織田信長の年表ちょっと詳しめ 将軍・足利義昭がついに挙兵

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織田信長の年表ちょっと詳しめ 将軍・足利義昭がついに挙兵
来世ちゃん
来世ちゃん

こんばんはー。
今回は武田信玄が甲斐へと退却したところから将軍・足利義昭と和睦をするところまでです。
信長は上洛以降最大の窮地から一転、挙兵した足利義昭の討伐へと踏み込みます。

それでは、今回は元亀4年(1573)正月からはじめる。

(ここまでの流れ)

  1. 誕生~叔父信光死去まで(1534~1555)
  2. 叔父信光死去~桶狭間の戦い直前まで(1555~1560)
  3. 桶狭間の戦い~小牧山城移転直後まで(1560~1564)
  4. 美濃攻略戦(1564~1567)
  5. 覇王上洛(1567~1569)
  6. 血戦 姉川の戦い(1570 1.~1570 7.)
  7. 信長包囲網の完成(1570 7.~12.)
  8. 比叡山焼き討ち(1571 1.~9.)
  9. 義昭と信長による幕府・禁裏の経済改革(1571 9下旬~1571.12)
  10. 元亀3年の大和動乱(1572 1.~1572.6)
  11. 織田信重(信忠)の初陣(1572 7.~1572 9.)
  12. 武田信玄 ついに西上作戦を開始する(1572 9.~1572 12.)
  13. 将軍・足利義昭の挙兵と武田信玄の死(1573 1.~1573 4.) ←イマココ
  14. 将軍追放 事実上の室町幕府滅亡(1573 5.~1573 7.)
  15. 朝倉・浅井家滅亡(1573 8.~1573 10.)
  16. 三好義継の最期(1573 10.~1573 12.)

この年表の見方

  • 当サイトでは、信長の人生で大きな転換期となった時代時代で、一区切りにしている
  • 他サイトや歴史本、教科書で紹介されている簡単な年表に書いている内容は、赤太文字
  • 年代や日付について諸説ある場合は、年代や日付の個所に黄色いアンダーライン
  • 内容に関して不明確で諸説ある場合は、事績欄に黄色いアンダーライン
  • 当時は数え年であるから、信長の年齢は生まれた瞬間を1歳とする。誕生日についても詳細不明のため、1月1日で1つ歳を取る
  • 太陽暦、太陰暦がある。当サイトでは、他のサイトや歴史本と同じように、太陰暦を採用している。中には「」なんていう聞きなれないワードがあるかもしれないが、あまり気にせず読み進めていってほしい
  • キーとなる合戦、城攻め、政治政策、外交での取り決めは青太文字
  • 翻刻はなるべく改変せずに記述した。そのため、旧字や異体字が頻繁に登場する。しかしながら、日本語IMEではどうしても表記できない文字もあるため、必ずしも徹底しているものではない。
  • 何か事柄に補足したいときは、下の備考欄に書く

元亀4年(1573)

40歳

この年の7月28日に「天正」と改元。

武田軍の進撃が止まる

1月1日

村上義清没。享年73。『兼見卿記』『満泉寺過去帳』など

1月2日

武田方の穴山信君、浅井家の被官である多胡惣右衛門尉に書状を送る。『武家手鑑』
内容は

  1. 遠江、三河へ出陣し、諸城を攻略したこと。
  2. 三方ヶ原の合戦で徳川勢を打ち破ったこと。
  3. 浅井家の被官にその模様を検分させたこと。

などを通達したものだった。

 (備考)多胡氏はのちに信長に降伏する。
同年8月16日付で信長から山々の砦破却を条件に所領を安堵されている。『田胡家由来書(天正元年八月十六日付織田信長朱印状写)』

1月3日

武田氏の臣山県昌景(山縣三郎右兵衛尉)、三河大恩寺に禁制を下す『大恩寺文書』

 (信玄朱印) 高札     大恩寺
當寺甲乙軍勢、於彼寺中不可濫妨狼藉、若背此旨者、可被行厳科者也、仍如件、
   元亀四年
     正月三日              山縣三郎右兵衛尉
                      奉之、

(書き下し文)
 (信玄朱印) 高札     大恩寺
当寺甲乙軍勢、かの寺中に於いて乱妨狼藉すべからざる。
もしこの旨背かば、厳科にせらるべきものなり。仍ってくだんの如し。(以下略)

1月4日

柴田勝家(修理亮)、尾張の豪商伊藤惣十郎へ諸商人司の件で織田信長御朱印の遵守を指示する。『寛延旧家集』・「金鱗九十九之塵 第十八』・『名古屋叢書 六』(元亀四年正月四日付柴田勝家奉書写)

尾濃両国諸商人司之事、御朱印頂戴、目出候、誰々雖為家来、任被仰出旨、令裁許尤候、恐々謹言

  元亀四    柴田修理亮
   正月四日    勝家御判
    伊藤宗十郎殿
        進之候

(書き下し文)
尾(尾張)・濃(美濃)両国の諸商人司の事、御朱印頂戴、めでたく候。
誰々家来たりといえども、仰せださる旨に任せて、裁許せしめ尤もに候。恐々謹言(以下略)

1月5日

公家の中山親綱、左近衛権中将となり、蔵人頭に任ぜられる。『文武諸官宣旨』『歴名土代』『御湯殿上日記』

1月6日

大隅国末吉の戦い起きる。
肝付兼亮が末吉を攻めるも、島津義久の臣北郷父子が同国住吉原でこれを破り、さらに松山へ進軍して肝付勢を多数討ち取る。『御湯殿上日記』『肝付氏系図文書写 二』など

1月10日

公家の吉田兼右かねみぎ没。享年58。『兼見卿記』『公卿補任』


十日、壬辰、神祇大副兼右兵衛督從二位吉田兼右薨ズ、

   『公卿補任 五十』

 (備考)『兼見卿記』を著した吉田兼和(兼見)によると、患い始めたのが昨年9月27日。
11月26日には近江の山岡景佐が見舞いに来ている。
翌元亀4年正月3日・4日から重体に陥り、名医の半井驢庵・曲直瀬道三の診察も空しく、「御室」へ五ヶ条の遺言を託して亡くなった。
これらの『兼見卿記』の抜粋は、『大日本史料 第十篇之十三』によくまとめられている。

同日

石山本願寺門跡の顕如、武田信玄(法性院)へ戦勝を祝す旨の書状を発給。『顕如上人御書札案留』

於遠州表徳川敗北之様體頻其聞候、尤珍重不可過之候、猶以御行之趣可承事本望候、委細賴充法眼可申入候、— —
   正月十日   — —

   法性院殿

(書き下し文)
遠州表に於いて徳川敗北の様躰(ようだい)、頻りにその聞こえに候。
尤も珍重これに過ぐべからず候。
なお以ておんてだての趣き、承るべきの事本望に候。
委細頼充法眼(下間頼充)申し入るべく候。(以下略)

1月15日

織田信長、山城国の狛左馬進へ書状を送る。『狛文書(丹波柏原狛忠雄氏所蔵文書)』・『古文書慕 三』

為年頭之慶事、板物表薄五端、祝着ニ候、旧冬知行分朱印遣之、家来之内四人幷延命寺事、存分ニ可被申付候、弥忠節簡要ニ候、恐々謹言

  正月十五日   信長(黒印)
   狛左馬進殿

(書き下し文)
年頭の慶事として、板物(いたもの)表(薄)五端、祝着に候。
旧冬知行分の朱印を遣わす。
家来のうち四人並びに延命寺の事、存分に申し付けらるべく候。
いよいよ忠節肝要に候。恐々謹言(以下略)

1月17日

石山本願寺門跡の顕如、武田信玄(法性院)へ宛て、武田よりの要請の通り東海4ヶ国の門徒を蜂起させること。さらに朝倉義景の件について記した書状を発給。『顕如上人御書札案留』

貴翰之通具以披見申候、抑十二月廿二於遠州濵松表被及一戰、即時徳川敗軍數輩被討捕由、御調略之至不可有比類候、大慶此事候、随而四ヶ國門下之族、可致其働由申越候、聊無如在候、次義景被申越子細有之、先日献一封候き、御報待入候、猶上野法眼可申入候間、不能詳候、
   正月十七日 — —

   法性院殿

(書き下し文)
貴簡の通りつぶさに披見を以て申し候。
そもそも十二月二十二、遠州浜松表に於いて一戦を及ばれ、即時徳川敗軍、数輩討ち取らるるの由、御調略の至り比類有るべからず候。
大慶この事に候。
従って四ヶ国門下のやから、その働き致すべきの由、申し越し候。
いささかも如在無く候。
次いで義景(朝倉義景)申し越さる子細これ有り、先日献一封候き。
御報を待ち入り候。
なお上野法眼(下間頼充)申し入るべく候間、詳らかには能わず候。(以下略)

1月18日

幕臣の細川藤孝と上野秀政、将軍の面前で口論。『細川家記』

この頃

細川藤孝、鹿ケ谷に蟄居する。
義昭は驚いて召出すと、藤孝は三ヶ条の諫言を述べる。
『細川家記』

 (備考)これは細川家の歴史だけに見え、他に裏付けるものはない。

1月20日

信長、側近の毛利良勝(新介)を使者として遠江へ遣わし、徳川家臣の戸田直頼(又兵衛)に三方ヶ原の合戦で奮闘したことを慰労し、今後も防備に力を尽くすことを依頼する。『諸家感状録 廿六(正月二十日付織田信長判物写)』

