こんばんはー!
昨日に引き続き「野田・福島の戦い」後編です。
残るは野田・福島の2砦のみとなり、川を埋められ土手と櫓を築かれて、もはや三好三人衆らの戦意は低下。
信長公勝利目前ですね!
石山本願寺挙兵 織田信長との10年戦争のはじまり
9月12日。
三好三人衆方が織田信長に和議を申し入れたが失敗。
決裂したその日の夜。
石山本願寺挙兵。
突然大坂中から鐘の音が鳴り響いた。
それは非常に信長陣所を驚かせたらしく、天地がひっくり返るほどだったという。
細川両家記には
九月十二日夜半に寺内の早鐘つかせられ候へば、即ち人数集まりけり。信長方仰天なく候
細川両家記
と記されている。
早鐘が大坂の各島々にあって、恐らくそこが石山本願寺の小寺かなにかだったのだろう。
門徒たちは定期的にそこに集まり、信心や布教活動をしていたと考える。
鐘が鳴ればすぐに集まるようにと。
浅井長政、朝倉義景、六角父子も同時に挙兵
また同日。
越前朝倉義景の先遣隊8000が近江堅田まで進撃。
京都の町中が大騒動になる。(言継卿記)
浅井・朝倉連合軍は、ついこの年の6月に姉川において大敗北を喫したばかりである。
この時ばかりは朝倉義景自身が出陣し、浅井長政と馬を並べて信長討伐に動いた。
本願寺挙兵に至った経緯
野田・福島の戦いが始まった当初は不気味になりを潜めていた本願寺光佐(顕如)であったが、実は信長と敵対する準備を着々と進めていたのだ。
少なくとも9月5日から翌日にかけて、紀州をはじめとする諸国の門徒に「信長と戦わぬ門徒は破門する」と檄を飛ばす密書を送っている。
以下の文はそのときに本願寺光佐(顕如)が近江の明照寺に宛てた書状である。
信長上洛に就て、此の方迷惑せしめ候。去々年以来、難題を懸け申し付けて、随分なる扱ひ、彼の方に応じ候と雖もその詮なく、破却すべきの由、慥に告げ来り候。此の上は力及ばす。然ればこの時開山の一流退転なきの様、各身命を顧みず、忠節を抽らるべきこと有り難く候。併ら馳走頼み入り候。若し無沙汰の輩は、長く門徒たるべからず候なり。あなかしこ。
九月六日
元亀元年九月六日顕如発給文書
顕如
門徒中へ
簡単に現代語訳すると
「信長が2年前に上洛を果たしてからめっちゃ迷惑や!
(矢銭5000貫の要求にも応じたけど)今度は石山本願寺(ここ)の取り壊すと言うてきよった。
(たぶんこれは顕如の嘘)
これは本願寺開山以来の危機や!
お前ら、手を貸してやー!
今が命を顧みずに忠節をぬきんでる時やで。
あ、ちなみに立ち上がらんやつは門徒ちゃうで。」
ちなみに5000貫は現在の円の価値にして7億2000万円くらい?(自信なし)
また今度別の記事でこの書状の解読記事を載せたいと思う。(やるとは言っていない)
9月5日~6日というと・・・
野田・福島の戦い序盤の頃である。
信長の調略により三好政勝らが内応して城から抜け出したころ。
また、将軍・足利義昭が摂津中嶋城(堀城)に着陣したころである。
決起が9月12日夜半なので、この時挙兵を決意して檄文を送りまくっていたということになるのだ。
さらに9月10日。
顕如は浅井父子にも書状を送っている。
これにより浅井・朝倉・本願寺間で連携がうまくとれていることが窺える。
朝倉義景本人が出陣できたのも、長年の宿敵だった加賀や越前の一向一揆門徒と和睦できたからであろう。
一向門徒衆ら 淀川堤を打ち破り信長陣所に夜襲
9月13日早朝。
門徒らが石山本願寺に参集し、明け方を待ってから織田軍がせき止めていた防堤を打ち破る。
これにより淀川が大浸水して浦江城(海老江城)などは海水に浸かったようだ。
織田軍が築き上げた土手や櫓の大部分も流されてしまった可能性がある。
この大洪水も人々の度肝を抜いたようで、さまざまな人が目撃して記録に残している。
