麒麟がくる明智光秀の古文書 愛宕山へ宛てた書状から丹波攻略を見る

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麒麟がくる明智光秀の古文書 愛宕山へ宛てた書状から丹波攻略を見る
らいそくちゃん
らいそくちゃん

今回は明智光秀の丹波国攻略の様子が窺える古文書を解読します。
まずは本書状の概要を大雑把に説明し、次いでメインとなる書状の解読。
次の記事で光秀の丹波攻略を詳しく探りたいと思います。

現代語訳はこのページの中央付近にあります。

この書状の時代背景

 この書状は明智光秀が信長の命令で丹波国を攻めていた時期のものです。
天正3年(1575)から始まった丹波攻めは、荻野悪右衛門おぎのあくえもん(赤井直正)の黒井城を攻めている際、波多野秀治らの裏切りに遭い光秀が大敗北を喫したことや、光秀自身が各地へ転戦を余儀なくされたこともあり、思うようには進みませんでした。

丹波国略図a

丹波国簡略図

それでも光秀は天正5年(1577)10月に亀山城の攻略を皮切りに、徐々に勢力を伸ばしてついに八上やがみ城を攻略。
天正7年(1579)8月には、過去に煮え湯を飲まされた黒井城を攻め落とし、丹波平定に成功したのでした。
関連記事:大河ドラマとなる明智光秀の生涯をなるべく詳しく(3)

今回の「愛宕山宛八月二十四日付惟任これとう光秀書状」はまさにそうした時期のものです。
丹波平定を目前にした明智光秀がどのような思いで愛宕山にこの書状を書いたのか。
詳しい解説は後で述べるとして、まずは本文をご覧いただきましょう。

明智光秀が愛宕山に宛てた書状を解読

 この書状は丹波征服が大詰めを迎えた時期のこと。
光秀に最後まで抵抗していた氷上郡(ひかみごおり)の赤井忠家を攻めていた時に書かれたものです。

明智光秀の姓に馴染みのない方がいらっしゃるかもしれませんが、この時期の光秀は信長の計らいによって、朝廷より「惟任(これとう)」の姓を賜っていました。

原文

明智光秀が愛宕山へ宛てた書状(本文)

愛宕山宛八月二十四日付惟任光秀書状
(安土考古博物館所蔵)

釈文


   猶以当郡弐百石之事、
  毎年可申付候、弥於
  御神前御祈念所
  仰候、 已上、
最前出陣之砌、奉籠
願書候き、氷上郡之儀、
任存分申付候条、於
柏原弐百石令奉納候、
早々被差下相模、可被相談候、
高見之事、執詰陣候、
落居不可有幾程候、
今日御神日候之条、目出度
及其御案内候、近日者久下
令居陣候、一両日中
和田面可令発向候、猶
追々慶事可申述候、□
御申上候、

  八月廿四日 光秀(花押)


(封書上書)
(墨引き) 惟任日向守光秀
愛宕山咸徳院法印御坊
   御同宿中

最後の「□御申上候、」の部分は、「恐惶謹言」ではないかとのご指摘を頂きました。(2020.8.8)

この書状を朗読させてみました。
再生ボタンを押すと音声が流れます。(スマホも可)

『VOICEROID+ 結月ゆかり EX』(株式会社AHS)

※御神日はなんと読むのか分かりません。

原文に釈文を記してみた

(a)

明智光秀が愛宕山へ宛てた書状(釈文a)

愛宕山宛八月二十四日付惟任光秀書状a+釈文

(b)

明智光秀が愛宕山へ宛てた書状(釈文b)

愛宕山宛八月二十四日付惟任光秀書状b+釈文

最後の「□御申上候、」の部分は、「恐惶謹言」ではないかとのご指摘を頂きました。(2020.8.8)

補足

・「猶以当軍なおもってとうぐん…」からはじまる部分(オレンジ色)は現在でいう追伸部分になります。
ですので、この部分は本文を読み終えた後に戻って読みます。
猶以(なおもって)から始まるのが特徴的なため、「尚々書き(なおなおがき)」といいました。

・動詞や助動詞形の文字(可ベク・被ラレ・任マカセ 等)は返読文字になる場合が多いです。
他にも「有・無・多・少」なども返読する場合があります。
返読文字についての説明はこちらをご参照ください。
関連記事:古文書解読の基本的な事 返読文字によくある傾向を実際の古文書を例に説明

・「柏原」私も詳しくは存じませんが、丹波国の地名で、”かいばら”と読むようです。

・「早々被差下相模(はやばやさがみをさしくだされ)」
この相模とは恐らく人物の名前ではないかと思いますが、詳しくはわかりません。
愛宕山サイドの人物なのか気になるところです。

・「和田表(わだおもて)」とは恐らく丹後国与謝郡明石村かと思われます。
ここは織田家に降った和田弥十郎の本貫地です。
(次回の記事で和田弥十郎宛ての光秀書状に触れます)

書き下し文


 最前に出陣の砌(みぎり)、願書を籠め奉り候き。
氷上郡(ひかみごおり)の儀、存分に任せ申し付け候条、柏原(かいばら)に於いて二百石奉納せしめ候。
早々相模を差し下され、相談ぜらるべく候。
高見の事、陣を取り詰め候。
落居幾程有るべからず候。
今日御神日候条、めでたく其の御案内に及び候。
近日は久しく居陣せしめ候。
一両日中に和田表(わだおもて)へ発向せしむべく候。
尚、追々慶事申し述べるべく候。
?御申し上げ候。

 尚もって、当郡二百石の事。
毎年申付くるべく候。
いよいよ御神前において御祈念仰ぐところに候。
以上

  八月二十四日 光秀(花押)


(封書上書)
(墨引き) 惟任日向守光秀
愛宕山威徳院法印御坊
   御同宿中

原文に書き下し文を記してみた

(a)