今度浜松表不慮之為躰候、其方進退之事、此節ニ候、別而馳走簡要候、人数も拘置、可被相励候、領知之儀も随分可相達候、猶毛利新介可申候、謹言

  正月廿日   信長
   戸田又兵衛殿

(書き下し文)
このたび浜松表不慮のていたらくにて候。
其方進退の事、此節に候。
別して馳走肝要に候。
人数等もかかえ置き、相励まるべく候。
領知の儀も随分相達すべく候。
なお、毛利新介(良勝)申すべく候。謹言(以下略)

 (備考)三方ヶ原の合戦は、昨年12月22日に徳川家康が武田信玄と戦い、命からがら逃げかえった合戦のこと。
戸田又兵衛(直頼)は三河田原城の戸田宗光二男。
三方ヶ原の戦いでは徳川家康に従い、力戦したようだ。『寛政重修譜家譜』
信長は直頼の功を労い、家康に今後の対応を指示した。

1月27日

石山本願寺門跡の顕如、越前の朝倉義景(左衛門督殿)へ現在の情勢を知らせる書状を発給。『顕如上人御書札案留』

別帋之御狀令被覽候、自信玄遠三尾濃門下之輩働事、貴邊へ被申越由承候、切々申付樣候、雖然時宜見合儀ニ候間、其遲速之段者不及了簡候、三州之儀も、勝万寺近日令進發由申來候、濃州表之儀者、舊冬勢州長嶋より申付、濃州之内ニ新要害を相構、日根野備中守入置候、岐阜與其間三里有之所ニ候、日ニ及行由候、將亦越中表之儀者、越後勢爲押加州衆罷在候處、輝虎自身令出馬于今彼表ニ在陣候、随分方々申付候、聊無油斷候、次江北表之儀、如御存知浅備無人ニ付而、門下之者竭粉骨樣候、猶委細下間上野可申入候、右之通以御分別可有演說事専用候、此方へも細々信玄直札到來、飛脚等上下度々事候間、萬端申談候、於遠州表極月廿二日合戦、甲州衆無比類働不及是非次第候、大慶此事候、尙追々可申展候、— —
   正月廿七日

   左衛門督殿

(書き下し文)
別紙の御状被覧せしめ候。
信玄より遠・三・尾・濃門下の輩働く事、貴辺へ申し越さるの由承り候。
切々申しつくるの様に候。
然れども時宜を見合わすの儀に候間、それ早速の段は了簡に及ばず候。
三州の儀も、勝万寺近日進発せしむるの由、申し来たり候。
濃州表の儀は、旧冬勢州長嶋より申し付け、濃州の内に新要害を相構、日根野備中守を入れ置き候。
岐阜とその間三里これ有る所に候。
日にてだてを及ぶの由、はたまた越中表の儀は、越後勢加州衆を押すため罷り在る候ところ、輝虎(上杉謙信)自身今に出馬せしめ、かの表に在陣候。
随分の方々申し付け候。
いささかも油断無く候。
次いで江北表の儀、御存知の如く浅備(浅井長政)無人に付きて、門下の者粉骨を尽くすの様に候。
なお、委細下間上野(下間頼充)申し入るべく候。
右の通り御分別を以て演説有るべきの事、専要に候。
此方こなたへも細々信玄の直札到来、飛脚等上下たびたび事に候間、万端申し談じ候。
遠州表に於いて極月二十二日の合戦、甲州衆比類無きの働き、是非に及ばず次第に候。
大慶この事に候。
尚追々申し述ぶべく候(以下略)

同日

石山本願寺門跡の顕如、越前の朝倉義景(左衛門督殿)へ丹波衆の件についての書状を発給。『顕如上人御書札案留』

御札之趣令披見候、荻野惣右衛門京表之儀承候、丹波勢之働年來無差儀候、殊國侍奥口共以不和之國ニ候条、難事ト候歟、不足信用候、其上者兵糧之儀、不及其沙汰事候、但三好家被相談、於事調物可爲珍重候、尙賴充法眼可申入候、— —
   正月廿七日

   左衛門督殿

(書き下し文)
御札の趣き披見せしめ候。
荻野惣右衛門(荻野直正)京表の儀、承り候。
丹波勢の働き、年来差し無き儀候。
殊に国侍奥・口共、不和の国に候条、難事と候か。
信用に足りず候。
その上は兵糧の儀、その沙汰に及ばざる事に候。
但し三好家と相談ぜられ、事に於いて調物(ちょうもつ)珍重たるべく候。
なお頼充法眼申し入るべく候。(以下略)

(備考)
朝倉義景は荻野一派に期待を寄せているのに対し、本願寺は冷めた見方をしているのが非常に興味深い。
なお、同日付で他に年賀の挨拶を記した書状がある。

2月6日

山城国愛宕郡の静原城主の山本対馬守・一乗寺城主の渡辺宮内少輔くないのしょうふ・磯谷久次(新右衛門)が明智光秀と決別。『兼見卿記』

 (備考)この三名はいずれも幕臣で明智光秀の与力となっていた。
同年2月13日に足利義昭が挙兵するが、それに従ったのだろう。
信長が岐阜に留まり兵を出さないのは、武田信玄の動向に神経をとがらせていたからだろう。

同日

石山本願寺門跡の顕如、越前の朝倉義景(左衛門督殿)へ武田信玄(法性院)の伝言を伝え、重ねて江北への再出陣を要請。『顕如上人御書札案留』

態染禿筆候、仍自法性院嚴札從是可令傳達由候、慥可被遂御披見候、然三州野田儀、自身被取詰落城不可有程由候、就中江北表御歸國之儀、兼而御催促之筈相違候へ者、天下外聞等無其曲由候間、火急御出馬肝要候、越中表之備彌第一之由候條、猶以堅申下候、先日示給廻帖にも具令申候き、今叉法性院依來札重如此令啓達候、委細之趣賴充法眼可申入候、御同心所希候、— —
   二月六日  — —

   左衛門督殿

(書き下し文)
わざと筆を禿染め候。
仍って法性院(武田信玄)よりの厳札これより伝達せしむべき由に候。
確かに御披見を遂げらるべく候。
然り三州野田の儀、自身取詰められ、落城程有るべからずの由に候。
就中なかんずく江北表御帰国の儀、兼ねて御催促の筈、相違い候へば、天下外聞等その曲がり無き由に候間、火急に御出馬肝要に候。
越中表の備え、いよいよ第一の由に候条、猶以て堅く申し下し候。
先日示し給い廻状にも、つぶさに申しせしめ候き。
今また法性院より重ねて来札、かくの如く啓達せしめ候。
委細の趣き、頼充法眼(下間頼充)申し入るべく候。
御同心希む所に候。(以下略)

2月7日

武田信玄、三河野田城を攻略。=野田城の戦い

 (備考)『甲陽軍鑑』では野田城の攻略は2月16日とある。

2月9日

足利義昭、上野信恵(佐渡守)を使者として安芸へ派遣し、毛利輝元に右馬頭うまのかみに任ずる旨を通達。『毛利家文書』

2月10日

佐久間信盛(右衛門尉)、豪商の伊藤惣十郎へ尾張美濃両国の商人司役の件で信長朱印を遵守し、たとえ誰の家来であっても税の徴収を行うことを指示。『寛延旧家集』・『金鱗九十九之塵 巻第十八』・『名古屋叢書 六』(元亀四年二月十日付佐久間信盛折紙写)

 (備考)昨年十二月二日付朱印状に対する折紙案。

同日

山本対馬守、渡辺宮内少輔、磯谷久次が近江の国へ布陣。
公家の吉田兼和、彼らの預物を拒絶。『兼見卿記』

2月11日

吉田兼和、明智光秀(十兵衛)へ見舞の使者を派遣。『兼見卿記』

足利義昭がついに挙兵

2月13日

将軍・足利義昭が挙兵。
朝倉義景(左衛門督)・浅井久政(下野守)・長政(備前守)父子らに御内書を送り、打倒信長の檄を飛ばすとともに、光淨院暹慶こうじょういんせんけい(後に還俗し山岡景友)に命じて挙兵させる。『細川家記』・『信長公記』・『上杉家文書』・『毛利家文書』など

光淨院暹慶は南近江や伊賀・甲賀の国人らに合力を呼びかけ、近江石山・今堅田に砦を築いた。

 (備考)磯谷久次は息子が元服の際には明智光秀に命名を依頼するなど、特に光秀とは親しかった。
光秀にとって、彼らの謀叛は全く予想外のことだったようだ。
光秀もまた幕臣だが、この時期になると完全に吹っ切れていたと見え、完全に織田方の武将として活動している。た、再三にわたって織田信長に将軍や京都の情勢を細かく通達したのは同じく幕臣の細川藤孝だった。

足利義昭は武田軍が引き上げを開始したことを露ほども知らなかったようである。

関連記事:大河ドラマとなる明智光秀の生涯をなるべく詳しく(2)

