織田信長の年表ちょっと詳しめ 信長包囲網の完成

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来世ちゃん
来世ちゃん

姉川の戦いに勝利した信長は、畿内に上陸して野田・福島両砦に立て籠もった三好三人衆と戦う。

公家衆まで戦の見物に出陣し、余裕の勝利と思われたが・・・

そこには思わぬ落とし穴が待っていた。

今回は元亀元年(1570)7月中旬からはじめる。

(これまでの流れ)

  1. 誕生~叔父信光死去まで(1534~1555)
  2. 叔父信光死去~桶狭間の戦い直前まで(1555~1560)
  3. 桶狭間の戦い~小牧山城移転直後まで(1560~1564)
  4. 美濃攻略戦(1564~1567)
  5. 覇王上洛(1567~1569)
  6. 血戦 姉川の戦い(1570 1.~1570 7.)
  7. 信長包囲網の完成(1570 7.~12.) イマココ
  8. 比叡山焼き討ち(1571 1.~9.)
  9. 織田信重(信忠)の初陣(1571 9.~1572 9.)
  10. 武田信玄 ついに西上作戦を開始する(1572 9.~1572 12.)
  11. 将軍・足利義昭の挙兵と武田信玄の死(1573 1.~1573 4.)
  12. 将軍追放 事実上の室町幕府滅亡(1573 5.~1573 7.)
  13. 朝倉・浅井家滅亡(1573 8.~1573 10.)

この年表の見方

  • 当サイトでは、信長の人生で大きな転換期となった時代時代で、一区切りにしている
  • 他サイトや歴史本、教科書で紹介されている簡単な年表に書いている内容は、赤太文字
  • 年代や日付について諸説ある場合は、年代や日付の個所に黄色いアンダーライン
  • 内容に関して不明確で諸説ある場合は、事績欄に黄色いアンダーライン
  • 当時は数え年であるから、信長の年齢は生まれた瞬間を1歳とする。誕生日についても詳細不明のため、1月1日で1つ歳を取る
  • 太陽暦、太陰暦がある。当サイトでは、他のサイトや歴史本と同じように、太陰暦を採用している。中には「」なんていう聞きなれないワードがあるかもしれないが、あまり気にせず読み進めていってほしい
  • キーとなる合戦、城攻め、政治政策、外交での取り決めは青太文字
  • 何か事柄に補足したいときは、下の備考欄に書く

野田・福島の戦い

元亀元年(1570)

37歳

7月19日

堺の商人軍団らの援助を受けた三好三人衆、讃岐の十河存保そごうながやす、淡路の安宅あたけ信康らが摂津中嶋(中島)に上陸。
野田と福嶋(福島)に砦を築く。

 (備考)そこにはかつての美濃国大名・斎藤龍興の姿もあった。

???

細川昭元と紀州から雑賀(鈴木)孫市も三好三人衆側の援軍として到着。

 (備考)総勢1万3000にもおよんだ。(松井家譜)
6月に起きた池田城の異変もあり、信長にとってはもはや無視できない事態となったのである。

大坂古地図3D
戦国中期頃の大阪周辺イメージ図

7月21日

嫡男・織田信忠、林某へ姉川の戦での軍功を賞して太刀を下す。(林文書)

 (備考)信忠はまだ元服前ではあるが、既に織田家の世継ぎとしての行動が見て取れる

8月17日

三好三人衆らが若江城主・三好義継の所領である河内古橋城を攻撃。
織田方に属する河内国の三好義継(義長、三好太夫のこと)、畠山昭高らが三好三人衆と交戦。
300余騎が壊滅し、敗北。(言継卿記、多聞院日記)=古橋城の戦い

 (備考)このとき三好義継軍150、畠山昭高軍150、合わせて300程度の手勢とある。
この時の討ち取られた首級が218にも上り、古橋城兵はほぼ全滅に近い損害であったと考えられる。(細川両家記)

なお、畠山昭高は河内高屋城主であり、かつては河内一国の守護大名であった。
しかし、三好長慶らが権力の頂点に立つとしだいに没落。
信長のおかげで所領を復活できたものの、宿敵の三好義継が河内若江城を与えられて河内北半国の大名に。
河内高屋城は畠山昭高に与えられて河内南半国大名に。
といった具合であった。
関連記事:【古文書講座】信長包囲網 信長が畿内大名の心を繋ぎとめようと必死

???

