~忠義か家名存続か~戦国時代の書状から見える闕所(欠所)の無常さ

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~忠義か家名存続か~戦国時代の書状から見える闕所(欠所)の無常さ
らいそくちゃん
らいそくちゃん

中世の日本社会を理解する上で「闕所(欠所)」は避けて通れません。
以前、闕所(欠所)ってなに?織田信長が発給した判物を例に解説しますで大まかに書いたことがありますが、今回はさらに掘り下げ、実際に闕所処分となった土地はどうなったのか。
そこを領した一族郎党はどのような命運を辿ったのかを説明いたします。

御恩と奉公 土地と忠義の結びつき

 戦国時代は激動の時代です。
畿内西国の応仁・文明の乱は歴史上の有名な出来事ですが、関東地方でも享徳の乱という大乱が起きています。
この激動の波は日本六十余州のテクノロジーと社会制度を変えるのに十分な力を持っていました。

一部の国人勢力は守護や守護代を放逐。
新たな秩序を作ります。
家臣には知行として給地・給分を与え、代わりに軍役奉公を義務付けることで軍事力を強化しました。
時には利権のこじれから、近隣他国を攻め取ることもあったでしょう。

闕所(欠所)


所領安堵と所領没収の一例

闕所けっしょ(欠所)とはなにか。
インターネットや手持ちの古語辞書に載っている内容を要約すると、だいたい以下の文言が記されています。

  • 領主の決まっていない土地。
  • 欠けている不十分なところ。
  • 江戸時代の刑罰の一つ。
    領地または財産などを官が没収すること。
    追放以上の重い刑罰。
  • 裁判で改替されたりした荘園の諸職。

と、いろいろな意味が載っていますが、戦国時代に登場する「闕所」とは、領主の決まっていない土地、あるいは領地の没収を指す場合がほとんどです。

今回の記事はこうした闕所(欠所)に関するもので、以前書きました「闕所(欠所)ってなに?織田信長が発給した判物を例に解説します」よりもさらに踏み込んだ内容となっています。

織田信長が元亀2年に発給した領中方目録

 今回例として紹介する書状は、織田信長が元亀2年(1571)12月に重臣の佐久間信盛へ発給した朱印状の写しです。
一種の判物はんもつですので、後々にも効力を持ち得るいわゆる証書の類です。
内容としては「どこどこの領地をお前に与える。」あるいは、「だれだれを新たな寄力としてお前の配下に附属させる」といったことが記されています。

まずは原文と翻刻をご覧いただきましょう。
闕所(欠所)については後で説明いたします。

原文

元亀二年十二月日付け領中方目録写

『元亀二年十二月日付け領中方目録写(東京大学史料編纂所所蔵文書)』

釈文

    領中方目録

一、貮百石 金森
一、百五十石 馬渕豊前分
一、参百石 本間四郎兵衛分
一、四百石 本間又兵衛分
一、五百石 野洲、栗本、桐原
  嶋郷ニ在之、
         種村分
一、参百石 栗田分
一、百五十石 楢崎内膳分
一、八十石 鯰江満助分
一、野洲、栗本郡幷桐原ニ在之山門山徒、為闕所申付事、
一、建部幷上之郡ニ在之日吉山王領、同山門山徒令扶助事、
一、為新与力、進藤、青地、山岡申付候、但進藤事、於
志賀郡令扶助至侍共者、明智ニ可相付事、


右令扶助畢、然上、前後之朱印何方へ雖遣候、令
棄破申付之条、不可有相違之状如件、


  元亀弐
    十二月 日  信長(朱印影)
          佐久間右衛門尉殿

この書状を朗読させてみました。
再生ボタンを押すと音声が流れます。(スマホも可)

『VOICEROID+ 結月ゆかり EX』(株式会社AHS)

補足

 ここでは難しい表現や紛らわしい字を、補足という形で説明させていただきます。
古文書解読に関心のある方はご覧ください。

元亀二年十二月日付け領中方目録写(釈文)