2月16日

山城国土豪の革島秀存、細川藤孝に起請文を差し出して忠誠を誓う。『革島文書』元亀四年二月十六日付革島秀存起請文案

拙者事、向後共以無二
覚悟可致忠莭候、聊表裏別心
不可在之候、自然敵方又者、
自何方
計略之子細、於ハ在之者、
有様可申入候、少
偽申者、

 敬白灵社起請文事、

  元亀四年二月十六日 革島市介
               秀
細川兵部大輔殿
      参

(書き下し文)
拙者の事、向後共に無二の覚悟を以て忠節致すべく候。
いささかも表裏別心これあるべからず候。
自然敵方または、いずれかたよりも計略の子細これあるに於いては、有様を申し入るべく候。
少しも偽り申すは
 敬白霊社起請文の事(以下略)

 (備考)
葛野郡革島庄の土豪である革島秀存が細川藤孝に提出した起請文の自筆写である。
この文書は京都府立京都学・歴彩館に所蔵されており、重要文化財に指定されている。
この時期の足利将軍家と織田信長との間に揺れる革島氏の動向が非常に興味深い。

2月17日

三河に進撃中の武田信玄、病状悪化により撤退を開始。『細川家記(二月二十三日付織田信長黒印状)』

同日

足利義昭、吉田社の吉田兼和に二条御所の堀普請を命じる。『兼見卿記』

2月20日

信長、将軍討伐の為に柴田勝家(修理亮)、明智光秀(十兵衛)、丹羽長秀(五郎左衛門)、蜂屋頼隆(兵庫頭)に出陣を命じる。『信長公記』・『細川家記』

2月22日

吉田兼和、二条御所普請に人足40人を派遣。
また、将軍義昭は吉田社に鉄砲の材料として灰木10束の徴発を命ず。『兼見卿記』

同日

信長からの使者として村井貞勝(民部少輔)、島田秀満(但馬守)、松井友閑ゆうかんが京都に到着し、朝山日乗とともに公方に和睦を提案する。
信長から人質を出して起請文(誓紙)の提出を言上するも、悉く却下されて和議はならず。『兼見卿記』・『信長公記』

 (備考)2月23日付の織田信長書状には、和睦の条件を呑んだとしているのが気になるところではある。
単なる認識の違いか。

2月23日

信長、細川藤孝へ全7ヶ条の条書を送る。『細川家記(二月二十三日付織田信長黒印状)』

  (端裏切封)
  「(墨引)
  (端裏ウハ書)
  「細川兵部太輔殿 信長」

 公儀就御逆心、重而条目祝着不浅候、

一、塙差上御理申上候、上意之趣、条々被成下候、一々御請申候、幷塙可差上処ニ眼相煩ニ付て友閑、嶋田を以申上候、質物をも進上仕、京都之雑説をも相静、果而無疎意通可被思食直候歟、

一、摂州辺之事、荒木対信長無二之忠節可相勤旨尤候、

一、和田事、先日此方へ無疎略趣申来候、若者ニ候之間被引付、御意見専一候、

一、伊丹事、敵方へ申噯之由候、就之和田令意見之由神妙候、此節之儀者、一味候様ニ調略可然候歟、

一、石成事、連々無表裏仁之由聞及候、今以不可有別条候哉、能々相談候て可然候、

一、無事相破候上ニハ、敵方領中分誰々も先宛行、被引付簡要ニ候、

一、遠三辺之事、信玄野田表去十七日引散候、幷志賀辺之事、一揆等少々就蜂起、蜂屋、柴田、丹羽出勢之儀申付候、定可為渡湖候、成敗不可入手間候、世間聞合可申付ため、近日至佐和山先可罷越かと存候、不図遂上洛、畿内之事平均ニ可相静段案中ニ候、連綿入魂無等閑通、此節相見候、弥才覚不可有御油断候、恐々謹言

  二月廿三日   信長(黒印)

(書き下し文)
 公儀御逆心に就きて、重ねての条目祝着浅からず候。
一、ばん(直政)を差しのぼ御理おんことわりを申し上げ候ところ、上意の趣き、条々成し下され候。
一々御請け申し候。
並びに塙(直政)を差しのぼすべきところに眼を相煩うに付きて、友閑ゆうかん(松井友閑)・嶋田(島田秀満)を以て申し上げ候。
質物しちもつをも進上仕り、京都の雑説ぞうせつをも相静め、果たして疎意無きの通りに思し直さるべく候か。
一、摂州辺りの事、荒木(村重)は信長に対して無二の忠節を相励むべきの旨、尤もに候。
一、和田(惟長)の事、先日こなたへ疎略なきの趣き、申し来たり候。
若者に候の間、引きつけられ、御意見専一に候。
一、伊丹(忠親)の事、敵方へ申しあつかうの由に候。
これに就きて和田(惟長)に意見せしむるの由、神妙に候。
この節の儀は、一味候ように調略然るべく候か。
一、石成(友通)の事、連々表裏なきの仁の由に聞き及び候。
今もって別条あるべからず候哉。
よくよく相談候て然るべく候。
一、無事相破れ候上には、敵方の領中分、誰々も先ず宛行あてがい、引きつけらるること簡要に候。
一、遠(遠江)・三(三河)辺の事、信玄(武田信玄)野田表にて、去る十七日に引き散し候。
並びに志賀辺の事、一揆など少々蜂起に就き、蜂屋(頼隆)・柴田(勝家)・丹羽(長秀)出勢の儀、申し付け候。
定めて渡湖たるべく候。
成敗に手間入るべからず候。
世間を聞き合わせ申し付くべきため、近日佐和山に至ってまず罷り越すべきかと存じ候。
ふと上洛を遂げ、畿内の事、平均に相静むべき段、案中に候。
連綿昵懇等閑なきの通り、この節相見え候。
いよいよ御油断あるべからず候。恐々謹言
(元亀四年1573)二月二十三日(以下略)

 (備考)
この時信長は岐阜に居て、細川藤孝からの詳細な情報を受けていた。『細川家記』
おおまかに現代語訳すると

  • 塙直政を京へ遣わして和睦を申し入れたところ、公方様からの条件を呑むことにした。
  • 塙が眼疾を患ったので、代わりに松井友閑と島田秀満を遣わした。
    信長からは人質を進上仕る。
    これで京都は平穏を取り戻し、義昭様との関係も修復できるだろうか。
  • 荒木村重は忠節を誓っている。
  • 和田惟長も逆意無いことを自ら申し入れてきた。
    彼はまだ若年ゆえ、いろいろと指南してやることが重要だ。
  • 伊丹忠興は敵方となったが、和田惟長が意見しているとのこと神妙である。
    今の時点でこちらに味方するよう戦略を練った方がよいだろうか。
  • 石成友通は信用できる人物だと聞いている。
    互いによく相談した方がよいだろう。
  • もし和平が破れたならば、敵対者へ所領安堵を餌に調略することが肝要だ。
  • 三河遠江では、武田信玄が17日に野田を撤退した。
    志賀郡(近江)で少々一揆が蜂起した。
    蜂屋頼隆・柴田勝家・丹羽長秀に出陣を命じ、渡河させたので、成敗するのにさほど手間はかからないだろう。
    情報の収集や指示を出すために佐和山(近江)まで出向くつもりだ。
    不日に上洛して、畿内を平定する考えでいる。

である。

石山・今堅田の戦い

2月24日

柴田らの軍勢、勢多を渡海し光淨院暹慶の籠る近江石山城を攻撃。
足利方は伊賀、甲賀の衆を味方に加えて激しく抵抗する。『信長公記』

???

信長、山城国大徳寺へ返礼の黒印状を送る。『大徳寺文書(二月二十四日付織田信長黒印状)』

為青陽慶事、銀子十両珎重候、懇情之至候、近日可為上洛之条、期其節抛筆候、恐惶謹言

        弾正忠
  二月廿四日   信長(黒印)
 大徳寺
   尊答

(書き下し文)
青陽の慶事として、銀子十両珍重に候。
懇情の至りに候。
近日上洛たるべきの条、その節を期し、筆をなげうち候。恐惶謹言

 (備考)
年次は不明。
谷口克広氏の見解によると元亀2年(1571)~天正2年(1574)の間の2月26日。
もっとも可能性が高いのはこの年であろうとしている。
織田信長が京都を焼き討ちにするのはこの年4月のこと。
ただならぬ気配を感じて銀子10枚を贈ったのかもしれない。
しかしながら、禁制や制札の類が現存しないので、傍証が必要だろう。

2月26日

光淨院暹慶が降伏し石山城陥落。
石山城を破却する。『信長公記』

  (備考)石山城はまだ普請の途中だったらしく、防御が整わない状況だったらしい。

同日

信長、細川藤孝へ返書を送る。『細川家文書(二月二十六日付織田信長朱印状)』

 猶以、朱印遣候ハんかた候者、可承候、只今内藤かたへ折帋遣之候、さてもゝゝゝ如此為躰不慮之次第ニ候、今般被聞召候へハ、天下再興候歟、毎事不可有御油断候、替趣も候者、追々可承候、

京都之模様其外具承候、令満足候、今度友閑、嶋田を以御理申半候、依之条々被仰下ニ付て、いつれも御請申候、然者奉公衆内不聞分仁躰、質物之事被下候様にと申候、此内ニ其方之名をも書付候、可被得其意候、此一儀不相済候者、可随其上意、何以難背候間、領掌仕候、此上者信長不届にて、不可有之候、此方隙開候間、不図遂上洛、可属存分候、其方無二之御覚悟、連々無等閑令入魂処、相見候、荒木、池田其外いつれも対此方無粗略、一味之衆へ才覚簡要ニ候、恐々謹言