三好三人衆ら、織田方の摂津榎並城を攻略。

8月19日

木下秀吉、東寺領の山城国久世荘の名主、百姓に年貢納入を命ず旨の文書を発給。(東寺百合文書)

8月20日

信長、三好三人衆討伐のため岐阜を出陣。近江の横山城に入る。

8月22日

近江長光寺泊。

8月23日

大和国で筒井順慶が蜂起。松永久秀家臣の竹内秀勝(下総守)が撃退に成功し、高樋山まで駆逐。中坊藤松の軍は少々損害があったようだ。(多門院日記、言継卿記)

 (備考)この頃はまだ筒井順慶は信長の支持を得ておらず、賊軍だったことが窺える。大和もまたこうした状況なので、松永久秀は参陣どころではなかったのかもしれない。

入京して本能寺に着陣。美濃衆と幕府の奉公衆の一部はそのまま摂津まで出陣。

8月24日

吉田神社の吉田兼和(兼見)(公家)が信長の陣所である本能寺を訪ね、塙直政を奏者として弓懸二つを贈る。また、吉田兼和(兼見)は直政と菅谷長頼にもそれぞれ銭二十疋を送っている。(兼見卿記)

また、信長は将軍・足利義昭に出陣の強要を促し、義昭は渋々承諾している。義昭自身の出馬で、これは親征であり、信長の征討は正当なものであると内外に知らしめるつもりなのであろう。

 (備考)信長はこの時点で、足利義昭が三好三人衆と手を結び、諸大名らに信長打倒を唆していたことを知っていたのであろう。だからこそ、義昭の面子を潰しつつ相手の士気を下げる行動を取ったと考えられる。 関連記事:【悲報】足利義昭さん、自分で作った反信長連合軍を討伐する総大将にされてしまう

8月25日

辰の刻(午前7~9時)に出陣。京を発して淀川を越え、河内牧方に着陣。

 (備考)この時公家の飛鳥井雅敦烏丸光宣高倉永相らも参陣している。(言継卿記)

8月26日28日説もあり

摂津国中嶋で織田軍と三好三人衆軍が激しく交戦。
織田軍は多数の死傷者を出しながらもなんとか中嶋城(別名:堀城)の攻略に成功する。(多門院日記) =中嶋城の戦い 野田・福島の戦い開戦
関連記事:【信長包囲網成立】野田・福島の戦いを図で解説 前編

 (備考)野田・福島両砦から川を挟んだところに中嶋城(堀城)がある。

織田軍主力部隊はついに野田・福島からは目と鼻の先にある天満森、渡辺津、神崎、上難波、下難波、浜の手、川口に着陣。
信長自身は天王寺に布陣する。

三好政勝香西こうざい長信(越後守)が三好三人衆を裏切り、信長に寝返る。(武徳編年集成)

 (備考)三好政勝は三人衆と同じく謎の多い人物。のちに松永久秀の謀叛に加担している。香西長信は三好政勝の配下とされている。野田か福島いずれかの砦で内応し、織田勢を引き入れる画策をしていたが、警備が厳重で断念し、城を抜け出して信長陣所へと走ったようである。

8月27日

公家の烏丸光康正親町実彦(季秀)が50~60の兵を率いて摂津に出陣。(言継卿記)

8月28日

三好義継(義長、三好太夫のこと) 、松永久秀和田惟政らが川を越えて天満森に布陣。

 (備考)織田軍が野田・福島の両砦を囲むには兵が多すぎて、石山本願寺全体を取り囲むような形となった。信長は大坂の地の将来性を早くから目をつけており、この時あわよくば石山本願寺を手に入れたいと考えていたのかもしれない。しかし、それがのちに最悪の結果を生むこととなる。石山本願寺は今日の大阪城とほぼ同じ位置にある。それ以前から信長はたびたび本願寺に対し、莫大な矢銭を要求し、本願寺はそれを呑んでいたのだった。

