村井貞勝の生涯

生年不詳-天正10年(1582)6月2日

仮名・幼名・官途名・受領名

吉兵衛、春長軒、民部丞、民部少輔、長門守

家族・一族

父:不詳 母:不詳

兄弟:村井宗信

妻:不詳

子:貞成、清次、慈光院(佐々成政室)、娘(前田玄以室)、娘(福島高晴室)、

養子:村井重勝

村井貞勝肖像画
村井貞勝

信長の尾張統一時代

 近江出身?とあるが、ソースが太閤記だけににわかには信じがたい。
行政手腕に長けていたため、織田信長から熱い信任を受けて、早期より重用される。

天文年間末期(1554年くらい?)から永禄年間初期(1558年くらい?)の熱田社の有力者に宛てた書状で佐久間信盛赤川景広島田秀満との連署書状の中に、「吉兵衛貞勝」との名が見えることから、その頃には既に信長の行政官として仕えていたのではなかろうかと思われる。

弘治2年(1556)織田信勝謀叛の時は、島田秀満とともに信長と信勝の生母・土田御前に仲介を頼まれて末森城まで赴き、信長との仲介を受け持ったことで信勝や林秀貞柴田勝家らを許している。

桶狭間の合戦~美濃攻略まで

 永禄8年(1565)頃?6月10日付の連署書状で村井貞勝は島田秀順(秀満)、明院良政丹羽長秀木下秀吉らとともに、佐々平太兼松正吉に計三十貫文の知行宛行いの奉行を務めている。

永禄10年(1567)には西美濃三人衆と名高い稲葉良通安藤守就氏家ト全斎藤龍興を見限り、信長に内応した際は、島田秀満とともに人質を受け取りに出向く。

足利義昭を奉じての上洛

 永禄11年(1568)7月。稲葉山城を岐阜と改めた信長の命により、足利義昭を迎える使者として貞勝と島田秀満が越前に赴いている。

足利義昭を奉じての信長上洛軍に従軍。畿内を平定させ、10月26日に信長が岐阜に帰ってからも、貞勝は佐久間信盛、丹羽長秀、木下秀吉、明智光秀、明院良政らとともに京に残されて、現地の政務や公家との折衝にあたる。

京都留守居役としての村井貞勝の実績

永禄11年(1568)

  • 11月24日。丹羽長秀と長命寺惣坊に坊領の知行分の年貢の収納を認める。(長命寺文書)
  • 同日。丹羽長秀と沖島地下人に沖島における堅田の知行分を認める。(堅田村旧郷士共有文書)

永禄12年(1569)

  • 2月2日。六条本圀寺の変により、将軍・足利義昭の命が危うかったことから、信長は二条将軍御所の着工にとりかかる。その際に大工奉行に村井貞勝、島田秀満が任命され、畿内近国14ヵ国から人夫が動員され、一日数千人が工事に使われたという。この造営は信長自らが陣頭指揮に立ち、突貫工事で行われた。(信長公記には2月27日鋤始めとあるが、言継卿記によると1月27日にはもう作業が行われている)この二条御新造は瞬く間に完成し、同年4月14日に足利義昭はここに入った。
  • 5月14日。明智光秀、武井夕庵とともに、妙智院に対し北山等持院が天竜寺の末寺である証明を求める。(天竜寺文書)
  • 同年10月12日。浄福寺への寄宿を免除する。(浄福寺文書)

永禄13年(1570)

  • 1月下旬。信長は禁裏の修理に取り掛かる。諸大名に資金の供出を呼びかけるが、元からそれをアテにしていなかったのか、2月2日。早くも作業が村井貞勝、朝山日乗を奉行として開始されている。(御湯殿の上の日記)
  • 2月29日。明智光秀、朝山日乗と、近衛前久(公家)邸門外町人に対し、公方御所及び信長御台所座所の近辺に寄宿することを禁じる。(陽明文庫文書)
  • 5月20日。朝山日乗とともに、長橋局ながばしつぼね(宮中に仕えた女官で,勾当内侍こうとうのないしの別称。)に祇候しこう(謹んでお伺いすること)し、信長の伝言を伝える。(御湯殿の上の日記)
  • 6月19日以降。常盤井宮の永円寺領違乱について、幕府より相談を受ける。(国上寺文書)
  • 同年?6月21日。明智光秀と山崎惣中に、道路を広げる命を出す。(山崎は大坂-京を通る上で重要な土地。道路拡張は軍勢の移動、円滑な輸送に効果的) (離宮八幡宮文書)
  • 7月6日。朝山日乗と法隆寺に御修理米の請取状を発す。(法隆寺文書)
  • 8月25日から9月21日まで、貞勝は南方陣に従軍して京都を留守にしている。この時、2月に着工された禁裏の修理はまだ終わっていないようだ。(言継卿記)
  • 12月。志賀の陣で浅井・朝倉連合軍と長い期間睨み合いがあったが、両家と和睦が成立し、信長は岐阜に帰陣。この時貞勝も久しぶりに美濃へ帰っている。(和議成立に奔走したのは明智光秀だが、将軍と正親町天皇を動かす工作を行ったのが貞勝だというのは想像に難くない)
    関連記事:【古文書講座】信長窮地 織田家と浅井長政・朝倉義景が和睦したときの書状

