武勇に秀でたマムシの子・斎藤利治 信長・信忠を支えた働きはまさに忠勇比類無し(後編)

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武勇に秀でたマムシの子・斎藤利治 信長・信忠を支えた働きはまさに忠勇比類無し

前編からの続きです。

はじめに

  • 重要な部分は赤太文字
  • それなりに重要なポイントは赤や青のアンダーラインで
  • 信憑性が疑われている部分は黄色のアンダーライン

それでははじめていきます。

信長の上洛後の利治

 翌年の永禄11年(1568)秋。
稲葉山城に居城を移し、「岐阜」と改めた織田信長は、足利義昭を奉じて上洛を果たす。
この時、利治が従軍した形跡はない。
不測の事態に備えて東美濃の諸士たちは動員されなかったのかもしれない。

同12年(1569)8月。
伊勢北畠氏討伐戦に従軍。
大河内城を取り囲んだ。(信長公記)

元亀元年(1570)6月の浅井攻めに従軍。
長比・刈安尾の戦い(たけくらべ・かりやすお)では森可成坂井政尚らと伊吹山系の雲雀山を攻めて信長より賞されている。
その数日後の姉川の合戦にも参陣している。(信長公記)

姉川合戦の前哨戦
姉川合戦の前哨戦
姉川の合戦布陣図
姉川の合戦布陣図

六月十九日 信長公御馬を出だされ、堀、樋口謀叛の由承り、たけくらべ(長比)、かりやす(刈安尾)、取るものも取り敢えず退散なり。

たけくらべに一両日御逗留なさる。

六月廿一(二十一)日 浅井居城小谷へ取り寄せ、森三左衛門(森可成)、坂井右近(坂井政尚)、斎藤新五(斎藤利治)、市橋九郎右衛門(市橋長利)、佐藤六左衛門(佐藤秀方)、塚本小大膳、不破河内(不破光治)、丸毛兵庫頭(丸毛兼利)、雲雀山へ取り上げ、町を焼き払ふ。

信長公は、諸勢を召し列せられ、虎御前山へ御上りなされ、一夜御陣を居えさせられ、柴田修理(柴田勝家)、佐久間右衛門(佐久間信盛)、蜂屋兵庫頭(蜂屋頼隆)、木下藤吉郎(木下秀吉)、丹羽五郎左衛門(丹羽長秀)、江州衆に仰せ付けられ、在々所々、谷々入々まで放火候なり。

「信長公記 巻三 たけくらべ、かりやす取出の事」より抜粋

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同年8月からの野田・福島の戦いでは石山本願寺と目と鼻の先にある楼ノ岸に砦を築き、稲葉一鉄中川重政と共によく守った。(信長公記)

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と、このように元亀年間前半の織田信長の主要な合戦の多くに従軍している。

信長包囲網の中での斎藤利治

 志賀の陣が終わり、翌元亀2年(1571)5月の第一次長島一向一揆攻め、7月の湖北出兵、8月の近江一向一揆鎮圧戦、9月の比叡山焼き討ち、7月の第二次湖北出兵、12月の三方ヶ原の合戦、翌元亀4年(1573)2月の石山・今堅田の戦い、4月の洛外・上京焼き討ち、鯰江城包囲・および百済寺焼き討ちに従軍した様子はない。

(元亀2年(1571)4月の河内表出兵の際、柴田勝家らとともに交野城包囲には加わっている)
wikipediaの斎藤利治の頁には元亀4年(1573)高屋城攻めに参戦とあるが、実際に兵を出している様子はない。

これはどうしたことだろうか。
元亀年間前半の多忙さとは打って変わって、軍事行動にほとんど名が見られない。
この時期は甲斐の武田信玄との関係が悪化していて、抑えの為に動員をされなかったのかもしれない。

足利義昭との和議が成立した元亀4年(1573)4月27日の連署血判の起請文にも斎藤利治の名はない。
この時期は明らかに柴田勝家佐久間信盛丹羽長秀木下秀吉らと差をつけられてしまっているようだ。

