本当にそれでいいのか 戦国時代の「鶴翼の陣」についての3つの疑問

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本当にそれでいいのか 戦国時代の「鶴翼の陣」についての3つの疑問
来世ちゃん
来世ちゃん

こんばんはー。
今回は戦国時代の陣形の一つ「鶴翼の陣(かくよくのじん)」について書きたいと思います。
皆さんは鶴翼の陣を想像するとき、どのような陣形を連想しますか?
恐らく多くの方はU字型のような形を想像されたと思います。

来世ちゃん
来世ちゃん

しかしながら・・・果たしてそれは真実でしょうか?
今回は乃至政彦氏著の「戦国の陣形」を元に、過去の史料からも引用し、鶴翼の陣の真実に迫りたいと思います。

陣形についての疑問

 合戦とは命と命のやり取りである。
私は幼少のころから戦国時代の陣形について
「本当にいざ合戦が行われたとき、冷静に将兵を動かして組織的な用兵ができたのだろうか。」
と疑問に思っていた。

戦国時代の陣形・・・。
とりわけ鶴翼の陣について興味を惹かれた。
鶴翼の陣というのは、このような陣形が一般的だと思う。

有名な鶴翼の陣のイメージ
有名な鶴翼の陣のイメージ

某歴史シュミレーションゲームのように、鶴翼の陣は魚鱗の陣に弱く、横隊陣に強いというような相性は本当に存在したのだろうか。
私の幼少の頃からの疑問は、様々な研究が進んでいる現在でも腑に落ちない点が多い。

今回はそんな疑問を3つの点からアプローチし、なぜ我が国の軍事研究が思うように進まないのかにも触れたいと思う。

江戸時代初期に記された鶴翼の陣と通説の鶴翼の陣の大きな違い

 皆さんは鶴翼の陣とはどのようなイメージを持っているであろうか。
敵よりも兵の数が勝っている場合、鶴が翼を広げるようにして敵を包囲し、せん滅する陣形だと理解している方が多いと思う。

戦国時代に鶴翼の陣が用いられた例

 有名な実例としては関ケ原の合戦の際の石田三成ら西軍、永禄4年(1561)川中島の合戦の際の武田信玄などだろうか。
三方ヶ原の合戦の際、徳川家康が寡兵だと知りながらも敢えて鶴翼の陣を選択し、虚勢を張ったが裏をかかれて中央突破されて敗れたなど、歴史書には鶴翼の陣がちらほら出てくる。

姉川の合戦布陣図
姉川の合戦もまた鶴翼の陣が用いられたというが、真偽のほどは不明である

関連記事:姉川の合戦 後半 合戦の詳細と通説以外の説

しかしながら、そうした文言が出てくるのは江戸時代に記された歴史書が初出で、それが真実なのか甚だ疑問である。

疑問その1 鶴翼の陣を具体的に示す史料は江戸時代が初出

 というのは、意外にも鶴翼の陣の具体的な形状を示すいわゆる一次史料(戦国時代に記された生の古文書)に、こうした陣形の存在を裏付ける証跡がないのだ。

それらしいものが登場するのは、江戸時代に入って数十年が経過してからで、しかも軍学者によってさまざまな流派というものが存在し、その解釈もまちまちなのだ。
例えば「八陣」というものを8種類の陣形として解釈している流派もあれば、本陣周囲に8つの部隊を備える正方形の配置と捉える流派も存在する。

軍学者・山鹿素行による鶴翼の備

 ここで江戸時代前期に軍学者として名を挙げた山鹿素行(やまがそこう)が記した「武教全書」の「八陣応変の事」による鶴翼の備をご覧いただきたい。

山鹿素行の鶴翼の備
山鹿素行の鶴翼の備

素行は裏を討つ陣形と捉えており

前後相そなへ左右能く守りて鶴翼のごとくなり

「前後の攻撃に備え、両翼をよく守ることは、鶴の翼のようである」

と解説している。

山鹿素行肖像画

 山鹿素行 (1622~1685)
会津の浪人の子として生まれる。
江戸で朱子学、神道、歌を学び、さらに小幡景憲、北条氏長の下で甲州流の軍学を会得。
播州赤穂藩の下で軍学兵法を講義し、大石内蔵助らにも影響を与えた。
その後は江戸でも軍学を教え、山鹿流は「実戦的な軍学」と評判になった。

この陣形を見て誰もUの字のようには見えないだろう。
一部隊だけだとこの形だけど、これに多くの部隊が集まると一般的な鶴翼の陣形になるのだろうか?