元亀2年(1571)

  • 7月。西岡河島寺内周善坊に、内裏が諸役を免除することを伝える。(坂口茂氏文書)
  • 同年?11月14日。明智光秀と上賀茂惣に加茂社領安堵を伝え、信長への礼を促す。(吉田文書)

元亀3年(1572)

  • 3月24日。京都に信長座所(信長の宿舎)の建設が建設されるが、この時の奉行も、村井貞勝と島田秀満である。
  • 4月4日。島田秀満と北野天満宮松梅院に、天満宮境内の竹林をみだりに切り取ることを禁ずる。(北野天満宮史料)
  • 9月10日。島田秀満と、信長座所(信長の宿舎)普請の人足を吉田社に供出させる。(兼見卿記)
  • 同年?10月6日。阿弥陀寺清玉上人に対し、阿弥陀寺の将軍寄宿免除を承認し、大仏殿再建の勧進を励ます。(将軍の寄宿を免除とは、義昭にとっては好ましいことではないのでは…?)(阿弥陀寺文書)
  • 10月24日。島田秀満と吉田郷に藁の供出を命じる。これも信長座所(信長の宿舎)建設のためであろう(兼見卿記)

足利(室町)幕府滅亡と村井貞勝

 三方ヶ原の合戦において武田信玄勝利の報せを聞いた足利義昭は、喜び勇んで信長討つべしと挙兵。幕臣であるはずの細川藤孝から事細かに信長の元にその情報が伝えられた。

2月20日。柴田勝家丹羽長秀明智光秀蜂屋頼隆石山寺、今堅田を攻めさせ、瞬く間に落城。=石山・今堅田の戦い

しかし、将軍義昭の決意は固く、和議に応じようとはしなかった。

この時信長は、村井貞勝、島田秀満および朝山日乗を将軍・足利義昭へ遣わし、誓書と、信長の実子を人質に差し出す条件で和議を呼びかけたが、義昭に何度も拒絶されていたのだ。

4月3日。信長は洛外に放火。さらに4日には上京を焼き討ちにし、義昭の御所を包囲する。結局その後、正親町天皇の調停で和議が成立するのだが・・・

同年7月3日。足利義昭はまたもや挙兵。宇治槙島城に自ら立て籠もった。

武田信玄死すとの情報に、確信を掴んだ信長はすぐさまこれを攻め、宇治槙島城は落城。=宇治槙島の戦い

足利義昭は追放され、室町幕府は終焉を迎えた。

天下(京都)所司代としての村井貞勝

 京都に戻った信長は、貞勝を「天下(京都)所司代」に任命する。
この職は、本格的に京都に常駐して、都の政務、禁裏や公家との取次ぎ、寺社や百姓らの裁判などが主な仕事である。貞勝の政務に補助的な役割で明智光秀が携わることもあった。

明智光秀が京都で貞勝の補佐として活躍した時期の記事
大河ドラマとなる明智光秀の生涯をなるべく詳しく(2)

天正元年(1573)

  • 12月16日。貞勝と明智光秀は、策彦周良に山城安弘名における妙智院の年貢の直務を確認。また、安弘名小作中に対し、年貢を妙智院に納めるよう命じる。(妙智院文書)

天正2年(1574)