宇治・槙島の戦いで活躍する斎藤利治

 久々に斎藤利治が戦場で活躍した様子が窺えるのが、足利義昭との最後の戦いとなった元亀4年(1573)7月の宇治・槙島の戦いである。

利治は安藤守就らと先手組として足利義昭の籠る槙島城を攻撃した。
この際、新五(斎藤利治)の活躍は「諸人耳に目を驚かせり」とあるそうだ。(出典不明)

こうして利治の活躍もあって足利義昭は降伏。
信長は義昭を京から追放し、事実上の室町幕府滅亡となった。

その後すぐに改元。
天正元年(1573)8月から9月にかけて信長は浅井長政朝倉義景を滅ぼすべく湖北へ出陣。
利治もこの時従軍している。

信長は小谷山城を守る上で重要な月ヶ瀬城、大嶽砦、丁野城を次々と攻め落とし、逃げる朝倉義景軍の追撃戦に入った。
この時利治は浅井長政が討って出てこないよう志津・丘海・山中の付城を織田信忠織田信広林秀貞らとともに守備している。

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織田軍の追撃は激しく、刀根坂の合戦で朝倉勢の主力はほぼ討ち取られた。
さらに織田軍は越前平野へと乱入し、朝倉義景は切腹。
およそ100年の栄華を誇った一乗谷館は3日間燃え続けたという。

朝倉家滅亡を見届けた信長は返す刀で江北へと戻り、小谷山城を激しく攻め立て浅井長政も切腹。
信長は自らを苦しめてきた包囲網に打ち勝った。

織田信忠の家老格として東美濃をめぐって武田勝頼と戦う

 天正2年(1574)1月から2月にかけて、武田勝頼が東美濃に侵攻。
岩村城はすでに武田家の手にあったが、明知城など東美濃の18もの城砦が攻め取られた。(信長公記、甲陽軍鑑)

信長はいまみあてらやいひはざま城をあけちとつげのくし原

  (信長は いまみあてらや いひはざま 城をあけちと つげのくし原)

   甲陽軍鑑

これはこの時の武田勝頼の快進撃を物語る戯れ歌である。
今見砦、阿寺砦、飯羽間砦、明知城、串原砦といずれも東美濃の山間部にある城々だ。


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明知城は2月6日に飯羽間右衛門の裏切りによって陥落。
織田軍の援軍が間に合わず、あっという間にこれらの城が攻め抜かれてしまった。

岩村城
織田信長と武田勝頼との間で激しい攻防戦があった岩村城跡

天正2年(1574)7月の第三次伊勢長島一向一揆攻めでは織田信忠の与力として従軍する。
この時利治は一江口から攻め立て、ついに長島一向一揆を鎮圧した。(信長公記)

この頃から斎藤利治は織田信忠一番の家老格としてその与力に加わった。
利治と同じく信忠の与力に加わったのは河尻秀隆蜂屋頼隆森長可佐藤秀方らである。

翌天正3年(1575)5月。
長篠・設楽原の合戦で織田・徳川連合軍が武田勝頼軍を撃破。
勝頼は山県昌景・馬場信春ら多くの重臣を失った。

長篠・設楽原の合戦
長篠・設楽原の合戦では恐らく利治は従軍せず、東美濃での不測の事態に備えていたと考えられる

その後、信長は嫡男の信忠に東美濃の攻略を命じ、斎藤利治は信忠軍の主力として出陣する。

既に兵糧攻めにされていた岩村城を守備する秋山虎繁は、信忠の陣地へ夜襲などを仕掛けるが、その都度撃退された。
兵糧も底をつき、飢餓に陥った秋山虎繁は信長に降伏を申し出た。
信長はそれを受け入れて開城させたが、秋山・おつやの方への恨みは根深かった。

二人を面前に引きずり出し、逆さ磔という極刑に処したと伝わっている。
およそ無残な最期であった。

おつやの方は
「秋山虎繁は開城に際し約定を守ったのに、身内である信長は約束を反故にするのか。叔母をかかる非道の目に遭わせるとは。信長よ、必ず因果の報いを受けん」
と叫び殺されたという伝説がある。

信長が縁者に対しこのような残虐な仕打ちをしたのは、おつやの方が信長を裏切り、信長の実の息子を捕らえて甲斐へと人質に送ったということ。
長篠合戦の際、城主の奥平氏の妻子が武田勝頼によって無残に殺害された報復でもあったのだろう。

