姉川の合戦 前半 元亀の争乱時代が幕を開ける

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姉川の合戦 前半 元亀の争乱時代が幕を開ける
来世ちゃん
来世ちゃん

みなさんこんばんはー。
ついに織田信長の主要な合戦の1つ「姉川の合戦」を書きます~。
非常に重要で史料も多い合戦なので、前半と後半の2部に分けます。
元号が元亀に改まってすぐに信長は試練を迎えました。
今回は近江長比(たけくらべ)城の寝返り~近江横山城包囲までです。

当時の信長を取り巻く情勢

 元亀元年(1570)4月。
飛ぶ鳥を落とす勢いの織田信長は、大軍を率いて越前朝倉家を侵攻。
わずか1日で手筒山城を攻め落とし、翌日には疋田城、金ヶ崎城を攻略。
明日にでも越前平野へなだれ込もうとしていた。

織田信長肖像
戦国の革命児 織田信長公

ところが、ここで妹の娘婿である小谷山城主・浅井長政が謀反
信長の背後を突くべく出陣した。
それに呼応して南近江では佐々木六角氏が三雲氏や甲賀忍者、伊賀忍者らの力を借りて挙兵。
南近江各所で一揆を蜂起させた。

信長は越前からの撤退を決断する。
摂津池田城主の池田勝正らを金ヶ崎城に残し、朽木谷経由で京へ撤退した。
従者10人ほどで、散り散りになりながら帰京する有り様だったという。 =金ヶ崎の退き口

京へと戻った信長は岐阜~京都間の街道を確保するため、近江に有力な諸将を配置する。
このとき配置された武将が、長光寺城に柴田勝家、永原城に佐久間信盛、百々屋敷に丹羽長秀、宇佐山城に森可成、安土砦に中川重政である。

元亀元年(1570)5~6月の織田信長による近江支配体制
元亀元年(1570)5~6月の織田信長による近江支配体制

関連記事:これが織田方面指令軍の原点 織田信長による近江支配体制の確立

関連記事:【古文書から読み解く】浅井長政討伐に燃える織田信長の決意と意気込み

元亀元年(1570)織田陣営の主な軍事行動
元亀元年(1570)織田陣営の主な行動

序章 堀秀村・樋口直房の調略

 信長と敵対した浅井長政は、美濃との国境に位置する長比(たけくらべ)と刈安尾に城を築き、それぞれ堀秀村中島直親を配置。
信長の侵攻に備えた。

元亀元年(1570)6月。
信長が岐阜に帰り、兵馬を休ませていた頃。
長比城の堀秀村が調略に応じ、織田家に寝返る。
堀家は鎌刃城一帯を知行としていたので、そこが織田家陣営になったので、長比・刈安尾が孤立してしまう結果となった。

この当時堀秀村は元服したばかりの15歳で、堀家の実権は家老の樋口直房が握っていた。
直房は兵法・軍略に通じ、優れた民政家でもあったため、人望も厚く近江一の智謀の将と謳われた人物であった。

一説には当時斎藤家に仕えていた美濃菩提山城主・竹中重治(半兵衛)が近江に逗留していた際、住処を世話をするなどして、親しくなったといわれる。
その縁があって竹中重治が樋口直房と堀秀村の調略に成功したといわれている。

竹中重治肖像画

謎が多いが現在でも多くの歴史ファンを魅了する竹中重治(半兵衛)
ちなみにうちの愛猫の名も「半兵衛」だ。

長比城が織田方に寝返る
長比城が織田方に寝返る

(訂正:鎌刃は赤文字だけど、織田陣営になったので青文字です。)

中山道から長比城を眺める(Google ストリートビューより)
中山道から長比城を眺める(Google ストリートビューより)
長比城から横山城を眺める(Google ストリートビューより)
長比城から横山城を眺める(Google ストリートビューより)

このように、長比からは横山付近の敵の動向を目視できる位置にあった。

信長出陣 小谷山城下に肉薄

 長比城の寝返りにより、出陣の時期を早めた信長は、同年6月19日。
浅井長政討伐のため、岐阜を出陣。
近江長比城に入る。
(そこで樋口直房から浅井長政が軍議の際、隠居の久政ら親朝倉派と口論になった末に、ついに折れて信長を裏切る決断に至った経緯を聞いたという)

6月21日。
信長は長比城から動き、横山城をすり抜けて一気に小谷山城下に迫った。

小谷山城は大規模な山城なので、攻めると大損害を被る。
攻めている最中に朝倉勢が側面を突いてくる可能性もあった。

信長は力攻めを避け、浅井長政を城から引きずり出そうと画策した。
信長自身は虎御前山に陣を敷き、小谷山城下や付近の村々を焼き払った。
しかし、浅井長政は辛抱強く耐え忍び、城から討って出てはこなかった。