  • 3月7日。貞勝は、沢野井左馬助に以前通り夫役を免除する。(沢野井文書)
  • 6月11日。伊勢神宮伝奏の柳原資定より書状を受け、伊勢神宮内宮仮殿遷宮かりどのせんぐうの京都奉加などへの尽力を依頼される。16日。また、遷宮のための神宝、装束の調達についても頼まれる。(柳原家記録) 仮殿遷宮は翌年3月に完了した。
  • 11月。貞勝、塙直政松井友閑とともに、春日社若宮拝殿領である宇陀郡の地への沢、秋山、芳野の違乱を停止させるよう尽力する。(春日社家日記)
  • 12月21日。貞勝と明智光秀は、賀茂社に境内および散在する社領を安堵する。

天正3年(1575)

  • 貞勝と明智光秀は、千部経読誦に際し、嵯峨清凉寺に禁制を掲げる。(清凉寺文書)
  • 2月16日。信長の命により、京都より大津へ抜ける新道の修築を行う。2月25日には普請が完了して、27日に点検をしているようだ。(兼見卿記)
  • 3月4日。信長の元に参賀した公家衆に、対面しないことを伝える。(兼見卿記)
  • 4月1日。貞勝と丹羽長秀は、信長から公家衆の本領還付の命を受ける。(信長公記) 戦乱によって横領されたかつての公家の荘園を返すプロジェクトが始まったのであろう。
  • 7月3日。信長は官位昇進を固辞し、その代わりに家臣たちに官位を与えることを願い出て、それを許可された。この時に明智光秀→惟任日向守、丹羽長秀→惟住、羽柴秀吉→筑前守などの人物が任官しているが、村井貞勝も長門守を賜ったようである
  • 7月7日。貞勝と明智光秀と塙直政は、壬生朝芳に野中郷の畑を安堵する。
  • 信長より久我領に関して、先だって安堵した五ケ村に加え、追加で2村も安堵するよう命じられる。(久我文書)
  • 10月19日。信長の命により、奥州の伊達輝宗(伊達政宗の父)からの使者を清水にてもてなす。(信長公記)
  • 11月7日。貞勝、塙直政、武井夕庵、松井友閑が公家、寺社への新知行宛行いの実務を行う。先の公家の荘園を返すという調査が完了したのであろうか。しかし、11月15日。吉田兼和(兼見)より不満を訴えられる。(兼見卿記)11月16日。青蓮院門跡の希望通り、白河の地に振り替えるよう求められる。(青蓮院文書)
  • 12月20日。長国寺に久我荘の地を安堵する。(織田文書)

天正4年(1576)

  • 2月17日。吉田社に道普請役を免除する。(兼見卿記)
  • 3月11日。春長寺の敷地を安堵する。(春長寺文書)
  • 3月15日。禁裏南の堀及び東桐院小路の橋の修理を絹屋町に申付ける。(言継卿記)
  • 3月16日。阿弥陀寺の敷地を安堵する。(阿弥陀寺文書)
  • 4月10日。報恩時に鹿苑寺敷地を安堵する。(報恩時文書)
  • 4月。京都における新しい信長の宿舎として、村井貞勝を奉行に二条新邸の着工が始まる。
  • 5月30日。吉田社に四条橋普請の人足を徴発する。(兼見卿記)6月25日にも同様の依頼をしている。
  • 7月5日。貞勝は奈良に赴き、多聞山城の建材を京都に運ばせる。(岡本文書、兼見卿記、多門院日記)そして、多聞山城の主殿はそのまま二条新邸に利用された。
  • 7月16日。洛中に能楽の興行を許す。この日から10日余り、京の各所で賑やかに盆踊りが行われる。(兼見卿記)
  • 9月。かつて信長が足利義昭の為に建てた二条御新造は、貞勝によって壊され、石材等は城郭建築中の安土へと運ばれた
  • 10月16日。三条釜屋衆に釜座を安堵する。(釜屋町蔵文書)
  • 10月18日。二条新邸が仕上げに入っているらしく、吉田社に茶室の庭用の小石を徴発している。(兼見卿記)
  • 12月29日。賀茂社に山城貴布禰谷山を安堵する。

天正5年(1577)