1行目の「領中方目録
目録とは内容をあげ連ねて記した名簿という意味です。
領中とあるので、所領に関した名簿となります。
「方」のくずし方はこれが基本形で、”事”のくずしとやや似ています。
このような下の方向へ伸びる漢字は、ひらがなの”す”のように、一旦巻く傾向にあります。

2行目の「一、貮百石 金森
古文書では箇条書きで記す際、「一」と表現することがよくあります。
ひとつ、〇〇の事。ひとつ、〇〇すべからざる事。ひとつ・・・といった形です。

「貮」は弐の旧字ですので、貮百石で200石となります。
200石にどれくらいの価値があるのかについては後述します。

「金森」というのは地名の金ヶ森(かねがもり)のことで、現在も滋賀県守山市金森町に存在する商業が盛んな寺内町でした。

3行目の「馬渕豊前分」は難読かもしれませんね。
しかし、どれもこれが基本のくずし方なので、理屈抜きで覚えた方が良さそうです。
特に「馬」の字が原型を留めていまね。
もしかすると、将棋をされたことがある方ならぴんとくるかもしれません。
角行の駒を裏返すと、下の図2列目左から2番目の字のような”る”に近いくずしになります。

将棋の駒の表と裏

角行の裏は「龍馬」と書いている

ちなみに桂馬の裏は成り桂なのですが、さきほど登場した「金森」の「金」と同じようなくずしをしています。
「前」のくずしも特に覚えるコツはありません。
何度も反復して覚えた方がよさそうです。

「前」のくずし方

「馬」と「前」は古文書で頻出するため、優先して覚えた方が何かと便利です。

4行目の「本間四郎兵衛分
“〇郎兵衛”の名前がこの時代に多いためか、大きく崩される傾向にあります。
しかし、この史料はまだ丁寧な方で、もっと大きくくずされることの方が多いかもしれません。
特に「間」が難しいかもしれませんが、分解するとこのような形となります。

間のくずし方

「郎」と「衛」も難読ですが、人名だと分かれば、あとは推測でなんとかなります。

なお、この史料に頻繁に登場する「~(人名)分」とあるのは、誰々の領地”だった”という意味です。
つまり、ここでは本間四郎兵衛の所領だった300石ということになります。
これは闕所と大きく関係する部分ですので、後で詳しく説明いたします。

6行目中段の「嶋郷ニ在之、
これは地名の「嶋郷にこれある」と読みます。
今回初めて返読文字が登場しましたね。
「之」→”これ” 「在」・(有)→”ある” または “あり” です。
有り無し多い少ないといった量を表す単語は返読文字になる傾向にあるため、このような書き方となります。
「之」は助詞の”~の”という意味でも用いられるので、そこは文脈から判断するしかありません。

「郷」のくずしは原型を留めていませんが、これが基本形となります。
〇〇郷は基本的に地名ですので、その前の文字から推察しましょう。

10行目の「野洲、栗本郡幷桐原ニ在之山門山徒、為闕所申付事、

「幷」は”并”の旧字です。
併せると同じ意味ですが、中世日本では”ならびに”とよく読みましたので、ここでは便宜上、”並びに”と表現します。

「在之」で”これあり”、あるいは”これある”と読むため、
「野洲、栗本郡(ごおり)ならびに桐原にこれある山門山徒」
となります。
山門山徒(さんもんさんと)は比叡山延暦寺の僧兵を指します。

続いて読んでみましょう。
「為闕所申付事、」

「為」は”~のため”、”~として”、”~たる”と読みます。
何かを補足する際に用いられる漢字も返読文字となる傾向にあるため、次の文字から先に読みましょう。

この場合、「闕所(欠所)として」と読んだ方が意味がつながりそうです。
今回は判物形式の書状ですので、「申付事(もうしつくるのこと)」としたほうがしっくりきます。

始めから読み下すと
野洲、栗本ごおり並びに桐原にこれ在る山門山徒を、闕(欠)所として申し付くるの事。
となります。
今回の闕所は領地没収を指しますので、
「野洲郡・栗本郡ならびに桐原の比叡山領を没収する」という意味になるでしょう。