9月2日

信長の援軍として紀伊根来衆3万が摂津へ出陣。(言継卿記)

 (備考)根来衆もあの雑賀孫市で有名な雑賀衆と同様に傭兵集団である。戦国時代では土地が貧しい地域では、傭兵として金を貰って、各所で戦うことがしばしばあった。火術と忍術の傭兵集団で有名なのが伊賀衆、甲賀衆であり、鉄砲術に長けた傭兵集団で有名なのが根来衆、雑賀衆というわけだ。それにしても3万の動員兵力は多すぎやろ・・・。

9月3日

播磨の三木衆(別所長治麦井勘衛門)が松永久秀を攻撃。(言継卿記)

9月4日

足利義昭、2000の兵を率いて細川藤賢のいる摂津国中島内堀に着陣。

9月7日

信長、摂津陣中より和泉国槙尾寺衆徒から鉄砲10挺を贈呈される。(大宮市某氏所蔵文書)

信長、摂津国天満森へ移陣。織田軍先鋒隊は摂津国北海老江へ布陣。(松井家譜)

9月8日

三好義継と松永久秀が摂津海老江城(別名:浦江城)を攻略。(言継卿記)=浦江城の戦い

 (備考)この戦いでは初めて「大鉄砲」という大口径の火縄銃が使用されたという説があるが、真偽は不明。

信長、石山本願寺と三好三人衆の合流を警戒し、摂津の国木津川口と籠岸に砦の建設を開始。(松井家譜)

浦江城の戦い 日本初の大口径火縄銃が火を噴く
浦江城の戦い 楼の岸と川口に砦を建設

9月10日

公家連中の間で動きがあり、新暦の作成を延引。

一方、信長の知らぬ水面下では知られざる工作が起きていた。
この日、下間正秀が近江国十ヶ寺惣衆に対し、越前の朝倉義景の行動に関係する作戦指示を下すなど、信長への敵対準備が着々と進んでいた。

同日

石山本願寺門跡顕如、浅井長政・久政へ同心か。『顕如上人文案』

今度種々懇情之段、祝着不能是非候、彌以無油斷可有入魂事肝要候、委細之旨、賴總法印可令演說候間、閣筆候也、穴賢
    九月十日   —御判あり

   浅井下野守殿
   浅井備前守殿  只今御供衆云々

○右鳥子チイサク切テ認之 御使福勝寺

(書き下し文)
この度種々懇情の段、祝着是非に能わず候。
いよいよ以て油断無く、昵懇有るべき事肝要に候。
委細の旨、頼総法印(下間頼総)演説せしむべく候間、筆をさしおき候也。穴賢
    九月十日   —御判あり

   浅井下野守(久政)殿
   浅井備前守(長政)殿  只今御供衆云々

○右、鳥子(紙)ちいさく切りてこれを認む 御使福勝寺

9月11日

織田軍、和泉国畠中城を攻略。

野田・福島両砦に面する川を埋め、対岸に土手を築き、さらに櫓を建設。
この日から本格的な野田・福島両砦への攻城戦が始まる。

9月12日

織田方の援軍として紀伊国から雑賀衆根来衆など2万の軍勢が遠里小野おりおの、住吉、天王寺に到着。
紀州勢はそのまま北上し、野田・福島の両砦の攻撃に加勢。
大規模な銃撃戦が展開される。

紀州から鉄砲集団参着。野田福島砦に総攻撃
野田・福島の戦い

同日。
三好三人衆、信長に和議を持ちかけるが、信長はこれを拒否する。

本願寺との10年戦争の始まり

9月12日夜半

石山本願寺挙兵。野田・福島両砦包囲中の信長に攻撃を仕掛ける。
また法主の顕如は、信長領国内の本願寺門徒に対して檄を飛ばして信長との徹底抗戦を呼びかけた。

本願寺法主・顕如(光佐)
本願寺法主・顕如(光佐)