6月21日。小谷城下に火を放ち、浅井長政を城からおびき出す作戦
小谷城下に火を放ち、浅井長政を城からおびき出す作戦

信長公記にはこのように記されている。

 六月十九日 信長公御馬を出だされ、堀、樋口謀叛の由承り、たけくらべ(長比)、かりやす(刈安尾)、取るものも取り敢えず退散なり。


たけくらべに一両日御逗留なさる。


六月廿一(二十一)日 浅井居城小谷へ取り寄せ、森三左衛門(可成)、坂井右近(政尚)、斎藤新五(利治)、市橋九郎右衛門(長利)、佐藤六左衛門(秀方)、塚本小大膳、不破河内(光治)、丸毛兵庫頭(兼利)、雲雀山へ取り上げ、町を焼き払ふ。


信長公は、諸勢を召し列せられ、虎御前山へ御上りなされ、一夜御陣を居えさせられ、柴田修理(勝家)、佐久間右衛門(信盛)、蜂屋兵庫頭(頼隆)、木下藤吉郎(秀吉)、丹羽五郎左衛門(長秀)、江州衆に仰せ付けられ、在々所々、谷々入々まで放火候なり。

「信長公記 巻三 たけくらべ、かりやす取出の事」より抜粋

姉川の合戦の前哨戦 八相山の退口

 6月22日。
織田軍が陣を下げようと引き上げを開始した。
これまで城下を焼き払われてもじっと耐えていた浅井長政は、ここで一気に攻勢に転じる。

挑発して決戦姿勢中の織田軍には仕掛けず、撤退中の織田軍を追撃したというあたり、浅井長政がいくさ上手だという説は頷ける。

これはのちに「八相山の退口」といわれる姉川合戦の前哨戦にあたる戦いなのだが、どうも織田軍は虚を突かれたようで、信長の旗本を務めていた梁田政綱中条家忠佐々成政らが奮戦している姿が見える。


特に中条家忠は敵と取っ組み合って共に橋から落ち、負傷しながらも敵の首を取って大きな武功を挙げたようだ。
佐々成政も、この時撤退しながらも上手く戦い。武名を挙げて活躍している。
成政はこの数か月後に起きる野田・福島の戦いでも前田利家らとともに軍功を重ねている。

信長本陣がここまで兵馬入り乱れての大乱戦をしているのだから、浅井長政の猛攻はすさまじい勢いだったのだろう。

信長はなんとか追撃を振り切り、横山城近くに陣を張って野営をした。

以下は信長公記から抜粋したものになる

 六月廿二(二十二)日、御馬を納められ、殿(しんがり)に諸手の鉄炮(鉄砲)五百挺、併(並び)に御弓の衆三十計り相加へられ、梁田左衛門太郎(政綱)、中条将監(家忠)、佐々内蔵介(成政)両三人御奉行として相添へられ候。


敵の足軽近々と引き付け、梁田左衛門太郎は中筋より少し左へ付きて、のがれ候。

乱れ懸かつて(乱れかかって)、引き付け候を、帰し合ひ、散々に暫し戦ふ。

太田孫右衛門頸をとり、罷り退かれ、御褒美斜めならず。

二番に佐々内蔵介手へ引き付け、八相山、宮の後にて取り合ひ、爰(ここ)にても蔵介(佐々成政)高名致し、罷り退く。

三番八相山下られ、橋の上にて取合ひ、中条将監疵(きず)を被る。

中条又兵衛橋の上にてたゝき合ひ、双方、橋より落ちて、中条叉(又)兵衛堀底にて頸をとり、高名比類なき働きなり。

御弓の衆として相支へ、異儀なく罷り退く。

其の目は、やかたの下に野陣を懸けさせられ、よこ山の城、高坂(大野木秀俊?・・・いや、別人か?)、三田村(三田村国定)、野村肥後(直隆)楯籠もり、相拘へ候。

「信長公記 巻三 あね川合戦の事」より抜粋

三河から徳川家康参陣 浅井側も朝倉軍到着

 6月24日。
同盟関係にある徳川家康が自ら兵を率いて参陣。
信長と対面し、共に竜ヶ鼻に陣を敷いた。

一方、浅井長政の援軍として朝倉家から朝倉義景の名代として朝倉景健が8000の兵を率いて到着。
浅井長政と合流する。
浅井長政5000の兵と合わせて、総勢約1万3000人といったところだ。(兵力については諸説あり)