つまり、これは元亀2年(1571)12月に発給された判物はんもつですので、比叡山焼き討ち後の領地仕置しおきの意味合いを持ったものとなります。

11行目の「建部幷上之郡ニ在之日吉山王領、同山門山徒令扶助事、
建部たけべならびに上之郡にこれ在る日吉山王領、同じく山門山徒を扶助せしむる事。」と読みます。

「令」ですが、古文書では”~せしめ”、あるいは”~せしむ”と言い、~させる、~をなさる、~をあそばす、~させていただくと非常に幅広い意味で用いられました。
これも何かを補足する際に用いられる漢字ですので、返読文字になる傾向にあります。
今回は「令扶助事」とありますので、”扶助せしむる事”と読むのが自然でしょう。

建部(たけべ)と上之(かみの)郡は地名のことで、現在も滋賀県東近江市八日市に存在します。

日吉山王(ひよしさんのう)とは、近江坂本方面に位置する宗教勢力で、比叡山延暦寺に味方して信長と戦いました。
山門山徒は先ほども登場しましたが、比叡山延暦寺の僧兵を指します。
比叡山焼き討ち後の戦後処理と論功行賞の結果、日吉大社と山門山徒(比叡山延暦寺)が領する建部と上之郡を、闕所として信長が没収し、新たに佐久間信盛に扶助した(与えた)のでしょう。

次の「為新与力、進藤、青地、山岡申付候、但進藤事、於志賀郡令扶助至侍共者、明智ニ可相付事、

「為新与力」で”新与力として”、あるいは”新たな与力として”と読みます。
「為」のくずしはこれはまだ甘い方で、もう少しくずれるとひらがなの”る”に近い字になります。
“而”も少し似たくずしをしているため注意が必要です。

「進藤」は読みにくいかもしれませんね。
しかし、どちらもこれが典型的なくずし方です。
しんにょうが入る漢字はどれもこのように大きくくずされる傾向にあります。

「藤」は”故”と非常によく似たくずしをしているため、文脈から判断するのがよいかもしれません。

故のくずし方

進藤・青地・山岡はいずれも人名のことで、信長が近江を支配するよりはるか昔から土着していた領主でした。
「申付候」とありますので、この3名を新たに与力として佐久間に附属させたのでしょう。

ここまでを読み下すと
新与力として、進藤、青地、山岡を申し付け候。但し進藤の事、
となります。
続いて読んでみましょう。

「於志賀郡令扶助至侍共者」
返読文字が3文字散りばめられていて、少し読むのが難しいかもしれませんね。
まず、ひらがなの”お”とあるのが、「於」です。
非常によく似た字なのは、字源がこの字だからです。
これも”~において”という何かを補足する意味の漢字ですので、返読文字となります。
この場合、「於志賀郡」ですので、”志賀郡において”と読みましょう。

「令扶助」で”扶助せしめ”ととりあえずは読んでおきましょう。

「至侍共者」
「至」が返読文字となるため、”~いたり(る)”、あるいは”~にいたって”と読む場合が多いです。
「者」は現在とは使われ方が異なり、助詞の”~は”と読む場合もありました。

者のくずし字

「者」のくずし方

「は」の文字いろいろ

「は」の文字いろいろ

今回の場合、「侍共」から読み始め、「至」→「者」の順で読みます。
すなわち「侍共に至っては、」です。
一つ前の「令扶助」=”扶助せしめ”では意味がつながりませんので、「扶助せしむる侍どもに至っては、」と読むのが自然でしょう。

ここの文節を読み下すと
志賀郡において扶助せしむる侍どもに至っては、
となります。
志賀郡は現在の滋賀県湖西に位置する地域を指します。

信長入国以前の近江国有力者

信長入国以前の近江国有力者

続けて読んでみましょう。
「明智ニ可相付事、」
明智とは「2020年度NHK大河ドラマ麒麟がくる」の主人公明智光秀のことです。
明智もこの判物はんもつと同時期に、信長から近江志賀郡を与えられ、大出世を遂げていました。
「可」は~すべき、~すべくと読み、返読文字です。
この場合は「相付」に掛かっていますので、「相付くべきの事。」となります。