 (備考)本願寺光佐(顕如けんにょげきを飛ばした文書の中には
「命令に従えば極楽浄土へ行ける。背けば破門にする」とまである。
これが信長と本願寺、10年に渡る長い死闘の始まりであった。
関連記事:【信長包囲網成立】野田・福島の戦いを図で解説 後編

また同日。越前朝倉軍の先遣隊8000の兵が近江堅田まで進撃。京中が騒動となる(言継卿記)

 (備考)完全に三好三人衆、本願寺、浅井・朝倉と連携が取れているのが興味深い
この頃には第二次世界大戦のような軍事暗号が既に使用されていたのであろう。

9月13日

早朝
顕如ら、織田軍がせき止めていた防堤を打ち破る。

 (備考)大洪水になったようで、この日のことはさまざまな人々が記録に残している。


顕如自身も自ら鎧を着て織田軍本陣に攻めかかり、織田軍の楼岸砦と川口砦に鉄砲を撃たせる(信長公記)
織田軍、石山本願寺勢に敗北。前田利家村井重頼(又兵衛)が奮戦。

第一次石山合戦 天満森の合戦
石山合戦のはじまり 天満森の合戦

9月14日

顕如、天満森を襲わせる。
門徒衆は鉄砲、竹槍、鋤や鍬で襲い掛かり、坊主は薙刀を持ち、念仏を唱えながら織田軍に突撃。
織田軍では佐々成政前田利家湯浅直宗らの諸隊が応戦。佐々成政負傷。後退を余儀なくされる。

 (備考)佐々や前田は信長本陣を守備する母衣衆である。
このことから織田軍の本陣はまだ天満森にあり、野田・福島の両砦の攻撃に全軍を回して本陣の周りを手薄にしてしまった信長の油断だったのではないかと推察できる。
なお、この時毛利秀頼兼松正吉が首を譲り合う逸話(珍事・・・?)も残されている。

関連記事:【悲報】信長の馬廻り、倒した敵の首を巡って口論になり、首を取らずにそのまま退却

信長に味方している根来衆が、河内国の一向道場をことごとく、破却、乱暴する。(言継卿記)

9月15日

大住荘代官職の木津春松英が信長奉行の武井夕庵せきあんに替地(転封)を命じられ、代官職を返上(曇華院文書)

9月16日

宇佐山城主の森可成、野府城主の織田信治ら、近江坂本を抑えて浅井、朝倉軍の侵攻を食い止め、緒戦において浅井朝倉連合軍の撃退に成功。

???

顕如の要請を受けた比叡山延暦寺、浅井・朝倉連合軍に加勢。僧兵らが合流する。

浅井・朝倉連合軍 信長の留守を突き京都へ進撃

9月19日

石山本願寺門跡の顕如、篠原長房(右京進)へ書状を発給。『顕如上人文案』

態染一翰候、仍今度渡海事早速有同心、既至淡州着岸之由、欣悦不可過之候、彌以被相急此表着陣之儀所希候、猶賴總法印可申越候條、不及詳候也、
    九月十九日   -御判

    篠原右京進殿

(書き下し文)
わざと一簡を染め候。
仍ってこの度渡海の事、早速同心有り。
既に淡州に至り着岸の由、欣悦これに過ぐべからず候。
いよいよ以て相急がれ、この表に着陣の儀、希む所に候。
猶頼総法印申し越すべく候条、詳らかには及ばず候也。(以下略)

9月20日

信長、三好政勝に摂津国豊島郡を知行に与える。(福地源一郎氏所蔵文書)

 (備考)三好政勝とは先日野田・福島の両砦から内応して城を抜け出して信長陣所へと走った人物である。

織田軍、摂津国川口向城より出撃。
信長自身も細川藤孝松井康之とともに出陣。
摂津の森口周辺の苅田を行い、野田・福島砦を挑発。(松井家譜、武徳編年集成)
出撃してきた石山本願寺勢と交戦。=森口・榎並の戦い(仮名)

 (備考)この戦いの詳細は不明。
しかし、石山本願寺の挙兵により野田・福島の戦いは明らかに形勢が逆転したことが窺える。

浅井・朝倉連合軍3万の軍勢が、南近江森可成籠る宇佐山城を攻撃。城から打って出た森可成、織田信治らが討死。=宇佐山城の戦い(兼見卿記、護国寺文書、言継卿記、信長公記)