織田信忠との良好な関係

 天正4年(1577)。
信長は嫡子・信忠に尾張・美濃の2国を譲り、正式な織田家の世継ぎとした。

織田信忠
織田信忠肖像画

一説には利治もこの時信長正室で自身の姉にあたるいわゆる濃姫の養子となったとあるが、この当時信長正室が存命していたかどうかは定かではない。

利治は信忠付きの家老として良き相談役だった。
信忠からの信頼は絶大で、信長からも
新五(利治)を父と思い何事も相談せよ
と言われていたようだ。(出典なし)

一方、信忠の与力とはいえ、信忠の指揮下から一時的に離れ、柴田勝家の北国攻めに従軍したこともあった。

義父である佐藤忠能の死

 忠能の死は諸説ある。
もっとも有力な説では天正6年(1578)3月29日に病死。
加治田城麓の龍福寺に埋葬された。

忠能の一周忌は、施主が「斎藤忠次(斎藤利治)」となっている。
佐藤家の通字である「忠」を使っているので、利治が佐藤家へ養子入りしたのはほぼ事実だと考えてよいのではないだろうか。

「或る時は却敵城を守り、勝を千里に決し、或る時は諸仏地に入って、意を三辺に投ず、僧を度し且つ精舎を建立す。」
と、香語七百字ほどの長文が語録にある。
利治の忠能への愛の深さと言えるだろう。

越中侵攻で大活躍する斎藤利治

 天正6年(1578)。
越後の大名・上杉謙信が死去すると、斎藤利治は信長の命で出陣。
越中国の神保長住への援軍として飛騨経由で越中に入る。
利治は美濃・尾張の軍勢を率いて津毛(つも)城を攻略
10月4日には太田保・月岡野の戦い河田長親椎名道之率いる上杉軍を打ち破っている。(信長公記)

この働きにより、信長・信忠から感状を与えられた。

 河田ら猿君野と云える平場へおびき出し、さんざんに勇闘し、即時に切り崩す。


(中略)


恐懼して浜辺の士、多く斎藤に属するの間、人質を取堅め、神保安芸に預け置き、帰国せしに戦功を感美せらる。

   出典不明

この戦いの際、織田信忠は荒木村重討伐のために大坂方面にいた。
利治は本国に呼び戻され、翌年にかけて有岡城の包囲に加わっている。(信長公記)

謎の空白期間

 これほど大きな活躍をした利治であるがしばらく古文書から姿を見せなくなる。
大きな病でも患っていたのだろうか。

天正10年(1582)2月に織田信忠が大活躍した甲州征伐にも出陣した様子はない。
「軍記物 富加町史 上巻 史料編」によると
「今後、天下布武においての役と後の役職で多忙の事を考えての信長・信忠の休養命令」
を受けたとあるが、果たしてそれが真実なのかは不明だ。

本能寺の変 最期の武功

 天正10年(1582)6月1日。
織田信長・信忠父子は中国地方の毛利家征伐へ向けて京都にいた。

この時利治は病の為、信長・信忠父子から毛利征伐の従軍を外されていた。
しかし利治は、夜中に密かに加治田を抜け出し、一部の加治田衆を伴って京へ向かった。
兄の斎藤利堯が留守居していた岐阜城へは立ち寄らず、信忠の宿泊している京都妙覚寺へ6月1日に到着する。

記録にはないが、恐らく信忠は驚いただろう。
利治は「病気は平癒した」と言ってみせたという。
その夜、信忠は利治と京都所司代の村井貞勝を伴って本能寺に宿泊していた信長の下へ訪れ、酒を酌み交わした。

普段は酒をあまり嗜まない信長も、このときばかりは楽しく飲んだという。
公家たちが帰った後も夜が深くなるまで酒宴が続き、信忠たちは本能寺をあとにして妙覚寺へ戻った。

翌日6月2日の早朝。
信忠らは明智光秀の謀叛を知らされる。

利治は既に事態は決して信長は助からない。逃げるべきだと言上するが、信忠は村井貞勝の意見を聞き入れ、二条新御所へと移り、最期の防戦をした。

本能寺の変

この御所は数年前に誠仁親王に譲り渡していたが、誠仁親王を脱出させ、わずかな軍勢ながら奮戦し、明智勢を3度も撃退する。
明智軍は近衛前久邸の屋根から二条新御所を弓、鉄砲で狙い打ったため、最期を悟った信忠は自刃。