細川両家記には
にわかに西風が吹いて西海より高塩水が噴き上がり、淀川逆に流れたり
細川両家記
(中略)
信長方の陣屋とも、悉くつかり、難儀に及ぶ由に候
とある。
この日の夜のこと。
顕如自身も自ら鎧を着て織田軍本陣のある天満森に攻めかかった。
織田軍の楼岸砦と川口砦にも鉄砲を浴びせた。(信長公記)
夜戦は火を消して敵が見えないのを利用して一気に切り崩す戦法だ。
信長自身が得意とする戦法でもある。
成功すれば絶大な効果を発揮するが、同士討ちになる恐れもある。
この夜襲は失敗だったのか、本願寺は進撃を止めて両軍が数キロの距離をとって対峙したまま夜が明けた。
天満森で大激戦 佐々成政、前田利家が奮戦 毛利秀頼と兼松正吉の功の譲り合い
翌9月14日。
空が白み始めると、顕如率いる本願寺一向門徒衆は信長本陣のある天満森に再び襲い掛かる。
信長もそれに応戦し、淀川の春日井堤で激戦となった。
織田勢の一番手は佐々成政(内蔵助)。
黒母衣衆と呼ばれる信長親衛隊一人である。
2か月前の姉川の合戦でも少数の兵で、鉄砲隊をもってよく支えた男だ。
門徒衆は鉄砲、竹槍、鋤や鍬で武装し、坊主は薙刀を持ち、念仏を唱えながら織田軍に突撃した。
剛の者として鳴らしていた佐々成政もさすがに支えきれず乱戦の中で手傷を追い後退。
二番手は前田利家(又左衛門)。
彼もまた赤母衣衆と呼ばれる信長親衛隊の一人である。
利家が堤通の中筋を進み、右手から弓衆の中野忠利(又兵衛)、左手からは野村越中守(足利義昭の家臣)、湯浅直宗(甚助)、毛利秀頼(河内守)、兼松正吉(又四郎)らが我先にと敵に切り込んだ。
かなりの大乱戦だったようで敵味方入り乱れて収拾がつかぬ状況であった。
命知らずな一向門徒衆らの突撃にも信長の旗本らは懸命に防ぎ、戦況を押し戻した。
本願寺方の一方の旗頭に下間丹後という人物がいる。
その下間丹後の有力な侍大将・長末新七郎を信長旗本の毛利秀頼と兼松正吉が同時に付き伏せた。
堪らず倒れる長松新七郎。
毛利秀頼は
「早う首を取り候え!」と兼松正吉に言ったが、
「それがしはただの手伝いにござる。お手前こそ早う取り候え!」
と返したところ、なぜか二人が口論をし始めた。
長い時間首の譲り合いをしていたのだろうか。
やがて戦況は再び本願寺側に流れ、織田軍が後退を始めた。
結局毛利と兼松の両名は、敵の大将首をとらぬまま退却してしまうというエピソードがあった。
ちなみにこのとき、幕臣の野村越中守が討死している。
関連記事:【悲報】信長の馬廻り、倒した敵の首を巡って口論になり、首を取らずにそのまま退却
また同じ日。
信長に味方している根来衆が、河内国の一向道場をことごとく破却、乱暴する。(言継卿記)
根来衆の中にも一向門徒は多いと聞く。
現場を見ていない公家の山科言継の日記なので、真実かどうかはわからない。
本願寺が淀川の堤を破ったことで各地で浸水したため、翌日、翌々日と戦闘は起こらなかった。
浅井・朝倉連合軍 近江宇佐山城を攻撃
野田・福島の戦いのすごい所はいろんな戦いと連動しているところだ。
翌日の9月16日。
浅井長政・朝倉義景の連合軍が琵琶湖の西側を進撃し、比叡山の麓にある宇佐山城に迫った。
宇佐山城を守っているのは織田家歴戦の将・森可成(三左衛門)である。
宇佐山城を素通りして坂本を抜けて京へ進撃されることを恐れた森可成は、野府城主の織田信治らとともにまず坂本を抑える。
そこで浅井、朝倉軍の侵攻を食い止め、緒戦において浅井朝倉連合軍の撃退に成功した。
この時の可成の考えとしては、浅井・朝倉を京へ入れさせまいと時間稼ぎをする作戦だったであろう。
しかし、ここでよからぬ事態が起きた。
本願寺が比叡山延暦寺を動かして浅井・朝倉家に加勢させる
