兵庫県はなぜあんなに大きいの?知られざる3つの県と統合の理由

4.5

こんばんは!突然ですがここで皆さんに問題です。

青森県から山口県まで車で行くとします。

陸路ならばどのルートをとっても構いません。

青森・山口以外で必ず通過しなければならない県はどこでしょう?

日本列島
日本列島

答えは兵庫県だ。小学生の頃、こんな感じの問題を出されて答えられなかったことがある。

当時の私は大きな中央図書館にほぼ毎日行っては、戦国史の本をよく読み漁ったものだ。戦国史のコーナーならば一応すべて目を通したので、正直真新しい情報が入らなくて飽きかけていた。

そこで、なんとなく人文系の違うコーナーを見てみると、「その土地の由来」とか「郷土史」というものが目についた。ページをめくってみると、なかなか面白い雑学っぽいことが分かりやすく書いていて、私は戦国史以外に新しい楽しみを見つけて喜んだことを覚えている。

・・・もう20年ちょっと前のことになるのか(ノ∀`) そこに書いてた問題の一つに、上記のような感じのが書いてあったのだ。

戦国時代以前の兵庫県

兵庫県001
「兵庫五県について」淡路夢ツアーズ様より

戦国時代以前」とあるが、正しくは明治以前の行政区分となっている。それまでそこには朝廷・あるいは幕府から正式に任命された支配者(国司や守護など)が、それぞれの土地を治めていた。ご覧の通りバラバラだ。この中で最も栄えていたのは、恐らく摂津の国であろう。

戦国時代の兵庫県

 戦国時代。だいたい三好長慶が覇権を握る直前までの大名・国人の勢力と考えてもらったらいい。

戦国初期から中期にかけて
戦国初期から中期にかけて

このように、多くの無名大名がひしめき合って和戦を繰り返していた。この中で有名なのが丹波の波多野家、赤鬼と恐れられた赤井直正、独立を保ち続けて最後の最後で滅んでしまった別所家、守護大名の赤松家、阿波の三好氏の養子となり、三好家のために働いた安宅冬康。そして、小寺家の養子となり、早くから織田信長の臣従を誓っていた小寺孝高であろうか。そう、あの大河ドラマの主人公となった黒田官兵衛である。

その間に吉川家や尼子家、大内家、細川家、三好家、毛利家などがこの地に影響力を持とうとしたが、長くは続かなかった。織田信長がこのあたり一帯を平定し、秀吉に引き継がれ、やがて徳川家康の時代となった。

江戸時代の兵庫県

だいぶすっきりした^^ これは西暦1664年のものである。京に近い地故に徳川家の息のかかった親藩が多いようだ。

なお、浅野長直の孫は浅野内匠頭長矩といい、この人物が死んだことで赤穂浪士の美談が生まれるのであるが・・・。

幕藩体制の中の兵庫県
幕藩体制の中の兵庫県

明治以降の兵庫県

1868年。江戸幕府が倒れ、明治新政府天皇親政による政治を始めた

これまで先の図のように、藩主というトノサマが兵庫県のいたるところにいて、それぞれがバラバラに政治をしていた。そんなことでは日本は一つになれない。一刻も早く中央集権の政治を行わねば!として、明治4年(1872)。大名たちはみんなリストラ廃藩置県を行い、それぞれの県に「知事」を置き富国強兵を目指したのだ

兵庫県002
県域の変遷(兵庫県のホームページより)

「兵庫県」、「飾磨県」、「豊岡県」、「名東県」の4つである。

ん?見慣れない県が3つもあるな?( ゚Д゚)

なぜここから3つの県が姿を消し、「兵庫県」のみが残ったのであろうか・・・

なぜ兵庫県に吸収合併されたのか

神戸の港を大きくして外貨を稼ごう

 当時の日本はまだ弱かった。えげれす(イギリス・大英帝国)、おろしゃ(ロシア)、ふらんす、めりけん(アメリカ)、おらんだといった西洋列強の国々が皆、利益を得ようと交易相手を探したり、時には植民地にして搾取を繰り返す帝国主義の時代だったのだ。

日本は一刻も早く産業を興して「黒船」を作り、強くなって紳士の国だと列強に認められ、不平等な条約改正(関税自主権がないのと治外法権が適用されてること)を急いでいた。

そのために目をつけたのが「神戸の港」だった。日本がどんどん輸出して儲けまくれば、どんどん外貨が入ってきて日本が豊かになる!