 二月廿六日   信長(朱印)

 (切封)
 「(墨引)」
 (ウハ書)
 「細川兵部大輔殿  信長」

(書き下し文)
京都の模様その他つぶさに承り候。
満足せしめ候。
このたび友閑(松井友閑)・嶋田(島田秀満)を以て御ことわり申す半ばに候。
これにより条々仰せくださるるに付きて、いずれも御受け申し候。
然らば奉公衆のうち聞き分けざる仁体じんてい、質物の事を下され候様にと申し候。
この内にそなたの名をも書き付け候。
その意を得らるべく候。
この一儀、相済まず候はば、その上意に従うべし。
いずれも以って背き難く候間、了承仕り候。
この上は信長不届きにて、これあるべからず候。
こなた暇開き候間、ふと上洛を遂げ、存分に属すべく候。
そなた無二の御覚悟、連々等閑とうかんなく、昵懇せしむるのところ、相見え候。
荒木(村重)・池田(勝正?)その他いずれもこなたに対して粗略なく、一味の衆へ才覚簡要に候。恐々謹言

 なおもって、朱印遣わし候はんかた候はば、承るべく候。
ただいま内藤かたへの折紙遣わし候。
さてもさてもかくの如きていたらく、不慮の次第に候。
今般聞こし召し直され候へば、天下再興候か。
毎事御油断あるべからず候。
替わる趣きも候はば、追々承るべく候。(以下略)

2月27日

足利義昭の陣営についた三好義継と松永久秀、細川昭元(右京兆)籠もる摂津中嶋城を攻める。
昭元は堺へ退去。
城は死守できた模様。『細川家文書(三月七日付織田信長黒印)』

 (備考)当記事3月7日の項5条目・7条目を参照。

同日

(参考)石山本願寺門跡の顕如、武田信玄(法性院)へ以下の内容に近い書状を発給か。『顕如上人御書札案留』

 十六日
仲春嚴札具遂披覽候、野田城落居、就其被越飛脚段、御梱情之至候、随而城主並松平同名已下之凶徒三百餘人被生捕、巳信州へ被遣由、所々卽時被責伏任存分之趣、古今無比類事候歟、千萬々々珍重候、越前衆之儀、被對義景御札爲其届則遣使者、彼出馬見立可罷歸由申付候、其一左右到來候者、不日以使者可進之候、當春及度々大雪人馬通路難叶様候由候、雖然廿六日可爲出馬由、從方々申來候、兎角不可有程候、次越中表之儀承候、兼而杉浦ニ御約談之旨有之歟、然者以其筈信州へ者急ニ軍兵を被差越越後口可被成御行候、御自身之儀者、於其表有御出陣彌被廻御計策、敵國之儀可被打果段此刻候哉、江州西路事當門家中慈敬寺以調略屬本意候、委細爰許之様子賴充可申入候、— —
   二月廿七日  — —

   法性院

○これハ彼方より飛脚來候、其返札也、文章事案文紛失候て、大かた覺之分書之、少つヽ相違之所可在之

(書き下し文)
仲春の厳札(十六日)つぶさに被覧を遂げ候。
野田城落居、それに就きて飛脚を越さるるの段、御懇情の至りに候。
従って城主並びに松平同名以下の凶徒三百余人を生け捕られ、巳信州へ遣わさるの由、所々即時に攻め伏され、存分に任すの趣き、古今比類無き事に候か。
千万千万珍重に候。
(被對義景御札爲其届則遣使者、 申し訳ありませんがここ読めません)
かの出馬の見立て罷り帰るべきの由、申し付け候。
それ一左右いっそう到来候はば、不日に使者を以てこれをまいらすべく候。
当春、たびたび大雪に及び、人馬通路叶え難き様に候由に候。
然れども、二十六日出馬たるべきの由、方々より申し来たり候。
とかく程有るべからず候。
次いで越中表の儀、承り候。
兼ねて杉浦(杉浦玄任)に御約談の旨これ有るか。
然らばその筈を以て、信州へは急に軍兵を差し越され、越後口へおんてだてを成さるべく候。
御自身の儀は、その表に於いて御出陣有り。
いよいよ御計策を廻され、敵国の儀打ち果たさるべきの段、このきざみに候
江州西路の事、当門家中慈敬寺の調略を以て、本意に属し候。
委細爰許ここもとの様子、頼充(下間頼充)申し入るべく候。

○これは彼方より飛脚来たり候。
その返札なり。
文章事案文紛失に候て、おおかた覚えの分、これを書く。
少しずつ相違の所これあるべし。

この頃

足利義昭の陣営についた伊丹忠親(伊丹城主)、摂津加島城(賀嶋城)を陥れる。『細川家文書(三月七日付織田信長黒印状)』

 (備考)当記事3月7日の項9条目を参照。

2月29日 辰の刻(午前9~11時)

柴田らの軍勢、近江今堅田いまかただ城へ攻め込む。=今堅田城の戦い『信長公記』・『細川家文書』など

 (備考)明智勢が囲い舟より東から攻め上り、丹羽・蜂屋勢が辰巳角たつみかど(=東南)より攻め立てる。

同日 午の刻(午前11~13時)

明智勢が一番乗りを果たして今堅田城はわずか数時間で落城。
幕臣の千秋輝季(刑部少輔)ら討死。『信長公記』・『兼見卿記』

 (備考)幕府側の戦いぶりが不甲斐ないためなのか、京童たちが洛中に落書らくしょ(おとしがき=政治風刺、批判を目的に匿名で世に知らしめること。歌形式で晒すことが流行ったことから落首ともいう)を立てた。

同日

信長、細川藤孝(兵部大輔)に全12ヶ条の条件を了承する旨の返書を送る。『細川家文書(元亀四年二月二十九日付け織田信長書状)』

(元亀四年二月二十九日付け織田信長書状)a+書き下し文
(元亀四年二月二十九日付け織田信長書状)b+書き下し文

『細川家文書(元亀四年二月二十九日付け織田信長書状)』

 (備考)具体的な内容を記事にしたことがあるので、詳しくは以下の記事をご参照いただきたい。
関連記事:【古文書講座】将軍義昭挙兵 和平を望む信長が細川藤孝に宛てた書状を解読

3月5日

石山本願寺門跡の顕如、越前の朝倉義景(左衛門督殿)へ以下の書状を発給。『顕如上人御書札案留』

御札兩通令披見候、仍京都之儀、先度被差越大藏院之旨趣、法性院尋遣候、返事未令到來候、但貴邊へ條數之内有之由承候、其上者無是非候歟、然處已御色立之由被仰下通示給候、爰元之儀聊無油斷候、早々御出馬此節候、委細賴充可申入候間不能詳候、— —
   三月五日  — —

   左衛門督殿

(書き下し文)
御札ぎょさつ両通披見せしめ候。
仍って京都の儀、先度差し越され、大蔵院の旨趣ししゅ、法性院(武田信玄)へ尋ね遣わし候。
返事未だ到来せず候。
ただ貴辺へ条数の内これ有るの由承り候。
その上は是非無く候か。
然るところ、已御色立の由仰せ下さる通り示し給い候。
爰元ここもとの儀、いささかも油断無く候。
早々の御出馬この節に候。
委細頼充(下間頼充)申し入るべく候間、詳らかには能わず候(以下略)

 (備考)
顕如が武田の動向がおかしいことに気づき始めているようだ。

3月6日

足利義昭、織田信長に人質を返す。
しかし、なおも戦う意思を示し、二条御所の堀普請を押し進める。

 (備考)誰が人質になっていたのかは不明。

同日

島田秀満父子、吉田神社に参詣する。
この時、秀満は吉田兼和に何かを相談(通達?)したようだ。『兼見卿記』

3月7日

信長、細川藤孝へたびたびの畿内情勢を知らせてくれたことを謝し、全17ヶ条に及ぶ条書を送る。『細川家文書(三月七日付織田信長黒印状)』

(端裏切封)
(墨引)

(端裏ウハ書)
「細兵殿 弾」

 五畿内、同京都之躰一々聞届候、度々御精ニ被入候段、寔以令満足候、

一、公方様御所行、不及是非次第ニ候、雖然君臣間之儀候条、深重ニ愁訴申候之処、被聞食直候間、実子を進上申候、依之村井、塙差副、明日七日可為上洛候、先以可然候哉、彼両人ニ弥可被仰越候、

一、公方、朝倉を御憑ニ付て、返事之趣きも有へく候哉、先年至志賀表、義景出勢之時者、高嶋郡、同志賀郡ニハ此方之城宇佐山一城にて候つる、今ハ城々堅固ニ申付候上者、輙出馬候ハん事不実ニ候、