この部分を読み下すと「明智に相付くべきの事。」ですね。
最初から現代語訳しますと
「新たに与力として進藤・青地・山岡を付け加える。ただし進藤に関しては、志賀郡に知行している侍たちのみ、明智に付け与える。」
となります。
これは非常に興味深い点で、佐久間信盛が支配する野洲郡と明智光秀が支配する志賀郡に、きっちりと境目を作ったと解釈できます。
野洲~志賀にかけて広大な領地をもつ進藤氏は佐久間の寄力となるが、志賀郡を知行する侍のみは明智に付けということになるわけですね。
明智に付いた侍たちは、これで進藤氏との主従関係がなくなったと見てよいのかもしれません。

右令扶助畢、然上、前後之朱印何方へ雖遣候、令棄破申付之条、不可有相違之状如件、

「令」はさきほども登場した”~せしめ”という返読文字です。
「畢(おわんぬ)」が聞きなれないかもしれません。
“終わる”に完了の助動詞の”ぬ”が合体したもので、終わった、終わってしまったという意味です。
公家の日記に多くみられる表現で、”訖”・”了”と記される場合もあります。
始めの文節を読み下すと
みぎ、扶助せしめおわんぬ
となります。

次の「然上」で、”然る上は”と読みます。
“然上者”と記される場合もあります。

「前後之朱印何方へ雖遣候、」
「何方」は”いずれかた”と読み、いずれへも・どちらへもという意味です。

「雖」はこれ一字で”いえども”と読み、返読文字となります。
雖然で、しかれども。
雖未申通候で、未だ申し通さず候といえども。
と読みます。

読み下すと
前後の朱印、いずれかたへ遣わす候といえども、
となります。
「之」の字が「令」と非常に似たくずしをしていますのでご注意ください。

「令棄破申付之条、」
「棄破せしめ、申しつくるの条」と読みます。
棄破は破棄と同じ意味で、無効にすると解釈しても良いでしょう。
「申」のくずしはアルファベットのPに似た形ですね。

「不可有相違之状如件」
「不可有」ですが、何かを否定する際に使う「不(ズ)」・~すべきという意味の「可(ベク)」が揃って返読文字です。
そのため、「有(アル)」から読み始め、「可」→「不」と順に返っていきましょう。
次の文章が「相違(そうい)」なので、”相違あるべからず”よりも”相違あるべからざるの”とした方が自然かと思われます。

最後の「状如件」は判物はんもつでよく使われる決まり文句のようなもので、「状(じょう)件(くだん)の如し」と読みます。
大名が家臣などの目下の者に与える書下(かきくだし)、下知状(げちじょう)はこのような書式を取ることが多いです。
一方で、同じ立場である大名へ宛てた書状は、私たちが時代劇で耳にする「恐々謹言(きょうきょうきんげん)」で文章を締める傾向にあります。

読み下しますと
右、扶助せしめ畢(おわんぬ)。然る上は、前後の朱印、何方(いずれかた)へ遣わす候といえども、棄破せしめ申し付くるの条、相違有るべからざるの状くだんの如し。
すなわち
「以上をそなたへ加増申しつける。従って、これに抵触する判物が前後にあったとしても、それは効力を持たないものとする。」
といった文意になります。

元亀二とは西暦1571年。
ちょうど畿内では、信長・足利義昭政権への反発が激しい時期のことで、信長は佐和山城主の磯野氏を降し、さらに比叡山を焼き討ちにするなど近江国分国化に力を注いでいた時でした。

信長の花押かおうや朱印がないのは写しだからでしょう。
これと同様の判物はんもつは安土城の中川重政、長光寺ちょうこうじ城の柴田勝家へも発給されたと考えられますが、そちらは残念ながら現存していません。

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原文に釈文を記してみた

元亀二年十二月日付け領中方目録写(釈文)

(元亀二年十二月日付け領中方目録写+釈文)

