武勇に秀でたマムシの子・斎藤利治 信長・信忠を支えた働きはまさに忠勇比類無し(前編)

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武勇に秀でたマムシの子・斎藤利治 信長・信忠を支えた働きはまさに忠勇比類無し
来世ちゃん
来世ちゃん

こんばんは~。
織田家への忠義を第一に考え、その才能を惜しみなく発揮した斎藤利治
斎藤道三の末子として生まれた彼は、どのような活躍を見せたのでしょうか。
今回はそんな斎藤利治の足跡を辿ります。

はじめに

  • 重要な部分は赤太文字
  • それなりに重要なポイントは赤や青のアンダーラインで
  • 信憑性が疑われている部分は黄色のアンダーライン

それでははじめていきます。

斎藤利治の生涯

天文10年(1541)?-天正10年(1582)6月2日

別名・仮名・幼名・官途名・受領名

長龍、長竜、利興、利宣、政興、治隆、忠次、新五郎、新吾

家族・一族

父:斎藤道三 母:小見の方

義父:佐藤忠能

妻:正室院(佐藤忠能娘)

子:義興市郎左衛門蓮与(速水時久室)、(斎藤利宗室)

斎藤利治
建勲神社織田信長公三十六功臣額

斎藤道三の子として

 諸説あるが「寛永伝」と「武家事紀」などによると、斎藤道三の末子として生まれた。
彼が幼少の頃には既に道三は隠居していて、家督は嫡男で兄でもある義龍が継いでいた。

しかし、斎藤道三は義龍以外の子を寵愛し、当主の座から追い出そうとする動きがあった。

義龍は先手を打った。
「わが余命は幾ばくも無いので、死ぬまでに会って一言申し上げたいので来てほしい」
と偽りの病をもって弟たちを呼び寄せ、弟二人を殺害してしまったのだ。

これに驚いた道三は諸将に挙兵を呼びかけたが、美濃の多くの国人衆は道三よりも義龍の方を支持した。

道三の死と織田信長との出会い

 弘治2年(1556)4月。
長良川の合戦の前日。
斎藤道三は「美濃一国譲り状」というものをしたため、これを末子の利治(幼名は不明。まだ元服してないため、便宜上この名を使わせていただく)に渡して尾張の戦国大名・織田信長の元へと遣わした。

斎藤道三家系図

信長は斎藤道三の娘婿である。
舅への援軍の為、信長は美濃へと急行したが、折からの長雨で川が増水し、進軍が妨げられた。
恐らく道三は信長に美濃攻略の正当性を与えるため譲り状をしたためたのだと考えられるが、後世の偽書である可能性も否定できない。
詳しくは下記の記事で。

関連記事:「美濃一国譲り状」斎藤道三が信長に託した古文書を解読

この書状をしたためた翌日。
長良川において義龍勢と道三勢が争い、道三は討死した。

斎藤道三
斎藤道三肖像画

信長の下で元服し、信長の最も苦しい時期を共に過ごす

 「美濃一国譲り状」を手にした信長であったが、美濃攻略ができる状況には全くなかった。
斎藤道三という最大の後ろ盾を失った信長に、なりを潜めていた反信長勢力が勢いづき、さらに身内からの反逆が相次いだからだ。

信長はこれらを一掃し、桶狭間の合戦によって尾張を安定化させるのに足掛け4年の歳月を費やした。

利治はというと道三側として動いていたため、いかに少年といえども生国へは帰れなかった。
恐らく織田信長やその正室で同腹の姉でもある帰蝶の下で生活し、この時期に元服したと思われる。

一説によると、初名は「長龍」。
烏帽子親は信長とされ、この時自らの名である「長」を授けたとある。
(なお当ページでは便宜上、利治と記述させていただく)

今後の信長からの重用ぶりを考えると、非常に信長とは馬が合い、少年時代から勇気凛凛たる性格だったのだろうか。

難航する信長の美濃攻略戦

 信長が初めて侵略目的で美濃へ兵を出したのは桶狭間の合戦が終わってすぐのことだ。

しかし、二度にわたる安八・多気の合戦で敗北。
濃尾の国境は揖斐川、長良川、木曽川の三大巨川に阻まれていたため、攻めるには難しい地形であった。

当主の斎藤義龍が病没した後、信長はすかさず兵を繰り出し、森部合戦十四条・軽海合戦で勝利しても思うように美濃攻略は進まなかった。

信長は方針の転換を図る。
小牧山に居城を移転し、義兄弟である犬山城主・織田信清を攻め滅ぼした後、東美濃の侵攻へと乗り出した。

関連記事:信長が築いた小牧山城を古地図と信長公記から読み解く

斎藤利治の戦陣の初見 加治田・堂洞合戦

 信長が犬山・鵜沼・猿啄の城々を攻略中に、恐らく加治田を支配する佐藤氏が内通したのだろう。
しかし、佐藤忠能の内通はすぐに周辺に知れ渡ってしまい、向かいの堂洞城主・岸氏へ嫁いでいた八重緑が非業の最期を遂げた。

加治田を守らねばならぬと判断した信長は、自ら兵を率いて中濃に兵を繰り出す。
そして、稲葉山から斎藤龍興主力の援軍が到着する前に堂洞城を攻め落とそうとした。

堂洞城の戦い
※関城の位置は不明。たぶんもうすこし南の小高い山

堂洞城の戦いの詳細については下記の記事をご覧いただきたい。

関連記事:堂洞城の戦い 戦の功名と八重緑の悲劇

これが文書上で見える斎藤利治の初めての戦いであるが、初陣というわけではないと思われる。
河尻秀隆丹羽長秀が競うようにして城内に攻め入り、信長の目論見通り1日で堂洞城を攻め落とした。