一、信虎甲賀に候て、江州中出之事、上意いかにをもく候共、俄ニ人たのミ候ても、させる儀不可有之候、

一、承禎此時罷出度候共、江南之手当無油断候条、才覚も用ニ不可立候、

一、中嶋之儀、去廿七日ニ退城之由、さてもゝゝゝおしき事ニ候、公方所為ゆへニ候、右京兆御心中令察候、質物出ニ付てハ進上候て尤候、猶巨細口上ニ申渉候、

一、公義於被聞食分者、得上意令可上洛候、又就無御領掌者、随其急度可上洛候、

一、中嶋之事、執々承及候処、堅固之由尤候、則以書状申候間、御届専用ニ候、然者鉄炮玉薬兵粮以下之儀者、金子百枚、二百枚ほとの事余ニ安㕝ニ候、上洛之刻猶以其擬可仕候、弥荒木有相談、御馳走専一候、

一、東之事丈夫ニ手当申付候、殊謙信内存、智光院、長与一を以、精被申越候、至信、関出馬候へハ、信玄於彼表可及備候歟、さ候へハ猶以隙開候間、行等可任存分候、

一、畿内諸侍之覚悟不見分為躰ニ候共、通路も候者、承候而書状を遂度候、便宜候者、能々相意得可被仰達候、次賀嶋城落居之事、伊丹覚悟ゆへニ候、絶言語候、

一、石成事、此方へ一往之申様もなく候て、結局其方をも申試之由候、かやうの節者、不調不足も云たつる事、間々有物候哉、不可有差事付も、当城又ハ三大手当ニハ石成差向候ハんか、機遣専一候、

一、灰方、中嶋両人儀、内藤馳走を以、一味之由尤候、内藤かたへも甚深に入魂可然之由、堅信長申由、可被仰伝候、一廉可令馳走候、

一、丹波宇津事、御供衆ニ被召加之由候、内藤無興無余儀候、何たる忠節を仕候哉、無冥加次第ニ候、自然之時可被移御座ための由候、天ニ咎をうる時に、祈るニ所なしと聞伝候、

一、福地事、公儀へ罷出由候、不可有後悔候、其方ニ候共、比興者ニ候へハ、用ニ不可立候、

一、南方辺之事、異子細無之由尤候、

一、今堅田一揆成敗之儀ニ付て、世間之かほつきもかハるの由候、先々可然候哉、

一、遠三辺事別条なく候、同当国東之事、いつれも其擬丈夫ニ申付候、敵城普請等申付之由候、近日可引入用意と相聞候、

一、先書大方申候、謙信越中一揆楯籠富山ニ差向、稲荷屋敷と云地を要害ニ相構候、其間五六町在之由候、同新庄と云城ニ置候人数、彼屋敷へ相移、今月朔ニ越府ニ至て納馬之由、重而使節来候、さ候へは、諸口手当も隙明候間、不図令上洛、可属存分ニ候、毎事無隔心預指南候者、祝着ニ候、替模様候者、雖遠路候、切々示給可為快然候、尚期来音候、恐々謹言

  三月七日     信長(黒印)

(書き下し文)
五畿内・同京都のてい、一々聞き届け候。
度々御精ごせいに入れられ候段、誠にもって満足せしめ候。


一、公方様の御所行、是非に及ばざる次第に候。
然りといえども、君臣の間の儀に候条、深重に愁訴申し候のところ、聞し召し直され候間、実子を進上申し候。
これにより村井(貞勝)・塙(直政)を差し添え、明日七日に上洛たるべく候。
まずもって然るべく候哉。
かの両人にいよいよ仰せ越さるべく候。


一、公方、朝倉に御頼みに付きて、返事の趣きも有るべく候哉。
先年、志賀表に至って義景出勢の時は、高嶋郡・同志賀郡には、こなたの城宇佐山一城にて候つる。
今は城々堅固に申し付け候上は、たやすく出馬候はん事、不実に候。


一、信虎(武田信虎)甲賀に候て、江州中出の事、上意いかにも候とも、にわかに人頼み候ても、させる儀有るべからず候。


一、承禎(六角承禎)この時に罷り出たく候とも、江南の手当に油断なく候条、才覚も用に立つべからず候。


一、中嶋の儀、去二十七日に退城の由、さてもさても惜しき事に候。
公方(足利義昭)
所為ゆえに候。
右京兆うけいちょう(細川昭元)御心中察せしめ候。
質物を出すに付きては、進上候てもっともに候。
なお、巨細口上に申し渡し候。


一、公儀、聞こしめし分けらるるに於いては、上意を得て上洛せしめ候。
また御領掌なきに就きては、それに従いて急度きっと上洛すべく候。


一、中嶋の事、執々とりどりに承り及び候ところに、堅固の由もっともに候。
則ち書状を以て申し候間、御届け専用に候。
然らば鉄砲の玉薬・兵粮以下の儀は、金子百枚・二百枚ほどの事あまりに安き事に候。
上洛のきざみ、なおもってその儀を仕るべく候。
いよいよ荒木(村重)と相談あり、御馳走専一に候。


一、東の事、丈夫に手当申し付け候。
殊に謙信(上杉謙信)の内存は、智光院・長与一(景連)をもって、詳しく申し越され候。
信(信濃)・関(関東)に至って出馬候へば、信玄かの表に於いて備えに及ぶべく候か。
さ候へば、なおもって暇明き候間、てだて等存分に任すべく候。


一、畿内の諸侍の覚悟、見分けざるのていたらくに候とも、通路も候はば、承り候て、書状を遂げたく候。
便宜候はば、わざわざあい心得て仰せ達せらるべく候。
次に加島城落居の事、伊丹(忠親)覚悟ゆえに候。言語に絶し候。


一、石成(友通)の事、こなたへ一往の申し様もなく候て、結局其の方をも申し試むるの由に候。
かようの節は、言われざる不足を言いたつる事、間々あるものに候哉。
差せる事あるべからざるに付きても、当城または三大(三淵大和守藤英)手当には、石成差し向け候はんか。
気遣い専一に候。


一、灰方・中嶋両人の儀、内藤馳走を以て一味の由、もっともに候。
内藤かたへも甚深に昵懇然るべきの由、堅く信長に申す由、仰せ伝えらるべく候。
一廉ひとかど馳走せしむべく候。


一、丹波宇津(宇津頼重)の事、御供衆に召し加えらるるの由に候。
内藤無興、余儀なく候。
何たる忠節を仕り候哉。
冥加なき次第に候。
自然の時に御座を移さるべきための由に候。
天に咎をうる時に、祈るに所なしと聞き伝え候。


一、福地(細川藤孝与力)の事、公儀へ罷り出ずる由に候。
後悔あるべからず候。
そなたに候とも、比興者に候へば、用に立つべからず候。


一、南方辺の事、異なる子細無きの由もっともに候。


一、今堅田の一揆成敗の儀に付きて、世間の顔つきも変わるの由に候。
まずまず然るべく候哉。


一、遠(遠江)・三(三河)辺の事、別条なく候。
同じく当国東の事、何れもそのあてがい上部に申し付け候。
敵城普請等申し付くるの由に候。
近日引き入るべきの用意と相聞こえ候。


一、先書におおかた申し候。
謙信越中一揆の立て籠もる富山に差し向かい、稲荷屋敷という地を要害に相かまえ候。
その間五~六町これあるの由に候。
同じく新庄という城に置き候人数、かの屋敷に相移し、今月一日に越府(越後)に至って納馬の由、重ねて使節来たり候。
さ候へば、諸口の手当も隙明き候間、ふと上洛せしめ、存分に属すべく候。
毎事隔心なく指南に預かり候はば、祝着に候。
変わりたる模様候はば、遠路に候といえども、切々と示し給はば、快然たるべく候。
なお、来音を期し候。恐々謹言(以下略)

 (備考)幕臣でありながら織田方に内通した細川藤孝と、それに誠意をもって応える織田信長。
全十七ヶ条にもわたるこの条書は、両者の息遣いを感じることができて非常に興味深い。

3月8日

島田秀満、信長より命じられていた将軍との関係修復が不調に終わったことを報告し、近江国大津へ赴き人足の徴発を行う。『兼見卿記』

3月9日

長岡藤孝(兵部大輔)、山城国西岡の土豪である革島秀存(市介)に請文を発給。『革島文書』(元亀四)三月九日付長岡藤孝請文写

今度對當城、無二之御覚悟不及是非候、於遂本意
者、御馳走段、不可忘申候、御内衆へも此等之趣、被仰
聞、弥被抽忠莭候様、可被申付候、爲其以誓言申候、
日本国中大小神祇、殊八幡大菩薩、愛宕山地藏権現
御照覧候へ、不可有表裏候、恐々謹言、
   三月九日 長岡兵部大輔
            藤孝判
   革島市介殿 
進之候

(書き下し文)
この度当城に対し、無二の御覚悟是非に及ばず候。
本意を遂ぐるに於いては、御馳走の段、忘れ申すべからずに候。
御内衆へもこれらの趣き、仰せ聞かせられ、いよいよ忠節抜きんでられ候様、申し付けらるべく候。
そのためを以って誓言申し候。
日本国中大小の神祇、殊に八幡大菩薩・愛宕山地蔵権現御照覧候へ、表裏有るべからず候。
恐々謹言(以下略)