それまで利治は福富秀勝菅屋長頼猪子兵助団忠正らとともに懸命に寄せ手を防いだ。

利治は信忠の自害を見届けた後、
今は誰が為に惜しむべき命ぞや
と敵陣へ切り込み、忠死を遂げた。

この戦いの最中、明智光秀の側近をしていた同族で縁者のゆかりの深い斎藤利三から投降を呼びかけられるが、利治は最後まで織田家への忠誠を貫いた。
(利治の娘は利三の子に嫁いでいた。)

享年41歳。

「南北山城軍記」には
天下に輝かせ、忠志を全うし、二条城中において潔く忠死して、恩君泉下に報じ、武名を天下に輝かせり
と記されている。

斎藤利治
建勲神社織田信長公三十六功臣額  在りし日の斎藤利治

青い軍旗が斎藤利治の特徴である。
鎧と旗には家紋が描かれている。
白馬に跨り凛々しい武者姿である。

利治死後の加治田・兼山合戦

 利治の男子に嫡男新五郎(義興)市郎左衛門がいたが、二人はまだ幼かったため、加治田斎藤家の家督はしばらくは利治の兄にあたる利堯が継いだようだ。

羽柴秀吉が山崎の合戦で明智光秀を討った後、清州会議が開かれた。
その結果、美濃一国と岐阜城を与えられたのは信長の三男・織田信孝だった。
これにより、加治田斎藤家は織田信孝に従うこととなった。

しかし、織田信孝には従わず、羽柴秀吉方に付いた兼山城主の森長可(ながよし)との間で戦が勃発。
これが最後に加治田城で繰り広げられた戦いとして知られる「加治田・兼山合戦」である。

この戦いでも加治田城は落ちなかった。
前哨戦で二度激しい戦が行われた後、加治田城での攻防戦があった。
城外での川浦川渡河戦加治田城城下町での戦い三徳櫓攻防戦、そして、森長可が本陣を敷いていた旧堂洞城のあった場所での奇襲戦だ。

現在の加治田城周辺図02
現在の加治田城周辺図

この戦いにおいて利治と苦楽を共にしてきた家臣の西村治郎兵衛湯浅新六佐藤堅忠大島光政井戸宇右衛門らが奮戦し、森勢を打ち破った。

三つ池付近が激戦地だといわれており、傷を負った森勢が逃げまどい這いずりまわったので「這坂」の地名がついたようだ。

その後の斎藤家と佐藤家

 この戦いの後ほどなくして利治の兄である利堯が死去。
賤ケ岳の合戦羽柴秀吉が勝利したことから、美濃一帯を支配した織田信孝は没落する。
利治嫡男の新五郎(義興)もまだ幼かったことから、佐藤忠能から三代にわたり家老をつとめた長沼三徳と西村治郎兵衛によって加治田の衣丸捨堀で養育され、元服後に信長の嫡孫にあたる織田秀信に仕えた。

一方、禄を失った加治田衆の多くは賤ケ岳の合戦後に森長可に仕えたようだ。

年は流れ慶長5年(1600)。
関ケ原の合戦の前哨戦となった岐阜城の戦いでは利治の二人の子である義興と市郎左衛門は、家老としてずっと養育してくれた長沼三徳とともに織田秀信方として池田輝政福島正則らと戦った。

しかし、岐阜城はわずか1日で落城。
二人の若武者をかばった長沼三徳は討死し、義興と市郎左衛門は負傷するがなんとか逃げ延びる。

その後、義興は関の梅竜寺で養生した後に池田輝政に仕官した。
義興は斎藤道三の血筋として、また、父の恒興と同じく信長の覇業を支えた斎藤利治の忠義も考慮して1100石もの高禄で召し抱えられた。

弟の市郎左衛門は結城秀康の子である松平直基の家臣となったようである。

それからの斎藤家は幕末までその血脈が続いたとされているが、真偽のほどは不明だ。

来世ちゃん
来世ちゃん

ご覧いただきありがとうございました!

斎藤利治の生きざまはかっこいいですよね。

なんで信長の野望に出ないんだ?

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