宇佐山城の戦い
宇佐山城の戦い

 (備考)関連記事:森可成 並外れた武勇と忠義で幾度となく信長の窮地を救った男

宇佐山城はまだ陥落していないものの、浅井・朝倉連合軍は京へ攻め上らんという動きを見せていた。

 (備考)信長桶狭間以来のピンチ!
姉川の合戦で敗れたばかりの浅井、朝倉氏であるが、なぜ短期間で3万の軍勢を集めることができたのか少々疑問である。
越前の朝倉氏は長年の宿敵である一向一揆衆と手を結んだことや、比叡山延暦寺あたりの保守勢力が浅井・朝倉家を経済的に支援したのではあるまいか。
比叡山延暦寺は宗教とは名ばかりで、ばりばり稼いでおり、坂本などの琵琶湖沿岸を中心に、高利貸や売春の斡旋などを手広く行っていた。
信長が行った経済政策とは相容れない存在であり、延暦寺が信長の敵対勢力と手を結ぶことは必然であった。

9月21日

浅井・朝倉連合軍、大津から逢坂を越えて山科まで接近する。(信長公記)

同日、信長も柴田勝家の進言を受け入れ、柴田勝家明智光秀村井貞勝らを京へ戻す。

9月22日

柴田勝家、浅井・朝倉連合軍が予想以上に大規模だったことを知り、急ぎ摂津へと戻り、信長自身の京都着陣を言上する

幕府御所への警護は4500人程だったようだ。(言継卿記)

9月23日

信長、野田・福島両砦の囲みを解き、一部の兵を抑えとして摂津に残して、子の刻(深夜0時ごろ)に京へ戻る

浅井・朝倉連合軍が比叡山に立て籠もり 志賀の陣

9月24日

信長、宿所の本能寺を発ち、近江坂本に下り、宇佐山城に入城。一方、信長来るの報に接した浅井、朝倉連合軍は比叡山に立て籠もった。ここから長い対陣が続く。=志賀の陣

なお、小競り合いはあり、朝倉方の前波景当が討死している。(言継卿記)

 (備考)比叡山に陣を張る浅井・朝倉を攻めるのは「愚」である。一つは山なので攻め上ると損害が大きいこと。もう一つは比叡山は京を鎮護する由緒正しい神聖な地であると広く認識されていたからだ。

志賀の陣はじまる
志賀の陣はじまる

9月27日

三好三人衆方の篠原長房細川真之三好長治十河存保ら、阿波、讃岐から2万の兵を引き連れて兵庫浦に上陸。

 (備考)和議など結んでいないため、信長が撤退してもいくさは続くのである。

9月28日

比叡山へ使者として赴いた梶井殿北坊三位、清水式部丞ら3名が坂中において討ち取られる。(言継卿記)

 (備考)戦国時代当時であっても、使者を斬り捨てるなどは言語道断の行為であるが、それほど浅井、朝倉も信長を憎んでいたのであろう。

織田方の摂津瓦林城、越水城が篠原らの軍に攻められて落城。
城主の瓦林三河守が討ち取られる。

9月29日

石山本願寺門跡の顕如、先の関白である近衛前久(西洞院殿)へ返書を認める。『顕如上人文案』

尊書令拜見候、抑當山御滯留之段、依御忍只今承様候、驚令存候、仍如蒙仰都鄙錯亂雖事舊候、當時信長恣之所行、且難堪次第候、随而條々御意之通過當之至候、於向後相應之儀、不可存疎意候、就中御太刀一腰、御馬一疋拜領尤珍重存候、彌御本意之上、重畳可得貴意候、此等之旨宜令洩申入給候、恐惶謹言
    九月廿九日    - -