 (備考)
同年2月16日付で革島秀存は藤孝へ起請文を提出して忠誠を誓った。
この文書はそれを受けたもので、今度は藤孝からも神仏に誓う形で返したものである。

この書状は江戸時代に入って革島氏が作成した重要文書3通を1枚の料紙に写したものの一つである(1番目)。
他に記されているのは元亀三年(1572)九月三日付織田信長朱印状写・天正元年(1573)九月十四日付長岡藤孝折紙案写である。
これらの文書は江戸時代に入っても同じ土地で居を構える革島家にとっても、家の由緒を示す大切なもので、様々な形でいくつもの写が繰り返し作成されている。
写とはいえ、同時期に発給された細川文書や東寺側の史料、織田信長発給文書と照らし合わせても矛盾は感じられない。

摂津高槻城主・和田惟長の乱心 髙山友照・重友(右近)父子の暗殺を謀る

3月11日

和田惟長(太郎・惟政の子)、高山友照・友祥(重友・右近)父子の暗殺を謀るも失敗。
惟長と友祥、重症を負う。『兼見卿記』

髙山重友(右近)肖像

髙山重友(右近) (1552~1615)

キリシタンとして生きキリシタンとして死んだ武将。
若年の頃、和田惟長に暗殺を謀られるが返り討ちにする。
命の恩人である荒木村重の配下となるが、のちに決別。
高槻城下をキリスト教に染め上げたものの、豊臣秀吉の切支丹弾圧に遭い、大名の地位を捨てた。
マニラへと追放され、同地で病没。
スペインでも名が知られていたらしく、温かく迎えられたという。

  (備考)高槻城主和田惟政が元亀2年(1571)に戦死をした後、子の和田惟長が家督を継ぐ。
父と同様、信長に臣従を誓っていたが、将軍・足利義昭と信長との対立が深まると和田家中が分裂する。
疑心暗鬼に陥った惟長は、後見役を務めていた和田惟増を殺害する。(時期は不明。だいたい1572年4月~1573年3月の間)

和田家が信長派・将軍派に分裂する中、家中の信望を集めつつあったのが高山友照・友祥父子だった。
疑心暗鬼に陥っていた惟長は高山父子の暗殺も謀るが、事前に露見してしまう。

そして3月11日。
惟長は相談したいことがあると偽りの誘いをもって高山父子を高槻城に招いた。
高山父子は14~15人の従者を連れて同地に赴き、闇討ちにあった。

ところが友祥が逆に惟長を切り伏せ、再起不能なほどの重傷を負わせる。
かなりの乱戦だったらしく、重友も首を半分ほども切れてしまうほどの傷を負う。
その後、惟長は一族ゆかりの地である甲賀へと逃れたが、傷が深くて助からず同地で没した。(諸説あり)

この事件の後、信長の裁可も得て高山父子は高槻城主となり、荒木村重の与力となった。
なお、この時の奇跡的な回復を体験し、重友はより一層キリスト教への理解を深めるのである。

3月14日

石山本願寺門跡の顕如、武田信玄(法性院)に宛てて、朝倉義景の出陣を催促すること、三好・松永の調略を急ぐことなどを通達。『顕如上人御書札案留』

態令啓達候、其表之儀、彌可被廻調略與察申候、義景出馬事示給之間、付置使者令催促候キ、委細直ニ彼申談候間、其様子不能申展候、將亦三村右兵衛尉於越前此方使ニ傳語之通、舊冬之御札並一書以下具披見申候、就中正月上旬就京表之調、從義景被申越候趣以飛脚申候、未能御報候如何候哉、次越中邊之儀、先日御札之旨愚報ニ申伸候、猶不可過御思惟候、京表之儀、只今三吉久秀調略半由候、實否急ニ可相究候、爰元一塵無油斷候、委細之通賴充可申入候間令省略— —
   三月十四日  — —

   法性院殿

(書き下し文)
わざと啓達せしめ候。
その表の儀、いよいよ調略廻さるべくと察し申し候。
義景出馬の事、示し給うの間、使者を付け置き催促せしめ候き。
委細直に彼と申し談じ候間、その様子申し述ぶに能わず候。
はたまた三村右兵衛尉うひょうえのじょう越前此方に於いて、使いに伝語でんごの通り、旧冬の御札ぎょさつ並びに一書いっしょ以下、つぶさに披見申し候。
就中なかんずく正月上旬京表の調べに就きて、義景より申し越され候趣き、飛脚を以て申し候。
未だ御報能わず候、
如何いかが
次いで越中辺りの儀、先日御札の旨、愚報に申し延べ候。
なお思惟しいに過ぐべからず候。
京表の儀、只今三好(三好義継カ)・久秀(松永久秀)調略半ばの由に候。
実否急ぐに相究めるべく候。
爰元ここもと一塵いちじん油断無く候。
委細の通り、頼充(下間頼充)申し入るべく候間省略せしめ(以下略)

 (備考)
朝倉義景を出陣させることについて、「使者を付け置き催促せしめ」としているのが興味深い。
武田の様子がおかしいことを、顕如が訝しんでいる様子が窺える。

織田信長による上京焼き討ちと和議の交渉

3月25日

信長、将軍家討伐のため岐阜を出陣。『信長公記』

3月29日

信長、近江逢坂に着陣。
細川藤孝と荒木村重(信濃守)が同地で出迎え、信長の軍に合流する。『信長公記』

 (備考)『信長公記』には、この時の信長の様子は「ご機嫌申すばかりもなし」と記されている。

同日 午の刻(正午頃)

織田軍、京洛へ乱入し、京都栗田口、白川、祇園、清水、六波羅、鳥羽、竹田に着陣。
織田信長・信忠父子は東山知恩院に陣を張る。
そこで信長は荒木村重に「大ごうの御腰物」、細川藤孝に「名物の御脇差」を与える。『信長公記』

吉田兼和はこの日、足利義昭の籠る二条御所へ祗候しこう(謹んでご機嫌伺いに上がること)していたようだ。
その後、聖護院に布陣している丹羽長秀、蜂屋頼隆の陣を訪れ、陣中を見舞っている。
織田軍の京都乱入により京洛は大混乱に陥る。
吉田兼和は柴田勝家(修理亮)に吉田郷の警護を依頼。『兼見卿記』

3月30日

足利義昭、村井貞勝の屋敷を包囲する。
村井貞勝、脱出に成功。『耶蘇会宣教師ルイス・フロイス書翰』

同日

吉田兼和、賀茂に陣取る明智光秀の陣中を見舞う。『兼見卿記』

この頃

信長、自分と嫡男信重(勘九郎信忠)が頭を丸めて武器を持たずに謁見したいと申し出る。『耶蘇会宣教師ルイス・フロイス書翰』

3月

信長、吉田郷と大山崎惣庄中へ陣取りなどの禁制を下す。『離宮八幡宮文書(山城大山崎惣荘中禁制案)』

4月1日

吉田兼和、島田秀満に取次ぎを頼み、信長の陣所を見舞う。
そこで信長は先日死去した吉田兼右から聞いた
「南都滅亡時は北嶺も滅亡し王城に災いが発生する」
というのは本当かどうかを兼和に問う。
吉田兼和は「父のその発言は根拠がないものである」と答えている。

これを聞いた信長は洛中の焼き討ちを決めたのかもしれない。『兼見卿記』

4月2日

信長、洛外を悉く放火する。『京都市小石暢太郎氏所蔵文書(徳川家康宛四月六日付織田信長黒印状)』

同日

明智光秀・細川藤孝らに命じ、堂塔寺庵を除外し、下賀茂から嵯峨あたりまで128ヶ所を焼き払う。『公卿補任』

同日

吉田兼和、禁裏より信長への使者を命じられる。
吉田、信長の陣所を訪れ、禁裏より預かった女房御文を村井貞勝を介して披露する。『兼見卿記』

4月3日

この間にも信長は足利義昭に和議を申し入れるも、将軍はこれを頑なに拒絶。『兼見卿記』

4月3夜~4日

信長、上京の二条から北部を焼き払う。
等持寺に本陣を置き西陣から放火。
二条以北を全焼させる。『兼見卿記』・『京都市小石暢太郎氏所蔵文書(徳川家康宛四月六日付織田信長黒印状)』・『信長公記』

4月4日

これにより二条御所や建築普請中の信長御座所、洛中諸所に大きな被害が及ぶ。
類火が禁裏近辺にも及ぶ。

吉田兼和は再び信長陣所を訪れ、禁中不慮の際には吉田社への臨幸(天皇がお出になること)を諮り同意を得る。
信長、村井貞勝に禁裏警護を命じる。
吉田はその足で京都御所へと参内し、正親町天皇に避難の旨を上奏。『信長公記』・『兼見卿記』・『京都市小石暢太郎氏所蔵文書(徳川家康宛四月六日付織田信長黒印状)』

同日

足利義昭、信長に和議を申し入れる。『信長公記』・『徳川家康宛四月六日付織田信長黒印状』

同日

信長、参内して禁裏警護を検分し、間もなく本陣へ戻る。『兼見卿記』

同日

石山本願寺門跡の顕如、越前の朝倉義景(左衛門督殿)へ、京都近辺の様子と、織田勢が江北へ兵を出したことを通達。『顕如上人御書札案留』

芳札之旨具遂披見得其意候、仍信長事既至東山着陣候、公儀へ雖懇望申不能御承引由候、就其所々令放火候、洛中之儀此度安危之境候、攝州池田遠江守 (闕字)公儀へ参候、畠山遊佐已下同前之由候、是者當分露顯之體如此候、當寺之儀者三好家種々申候間、可令出勢由相談候、此度信長歸国相支之様、江州表早々御進發、片時も可被急事肝要候、委細之趣賴充可申入候間、閣筆候、— —
   四月四日

