明智軍法は実在したのか?本能寺のちょうど1年前に定められた明智軍法の真偽に迫る

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明智軍法は実在したのか?本能寺のちょうど1年前に定められた明智軍法の真偽に迫る
来世ちゃん
来世ちゃん

こんばんは~。
今回の記事は「明智軍法は本当に明智光秀が出したのか」です。
これは本能寺の変のちょうど1年前に光秀が定め、他の大名に先駆けて石高あたりの動員人数まで規定した画期的な軍令書です。
これが真実ならば本当にすごいことなのですが、怪しい点も随所に見られます。
さあ、その真偽はいかに。

この記事はこんな方にオススメです。

  • 大河ドラマ「麒麟がくる」が好き
  • 明智軍法の詳細が知りたい
  • 古文書が好きで書き下し文と現代語訳も見たい
  • 明智軍法を疑う理由を知りたい
  • ご注文は明智光秀ですか?

明智軍法とは

 明智光秀が遺したとされる文書として、京都府福知山市の御霊ごりょう神社所蔵の「明智光秀軍法」というものがある。

さだめ 條々じょうじょう」で始まるこの文書は、天正9年(1581)6月2日付で、内容は光秀が自身の家来に指示した戦場での心得・規則書である。

申し訳ないが、今回は原文を用意できなかった。
したがって重要部分の釈文と書き下し文、現代語訳を紹介して、明智軍法の是非について書いていきたい。

明智光秀肖像画
明智光秀肖像画

明智軍法の内容(釈文と書き下し)

では具体的にどのようなことが記されているのか。
重要部分をご紹介しよう。
()内は書き下し文。現代語訳は後述する。

  定 條々

一、武者、於備場、役者之外諸卒高聲並雑談停止事、付、懸り口其手賦鯨波以下可応下知事、
 (武者、備え場に於いて、役者(やくもの)の他、諸卒高聲(こうせい)並びに雑談停止(ちょうじ)の事。
付けたり、懸かり口その手配りとき(?)以下、下知に応ずべき事)

一、魁之人数相備差図候所、旗本侍着可随下知、但、依其所為先(手可相?)計行付者、兼而可申聞事、
 (先駆けの人数、指図候ところに相備え、旗本侍については下知に従うべし。
ただし、その所により、先手(さきて)として相計らうべき手立てについては、かねて申し聞けべき事)

一、自分之人数、其手ゝゝ相揃前後可召具事、付鉄炮鑓指物のほり甲立雑卒ニ至てハ、置所法度のことくたるべき事、
 (自分の人数、その手その手に相備え、前後に召し具すべき事。
付けたり鉄砲・槍・指物・幟(のぼり)・兜立て、雑卒に至っては、置き所法度の如くたるべき事)

一、武者をしの時、馬乗あとにへたゝるニをいてハ、不慮之動有之といふとも、手前当用ニ不可相立、太以無所存之至也、早可没収領知、付依時儀可加成敗事、
 (武者押しの時、馬乗りのあとに隔たるにおいては、不慮の働きこれありというとも、手前当用に相立つべからず。
甚だ以て所存無きの至りなり。
早く領地没収すべし。

付けたり、時宜によって成敗を加うべき事)

一、旗本先手其たんゝゝの備定置上者、足軽懸合之一戦有之といふとも、普可相守下知、若猥之族あらハ、不寄仁不肖、忽可加成敗事、付虎口之使眼前雖為、手前申聞趣相達可及返答、縦蹈其場雖遂無比類高名、法度をそむくその科更不可相遁事、
 (旗本先手(さきて)そのたんたんの備え定め置く上は、足軽掛け合いの一戦これ有りというとも、あまねく下知を相守るべし。
若猥のやからはらば、仁不肖によらず、たちまち成敗を加うべき事。

つけたり、虎口(こぐち)の使い眼前たるといえども、手前に申し聞かせる趣きは、相達して(?)返答に及ぶべし。
例えその場に踏みとどまり、比類なき高名を遂ぐといえども、法度をそむくその咎、更に相逃がるべからざる事)


一、或動或陣替之時、号陣取、ぬけかけに遣士卒事、堅令停止訖、至其所見計可相定、但、兼而より可申付子細あらハ可為仁着事、付、陣払禁制事、
 (あるは働き、あるは陣替えの時、陣取りと号し、抜け駆けに士卒を遣わす事、堅く停止(ちょうじ)せしめおわんぬ。
その所に至り見計らい相定むべし。

ただし、かねてより申付けるべき仔細あらば、仁着たるべき事。
付けたり、陣払い禁制(きんぜい)の事)

