苦労人グッチと破天荒シャネル〜同時代を生きた2人の対照的な生き方〜

4.5

 今日では多くの人が、GUCCIもCHANELも世界を代表する高級ブランドという認識であろう。巷では「CHANEL嫌いの人はGUCCI好き」なんていう法則があるくらいだ。これは実に興味深い。

ところで皆さんはCHANELの生みの親、つまり創業者をご存知であろうか。
そう、ココ・シャネルである。

ではGUCCIの生みの親はご存知であろうか?
ちがう。そうじゃない。グッチ裕三ではないぞ。グッチオ・グッチだ。

実はこの2人は同時代を生きたカリスマなのだ。性格も生き方も、全く逆なのである。今回はこの2人の人生について紹介していきたい。

グッチオ・グッチについて

グッチオ・グッチ

誕生

 1881年、グッチはイタリアのフィレンツェで、麦わら帽子の製造を営む零細企業の経営者の子として生まれた。だが、あまり裕福な方ではなかったらしい。

思春期の頃

 彼は10代の頃、ロンドンで身を立てようと決心し、蒸気船の機関助手として働きながら1898年にロンドンに辿り着く。彼は最高級ホテルの皿洗いという職を得た。やがて彼は認められて、ウエイターに出世。当時のロンドンは世界で最も先進的な都市であったので、世界中から身分の高い人々が多くいたのである。

ホテル従業員時代に学んだこと

 彼は王侯貴族をもてなすうちに多くのことを学んだ。彼らの立ち居振る舞い、持ち物や物の考え方、そして「原価は何も意味を持たない。むしろ商品の値段が高ければ高いほど、それを所有することの価値も高くなる」ということである。彼は多くのことを学び帰国する。

帰国から「GUCCI」創業まで

 帰国後、いくつかの商店で働いた。第一次世界大戦の勃発により、彼は徴兵されて戦地へ。残念ながら大戦時代のグッチの様子や記録は、日本から調べても出てこないようである。終戦後の1919年、フィレンツェに戻り皮革業で働く。1922年、地元フィレンツェのパリネオ通りに自分の店を開き、翌年「GUCCI」の店名を掲げる。彼は既に41歳となっていた。

それから

 最初はイギリス製の販売と修理を行うカバン屋さんだった。そこからグッチは研究を重ね、乗馬の世界にモチーフを求めた鞄、トランク、手袋、靴、ベルトなどが国内外で人気となり始める。第二次世界大戦がはじまっても物資不足の中、竹を用いたカバン「バンブー」など次々と新商品を生み出していった。1950年代にはミラノやニューヨークにも支店を出し、世界一流ブランドに成長。1953年夏・72歳でその生涯を閉じた。

生前、彼は制作に携わる従業員の為に、自分で作ったカバンなどのプレゼントを、定期的にしていたというホワイト経営者だったらしい。

一流ブランド「GUCCI」の栄枯盛衰

 グッチの死後、父の事業を引き継いだのが三男のアルド、五男のルドルフォなのだが・・・
そこから昼ドラ以上のゴタゴタ内紛確執ブタ箱行きと、いろいろありまくった末に現在に至る。
詳しく知りたい方はこちらのサイトが分かりやすい(分かりたくないがw)

ゴールドプラザの公式HP

それでは、ココ・シャネルはどうであろうか。

ココ・シャネルについて

ココ・シャネル

誕生

 1883年フランス西部のソミュールで生まれる。11歳の頃母が病死。父に捨てられ、孤児院や修道院を転々とした。彼女もまた裕福ではなく、愛情にも飢えていたのかもしれない。

思春期の頃

 18歳で孤児院を出た直後、当時付き合いのあった将校たちに連れられ、歌手になりたいと夢見るようになる。お針子の仕事をしながら、夜はキャバレーでも働く。その後ヴィシーでオーディションを受けるも何度も落選。芸能界への道は諦めた。その頃別の将校と交際していたが、彼に伴われてパリ郊外に移住。1909年、暇を持て余していたので、その将校に頼って帽子のアトリエを開業する。(グッチが初めて開業したのは1922年)

男を乗り換えるたびに自分の店が増えていく

 その後1年もたたぬうちに前述の将校とは別れる(店はつぶしたと思われる)。そいつの友達だったイギリス人青年実業家アーサー・カペルと付き合いだす。1910年、彼の援助でパリにまた新しい店を出店。1913年にはドーヴィルに2号店を出店した。第一次世界大戦中の1915年3号店をオープン。翌16年にはコレクションを発表し大成功を収める。

シャネルの躍進

 1920年調香師エルネスト・ボーと提携を組みシャネル初の香水「No.5」、「No.22」を発表した。
このころ劇作家のジャン・コクトー、画家のパブロ・ピカソ、作曲家のイーゴリ・ストラヴィンスキーなどが集うサロンを主催するミシア・セールと出会い、ストラヴィンスキーやジャン・コクトー、ロシアのドミトリー・パヴロヴィチ大公などサロンの様々な人物と交際する。この頃、同い年である画家・マリー・ローランサンに肖像画を描いてもらったが、シャネルはそれを気に入らなかったためにローランサンに返したという糞エピソードがある。

