美濃攻略時代

織田信長が美濃を標的にし、本格的に侵攻作戦を開始した永禄3年(1560)6月から、稲葉山城を攻め落とす永禄10年(1567)9月15日(諸説あり)までの時期です。

信長家臣団が出した古文書

~忠義か家名存続か~戦国時代の書状から見える闕所(欠所)の無常さ

忠義か家名存続か、それとも権益拡大か・・・。戦国時代の小領主はいろいろと大変でした。今回は「闕所(欠所)」という視点から実際の史料を例にして見ていきたいと思います。当ブログは戦国時代の面白さを古文書から紹介するサイトです。
織田信長が出した古文書

闕所(欠所)ってなに?織田信長が発給した判物を例に解説します

中世日本の闕所(けっしょ)という謎ルールについて織田信長の判物を例に解説します。"これはどちらの意味を指すのか"クイズ感覚で楽しんでいただければ幸いです。当ブログは古文書を解読し、当時の人々の生き様を紹介するサイトです。
絵本石山軍記

「絵本石山軍記」の解読(9)覚慶、細川藤孝らの助けで奈良を脱出 流浪将軍足利義秋の誕生

戦国時代は織田信長や本願寺顕如上人らが活躍した時代。そうした権力者たちの軍事行動に特化した古文書を軍記物といいます。当サイトはそうした古文書を丁寧に解読し、当時の人々の生き様をご紹介します。
3.織田信長の合戦や外交の詳細記事

信長が築いた小牧山城を古地図と信長公記から読み解く

織田信長が築いた小牧山城ですが、現在でもさまざまな疑問があります。信長の居館も正確な場所は不明なようです。そもそもなぜ信長は小牧山への移転を決意したのでしょうか。今回は古文書の「信長公記」からも引用し、そこで感じた個人的な見解も書いています。
織田信長が出した古文書

美濃攻略!織田信長の楽市・楽座政策の真相

今回は信長が稲葉山城を攻め落とした直後の時代。稲葉山城下である「加納に出した制札」の解読をします。古文書の読み方と共に、加納に楽市・楽座令が実施されたことによって、どのような影響を与えたのかご説明します。
3.織田信長の合戦や外交の詳細記事

堂洞城の戦い 戦の功名と八重緑の悲劇

織田信長が進める美濃攻略の大きな契機となった堂洞城の戦い。あまり有名な戦いではないが、中濃で一番の激戦が繰り広げられ、鉄の結束を誇ってきた斎藤家は、これ以後衰退の一途をたどるのである。
織田信長が出した古文書

信長が上杉輝虎(謙信)に養子を出そうとしていた事実

織田信長が美濃攻略中に、上杉輝虎(謙信)へ養子を送ろうとしていたことはご存じだろうか。今回は古文書から読み解く当時の情勢や養子の件の顛末、そして様々な疑問について考察する。
3.織田信長の合戦や外交の詳細記事

十四条・軽海合戦 一日二決戦!まさかのダブルヘッダー

永禄4年(1561)。先の森部合戦で勝利した信長は、墨俣城を奪取。大きな損害を受けながらも墨俣城に入り、兵を休まる暇なく痛手を受けた墨俣城の修復に取り掛かっていた。敗れた斎藤軍だが、すぐさま新手の兵を繰り出し、墨俣より北北東6キロの十四条村に布陣。信長もこれを迎え撃つため十九条村に布陣するのだが・・・
2.織田信長の年表ちょっと詳しめ

織田信長の年表ちょっと詳しめ 美濃攻略戦

今回は織田信長の年表4回目です。永禄7年(1564)9月後半から永禄10年(1567)9月までとなっております。この間の主な出来事は、上杉輝虎との外交、永禄の政変、加治田城主佐藤父子の内応、鵜沼城の戦い、猿啄城の戦い、加治田城救援戦、堂洞城の戦い、烏峰城の戦い、関城の戦い、武田家との縁組外交、河野島の戦い、北伊勢侵攻、稲葉山城の戦いです。
3.織田信長の合戦や外交の詳細記事

森部の戦い 美濃攻略に燃える信長と若き前田利家の武功

桶狭間の戦いに大勝利した信長は、次なる野心を隣国美濃に向ける。美濃は亡き舅の斎藤道三が治めた地であった。永禄3年(1560)。信長は美濃に2度攻めたが、いずれも敗北を喫している。美濃の屈強な侍と、濃尾の国境に流れる3つの大河・・・。何か手を打たねばならぬと考えていた矢先、思いもよらぬ朗報が信長の元にもたらされるのであった。
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