明智光秀が愛宕山へ宛てた書状(書き下し文a)

愛宕山宛八月二十四日付惟任光秀書状a+書き下し文

(b)

明智光秀が愛宕山へ宛てた書状(書き下し文b)

愛宕山宛八月二十四日付惟任光秀書状b+書き下し文

現代語訳

 出陣の直前に願文をしたためました。
氷上郡の柏原(かいばら)の地200石をそちらに奉納するように申し付けました。
そのことについて、なるべく早くに(取次ぎ役の)相模をこちらへ遣わして下さい。
細かい話はその時にお話しします。
現在は高見城を包囲中です。
落城は時間の問題でしょう。
今日は御神日なので、祝儀の使者を遣わしました。
(本来ならば私がそちらへ伺いたいところですが)高見城包囲のためにここを動けず、今日・明日にでも若狭の和田へ遠征せねばなりません。
それゆえ、後日改めて慶事を申し述べるつもりであります。
なお、200石奉納の件は、毎年そのように致すよう申し付けました。
益々ご利益あらんことを祈るばかりです。
以上。
(1579)8月24日 光秀

明智光秀と愛宕山の関係

 愛宕山は山城国と丹波国の国境に位置する霊山として信仰対象となっている山で、古くから多くの参拝者で賑わう場所でした。
戦国期には、愛宕の本地仏とされた勝軍地蔵(しょうぐんじぞう)の信仰が武士に厚く信仰されていました。

応仁の乱後に覇権を握ったあの細川政元も、愛宕信仰に深く帰依した一人として知られています。
また、遠く離れた薩摩国の大名、島津義久とも深い繋がりがありました。『上井覚兼日記』

愛宕山の愛宕地蔵

愛宕山の愛宕地蔵

明智光秀と愛宕山のやりとりの初見は天正3年(1575)の越前一向一揆征伐の時で、以降光秀は同寺に対し、たびたび奉納の品を送っています。
今回の文書に出てきた高見城とは、氷上郡の赤井五郎(忠家)が立て籠もる城で、この一帯を征服してようやく光秀は丹波一国を平定することができました。

今回光秀が宛てた威徳院とは天台宗の寺院です。
愛宕山五坊の一つで、威徳院西坊と呼ばれていました。
光秀は愛宕百韻で宿坊としていることからも、大檀那(檀家)だったと見て良いでしょう。
200石も寄進したのですから、よほど親密な関係だったと考えられます。

光秀の宗教観が少し見える気がして面白いですね。
この愛宕山こそ本能寺の変の数日前に明智光秀が連歌の会を催し
「時は今、雨が下知る・・・」
と詠んだとされる場所です。

明智光秀は同じ日にもう一つ手紙を書いていた

 今回明智光秀が愛宕山へ宛てた手紙の他に、実は光秀はもう一通書状を書いていることが分かっています。
それが以下の内容です。

(釈文)
 今度赤井五郎御成敗之儀、被仰出、任上意之旨申付候、仍在々所々不寄誰々、急度可環住者也、
天正七年
  八月廿四日 光秀(花押)
   氷上郡
    寺庵中
    高見山下町人中
    所々名主中
    所々百姓中


(八月二十四日付丹波氷上郡寺庵中等宛惟任光秀副状)

(書き下し文)
このたび赤井五郎(忠家)御成敗の儀、仰せ出され、上意の旨に任せ申し付け候。
仍って在々所々誰々によらず、きっと環住すべきものなり。
天正七年(1579)
  八月二十四日 光秀(花押)
   氷上郡
    寺庵中
    高見山下町人中
    所々名主中
    所々百姓中

これは恐らく高見城・黒井城が陥落して、氷上郡で組織的に抵抗する勢力がいなくなった。
そこで、戦乱を逃れて避難していた氷上郡中の寺院や吉見山麓の町人、名主たちに元といた地に戻るように命じた文書だと考えられています。

征服した地を統治するにも、民衆から嫌われていたままでは大変でしょうからね。
戦乱によって荒れ果てた田畑では耕作が出来ず、年貢による収入が期待できません。
こうした政策を還住政策といいます。

また、これは副状(そえじょう)なので、これとは別に主君の織田信長が出した本状があったはずです。
中世の日本では、ただ大名が発給した文書だけでは正式なものとはされませんでした。
これに添えて、家老や大名側近が副状を発給することで、初めて正式なものとなったのです。

らいそくちゃん
らいそくちゃん

ご覧いただきありがとうございました!
ここまでざっくりとですが、光秀の丹波攻略の概要と今回の文書を説明いたしました。

次回は光秀の丹波攻略を初めから時系列で追っていき、地図とともに何年何月まで光秀がどこまで勢力を伸ばしたのかを書きたいと思います。
お楽しみに!

参考文献:
山本博文,堀新,曽根勇二(2013)『戦国大名の古文書 西日本編』柏書房
奥野高廣(1988)『増訂 織田信長文書の研究 下巻』吉川弘文館
奥野高廣(1988)『増訂 織田信長文書の研究 補遺・索引』吉川弘文館
谷口克広(1995)『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館
太田牛一(1881)『信長公記. 巻之上』甫喜山景雄
工藤克洋(2016)『≪論文≫戦国期における愛宕山五坊・山伏の諸国勧進』同朋大学佛教文化研究所紀要 第三十五号(2016年三月)抜刷
丹波の森公苑(2014)『平成25年度講座「丹波学」講義録』(公財)兵庫丹波の森協会文化振興部
白浜睦男(1999)『地図で訪ねる歴史の舞台-日本-』帝国書院
林秀夫(1999)『音訓引 古文書大字叢』柏書房
中田祝男(1984)『新選古語辞典』小学館
など

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