浅井・朝倉連合軍が宇佐山城を取り囲んで持久戦になろうかという時、顕如から要請を受けた比叡山延暦寺が浅井・朝倉連合軍に加勢することを決意。
僧兵たちが次々と浅井・朝倉の陣所に加わった。
戦場を大坂に戻そう。
先の大浸水から7日が経った。
さすがに水が引いてきて戦闘が可能な状態になった。
今度は信長から動いた。
織田軍は摂津国川口向城より出撃。
信長自身も細川藤孝、松井康之とともに出陣。
摂津の森口周辺の苅田を行い、野田・福島砦を挑発した。(松井家譜、武徳編年集成)
そこで出撃してきた石山本願寺勢と交戦におよぶ。
残念ながらこの戦いの詳細はわからない。
恐らく信長が撃退に成功したのではなかろうか。 =森口・榎並の戦い(仮名)
恐らく森口とは現在の守口市だろう。
その周辺に「城北公園」があるが、その名の由来は榎並城の北に位置したからだ。
榎並城は三好長慶が大きく躍進する契機となった「江口の戦い」でも登場する城である。
宇佐山城の戦い 森可成と織田信治 奮戦の末に討死
同日の20日。(19日説もあり。信長の元に急報を届いたのが20日の可能性も)
比叡山の僧兵らが浅井・朝倉側に加わったことで士気は大いに上がった。
総勢2万8000の軍勢である。
一方、宇佐山城を守る森可成は織田信治らも合わせて3000である。
宇佐山城が包囲される中、可成と信治は決死の出撃を決断する。
越前勢の朝倉景鏡隊に猛攻を仕掛けた。
歴戦の猛将である森可成の勢いは凄まじく、朝倉景鏡隊を総崩れ寸前に追い込んだ。
しかし、側面から浅井対馬、浅井玄蕃2000の兵が。
さらに朝倉中務、山崎吉家、河波賀三郎の隊からも攻撃され、最後に浅井長政本陣からも攻撃されたため、ついに森可成と織田信治は討ち取られてしまった。(兼見卿記、護国寺文書、言継卿記、信長公記)
関連記事:森可成 並外れた武勇と忠義で幾度となく信長の窮地を救った男
勢いに乗った浅井・朝倉軍は大津の馬場、松本に放火する。
信長退却 陣を引き払い近江へ
翌21日。
浅井・朝倉連合軍、大津から逢坂を越えて山科まで接近。
放火を行い気勢を上げた。(信長公記)
同じ日、大坂在陣中の信長も柴田勝家の進言を受け入れ、柴田勝家、明智光秀、村井貞勝らを京へ戻す。
9月22日。
京に戻った柴田勝家は、浅井・朝倉連合軍が予想以上に大規模だったことを知り、事の深刻さを伝えるために急ぎ摂津へと戻り、信長自身の京都着陣を言上する。
9月23日。
信長、ついに退却を決断。
野田・福島両砦の囲みを解き、抑えとして和田惟政らを摂津に残して、子の刻(深夜0時ごろ)に京へ戻る。
将軍・足利義昭も一足先に京へ退却した。
この時の信長の心情はいかばかりだっただであろうか。
しかし野田・福島の戦いはまだ終わりではなかった。
講和が成立していないからである。
新たないくさ 志賀の陣始まる
森可成討死といえども、まだ宇佐山城は落城していなかった。
敵の軍勢に包囲をされていたが、森家家老の各務元正らが懸命に死守していたからだ。
9月24日。
信長は宿所の本能寺を発ち、近江坂本に下り宇佐山城に入城。
浅井・朝倉連合軍は慌てて宇佐山城の囲みを解いて比叡山に立て籠もった。
ここから講和が成立するまでの12月14日まで長い対陣が続くこととなる。
世にいう志賀の陣である。
短気な信長にとっては、もしかしたら人生で一番辛い時期だったかもしれない。
信長が浅井・朝倉軍を攻めれなかった理由は、
①あのような山を攻め上るには、攻め方には不利であること
②比叡山は天皇や京都を鎮護する由緒正しい神聖な地であると広く認識されていたから
である。
三好三人衆ら 野田・福島から出撃し反撃に転じる
これまで辛抱強く野田・福島の両砦に立て籠もっていた三好三人衆ら。