   左衛門督殿

(書き下し文)
芳札ほうさつの旨つぶさに披見を遂げ、その意を得候。
仍って信長の事、既に東山に至りて着陣に候。
公儀へ懇望申し、御承引能わず由に候といえども、それに就きて所々放火せしめ候。
洛中の儀、この度安危の境に候。
摂州池田遠江守  (闕字)公儀へ参り候。
畠山(畠山秋高)・遊佐(遊佐信教)以下同前の由に候。
これは当分露見の体かくのごとくに候。
当寺の儀は、三好家種々申し候間、出勢せしむべきの由、相談じ候。
この度信長の帰国相支えるの様、江州表へ早々御進発、片時も急がるべき事肝要に候。
委細の趣き、頼充(下間頼充)申し入るべく候間、筆をさしおき候。(以下略)

4月5日

信長の厳命により、柴田勝家が京都天龍寺惣寺中へ焼き討ち免除を安堵する。『天竜寺文書(四月五日付柴田勝家書状)』

当寺陣執、放火以下之儀不可有之、諸手へも申理之条、不可有異議候、信長堅被申付候、可御心易候、為其如此候、恐々謹言

 元四     柴田修理亮
   卯月五日    勝家(花押)
    天竜寺惣寺中
       床下

(書き下し文)
当寺陣執り、放火以下の儀有るべからず。
諸手もろてへも申しことわるの条、異議あるべからず候。
信長堅く申し付けられ候。
御心易みこころやすかるべく候。
そのためにかくの如くに候。恐々謹言(以下略)

(備考)
信長の京都焼き討ちに対し、天竜寺は礼金を支払い制札を発給してもらうことによって戦火を免れたのだろう。

同日

正親町天皇は信長への勅使として二条晴良、三条西実枝、庭田重保を遣わし、足利義昭との和議を斡旋する。『兼見卿記』

4月6日

徳川家康使者の小栗大六が信長に謁見。
信長、小栗に書状を託す。『京都市小石暢太郎氏所蔵文書』・『古文書纂』

  横山辺迄可有御見廻之(由?)候、其ニ不及候、遠三表之事、無油断可被仰付事簡要候、爰元頓而可開隙候之間、令帰国可申述候、

就上洛之儀、以小栗大六承候、祝着之至候、今度公儀不慮之趣、子細旧事候哉、於身不覚候、君臣御間与申、前々忠節不可成徒之由相存、種々雖及理、無御承諾之条、然上者成次第之外、無他候て、去二日三日両日洛外無い残所令放火、四日ニ上京悉焼払候、依之徒其夕無為之儀取、頻御扱之条、大形同心申候、於時宜者可御心易候、猶大六可申候、恐々謹言

  卯月六日    信長(黒印)
   三河守殿
       進覧之候

(書き下し文)
上洛の儀に就きて、小栗大六を以て承り候。
祝着の至りに候。
今度は公儀不慮の趣き、子細旧事に候哉。
身に於いて覚えず候。
君臣の御間と申し、前々の忠節いたずらと成すべからざるの由あい存じ、種々ことわりに及ぶといえども、御承諾なきの条、然る上は、成り次第のほか、他無く候て、去る二日・三日の両日、洛外残る所無く放火せしめ、四日に上京かみぎょうを悉く焼き払い候。
これによりていたずらにその夕べ無為の儀取り、頻りに御扱いの条、おおかた同心申し候。
時宜に於いて、御心易みこころやすかるべく候。
なお、大六申すべく候。恐々謹言
 横山辺り迄も御見廻りあるべきの(由?)に候。
 それに及ばず候。
 遠(遠江)・三(三河)表の事、油断なく仰せ付けらるべきの事、簡要に候。
 爰元ここもとやがて暇明くべく候の間、帰国せしめ申し述ぶべく候。(以下略)

 (備考)
徳川家康は、信長が上洛したとの報告を受けると、小栗大六を使者に出して、家康が近江横山あたりまで兵を出し、近江戦線の牽制しようと申し出た。
信長はこれを辞退し、国元の警備を怠らないようにと指令したのである。

この文書には、足利義昭の挙兵は信長の身に覚えのないことであり、さまざまな和議を提案したのだが、将軍の承諾が得られなかったために、去る4月2日~5日まで洛中洛外を焼き討ちにしたこと。
その成果があって義昭との和議が成立したことが記されているのが面白い。

同日

明智光秀、河合右近助へ書状を発給。『古文書集・東京大学史料編纂所影写本(四月六日付明智光秀書状写)』

坂本之者共山田宿之儀、其方へ申付候、不可有別儀候、恐々謹言

  卯月六日      明智十兵衛尉
                光秀(花押影)

     河合右近助殿
          御宿所

(書き下し文)
坂本の者ども山田宿の儀、其方へ申し付け候。
別儀有るべからず候。恐々謹言(以下略)

 (備考)
これは三重県史に収録されていた翻刻である。
山田宿は伊勢国。
同書によると、坂本城下の街道整備がされてから、伊勢神宮への参宮希望者が増えていったのではないか。
そこで光秀は、家臣ら坂本の者たち参宮道者の山田宿泊につき、専属として河井大夫に申し付けたとある。
河井右近助(大夫)は、明智家の御師として祈祷に当たっていたようだ。
なお、光秀が河井氏へ発給した文書は、他に同年7月26日付のものがある。『堀江滝三郎氏所蔵文書(東京大学史料編纂所影写本)』

同日

信長諸兄の織田信広(津田三郎五郎)、信長の名代として将軍・足利義昭と会見し、和睦の交渉を行う。『信長公記』

鯰江城包囲と百済寺焼き討ち

4月7日

織田信広、佐久間信盛(右衛門尉)、細川藤孝が信長の名代として幕府御所で足利義昭と和睦の交渉を行う。『兼見卿記』

同日

信長、六角義堯およびそれに味方する近江百済寺討伐のため、京を出陣。
信長本隊に先立ち、柴田勝家、丹羽長秀、佐久間信盛、蒲生賢秀(右兵衛大輔)が四方より付城を築いて鯰江城を包囲。
信長、近江守山を経由して百済寺に陣を張る。『信長公記』・『吉村文書(四月十五日付織田信長黒印状)』・『吉村文書(四月十五日付織田信長黒印状)』

4月11日

織田軍、百済寺を焼き討ちにする。
堂塔、伽藍、坊舎、仏閣が悉く灰燼と帰す。『信長公記』

 (備考)信長公記には「哀れたる様、目も当てられず」とあるので、かなり凄惨な現場だったのかもしれない。
なお、六角承禎(義賢)・義堯父子の籠る鯰江城はなおも抵抗を続け、同年の9月に落城している。
鯰江城は愛知川の断崖を活かして築かれ、川から本丸への通路は細い道一本だけという防御に適した城であった。

元亀4年(1573)9月11日の鯰江城包囲と百済寺焼き討ち

鯰江城包囲と百済寺焼き討ち

同日

信長、岐阜に帰城して軍勢を解散。『信長公記』

甲斐の虎・武田信玄 死す

4月12日

甲斐に退却中の武田信玄が信濃国伊那郡駒場にて病死。
享年53。『御宿監物書状写』・『島記録』など

武田信玄肖像画

武田信玄肖像(高野山持明院所蔵)


大底還他肌骨好不塗紅粉自風流


    武田信玄辞世

 (備考)
浪合や根羽で病死したとする説もあれば、三河野田城攻めで討死したとする異説もある。
信玄の死により、今後日本の勢力図は大きく変化することとなる。
なお、武田家の家督を継いだのは孫の武田信勝で、武田勝頼は彼が成人するまで後見役として政務を取り仕切るというのが一般的な見解である。

武田勝頼肖像

武田勝頼肖像(高野山持明院所蔵)

4月13日

この日吉田兼和は、将軍が宇治槙島城に移るとの風説に接したようだ。『信長公記』

同日

美濃衆の市橋長利・吉村源介・安実ら、江南で蜂起した一向一揆勢を撃退する。『吉村文書(四月十五日付織田信長黒印状)』・『吉村文書(四月十五日付織田信長黒印状)』

 (備考)美濃の吉村源介、同・安実が信長から直々に感状を賜っていることや、同日付の市橋九郎右衛門宛ての信長書状があり、状況から察して吉村氏は市橋氏の指揮下にあったものと思われる。

4月15日

信長、市橋長利へ書状を送付。『吉村文書(四月十五日付織田信長黒印状)』

一揆等吉村構へ取懸候処、遂一戦十人余討捕之由、尤候、江南表之儀、鯰江ニ対し、付城四ヶ所申付、今日十五、至佐和山着座候、近日北表へ相働、やかて可令帰国候、其方之事、弥無油断調略等簡要ニ候、吉村かたへも書状遣之候、開陣之時可加褒美候、能々相心得可申聞候、謹言