    西洞院殿

  ○近衛殿へ御返礼 御牢人ニテ當所ニ御逗留

(書き下し文)
尊書拝見せしめ候。
そも当山御滞留の段、御忍びにより只今承り様に候。
驚き存ぜじめ候。
仍って仰せ蒙る如く、都鄙とひ錯乱を奮う事に候といえども、当時信長ほしいままの所行、且つ堪え難き次第に候。
従って条々御意の通り、過当の至りに候。
向後に於いて、相応えるの儀、疎意に存ずべからず候。
就中なかんずく、御太刀一腰・御馬一疋拝領、もっとも珍重に存じ候。
いよいよ御本意の上、重畳ちょうじょう貴意を得るべく候。
これらの旨、宜しく(令洩申入給候、 申し訳ありませんがここ読めません)
恐惶謹言きょうこうきんげん(以下略)

10月1日

三好三人衆方の篠原長房、細川真之、三好長治、十河存保らが野田砦、福島砦に入城する。

野田・福島の戦い終盤 三好三人衆らの行動
野田・福島の戦い終盤 三好三人衆らの行動

同日

石山本願寺門跡の顕如、篠原長房(右京進入道)へ誓詞の交換について記した書状を発給。『顕如上人文案』

今度渡海之儀――――――随而誓詞到來――――――從是賴總法印誓詞申付之候、光佐同前之事候、猶教行寺可有演說候也
    十月一日    —御判あり

    篠原右京進入道殿

今度渡海之儀尤珍重――――――仍太刀一腰、小袖五、馬一疋――――――猶下間丹後法印可申候也
    十月一日    — —
    篠原右京進入道殿

○大かた文章同前ニ、篠原孫四郎一腰、一疋、小袖三、篠原弾正忠一腰、一疋、小袖三、讃岐守殿太刀一腰、馬一疋、三好彦二郎殿太刀一腰、馬一疋、此両所へハ初而御書被遣之間祝儀迄也

(書き下し文)
この度渡海の儀、――――――従って誓詞到来――――――これより頼総法印(下間頼総)誓詞これを申し付け候。
光佐(顕如)同前の事に候。
なお教行寺演説有るべく候なり
    十月一日    —御判あり

    篠原右京進入道(篠原長房)殿

この度渡海の儀、もっとも珍重――――――仍って太刀一腰小袖五馬一疋――――――なお下間丹後法印(下間頼総)申すべく候也。
    十月一日    — —

    篠原右京進入道(篠原長房)殿

○大かた文章同然に、篠原孫四郎(篠原長重)に一腰・一疋・小袖三。
篠原弾正忠に一腰・一疋・小袖三。
讃岐守殿に太刀一腰・馬一疋。
三好彦二郎(三好長治)殿に太刀一腰・馬一疋。
この両所へは初めて御書を遣わさるの間、祝儀迄なり

10月20日

痺れを切らした信長は、朝倉義景に決戦を申し入れたが無視される。(信長公記)

 (備考)また比叡山延暦寺に対しても、「仏教勢力が一方に肩入れするのは良くない。せめて中立の立場をとってもらいたい」と伝えたが、これも無視された。

11月21日

伊勢長島の一向一揆が、織田信興籠る尾張小木江城を攻め落とす。 織田信興(彦七)は自刃する。 =小木江城の戦い(信長公記)

 (備考)このように信長の力の源である尾張でも予断を許さぬ事態が起きていた。信長も兵を退くにも退けず、緊迫した対陣が続いたのである。

兵農分離がそこまで進んでいないであろうこの当時、動員された農兵たちは、秋の刈り入れの為に全く国もとへ帰れなかった。士気は下がる一方で収穫も減り、不満が高まっていたであろうことは容易に推察できる。浅井・朝倉連合軍としても同じことであるが。

???