大久保利通の戦略

そう唱えたのが大久保利通である。だが、神戸はまだ開港したばかりの田舎中の田舎で、ここで産業を興して港を大きくし、外貨が入ってくる量を増やそうと画策したのだ。

しかしながら、当時の日本で外貨を稼げる「商品」なんてものは一切ない。着物などは全く海外の人からは需要がないし、日本刀はもはや時代遅れ。銃の時代だからね。ショウガナイネ。二次産物はもはや無理だった。

では一次産物ではどうか。日本で一番作られえるのは「米」だ。しかし、西洋は「小麦」文化。米などは何の需要もなかったのだ。「金や銀」はどうか。戦国時代には空前の金山銀山ラッシュで、たくさん採掘されていた。しかしながら、江戸時代中期あたりから採掘量が激減し、幕末期には閉山が相次いだ。

日本で取れて海外の人が欲しがる一次産物はなにか。それは「生糸」だったのだ。特に日本の生糸は質が高いらしく、海外からの需要は高かった。

大久保利通は生糸に賭けてみることにした。

大久保卿のなりふり構わぬ統合政策

 生糸が取れる場所といえば、関西ならば「豊岡」だった。このままずっと待っていても、神戸港がある兵庫県では産業が育成せず、いつまでたっても神戸は大きくなれない。豊岡県から生糸を買ったのではコストが高くなりすぎる。大久保卿は豊岡を合併するほかなしと考えたのだった。

続いて飾磨県にも目をつけた。飾磨県は、実はその当時は兵庫県よりもはるかに栄えていて、別に合併に頼らなくても自力で成長していける県民性とポテンシャルを持っていたのだ。それに、江戸時代では藩も違うことから、東の兵庫県には負けたくないという思いが強かったようだ。

名東県(みょうどうけん)は、阿波国・讃岐国・淡路国を範囲とした県である。名東県は淡路島を持っているので、大久保卿は貿易をするためにも、そこが同じ兵庫県の管轄であれば、あとあと問題が起こらぬであろうと考えたのであろう。

多くの反対の中で大久保利通が押し切って合併が成立する

 こうして閣僚内からも多くの反対があった中、1876年8月21日に大久保利通が議会を押し切り「飾磨県」、「豊岡県」、「名東県」の3県は、当時は超しょぼかった兵庫県に合併されたのであった。神戸港を国際貿易港としての中心的な役割に発展させる崇高な目標の為に・・・。

強引な大久保政治の代償

 大久保利通は実行力のある非常に優れたリーダーだった。大久保の活躍の裏には必ず岩倉具視がいた。ある時、大久保利通の唱える案が太政大臣の三条実美の反対などで議会を通らずに苛立っていた。三条が病を得て休養した。その代わりとして、臨時で三条の代わりとして入ったのが岩倉具視である。岩倉に代わるや否や、これまでの議論が180度変わり、大久保利通の願い通りの結果となったのだ。

まぁ、そういうようなことがあって、沢山の政治家や軍人が明治新政府から去っていった。

実は兵庫県合併があった翌年に既に鹿児島へと去っていた西郷隆盛を担ぎ上げて「西南戦争」が起きているのだ。西南の役を鎮圧した翌年、数々の改革を成し遂げながらも、多くの人々の恨みを買った大久保利通が暗殺されてしまう。明治維新の立役者の木戸孝允も昨年に他界しているので、維新3傑全員が明治11年には没すという波乱の時代が始まった。

大久保死後の神戸港

 その後、飾磨県で大きな独立運動が起きたが、なんとかこれを抑え、明治新政府は少しずつ神戸を大きくしていった。生糸などを売って外貨を蓄え、富国強兵に努め、国会を開き憲法を作り、日清・日露の戦争に勝利を収めた日本は、ほどなくして条約改正に成功している。やがて日本は第一次世界大戦前夜には世界7大国の一つに数えらえるまでに成長したのであった。

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