姉川合戦の前哨戦
姉川合戦の前哨戦

 廿四(二十四)日に四方より取り詰め、信長公は、たつがはなに御陣取り、家康公も御出陣候て、同じ龍が鼻に御陣取る。

然るところ、朝倉孫三郎(景健)、後巻として八千ばかりにて罷り立つ。

大谷の東、をより山(大依山)と申し候て、東西へ長き山あり。

彼の山に陣取るなり。

同浅井備前(長政)人数五千ばかり相加はり、都合一万三千の人数。

「信長公記 巻三 あね川合戦の事」より抜粋

大依山と竜ヶ鼻にそれぞれ陣取り、睨み合う

 6月27日。
合流した浅井・朝倉連合軍は、囲まれた横山城に後詰(援軍)を送るべく、伊吹山脈に連なる大依山に布陣した。

大依山と竜ヶ鼻にそれぞれ陣取り、睨み合う
姉川の合戦 前日の両軍の動向

信長と徳川家康も決戦に備えるべく、一部の部隊だけを横山城の抑えとして残し、竜ヶ鼻に兵を集結させた

異説・姉川の合戦

 通説では、ここから浅井・朝倉連合軍が南下してきて、翌28日に姉川の大決戦がはじまり・・・となっている。
当ブログも基本的には定説の姉川の合戦を採択している。

しかしながら、「信長公記」や「年代記抄節」には気になる記述がある。
少し信長公記から抜粋すると

 六月廿七(二十七)日の暁、陣払ひ仕り、罷りの退き候と存じ候のところ、廿八(二十八)日未明に三十町(約3.3km)ばかりかゝり来なり、姉川を前にあて、野村の郷、三田村両郷へ移り、二手に備へ候。

「信長公記 巻三 あね川合戦の事」より抜粋

とある。

研究者の中には浅井・朝倉連合軍が奇襲をしたのではないかとの説を唱えている学者もいるようだ。
というのも、27日の暁に大依山から陣を引き払って退却したと思ったけれども、28日未明に3.3kmの地点、姉川の前、野村、三田村までやってきた。
と記されているからだ。

織田軍は敵勢が陣払いしたと勘違いして再び軍勢を横山城の包囲体制に戻し、織田軍は本陣の背を突かれる形となり両軍陣形を整えず即座に戦いに突入したとする説の根拠がこれである。

確かに信長公記には虚を突かれたような記述はあるが、織田・徳川連合軍が軍勢を横山城に差し戻したとまでは記されていない。
織田軍が本陣の背を突かれる形となったならば、旗本はもっと大損害を被らないと説明がつかないような気がする。

私の考えでは、突然大依山から姿を消して信長は驚いたけれども、そこからは定説通り、陣形はそのままで卯の刻=午前6時に敵を発見して一戦におよんだものだと推察する。
一応、以前作ったことがあるやつも載せておこう・・・。

姉川の合戦布陣図
姉川の戦い布陣図

朝倉義景はなぜ自ら出馬しなかったのか

 朝倉家と織田家は、実は先祖代々の仇敵であり、犬猿の仲だった。
というのも、両家はもともと守護大名・斯波氏の家来同士だった。
朝倉家は越前の守護代を任され、織田家は尾張を任されていた。

応仁の乱が勃発し、斯波氏も他の守護大名たちと同じように力を使い果たして衰退する。
そこに乗じて朝倉家は突然独立を宣言して両家の関係が悪化したという経緯があった。

信長の父・信秀の代では、ほんの一時だけ手を組んで斎藤道三を攻めたのだが、そこでも朝倉家は突然兵を引き上げて、両家の溝はさらに深まった。

ところで、朝倉家は三代前から朝倉家の居館がある一乗谷に家臣を集住させ、「朝倉敏景十七ヶ条」と呼ばれる”定め”を運用するなど、先進的な大名であった。

しかし、義景の時代には家中に勢力争いを抱え、対外的危機管理能力が欠如し、さらに軍事的決断に時間がかかる鈍重な家風となり代わっていた。
そういう点においては能登畠山家と似ているかもしれない。

浅井長政は朝倉家への恩義のために(それだけではないかもしれないが)、自ら兵を率いて助けたのに、朝倉義景は自らは出馬せず、朝倉景健に名代を任せて救援に向かわせている。
一応、朝倉家は代々隣国の加賀一向一揆と争っていて、100%の力では浅井の救援には行けないにしても、義景御自ら出馬する必要性はあっただろう。

浅井長政肖像画
浅井長政肖像画

浅井長政は勇気凛凛たる勇者の気質。
一方、隠居の久政は年寄の癖なのか、何をするにも腰が重く大事を取ろうとする傾向があった。
朝倉義景もそれに似ていた。
長政は出足の速い信長に対し、「そうゆるゆるとはしておれぬ」と攻勢を主張するが、久政も義景もこれに反対し、戦評定のたびごとに折り合いが合わずにしっくりいかなかったようだ。

信長を討ち取るチャンスはいくつかあった。

もし浅井長政がフルの力を発揮できたならば、家臣団の結束がもっと固く、さすがの信長とて危うかったかもしれない。

現在の竜ヶ鼻からの風景

 信長が陣を敷いた竜ヶ鼻(たつがはな)は、横山城がある山の先っちょの麓(?)に位置している。
Google ストリートビューから竜ヶ鼻まで日帰り旅行してきた。

竜ヶ鼻より横山城跡を見渡す
竜ヶ鼻より小谷山を見渡す
竜ヶ鼻より横山城跡を見渡す
竜ヶ鼻より横山城跡を見渡す

横山城がなかなかの要害だったことが改めてわかる。
のちに木下秀吉がここに在番し、何度か浅井勢を撃退したのも理解できる。

⇒ 姉川の合戦 後半へ

来世ちゃん
来世ちゃん

ご覧いただきありがとうございます。
近日中に後半は書きますので、いましばらくのご猶予を・・・
この時期の織田信長の年表はこちらになります。

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