この時期に村井貞勝島田秀満、将軍家と距離の近い明智光秀らを動かして停戦和睦を画策したか。

 (備考)信長公記には朝倉義景から和睦の働きかけがあったとしているが、事の真相は信長から仕掛けたようである。
関連記事:【古文書講座】信長窮地 織田家と浅井長政・朝倉義景が和睦したときの書状

12月3日

石山本願寺門跡の顕如、陣中を見舞う旨の書状を朝倉義景(左衛門督殿)・同景鏡(式部大輔殿)・同景健(孫三郎殿)・武田治部少輔(孫犬丸カ)・前波藤右衛門・山崎長門守・前波七郎兵衛尉(吉充カ)・浅井長政(備前守殿)・浅井久政(下野守殿)・浅井亮親(石見守殿)・磯野員昌(丹波守殿)・中嶋日向守へ発給。『顕如上人文案』

態以一翰令啓達候、仍御在陣軍兵等窮困察申候、毎度被得勝利儀、誠以珍重存候、就中太刀一腰秀忠、馬一疋推進之候、表嘉儀計候、申談之旨、於無相違者此方不可有異變候、委細之趣、丹後法印可申入候、穴賢
   十二月三日  —御判

   朝倉左衛門督殿

(書き下し文)
わざと一簡を以て啓達せしめ候。
仍って御在陣軍兵等の窮困察し申し候。
毎度勝利を得らるの儀、誠に以て珍重と存じ候。
就中なかんずく太刀一腰(秀忠)・馬一疋これを推しまいらせ候。
嘉儀を表すばかりに候。
申し談ずるの旨、相違なきに於いては、此方こなた異変有るべからず候。
委細の趣き、丹後法印(下間頼総)申し入れるべく候。穴賢あなかしく(以下略)

態令啓候、仍其表御在陣、殊毎度被得軍利之儀、無比類候、随而太刀一腰、馬一疋進之候、表祝儀計候、委細太守江令申候、猶丹後法印可申伸候、穴賢
   十二月三日   —御判

   朝倉式部大輔殿

態染一章候、仍御在陣、毎度被得勝利候段、尤以珍重候、將又太刀一腰、馬一疋進之候、向後連々可申述候、委曲丹後法印可令申候、穴賢
   十二月三日  —御判

   朝倉孫三郎殿

態令啓候、仍連々御馳走之儀、恐悦至極候、就中太刀一腰、馬一疋進之候、表祝詞計候、復左衛門督殿御在陣、殊毎(度脱カ)被得勝利之儀、珍重候、彌可然様御取成可爲快然候、猶丹後法印可令申候間不能委細候、穴賢
  十二月三日  —御判

  武田治部少輔殿

於其表在陣之儀、殊毎度被得勝(利字脱歟)之由、珍重候、仍太守江以一札令啓候、時宜可被執成事専要候、次太刀一腰、馬一疋表祝儀計候、委細之旨、丹後法印可申越候也、
  十二月三日  —御判

  前波藤右衛門殿

其表在陣之儀、殊更毎々被得軍利之由、珍重此事候、仍太刀一腰、馬一疋表祝儀計候、委曲丹後法印可令演說候也、
  十二月三日  —御判

  山崎長門守殿

其表在陣之儀、殊毎度被得勝利之段、珍重不過之候、就中太守江以一札申候、藤右衛門被相談宜様、被成憑入候、次太刀一腰、馬一疋啓嘉悅計候、委曲丹後法印可申越候也、
  十二月三日  —御判

  前波七郎兵衛尉殿

態試一翰候、仍其表御在陣不能是非候、爰許之儀、中絕等可有之歟、可被得其意候、此方聊無如在候、彌自他以一味之上、可有調談事本懐候、委細之旨、丹後法印可令申候也、穴賢
  十二月三日  —御判

  浅井備前守殿

態令啓達候、先以其表堅固之儀、珍重候、備州長長御在陣、無是非候、爰元之儀、中絕之事等可在之歟、毎篇可被得其意候、兎角自他彌以入魂之上、可及調談候、尙向後法印可申越候間、御分別所希候也、穴賢
  十二月三日  —御判