一、陣夫荷物之軽重、京都法度之器物三斗、但遼遠之夫役にをいてハ、可為二斗五升、其糧一人付て一日二八合宛領主可下行事、
 (陣夫荷物の軽重、京都法度の器物三斗。
ただし、遼遠(りょうえん)の夫役においては、二斗五升たるべく、その糧一人に付いて一日二八合を宛て、領主より下行(げぎょう)すべき事)

一、軍役人数、百石ニ六人多少可准之事、
 (軍役の人数、百石に六人、多少これに準ずべき事)

一、百石より百五十石之内、甲一羽馬一疋指物一本鑓一本事、
 (百石より百五十石のうち、兜一羽・馬一疋・指物一本・槍一本の事)

一、百五十石より二百石之内、甲一羽馬一疋指物一本鑓二本事、
 (百五十石より二百石のうち、兜一羽・馬一疋・指物一本・槍二本の事)

一、弐百石より参百石之内、甲一羽馬一疋指物二本鑓弐本事、
 (二百石より三百石のうち、兜一羽・馬一疋・指物二本・槍二本の事)

一、参百石より四百石之内、甲一羽馬一疋指物三本鑓参本のほり一本鉄炮一挺事、
 (三百石より四百石のうち、兜一羽・馬一疋・指物三本・槍三本・幟(のぼり)一本・鉄砲一挺の事)

(中略)

一、千石ニ甲五羽馬五疋指物八本鑓拾本のほり弐本鉄炮五挺事、付、馬乗一人之着到、可准弐人宛事、
 (千石に兜五羽・馬五疋・指物八本・槍十本・幟(のぼり)二本・鉄砲五挺の事。
付けたり、馬乗(ばじょう)一人の着到、二人宛て準すべきべき事)



右、軍役雖定置、猶至相嗜者寸志も不黙止、併不叶其分際者、相構而可加思慮、然而顕愚案条々、雖顧外見、既被召出瓦礫沈淪之輩、剰莫太御人数被預下上者、未糺之法度、且武勇無功之族、且国家之費頗似掠公務、云袷云拾、存其嘲、対面々重苦労訖、所詮於出群抜粋粉骨者、速可達上聞者也、仍家中軍法如件、
  (右の軍役定め置くといえども、なお相嗜むに至る者は寸志も出さず(?)、ならびにその分際に適わざる者、相構えて思慮を加うべし、しかして愚案の条々を現わし、外見を顧みずといえども、既に瓦礫沈淪のともがらを召し出され、あまつさえ莫大の御人数を預け下さる上は、未だ(糺之 意味不明)法度、且つ武勇無功の輩、且つ国家の費、すこぶる公務を掠むるに似たり。
云袷云拾、その嘲りを存じ、面々に対し苦労を重ねおわんぬ。
所詮、出郡抜粋粉骨においては、速やかに上聞(じょうぶん)に達すべきものなり。
よって家中の軍法くだんの如し)

   天正九年六月二日   日向守光秀(花押)

明智軍法の内容(現代語訳)

 なんとなく意味が分かるように現代語訳してみたが、かなり難解な箇所が多く、合っているのか不安な部分もある。
参考程度にご覧いただきたい。

  1. 武者が備え場において、役者(やくもの)の他は諸卒が大声を出すことや雑談を禁じる。
    攻め口では下々の者らは下知に従うように。
  2. 先駆けの人数を配置し、指図をすれば、旗本の侍は下知に従うように。
    ただし、その所の先手が判断せよ。
    これはかねてより申し聞かせてきたことである。
  3. 自分の軍勢はそれぞれに備えて動員せよ。
    鉄砲・槍・指物・幟(のぼり)・兜立て・雑兵などは配置と法度に従うように。
  4. 軍勢を押し出す時、馬乗りが後に隔たっていると、思いがけぬタイミングで戦いが始まった時には役に立たないので、たいへん問題である。
    それゆえすぐに領地を没収する。
    場合によっては成敗する。
  5. 旗本の先手は、その備えを定め置いているので、足軽たちの戦闘が始まっても皆下知を守れ。
    もしそれに従わない者がいれば、誰彼によらずすぐに成敗する。
    虎口(こぐち)の使いに行き眼前に敵があっても命令を伝え、返答せよ。
    たとえその場に踏みとどまって比類のない戦果を挙げても法度を背いたこととする。
  6. 合戦の最中(?)や陣替えの時、陣取りという名目で抜け駆けに将兵を遣わすことは禁止する。
    その場をよく見計らい、定めること。
    ただし、かねてより命じていたことであれば構わない。
    陣払いは禁止する。