あるユダヤ人実業家との契約

 1924年、シャネルはヴェルテメール兄弟と契約を結び社団法人 「パルファム・シャネル」を設立した。契約の主な内容は、「No.5」(香水)の生産、マーケティング、流通の資金調達全て同意。さらに、彼らがパルファム・シャネルの株式70%の保有を容認すること。シャネル自身は株の10%を手元に残したうえで、経営からは手を引くことであった。同時期にまたもや新しい男であるイギリスの大富豪と交際をスタート。彼から貢ぎまくってもらった宝石から着想を得た模造宝石を使ったジュエリーを発表する。

ハリウッドに招かれて有頂天

 1930年代初頭、100万ドルの契約金でハリウッドに招かれる。シャネルの大ファンだった女優の衣装制作に携わったが、スクリーン上では地味で見栄えの悪いシャネルの衣装は不評で、また彼女自身もアレな性格だった為、わずか2作を手掛けただけでフランスに帰国した。一方、シャネルが一方的にライバル視したエルザ・スキャパレリは1930年代にはハリウッドでもフランスでもシャネル以上に成功し持て囃された。そして嫉妬で怒り狂ったシャネルがパーティー中にエルザのドレスに蝋燭の火を付けたという、今では嘘か信か不明の流言が飛び交うほど、二人の仲は険悪な状態になっていた。

実はブラック経営者だった

 1939年、当時4000人を抱える大企業に成長したシャネルだったが、今でいう超絶ブラック企業経営者だったため、労働者側がストライキを決行。シャネルは性格もアレだったため、結局折り合わず一部店舗を残し全てのビジネスを閉鎖、一時引退する。デザイナーとしては没落したが、香水部門での売り上げは好調だったため、生活自体は余裕だったのである。

ナチスドイツへ接近

 第二次世界大戦が勃発し、フランスは瞬くうちにナチスドイツの支配下となった。実はシャネルはこの時すでにドイツの国家保安本部SD局長のヴァルター・シュレンベルク親衛隊少将と懇意になった上に、ゲシュタポの高官のハンス・ギュンター・フォン・ディンクラージ男爵の愛人になることで、様々な恩恵を受けつつ不自由無く暮らすことが出来た。そういう関係から、シャネルはナチスドイツに協力するスパイ活動も行うようになる。

ココ・シャネルの野望

 シャネルの野望はかつてないほど膨れ上がっていた。先の1924年に交わしたヴェルテメール兄弟との契約のことで、「私が作った香水なのに、あのユダヤ人実業家は不当に私の利益を搾取しているんです~!あいつの取り分は株式の70%なのに対し、私の取り分は10%しかないんですよ~!これって不公平じゃないですかぁ~?」とドイツ軍の行政官に訴えたのだ。しかしながら、ヴェルテメールは超絶有能実業家だった。ドイツ軍からの金融資産差し押さえをすでに予想していたので、非ユダヤ人の友人に資産を移譲していたのだ。こうしてシャネルの謀略は失敗に終わったのだった。

ドイツまさかの敗戦によりシャネルの境遇は一変

 1944年6月。連合国陣営によるノルマンディ上陸作戦成功から状況が一変。ドゴール将軍によりパリが解放され、シャネルは即座に逮捕。ドイツ人の協力者だっただけでなく、ゲシュタポの愛人だったこと。スパイ活動をしていたこと。売国奴だったことが全て裏目に出て、フランス中から猛烈な非難を浴びた。しかし、戦前から交流のあったイギリス首相ウィンストン・チャーチルの計らいにより解放され、その後またもや新たにできた愛人とともに中立国のスイスに亡命。苦しい生活が始まる。しかし、ここでシャネルを救ったのが、以前ヴェルテメール兄弟から略奪しようとした香水の株式からの収入であった。

ファッション界に復帰

 面の皮の厚いシャネルは1954年にスイスから帰国。ファッション界へ復帰を果たす。しかし、フランス人のシャネル嫌いは根強く、あまりシャネルのデザインはウケなかった。翌年、シャネル・スーツを発表。これがアメリカでは流行りに流行り、また、マリリン・モンローなどに愛用された香水がブームとなり、捲土重来を果たした。

それから

 1971年に死去。

管理人からひとこと

 苦労に苦労を重ねて着実に成長していったグッチオ・グッチ。一方で破天荒な生き方で男を乗り換え、そいつの金でブランドを立ち上げ、持ち前のセンスで急成長したココ・シャネル。この人生の対比が面白くないですか?なお、ブランドとしての「GUCCI」と「CHANEL」。現在はどちらの方が人気があるか・・・。ブランドに興味のある方や女性ならばわかりますよね。歴史とは皮肉なものです(^-^;

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