  浅井下野守殿

始而染筆候、其表軍旅各勞煩無是非候、備州江以一札令啓候、宜様可被取成事怡悦候、猶丹後法印可申越候也、
  十二月三日  —御判

  浅井石見守殿

始而啓達候、仍其表城堅固之由、別而肝要之儀候、彌可下(被カ)廻壽策事可爲珍重候、委曲丹後法印可申述候也、
  十二月三日  —御判

  磯野丹波守殿

態一筆進之候、其許堅固之儀、殊備州在陣無是非事候、彌其邊之儀、可然様馳走此時莭□(候カ)、丹後法印可申越候也、
  十二月三日  —御判

  中嶋日向守殿

○右越前衆 江州北郡衆へ御直書事、路次不調之間、飛脚ヲ被越候、太刀、馬なとも文體ニハノセラレ候へとも、不被遣之さやうの始末、丹後書状ニ具可申遣之由、被仰付畢、使ニ□(別カ)に□□(かミカ)を被遣度由候つれ共、難成由ニ付而こゝ飛脚也、
越州衆へは只今はしめて被仰遣につきて、一腰、一疋被遣由被載之、 浅井父子へハ前ニも直書ヲ被遣候也、但其時も陣中御取亂ニ付而、中ニ一腰の沙汰にも不及候き、只今ハまツ一圓ニ被打置之也、浅井方ハ連に入魂之間たるにつきて、達而時宜に不立入分也、これも重而しづかに面向之御體儀等可有之由候也

(書き下し文)
○右、越前衆 江州北郡衆へ御直書の事。
路次調わずの間、飛脚を越され候。
太刀・馬なども文体には載せられ候へども、これを遣わされず左様の始末、丹後(下間頼総)書状につぶさに遣わし申すべきの由、仰せ付けられおわんぬ。
使いに別紙(?)を遣わされたき由に候つれども、成し難き由に付きて、ここ飛脚なり。
越州衆へは只今初めて仰せ遣わさるるにつきて、(太刀)一腰・(馬)一疋遣わさるるの由、これを載せらる。
浅井父子へは前にも直書じきしょを遣わされ候なり。
ただし、その時も陣中御取り乱るるに付きて、中に一腰の沙汰にも及ばず候き。
只今はまず一円にこれ打ち置かれるなり。
浅井方は連に昵懇の間たるにつきて、たっての時宜に立ち入らず分なり。
これも重ねて静かに面向の御体の儀等、これ有るべき由に候なり。

12月14日

正親町天皇および将軍・足利義昭の調停により、信長と浅井長政、朝倉義景が和睦する
信長は近江永原城に引き上げる。

12月16日

大雪中に軍を進め、佐和山の麓磯の郷に泊まる。

 (備考)停戦したことにより、千草峠を通って岐阜に帰る必要がなくなったのか、最短距離で佐和山を経由して帰っている。
なお、この時の佐和山城はまだ浅井領であった。

12月17日

信長、岐阜へと帰城。(信長公記、言継卿記)

 (備考)このようにして信長は当座の危機を脱することができた。
しかしながら、信長包囲網は今後より一層の結束を深める。
その後、信長と同盟関係だった甲斐の武田信玄が動き、さらに大和の松永久秀が裏切るなど、信長の天下統一は暗礁に乗り上げるのであった。

来世ちゃん
来世ちゃん

次は年が明けて元亀2年(1571)からですね。

信長の時代で一番面白いと思います。

次回も元亀の争乱 お楽しみに!

来世ちゃん
来世ちゃん

織田信長公の年表を御覧になりたい方は下記のリンクからどうぞ。

  1. 誕生~叔父信光死去まで(1534~1555)
  2. 叔父信光死去~桶狭間の戦い直前まで(1555~1560)
  3. 桶狭間の戦い~小牧山城移転直後まで(1560~1564)
  4. 美濃攻略戦(1564~1567)
  5. 覇王上洛(1567~1569)
  6. 血戦 姉川の戦い(1570 1.~1570 7.)
  7. 信長包囲網の完成(1570 7.~12.) イマココ
  8. 比叡山焼き討ち(1571 1.~9.)
  9. 織田信重(信忠)の初陣(1571 9.~1572 9.)
  10. 武田信玄 ついに西上作戦を開始する(1572 9.~1572 12.)
  11. 将軍・足利義昭の挙兵と武田信玄の死(1573 1.~1573 4.)
  12. 将軍追放 事実上の室町幕府滅亡(1573 5.~1573 7.)
  13. 朝倉・浅井家滅亡(1573 8.~1573 10.)

画像については順次少しずつ足していきます(^-^;

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