    (以下軍役人数の定については省略する)

    右のように軍役を定め置いたとはいえ、嗜みのあるものはこの限りではない。
    規定を満たせない者は手心をくわえよう。
    こうして私のかねてより考えていた愚案の条々を示した。
    過去を顧みると、取るに足らぬ存在でしかない自分が(信長公に)召し出され、しかもたいへんな大軍を預けて頂いたからには、いまだに法度を守らず、武勇の無い者は国家の穀潰しであり、公務を掠め取っているようなものだ。
    (「云袷云拾」部分は謎)
    その嘲りを考え、皆には苦労を重ねている
    そうした者は飛びぬけて粉骨細心働かねば、すぐに上聞に達してくれる。

    よって、家中の軍法をこのように定める。


       1581年6月2日 明智光秀(花押)

明智軍法の注目すべき点

 この文書で注目すべき点は、家臣の軍役が石高に基づいていることだ。
100石に6人を規準とし、
100~150石は兜一羽・馬一疋・指物一本・槍一本といったように、装備まで細かく規定している。

まるで明智光秀という人物の几帳面さを物語っているかのような軍法だ。
もしこれが本物なら、信長の存命中に他家に先駆けて明智光秀が細かい軍役を定めたことになる。

豊臣秀吉の時代が初見だと考えられていた軍役体制が、明智光秀が日本で初めて実現していたことになる。

明智軍法が不可解な点

疑問その1 明智軍法の出どころ

 「明智軍法」の文書の出どころは尊経閣文庫といって、加賀藩前田家の史料を引き継いだ文庫なのだが、これは江戸時代に流布されていたものを蒐集したに過ぎない。

尊経閣文庫にあったからといって、これを「一次史料として信頼しうる史料」として証明するものはない。

この文書が所蔵されている京都府福知山市の御霊ごりょう神社は、明智光秀を祀って建てられた神社として有名だ。
しかしながら、生前の光秀とは何の関係もないので、当時の史料がある可能性は低い。
この文書や他の光秀関連の文書も、後に蒐集されたものである。

論者の中には

明智光秀が石高に応じた装備を要求していることを評価して
「光秀の軍隊の特質は兵農分離を遂げた武士が軍隊の基本構成員であり、彼らが集合して備を形成し戦争の都度、軍議が行われ、備の配置すなわち配陣が決定されていたことがうかがわれる」

としている。

疑問その2 石高に応じた軍役令

 この時期、石高に基づいて年貢を徴収することはあったので、それが全く事実ではないとはいえない。
しかしながら、この文書に書かれている装備は兜鎧・馬・指物・槍・のぼり・鉄砲くらいのものだ。
これは実戦の為というよりは、行列を飾る装備だともとれる。

そうした軍役令なら江戸時代になると数多く出現する。
たとえば、戦国の世が終わって間もない元和年間(1615~1624)の軍役令は以下のようになっている。


五百石 鉄炮一挺 鑓三本持鑓共
千 石 鉄炮二挺 弓一張 鑓五本持鑓共 馬上一騎
二千石 鉄炮三挺 弓二張 鑓十本持鑓共 馬上三騎
三千石 鉄炮五挺 弓三張 鑓十五本持鑓共 馬上四騎 旗一本

  「徳川禁令考より」

これは石高に応じて装備を統一し、華やかな行列を行うための軍役令だ。
そのためこのように装備の数を規定している。

これを光秀の軍法と比べてみると、光秀の方は百石で騎上一騎、五百石からは馬上二騎とかなり加重で、しかも鉄砲と並んで必要不可欠な弓が入っていない。
逆に指物やのぼりの数が多くなっていることから、これも不可解な点だ。
そうした軍役令が戦国の時代にある光秀が制定したとは考えにくい。

では、京都の馬揃え(信長が行った盛大な軍事パレード)をするために定めたものなのだろうか。
しかしそれも少し腑に落ちない点がある。

疑問その3 軍法は教養のない配下にも知らしめる必要がある

 もう一つ不思議な点は教養のない配下の武士に読ませたとするには、文章がかなり難解なことが挙げられる。
実際に軍令を守らせようとするなら、もっと簡単な文章で、重要なことから簡潔に書くのではないだろうか。

例えば、特に最後の条項に記されている「寸志も不黙止(寸志も黙止さず)」、「瓦礫沈淪之輩」、「国家之費頗似掠公務」、「出群抜粋粉骨」などは日本語というよりは、どちらかというと漢文的な表現だ。