  四月十五日    信長(黒印)
   市橋九郎左衛門尉殿

(書き下し文)
一揆ら吉村の構えへ取り懸け候ところ、一戦を遂げ、十人余り討ち取り候の由、尤もに候。
江南表の儀、鯰江に対し、付城四ヶ所申し付け、今日(十五)、佐和山に至って着座候。
近日北表(浅井領)へ相働き、やがて帰国せしむべく候。
その方の事、いよいよ油断なく調略等簡要に候。
吉村かたへも書状を遣わし候。
開陣の時に褒美を加うべく候。
よくよく相心得て申し聞かすべく候。謹言(以下略)

同日

信長、美濃吉村源介・同安実に書状を発給。『吉村文書(四月十五日付織田信長黒印状)』

  尚以開陣之時、可令褒美候、
去十三日夜一揆調略之儀ニ付て、於町口及一戦、可然者討捕之由、尤神妙之至候、弥無油断才覚簡要候、謹言

   四月十五日    信長(黒印)
    吉村源介殿
    吉村又四郎殿

(書き下し文)
去る十三日夜一揆調略の儀に付きて、町口に於いて一戦に及び、然るべき者を討ち取るの由、尤も神妙の至りに候。
いよいよ油断なく才覚肝要に候。謹言
なおもって、開陣の時、褒美せしむべく候。(以下略)

 (備考)足利義昭の挙兵に呼応して、近江国でも鯰江城を中心に一揆がおきる。
六角義堯(義弼・右衛門督)である。
同郡の天台宗百済寺も立ち上がった。
市橋長利と吉村源介および又四郎安実は、抑えとしてこの地区に要害を築いて駐屯していた。
4月13日に一揆の襲撃を受けたがこれを撃退する。

谷口克広氏によると「吉村源介の守備地は町口とあり、鯰江に対し付城を築かせるなどを通報していることから鯰江付近ではなく、六角氏がよく一揆を起こす金ヶ森か、三宅ではないか」としている。
なお、吉村氏は美濃海西郡松之木の土豪である。

4月16日

近江勢多城主・山岡景隆(美作守)、将軍・足利義昭への使者として上洛し、吉田兼和の元に宿泊。『兼見卿記』

 (備考)恐らく吉田社だろう。

4月17日

山岡景隆、将軍に謁見。

4月19日

信長、柴田勝家に書状を送る。『山崎文書(四月十九日付織田信長朱印状』

十河為存分、自松肥申越候趣、先以得其意候、若江之事即時ニ乗執ニ付てハ、河内半国義継分、幷欠郡之儀可契約候、若又一旦ニ不落居候共、付城已下馳走候て、少相延候共、於入眼者、半国之儀可申付候、不可有相違候、何篇差急可及行事簡要候、此段慥可申届之状如件

  卯月十九日   信長(朱印)
   柴田修理亮殿

(書き下し文)
十河そごう存分として、松肥(松浦肥前守)より申し越し候趣き、まずもってその意を得候。
若江の事、即時に乗り取るに付きては、河内半国(義継分)、並びに欠郡かけぐんの儀を契約すべく候。
もしまた一旦に落居せず候へども、付城つけじろ以下馳走候て、少し相延び候共、入眼じゅがんに於いては、半国の儀を申し付くべく候。
相違あるべからず候。
何篇なんべん差し急ぎてだてに及ぶべき事肝要に候。
この段確かに申し届くべきの状くだんの如し(以下略)

 (備考)十河とあるが、これが存保を指すのかは不明。
存保は三好実休の子で、十河一存の養子となった人物。
松浦肥前守は和泉岸和田城主。
この書状を素直に解釈すれば、十河某が松浦氏を通じて信長に味方することを申し入れてきた。
信長は、若江城を即刻攻略すれば、三好義継の旧領のである河内半国と、摂津欠郡(かけぐん=百済郡の後名。住吉・東生両郡の間に介在した小郡。のちこの両郡に分属)を与える約束をし、もし一度で陥落しなくとも、付城などを構築して、少し延びても成功すれば、河内半国は与えることを約したことになる。

しかし、この企ては成功しなかった。
なお、三好義継はのちに足利義昭を庇護し、同年11月16日に若江城で敗死することになる。

4月20日

足利義昭、二条御所の再修理をはじめる。『兼見卿記』

4月21日

足利義昭、二条御所天守の壁を塗る。『兼見卿記』

織田信長と将軍・足利義昭が和睦する

4月27日

織田信長と足利義昭との間で正式に和議が成立する。『和簡礼経 下座右抄九(元亀四年四月二十七日付林秀貞等連署起請文前書案)』・『和簡礼経 下座右抄九(元亀四年四月二十八日付林秀貞等連署起請文前書案)』

 旲社起請文前書事、
公儀信長御間事、御和平之上、信長一切不可致表裏事、幷信長最前之条数、何茂堅御請之条、各慥請取申候間、不可有違逆、若此旨令違背者、

  元亀四年四月廿七日
  林佐渡守
  佐久間右衛門尉
  柴田修理亮
  濃州三人衆
  滝川左近

一色式部少輔殿
上野中務大輔殿
一色駿河守殿
曽我兵庫頭殿
松田豊前守殿
飯尾右馬助殿
池田清貧斎

(書き下し文)
 大社起請文前書の事
公儀信長御間の事、御和平の上、信長一切表裏を致すべからず候。
並びに信長最前の条数、何れも固く御請けの条、右、確かに請け取り申し候間、違逆あるべからず。
もしこの旨違背せしめば、
 元亀四年(1573)四月二十七日
  林佐渡守(秀貞)
  佐久間右衛門尉(信盛)
  柴田修理亮(勝家)
  濃州三人衆(稲葉一鉄・氏家直通・安藤守就)
  滝川左近(一益)
一色式部少輔殿(藤長)
上野中務大輔殿(秀政)
一色駿河守殿(昭秀)
曽我兵庫頭殿(助乗)
松田豊前守殿(頼隆)
飯尾右馬助殿(貞連)
池田清貧斎(一狐)

 旲社起請文前書事、
今度信長御和平之上者、一切不可有御違変候間、各請取申候、猶以自分以後、対信長不可存逆心之儀候、但最前之条数、自然為御相違者、右之趣可預御分別候、若此旨於令違背者、起請文御罰深厚可罷蒙者也、仍前書如件

 元亀四年四月廿八日
  池田清貧斎
     一狐
  飯尾右馬助
     貞連
  松田豊前守
     頼隆
  曽我兵庫頭
     助乗
  飯川肥後守
     信賢
  一色駿河守
     秀孝
  上野中務太輔
     秀次
  一色式部少輔
     藤長

塙九郎左衛門尉殿
滝川左近殿
佐久間右衛門尉殿

(書き下し文)
この度信長御和平の上は、一切御違変あるべからず候間、なおもって自今以後信長に対して逆心の儀存ずべからず候。
但し最前の条数、自然御相違たらば、右の趣き御分別に預かるべく候。
若しこの旨を違背せしむるに於いては、起請文きしょうもんの御罰を深厚に罷り蒙るべきものなり。
仍って前書くだんの如し(以下略)

 (備考)
両者の和議が成立したのは4月7日。
この日にようやく起請文の議論となったということは、よほど交渉が難航したのだろう。
しかしながら、両者の和談ははじめから破談になることが予想された。
義昭は20日から二条第の修理をはじめ、21日には天守の壁を塗り、28日に堀の修理をしたと『兼見卿記』には記されている。

4月28日

明智光秀、大津の船大工・三郎左衛門へ一向一揆の混乱があったにも関わらず忠節を尽くしてくれたことを謝し、諸役を免除する。『渡文書(四月二十八日付明智光秀書状)』

今度一乱之刻、当津未落居之処、前後相詰、気遣之段忠節候、仍屋地子、諸役、万雑公事令免除状如件、

 元亀四
  卯月廿八日   (明智光秀花押)
   舟大工
    三郎左衛門かたへ

(書き下し文)
このたび一乱の刻み、当津未だ落居せざるのところ、前後を相詰め、気遣いの段忠節に候。
仍って屋地子・諸役・よろず雑公事免除せしむるの状くだんの如し(以下略)

 (備考)
渡氏は明智光秀が領する志賀郡の舟大工。
屋地子やじしとは賦課した地代のこと。
加えて諸役と雑公事の免除を約束している。

同日

足利義昭、二条御所の堀を修理。『兼見卿記』

  1. 誕生~叔父信光死去まで(1534~1555)
  2. 叔父信光死去~桶狭間の戦い直前まで(1555~1560)
  3. 桶狭間の戦い~小牧山城移転直後まで(1560~1564)
  4. 美濃攻略戦(1564~1567)
  5. 覇王上洛(1567~1569)
  6. 血戦 姉川の戦い(1570 1.~1570 7.)
  7. 信長包囲網の完成(1570 7.~12.)
  8. 比叡山焼き討ち(1571 1.~9.)
  9. 義昭と信長による幕府・禁裏の経済改革(1571 9下旬~1571.12)
  10. 元亀3年の大和動乱(1572 1.~1572.6)
  11. 織田信重(信忠)の初陣(1572 7.~1572 9.)
  12. 武田信玄 ついに西上作戦を開始する(1572 9.~1572 12.)
  13. 将軍・足利義昭の挙兵と武田信玄の死(1573 1.~1573 4.)  ←イマココ
  14. 将軍追放 事実上の室町幕府滅亡(1573 5.~1573 7.)
  15. 朝倉・浅井家滅亡(1573 8.~1573 10.)
  16. 三好義継の最期(1573 10.~1573 12.)
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