鶴翼の陣?
鶴翼の陣…?

やっつけ的な編集で申し訳ないが、これだと一般的に認識されている鶴翼の陣に見えなくもない。
しかしこれでは無理があるように思える。

小笠原昨雲による鶴翼の備

 続いて小笠原昨雲という人物が記した「侍用集」という古文書の中に、「鶴翼の備が記されているのだが、それを元に私が編集したものをご覧いただきたい。

小笠原昨雲による鶴翼の備
小笠原昨雲による鶴翼の備

同書には

鶴翼之備 是は敵一倍の勢にて敵を包む時、此備えにして利を得るなり

と記されている。

山鹿素行のより具体的で、少し似ている点がある。
しかし、これも一般的なイメージの鶴翼の陣とは違うようだ。

なお、小笠原昨雲の生没年は不明で、誰から軍学を学んだのかも定かではない。
ただひとつわかっていることは、江戸時代の人物だということである。

疑問その2 甲陽軍鑑にある「鶴翼の八の陣」とは

 軍学書といえば武田信玄をリスペクトしまくった「甲陽軍鑑(こうようぐんかん)」が有名だろう。
日付などが非常にあいまいで、他の史料と矛盾点が多い史料だ。

元は百姓の出自で文字の読み書きができないまま育った春日虎綱(高坂昌信)が、晩年に武田信玄の事績を口述で述べ、甥や近習が書き記したものが後年小幡景憲(おばたかげのり)に渡り、景憲の手によって完成されたという説のある古文書だ。

今回は甲陽軍鑑の信憑性については詳しく論じないが、同書に記されている「鶴翼の陣」について興味深いことが記されているのでご覧いただきたい。

甲陽軍鑑にある唐国諸葛孔明八陣について
甲陽軍鑑にある唐国諸葛孔明八陣について

魚鱗、鶴翼、長蛇、偃月、鋒矢(ほうし)、方円、衡軛(こうやく)などおなじみの陣形が記されているが、偃月のところに三日月マーク、方円のところに〇マーク、そして鶴翼のところに「八の」と記述されている。

これはどういうことだろうか。

山鹿素行は甲陽軍鑑を編纂した小幡景憲の孫弟子だった

 先ほど山鹿素行についての説明で、小幡景憲北条氏長の下で甲州流の軍学を…と述べたが、どうもこれは真実のようだ。
素行は小幡から教わった兵法を研究した結果、武田信玄の軍法を理論的に読み解き、先に述べた鶴翼の陣となったのだろう。

武田晴信(信玄)

北条氏長の描いた鶴翼の陣

 小幡景憲の弟子で、山鹿素行の師匠として軍学に精通した北条氏長という人物もまた鶴翼の陣を書き残している。

北条氏長はもちろんあの後北条氏の子孫である。
北条繁広(しげひろ)の子で、祖父は北条綱成(つなしげ)にあたる。

北条氏長肖像画

 北条氏長 (1609~1670)

徳川幕府の下で小姓組として召し出される。
禄高500俵から出発し、最終的には2000石を超えるなど、旗本として順調に出世街道を歩んだ。
その一方で小幡景憲から甲州流軍学を学び、それを改良して北条流兵法を開く。
兵法雄鑑、雌鑑、士鑑用法など残した軍学書は数知れず。
幕府の軍制改革にも影響を与えた。

北条氏長が記した兵法雄鑑(へいほうしがん)鶴翼の備を元に私が編集したものがこちら。

北条氏長の描いた鶴翼の陣
北条氏長の描いた鶴翼の陣

源流が同じ甲州軍学とだけあって、山鹿素行の鶴翼の陣に似ている。
しかも、こちらは甲陽軍鑑の記述にある「八の」の形に近いことが理解できるだろう。

これらに共通していることは、前衛が横並びで弓や鉄砲などの衆が待機していて、中核部分に旗本が固まり、その左右と後衛に細長の隊列を組んでいる。

関連記事:戦国大名と旗本、部将(侍大将)の違い

さらにいえることは、武田家に伝わる鶴翼の陣とはUの形をしているのではなく、むしろ八の陣をしていたことが窺える。

では、なぜUが鶴翼の陣の定説となったのだろうか。
その理由をこれから見ていこう。

疑問その3 安直なイメージから出来上がった通説の鶴翼の陣

 なぜU字が鶴翼の陣の定説となったのか。
実のところその理由はわからない。

ただ、推測としては
鶴が翼を広げるようにして構えてから敵を包み込んで叩く横長の陣形
という概念だけが脈々と後世へと伝わり、
それに加えて明治以降に海外から陸軍の戦術である「翼包囲の戦術」と混同してしまったのではないだろうか。