その日、信長は加治田城で一泊する。
佐藤忠能忠康父子は涙を流して信長を迎え、感極まっていたため、礼の言葉も言葉にならなかったほどだと伝わる。

加治田城籠城戦(関・加治田合戦) 斎藤利治の奮戦

 翌日首実検を終えた織田軍主力は尾張犬山城まで兵を退いたが、斎藤龍興らは近隣の国人衆らを従えて加治田城を取り囲んだ。
この時加治田城にいたのは佐藤一族ら加治田衆と、信長からの援軍として残留していた斎藤利治勢だけだったようだ。

加治田城の周辺図
加治田城の周辺図

最も激しい戦闘が繰り広げられたのは加治田城の出丸がある衣丸だった。
衣丸は南に川浦川が流れており、天然の堀のようになっていた。

現在の加治田城周辺図01
現在の加治田城周辺図01
現在の加治田城周辺図02
現在の加治田城周辺図02

寄せ手の斎藤龍興主力と関城主・長井道利が衣丸を激しく攻め立てた。
加治田城東側からは米田城主・肥田忠政が杉洞峠を越えて同時に攻め寄せる。
加治田衆と斎藤利治は天然の堀である川浦川を挟んで迎え打った。

加治田城縄張り図
加治田城縄張り図

この加治田城を巡った攻防戦は大変な激戦だったようで、「堂洞軍記」という古文書に戦いの詳細が記されている。

堂洞軍記

佐藤忠能・斎藤利治の奮戦の末、なんとか斎藤軍の撃退に成功した。
しかし、この戦いで忠能の嫡男・忠康が討死してしまう。
同軍記によると、弓の達人である大島光義が放った強弓が忠康の銅を貫いたとある。

嫡子・忠康が討死したことで、にわかに旗色が悪くなり浮足だった。
そこで加治田衆の一人である湯浅讃岐が槍を振り回して遮二無二長井勢に突っ込んだ。
勇気をもらった他の加治田衆がこれに続いて戦況を押し戻した。

戦後、湯浅讃岐の働きを賞し、利治は自分の仮名にあたる「新五郎」から「新」の一字を与え、湯浅新六とし、刀まで与えたという逸話がある。(南北山城軍記)

先述した加治田・堂洞合戦の直前では忠能の愛娘である八重緑も死んだことから、佐藤家の信長への内応は大きな代償を支払う結果となってしまった。
もしどなたか同地へ赴くことがあれば、どうか慰霊の念を持っていただきたいものだ。

関城攻略戦(関・加治田合戦)

斎藤軍を撃退した斎藤利治は、龍興の求心力の低下を見て取ったのか、信長へ
「関城を攻略するのは今です」
と尾張へ早馬を走らせた。

信長もその意見を聞き容れ、ただちに中美濃へ出陣。
長井道利籠る関城を攻め込んだ。

南と西からは織田軍主力が攻め立て、東からは斎藤利治・佐藤忠能勢が攻撃する。
関城の戦いの詳細は定かではないのだが、同城はほどなくして陥落。
これにより稲葉山から郡上八幡へと続く街道が分断され、斎藤家の力は大いに弱まった。

信長より知行を宛行われて部将クラスへ

 同じ年の永禄8年(1565)11月1日。
利治は信長より美濃武藝(武儀)郡から加茂郡にかけて地十三ヶ所、都合2184貫文の知行を賜った。(備藩国臣古証文)

新知扶助分 百貫文(関市市平賀)弐捨五貫文(富加町川小牧)四捨八貫文(富加町大山)百四捨参貫文(関市肥田瀬)百貫文(富加町夕田)弐捨貫文(美濃加茂市加茂野町鷹之巣)弐百弐捨貫文(富加町加治田・絹丸)四百七捨貫文(関市吉田)五百弐捨捨貫文(武儀郡上之保村、武儀町)七捨貫文(益田郡金山町)六捨八貫文(加茂郡白川町坂之東)百五捨貫文(関市上下迫間)・梅村良澤二扶助都合弐千百八捨四貫文

  備藩国臣古証文

同時期に3000貫の知行を賜った池田恒興と同じくらいの身分だろうか。

関連記事:戦国時代の単位について 長さと面積 石高・貫高・お金の関係

一説には、この時期から兄にあたる斎藤利堯(としたか=道三の子)が加治田城留守居役となり、共に行動するようになった。(堂洞軍記)

斎藤利治の結婚と加治田城主

 永禄10年(1567)9月。
織田信長はついに念願であった稲葉山城を攻め落とし、美濃の攻略に成功した。

この時期、斎藤利治佐藤忠能の娘を娶り、婿養子となっている。

妻の実名は不明だが、利治の死後に仏門に入り、正室院と称した。
利治は斎藤道三の子だが、敵である斎藤龍興の一族でもある。
先年の加治田合戦で嫡子・忠康を失ったことから、利治の家督相続はうまくいったようである。

その後、佐藤忠能娘との間に二男一女を得た。
利治は生涯側室を持たなかった人物として知られている。

なお、佐藤忠能は隠居して城から離れ、隣村の伊深村に移り住んだ。(隠居の経緯には諸説ある)
豪胆な性格だったようで、大意、武勇に好み、仁と智があったと伝わる。
隠居後もそうした性格から、京の公家・山科言継らと交流を持った。

利治との仲は終生良かったようである。

後編へ

来世ちゃん
来世ちゃん

次回は後編です。

信長の上洛戦からです。

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