  • 2月27日。六条八幡宮本願成就院に、若宮八幡宮社殿の造営を促す。(若宮八幡宮文書)
  • 3月12日。洛中の町民に命じ、禁裏の築地を修復させる。このとき、人数をいくつかの班に分けて作業を競わせた。築地塀の上では町人たちの歌や踊りが披露され、見物客が殺到し、周辺は大変な賑わいを見せた。あまりの賑わいに正親町天皇や貴族らも見物した。その賑わいの中で競い合わせて進めた修復工事は、瞬く間に完成したという。(信長公記)
  • 7月7日。洛中四条橋を修理し、供養を行う。洪水などの災害でもあったのであろうか。(東寺執行日記)
  • 閏7月6日。上洛した信長は初めて二条新邸に入っている。(信長公記)この邸宅は2年余り信長が使用した後、天正7年11月に誠仁親王(正親町天皇の嫡男・皇太子)に献上された。
  • 7月11日。先の禁裏の築地を修復具合を信長は検分している。(兼見卿記)
  • 9月3日。丹波小畠佐馬進に四条橋普請の夫丸を申し付ける。(谷森健男氏所蔵文書)
  • 9月26日。吉田社に二条邸普請のための人足を徴発する。(兼見卿記)
  • 9月。五条馬市に定書を下す。(森本氏旧蔵文書)
  • 9月。清水寺千部経中の狼藉を禁止する。(清水寺文書)
  • 11月11日。長福寺の門前の守護不入、臨時課役免除の権利を安堵する(長福寺文書)
  • 12月。川端道喜の禁裏築地造営の奉行の功を賞し、諸公事、諸役を免除する。(川端道喜文書)

天正6年(1578)

  • 2月。清水寺千部経中の狼藉を禁止する。(清水寺文書)
  • 3月13日。清凉寺に禁制を掲げる。(清凉寺文書)
  • 5月5日。信長より吉田兼和への知行給付を命じられる。(兼見卿記)天正3年11月の不服申し立てにより、改めて調査をした結果なのであろうか。
  • 6月3日。柳芳軒に買得相伝の地等を安堵する。
  • 8月3日。貞勝の子・貞成の署名で法念寺の違乱を停止させる。(兼見卿記)
  • 9月28日。吉田社に大水によって破損した山中路の修理を命じる。(兼見卿記)
  • 10月3日。二条新邸に植える杉の木を、京都中より徴発する。(兼見卿記)
  • 11月4日。信長の命で本願寺との講和のため、禁裏へ赴く。10月末に荒木村重が信長を裏切り、摂津から播磨にかけて敵に回ったためだ。この調停依頼は成功したが(本願寺は和平を渋ったが)、その頃には荒木村重の家臣・中川清秀らが信長に降り、勝算が見えていたため、結局その依頼は取り下げてしまった。(隆佐記)
  • 11月22日。啓廸庵に地子銭を免除する。(曲直瀬文書)
  • 12月26日。賀茂社に社領を安堵する。賀茂社は丹羽長秀担当だそうだが、長秀が荒木村重の有岡攻めで不在のため、貞勝が代行したようだ。

天正7年(1579)

  • 1月8日。栄養寺の再興を促し、これに寺領を与える。(栄養寺文書)
  • 5月3日。禁裏の小御所の修理が完了する。信長は禁裏よりその功を賞される。(御湯殿の上の日記)
  • 5月14日。吉田社に四条橋の普請を申付ける。(兼見卿記)
  • 5月21日。京都の住民に対し、皇居への狼藉を禁じる条書を下す。この当時は朝廷はおろか、天皇の権威も失墜していたようだ。禁裏に対する京都の町衆の礼儀がおろそかになっていたらしく、「御殿の上に上がるな」、「石を投げるな」、「木の枝を折るな」、「掃除を怠るな」など、非常に面白い内容となっている。 明治以降に生まれた我々にとって、当時の町人がこんなに不敬なのは想像もできないであろう。私たちが考えているより、当時の町人たちはもう少し自由だったのかもしれない。
  • 5月28日。信長より安土宗論について京都中に触れるよう命じられる。6月1日。法華宗の起請文を受ける。(兼見卿記)
  • 12月9日。祇園社勧進と号してみだりに諸国を徘徊することを禁止する。(祇園社記)

天正8年(1580)

  • 2月26日。信長は京都にいる際の宿所を本能寺に定め本能寺の修築を命じる
  • 6月1日。青蓮院門跡に、鞍馬寺別当職を安堵する。(華頂要略)
  • 8月7日。真乗坊の坊舎、屋敷等を没収し、清水寺に寄進する。(成就院文書)
  • 11月9日。曇華院松首座に、久我荘の地を与える。(久我家文書)

