【古文書講座】「麒麟がくる」の明智光秀が細川藤孝に宛てた直筆書状を解読

【古文書講座】「麒麟がくる」の明智光秀が細川藤孝に宛てた直筆書状を解読
来世ちゃん
来世ちゃん

こんばんは!
とうとう当ブログも99記事になりました。
本当にありがとうございますm(__)m

来世ちゃん
来世ちゃん

今回は明智光秀の直筆書状を解読します。
文が短めで難易度も低いので、解読初心者にはもってこいの文書だと思います。

来世ちゃん
来世ちゃん

私は筆跡心理学に多少心得があるのですが、昔の人の筆跡は勉強不足なのでまだ無理ですw
明智光秀の性格についてはあまり詳しく知りません。
いつものように釈文書き下し文現代語訳時代背景を説明させていただきます。

古文書解読の事典はこちらです(内部リンク)

  1. 古文書解読の基本的な事 よく出る単語編 五十音順「あ」~「こ」
  2. 古文書解読の基本的な事 よく出る単語編 五十音順「さ」~「と」
  3. 古文書解読の基本的な事 よく出る単語編 五十音順「な」~「ほ」
  4. 古文書解読の基本的な事 よく出る単語編 五十音順「ま」~「ん」
  5. 古文書解読の基本的な事 返読文字によくある傾向を実際の古文書を例に説明

まず最初に原文と書き出し文、現代語訳をご覧いただこう。

明智光秀が細川藤孝に宛てた直筆の書状

明智光秀肖像画
明智光秀肖像画

明智光秀(????-1582)

出自については諸説あり。
幕臣として足利将軍家に仕え、越前朝倉家を経て織田信長に仕える。
徐々に頭角を現し戦功を積み重ね、近江坂本城、丹波亀山城などを知行とした。
娘の玉子を細川忠興へ嫁がせるが、突然謀反を起こし織田信長を討つ。=本能寺の変
しかし、その後羽柴秀吉に山崎の合戦で敗北し、敗走中に討たれた。

原文

明智光秀が細川藤孝に宛てた直筆の書状1枚目
(年次不明)十二月二十四日付明智光秀文書(A)
明智光秀が細川藤孝に宛てた直筆の書状2枚目
(年次不明)十二月二十四日付明智光秀文書(B)

釈文

有吉平吉身上之事

此間各御馳走之由承

及候雖若輩候御用にも

被相立由承及候条、尤之

儀候弥於別儀者

帰参之事藤孝へ御断

申度候於御入魂者

可為祝着候委曲御返

事ニ可示給候恐々謹言

   日向守

十二月廿四日 光秀(花押)

 岡本主馬助殿
 岡本新三郎殿
 岡本甚介殿
 岡本孫次郎殿
   御宿人々

原文に釈文を記してみた

原文に釈文を記してみたA
原文に釈文を記してみた(1)
原文に釈文を記してみたB
原文に釈文を記してみた(2)

書き下し文

有吉平吉身上の事

此の間、おのおの御馳走の由、承り

若輩に候といえども、御用にも

相立てらる由承り及び候条、尤も

の儀に候。いよいよ別儀に於いては、

帰参の事、藤孝へ御断わり申したく候。

御入魂に於いては

祝着たるべく候。委曲

御返事に示し給ふべく候。 恐々謹言

   日向守

十二月二十四日  光秀(花押)

  岡本主馬助殿
 岡本新三郎殿
 岡本甚介殿
 岡本孫次郎殿
   御宿人々

現代語訳

有吉平吉の身の上について、この間、そちらでお世話になっていることを聞きました。

(有吉は)若輩者ではありますが、いずれ役に立つ男だと承知しており、もっともなことと思います。

私も特別に彼の帰参について細川藤孝を説得してみたいと思います。

そういうわけなので、これからも(有吉のことを)面倒をみていただければ嬉しく思います。

詳しいことはまたお知らせします。
 12月24日
  明智光秀

  岡本主馬助殿
 岡本新三郎殿
 岡本甚介殿
 岡本孫次郎殿
   御宿人々

この書状の解読ポイント

原文に釈文を記してみたA

2行目などにあるは「よし」と読み、~とのこと(伝聞)という意味だ。

3行目の「」という文字。
これは「いえども」と読み、意外と古文書頻出単語なので覚えておいて損はない。
動詞なので返り文字になるパターンが多い。
今回も「雖若輩」(じゃくはいといえども)と文字が返っている。