城の囲みを解いて信長が近江へと移動したのを見るや、反攻に転じる。
9月27日。
阿波国、讃岐国から篠原長房、細川真之、三好長治、十河存保ら2万の兵が兵庫浦に上陸。
翌28日。
篠原らの軍は織田方の摂津瓦林城と越水城に攻め込んだ。
越水城は昔、三好長慶が若かりし頃に居城としていた地である。
城主の瓦林三河守は懸命に抵抗したが所詮は多勢に無勢。
援軍など来るはずもなく瓦林三河守が討ち取られ、瓦林城、越水城は落城した。
10月1日。
城を落とした篠原長房、細川真之、三好長治、十河存保らの軍勢は、摂津野田砦、福島砦に入城し、三好三人衆らと合流。
京へ攻め上らんとする勢いであった。
一方志賀の陣で浅井・朝倉連合軍と対陣中の織田信長は、攻めるに攻めれず、退くにも退けずの袋の鼠状態であった。
三好三人衆らが京へ攻め上り、信長の背後をつかなかった謎
しかし、三好三人衆らはなぜか京へ攻め上らなかった。
摂津の茨木などで迎撃態勢を整えている和田惟政らがいたと考えられるが、兵力においては圧倒的に三好三人衆らの方が優勢のはずである。
茨木、高槻、芥川山、富田の城々を攻め落とすことも容易なのではないか。
その上で京洛に乱入し放火・略奪の限りを尽くすことも、そのまま近江に下って信長の背後をつくこともできたのではないか。
理由は不明だが、それをしなかったのは将軍・足利義昭が敵なのか味方なのかわからなかったからではないか。
足利義昭は三好三人衆に対する恨みが深く、野田・福島への出陣を自ら望んでのことであるとする説が主流のようだが、私はそうは思わない。
野田・福島の戦いより前から足利義昭が信長包囲網を形成すべく、御内書を乱発して味方を作っていたために、将軍は味方だと考えて京へ攻めなかったのではないかと私は考える。
なお、三好三人衆らにそのような書状を送った証拠はない。
野田・福島の戦い 終局
三好は動かず、比叡山に立て籠もる浅井・朝倉も動かず11月となった。
この時代の湖西比叡山あたりの晩秋は骨身に染みる寒さだったであろう。
長期にわたる出陣は、双方とも士気が上がらないものだ。
三好、浅井、朝倉は動かなかったが、本願寺の一向門徒衆は暴れまわっていた。
顕如が扇動した近江の一向門徒衆らも立ち上がって信長の領内を苦しめる。
それに便乗して張り切っているのが、2年前に信長に敗れた六角義賢(承禎)、義治父子である。
さらに信長の原点ともいえる尾張国でも長島一向一揆が挙兵。
上方に出陣して兵が手薄な尾張へ乱入し、尾張小木江城を攻め落として織田信興が自害する。=小木江城の戦い
ここにきて信長は和議を決断し、明智光秀らに命じて交渉にあたらせた。
光秀は京での戦乱を好まない正親町天皇や、石山本願寺とは戦いたくない足利義昭を動かし、11月30日に各陣営で話し合いが行われた。
その結果、12月14日。
浅井長政、朝倉義景、六角義賢(承禎)、義治父子、三好三人衆、本願寺光佐(顕如)と織田信長の間で和議が成立。信長は近江永原城まで移動し、双方の軍勢が国もとへと帰っていった。
この時、織田信長-浅井長政間で結ばれた和議の書状を題した記事を書いたことがあるので、是非ご覧いただきたい。
関連記事:【古文書講座】信長窮地 織田家と浅井長政・朝倉義景が和睦したときの書状
野田・福島合戦のその後
翌年2月佐和山城主・磯野員昌が城を開け渡したことで和議がたちまち破れた。
その後、信長陣営として三好三人衆らと戦ったはずの松永久秀、三好義継らは信長を裏切り、敵方と手を結ぶこととなる。
(こいつらいっつも離合集散を繰り返してるな・・・)
やがて信長が最も戦いたくなかったあの男。
甲斐の武田信玄が西上し、信長最大のピンチを迎えるのであった。
ご覧いただきありがとうございました!
この時期の織田信長の年表詳細はこちらです。