翼包囲の戦術
ワーテルローの戦い 引用させていただきました

それを元に推測だけで作り上げた鶴翼の陣が通説となったのではないか。
やがて某歴史シュミレーションゲームの隆盛とともに一般的なイメージとして定着したのかもしれない。

我が国の軍事研究が思うように進まない理由

(※これから先に書くことは鶴翼の陣とはあまり関係がないので、読み飛ばしていただいても構わない。

そもそも我が国の陣形とはいつから運用されだしたのだろうか。
日本の古代史から遡っても、どうも明確な答えにはたどり着けないようだ。

日本の古代史から紐解くと

 というのは、日本は島国で対外戦争をほとんど経験しておらず、東アジア最強の文明・漢民族とも友好的な関係を維持してきた時代が長かった。
朝鮮半島の影響力と権益の維持をかけて天智2年8月(663年10月)、白村江の戦いで唐軍と新羅軍に大敗北を喫し、唐軍の規律ある兵の運用法に大きな衝撃を受けた倭国は、軍政改革に取り組んだ。

国号も「倭」から「日本」と改め、日本が大東亜戦争(太平洋戦争)に敗れて一気に時代が進んだように、当時も多民族からの侵略という危機意識から目まぐるしい発展を遂げた。

漢民族との和平と遣唐使派遣

陣形について深く関係のありそうな説として、一般的な説として次のようなものがある。

醍醐天皇の時代((897~930)に大江維時(おおえこれとき)が唐に渡り、龍首将軍から「六韜(りくとう」、「三略」、「軍勝図四十二条(諸葛亮の八陣)」という3つの兵法書を授けられ、朱雀天皇の時代(930~946)に帰国した。

帰国した維時はこれらの書物を秘匿して伝えず、代わりに自身が書きまとめた「訓閲集(きんえつしゅう)」120巻をなして世に残したとする説だ。(諸説あり)

そして後三年の役(1083~1087)で奥州鎮圧に出陣した源義家が、維時の子孫にあたる大江匡房(まさふさ)から訓閲集を元に兵法の奥義を学んだと伝承され、その後訓閲集は小笠原氏に相伝されたという。(諸説あり)

しかし、その後の訓閲集の行方が不明なばかりか、大江維時が入唐した事実すら定かでなく、作り話の可能性もある。

唐から学んだ兵法を実戦で運用される機会はなかった

 唐との敗戦で日本が学んだことは、通説では戦国時代から始まったとされる兵農分離のシステム兵種別編成隊伍と陣立て輪番射撃(弓矢の三段撃ちなど)など実に様々だった。

敗戦直後の我が文明も、これらのことを見よう見まねで改革していった。
しかし、本格的に異民族が侵攻してくることはなく、軍政改革の成果を出す機会はなかった。
いや、あるにはあったが、その成果が出せなかったようだ。

蝦夷との戦闘で苦戦 巣伏の戦い

 新たな軍団制としてパワーアップしたはずの中央政権だったが、東北では蝦夷とのいくさでは苦戦を強いられていた。
蝦夷は律令制のような国家体制が無く、動員力が乏しい代わりに、各地の集団が中小規模でゲリラ戦を展開する。
密集隊形を導入した規律ある正規軍では、改革の成果を現わすことができなかったのである。

東北地方のような山岳地帯では多勢が勝つとは限らない。
それを現わす面白い事件がある。

延暦8年(789)。
規律ある軍を率いた中央政権は、アルテイが指揮する蝦夷の軍に大敗を喫した。
これが「巣伏(すぶし)の戦い」である。

軍団制を導入したものの、成果が出せず士気が下がる一方の中央政権。
東北での戦闘ではそうした戦いは不向きだと考えたのか、わずか3年後の延暦11年(792)に軍団制を廃止してしまった。
このようにして我が国における兵の運用や陣形は、成熟を見せることなく終焉を迎えた。

幸か不幸か、対外戦争をほとんど経験しないことが軍事の成熟を妨げ、我が国の軍事研究が思うように進まない理由の一つとなったのだと思う。

再びそうした軍事についての改革がなされるのは、武士の世が到来してからである。

来世ちゃん
来世ちゃん

ご覧いただきありがとうございました!

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