云袷云拾」に関しては何を差しているのか意味が分からない。

比較のため、徳川家康が北条氏攻めの際に出した軍令をご紹介しよう。

一、無下知而、先手を指置物見を遣儀、可為曲事、
(下知無くして、先手を差し置き物見を遣わす儀、曲事たるべし事)
 訳)命令がないのに先手(さきて)を差し置いて物見を遣わすことは曲事(くせごと)とする。

一、先手を差越令高名といふとも、背軍法之上者、妻子以下悉可成敗事、
(先手を差し越し高名せしむというとも、軍法に背くの上は、妻子以下を悉く成敗すべき事)
 訳)先手を差し越して高名をあげても、軍法に背いているのだから、妻子以下をことごとく成敗する。

一、無子細而他之備江相交輩於有之者、武具馬共に可取之、若其主人及異儀者、共に以て可為曲事、但、於用所有之者、打ちよけて可通事、
(仔細無くして他の備へ相交わるともがらこれ有るにおいては、武具馬共にこれ取るべし。
もしその主人異儀に及ぶは、共に以て曲事たるべし。
ただし、用所これ有るにおいては、打ちよけて通るべき事)

 訳)理由もなく他の備えに交わる者がいれば、武具と馬を没収する。
もしその主人が抗議するようなら、共に曲事である。
ただし、用事のあるものは避けて通れ。

一、諸事奉行人之指図を令違背者、可為曲事、
(諸事奉行人の指図を違背せし者、曲事たるべし)
 訳)すべて奉行人の指図に違背する者がいれば、曲事とする。

(中略)

一、無下知而於令陣払者、可為曲事、
(下知無くして陣払いせしむにおいては、曲事たるべし)
 訳)命令もないのに陣を撤収する者がいれば、曲事とする。

右條々於違背者、日本国中大小神祇も照覧あれ、無用捨可令成敗者也、仍如件、
(右の条々違背するにおいては、日本国中大小の神祇も照覧あれ。
容赦無く成敗せしむべきものなり。
仍って件の如し)

 訳)右の条々を違背すれば、日本国中大小神祇(じんぎ)にかけて、容赦なく成敗する。
よってこのように定める。


  天正十八年二月吉日   家康 在判

    「徳川禁令考より」

これと明智軍法とを見比べてみてほしい。
ずいぶん文章が違っているのではなかろうか。

家康の軍令に比べ、光秀の軍法は「魁之人数」、「仁不肖に寄らず」など当時使われたとは思えない用語が頻出する。

役者」と表現しているのも不可解な点だ。
家康の軍規のように、指揮官のことは「奉行人」とするだろうし、「武者」という表現もあまり使わないと思う。

疑問その4 料紙や字体

 私には分からないことなのだが、紙の大きさが中途半端で、文字自体も後の世のものに近いらしい
ただ、花押だけは光秀のものに非常によく似ている。

このように不自然な文書であるから十分な検証が必要なのだが、学者によってはこの「明智軍法」が一次史料であるかのように引用していることから、それを信じて疑わない人まで出てきた。

作成されたとする日付が奇しくも本能寺の変のちょうど一年前とされているので、因縁めいたものを感じなくはないが、今年の大河ドラマ「麒麟がくる」がこれをどのように扱うのか少し楽しみではある。

明智軍法は実在したのか?

 普通に考えればこの「明智軍法」は、江戸時代の軍令に慣れた軍学者が、有名な明智光秀の軍法として偽作したものだと考えられる。
彼らはもともとが儒学者なので、なまじ教養があるだけに文章が漢文的で難解なことが多い。

しかし、それにしては意味が通じない箇所がある。
」を「動」としたり、「眼前雖為」という語順の間違った漢文、さらに「法度をそむくその科更に相遁るべからざる事」などの文を見ると、戦国よりももっと新しい時代の文章なのではないかと思う。

私は印刷されたものでしか原文を見ていないので、料紙については分からないのだが、同時代の原本史料よりは明らかに新しいものである可能性が高いようだ。

そうした検証が十分に為されていない史料を引用元にする学者の方々に、一度その是非についてお聞きしたいものだ。

来世ちゃん
来世ちゃん

ご覧いただきありがとうございました!
私の考えが決して正しいとは言えません。
本物か偽書か・・・。
その判断は我々一人ひとり持っていて良いと思います。

来世ちゃん
来世ちゃん

まぁ、ただ・・・儒学者の著作は誇張ならまだしも、捏造が多いんですよね。
私の偏見ですかねぇ(笑)

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