天正9年(1581)

  • 2月11日。綸旨、奉書に従い、藤本三郎左衛門尉に諸役を免除する(?)
  • 3月5日。千部経読誦中、清凉寺に禁制を掲げる。(清凉寺文書)
  • 4月9日。明日に予定されていた誠仁親王懺法講を無用と判断し、停止させる。(兼見卿記)
  • 4月10日。粟津座に商売の独占を安堵する。
  • 4月10日。伏見稲荷社内への狼藉を禁ず。(伏見稲荷大社文書)
  • 4月13日。誓願寺再建のため、吉田社に松樹を徴発するが、これは吉田兼和に断られる。(兼見卿記)
  • 4月28日。筑後法橋に暦職等を安堵する。(明時館叢書)
  • 6月7日。綸旨、下知状の通り、摂津今宮社神人に、祇園社大宮駕輿丁としての役を安堵する。(広田神社文書)
  • 7月16日。日野輝資より、禁中で下男を打擲(ちょうちゃく)した万里小路充房の従者を訴えられる。18日。勅使の訪問を受け、充房の罪は問わず、従者に閉門を申付けることとなった。(兼見卿記)
  • 7月。山科七郷に、人足、牛馬の立替を安堵する。(沢野井文書)
  • 10月3日。鴨社祝造営奉行に対し、鴨社の法式七ヶ条を定める。(鴨脚光敷文書いちょうみつもんじょ

天正10年(1582)

  • 3月2日。信長より伊勢遷宮の山口祭について、簡素化させるよう命じられる。(下郷共済会文書)
  • 5月25日。神護寺と高山寺の寺領争いを高山寺の勝訴とし、その地を安堵する。(高山寺文書)

貞勝と兼見卿記の著者・吉田兼和との関係

 京都所司代となった村井貞勝の邸宅は、公家衆たちが頻繁に往来する上京だったようだ。

とりわけ貞勝が最も親しくしていた公家が、吉田兼見こと兼和である。
吉田兼和吉田社祠官の神祇大副という役職であるから、広大な敷地と多くの人を雇っていたようだ。(今日京都市にある吉田神社)

そういった関係から、訴訟などは貞勝に頼むことが多く、また、織田家からは人足や物資の徴発をたびたび依頼している。

山科言継もそうだが、吉田兼和も筆まめの為、こうして古文書として今日にまで伝わっている。ありがたいことだ。

安土桃山期の京都御所周辺
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安土桃山期の京都御所周辺 (Google マップより)

本能寺の変

 天正10年(1582年)5月、貞勝は朝廷から「信長を太政大臣関白征夷大将軍のいずれかに任じたい」という意向を伝えられたという三職推任問題については、今日でもさまざまな議論がなされている。

関連記事:【古文書講座】太政大臣か関白か将軍か 天下人信長が選択した道は

6月2日。明智光秀が突如謀叛。
いつものように京では本能寺を常宿にしていた信長は、明智光秀の軍勢により囲まれ、自害した。=本能寺の変

貞勝は本能寺向かいの自邸にいたが、信長の嫡男・信忠のいる妙覚寺に駆け込んだ
信忠により守りやすい二条新御所(信長が先年誠仁親王に譲渡)での防戦を提言し、信忠もそれに従った。3度明智勢を押し戻したと伝わるが、多勢に無勢。村井貞勝は織田信忠と共に二条新御所において自害して果てた。

人生最期の外交交渉

 二条新御所で明智勢と激戦を繰り広げている中、もはやこれまでと絶望的な状況となった。
この時、正親町天皇の嫡男であり、皇太子の誠仁親王がいたのだが、貞勝は彼を逃がすために明智光秀と交渉している。光秀も、その要求だけは呑もうということで、誠仁親王は難を逃れることができた。

その後、明智勢の攻勢は再び始まり、織田信忠と村井貞勝は自害した。

村井貞勝の性格

 生活は極めて快活。
吏僚のイメージとはかけ離れているが、豪胆で竹を割った性格だったようだ。

信長の親世代の人物ということで、後半は過労なのか老いなのかわからないが、たびたび倒れることがあったそうだ。
山科言経や吉田兼和の日記にも「病気で面会を断られた」との記載がたびたび見られる。

宣教師のルイス・フロイスは貞勝を「都の総督」と呼び、「尊敬できる異教徒の老人であり、甚だ権勢あり」と評している。

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