関連記事:古文書解読の基本的な事 返読文字によくある傾向を実際の古文書を例に説明

4行目の「相立てらる」は、役に立つという意味。
プラス受け身系(受動態)の「被(らる)」が付いている。

」という文字。
これは「もっとも」と読む。
何よりも一番という意味の「最も」ではなく、道理にかなっていることを指す「尤も」だ。

5行目の「」という文字。
これだけで「いよいよ」と読む。

」という文字。
これは「もの」と読む場合と「(~)は」とよむ場合がある。
文脈を見て判別しよう。

弥於別儀者」だと「いよいよ別儀においては」となる。

6行目の「藤孝」という文字。
これは細川幽斎(藤孝)のことで、明智光秀とはマブダチだ。
彼と光秀の関係については後述させてもらう。

原文に釈文を記してみたB

最初の文字の 「一、」みたいになってるやつは、箇条書きの一つではない。
これは「可(べく)」のくずし字でよくあるパターンだ。
基本的に頻出する漢字ほど崩され方が激しくなる傾向にある。

4行目の「廿」という文字。
これは「二十」と読む。数字の20だ。
ちなみに「卅」で30と読む。

この書状の時代背景

 この書状の正確な年次は残念ながら不明だ。
恐らくは天正8年(1580)前後ではないかと思う。

文中に出てくる「有吉平吉」という人物はどうやら細川家の家臣だったようで、何があったか知らないが主君・細川藤孝の不興を買い細川家を離れて岡本一族の世話になっていたようだ。

光秀は岡本主馬助らから
「平吉が若いにもかかわらずしっかりしていることを聞かされ、帰参できるように藤孝にかけあってみよう」
と約束した時の書状である。

明智光秀と細川藤孝の関係

 彼らはともに室町幕府の幕臣同士で足利義昭を支える立場であった。
明智光秀の出自についての史料は乏しいのだが、信長上洛後は織田信長と足利義昭の二重に仕える家臣であったことは間違いないようだ。

細川藤孝肖像画
細川藤孝(幽斎)肖像画

細川藤孝(幽斎) (1534~1610)

室町幕府に仕える幕臣。
13代将軍・足利義輝が三好三人衆と松永久通らに暗殺された際、奈良で幽閉されていた義輝の実弟を救出する。
その実弟は還俗して足利義昭と名乗る。
近江六角氏、若狭武田氏、越前朝倉氏を頼ったのち、織田信長の保護の下、足利義昭が15代将軍に就任した。
しかし、明智光秀らとともに信長側について将軍家は滅亡。
その後は明智光秀の与力となるが、本能寺の変で信長は死亡。
光秀に就かずに隠居することを宣言し、名を幽斎と改めた。

さまざまな古文書から光秀と藤孝の仲が良いことは明らかになっている。
将軍を滅ぼした信長に、光秀と藤孝は共に忠誠を誓い出世していった。

天正6年(1578)8月に信長の命で明智光秀の娘・玉子を細川藤孝の嫡男である忠興に嫁がせて、縁戚関係となった。

なぜ光秀は細川家の人事に介入したのか

 いかに光秀と藤孝が昵懇じっこんの仲とはいえ、他家の人事に介入するのは越権行為である。
それが出来たのは、恐らく細川家がその当時、明智光秀の与力大名になっていたからだろう。

与力とは中世の寄子・寄親制度の流れで、明智光秀の家臣ではないけど、軍事行動を起こす時だけは明智光秀が動員してよいという意味だ。
つまり、おなじ織田信長の家来だけど、指揮権を光秀に与えることによって、臨機応変な軍事行動をとれるようにしたのだ。

そうしたことから、明智光秀は細川家に間接的に介入することができたと考えられる。

来世ちゃん
来世ちゃん

今回もご覧いただきありがとうございます。
「明智光秀 直筆」で調べても、本能寺の変関連の史料しか出ないので、あまり知られていない史料を題材にしてみました^^
内容自体は大したこと書いてませんが、当時の光秀と藤孝の関係を知る上で興味深い史料です。
それに古文書解読初心者には丁度良い史料だと思います。

来世ちゃん
来世ちゃん

ちなみに本能寺の変は天正10年(1582)6月2日のことなので、この書状からさほど年月が経たっていないことになりますね。

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