書き下し文

   領中方目録

一、二百石 金森
一、百五十石 馬渕豊前分
一、三百石 本間四郎兵衛分
一、四百石 本間又兵衛分
一、五百石 野洲、栗本、桐原
  嶋郷ニこれある、
         種村分
一、三百石 栗田分
一、百五十石 楢崎内膳分
一、八十石 鯰江満助分
一、野洲、栗本郡並びに桐原ニこれ在る山門山徒を、闕(欠)所として申し付くるの事。
一、建部並びに上の郡にこれ在る日吉山王領、同じく山門山徒を扶助せしむる事。
一、新与力として、進藤、青地、山岡を申し付け候。但し進藤の事、
志賀郡に於いて扶助せしむる侍共に至っては、明智ニ相付くべきの事。

右、扶助せしめおわんぬ
然る上は、前後の朱印、何方いずれかたへ遣わす候といえども、
棄破せしめ申し付くるの条、相違有るべからざるの状くだんの如し。

  元亀二(1571)
    十二月 日  信長(朱印影)
          佐久間右衛門尉殿

原文に書き下し文を記してみた

元亀二年十二月日付け領中方目録写(書き下し文)

(元亀二年十二月日付け領中方目録写+書き下し文)

現代語訳

   領中方目録

  1. 200石 金ヶ森
  2. 150石 馬渕豊前の旧領分
  3. 300石 本間四郎兵衛の旧領分
  4. 400石 本間又兵衛の旧領分
  5. 500石 野洲、栗本、桐原、島郷の種村氏旧領分
  6. 300石 栗田氏の旧領分
  7. 150石 楢崎内膳の旧領分
  8. 80石 鯰江満助の旧領分
  9. 野洲郡・栗本郡と桐原にある比叡山延暦寺の旧領を没収する。
  10. 建部ならびに上の郡にある日吉山王の旧領と、比叡山延暦寺の旧領をそなたの新領として与える。
  11. 新たに与力として進藤(賢盛=野洲・志賀郡)・青地(元珍もとよし=栗田郡)・山岡(景隆=栗田郡)を付け与える。ただし進藤については、志賀郡に知行している侍たちのみ、明智(光秀)に付け与える。

以上をそなたへ加増申しつける。
従って、これに抵触する判物が前後にあったとしても、それは効力を持たないものとする。

1571年12月日 信長
   佐久間信盛殿

一石あたりいくらか 現在の相場から当時の年収を見る

 今回の判物はんもつに登場する200石や500石は、現在の相場で換算すると一体いくらになるのか。
年収にするとどれくらいの規模の社長に相当するのでしょうか。

とはいえ、戦国時代も約150年の幅があり、地方によっても大きな差異があります。
従って、換算の精度は必ずしも高いレベルではありません。
そこはどうかご了承ください。

さて、一石は(いっこく)と読み、お米の取れ高のことを指します。
皆さんは1日あたりお米何合食べますか?
一人暮らしをされている方なら1合~1合半くらいでしょうか。
当時の人々の共通認識として、1石は1,000合と同量でした。

一石=何円と換算するのに、貫(かん)という単位を介した方がわかりやすいでしょう。

中世日本では1貫=1,000文(もん)という共通認識がありました。
「貫」は元来、銭の束のことを指していたようです。
明国から輸入した銅銭の孔方(穴の開いた)部分に糸を通して、一つの束にする道具を「銭貫」といいました。

足利義満の時代、日本は世界的に珍しい銅資源を輸出することにより、明国から銅銭を輸入していました。
その結果、日本には大量の明銭が流入します。
織田信長の旗指物で有名な「永楽通宝」も明のお金です。

しかし、平和な世も長くは続かず、戦国の世に近づくにつれて、日明貿易の流通も滞り始めます。
日本国内では鐚銭(びたせん)が爆発的に増加。
社会問題となりました。
あらゆる大名家が独自で貨幣を統制する政策を出しますが、決定力に欠け、お金=貫の価値が下がり始めます。
そのため、しだいに「貫」よりも価値が一定な「石」に重きを置かれるようになります。

では、1石(いっこく)にどれだけの価値があるのか。
さきほど1石=1,000合と書きましたが、これは10斗=およそ150kgに相当します。

秀吉時代の石高帳で換算すると1石あたりが約833文(0.833貫)
現在の価値に直しますと・・・

1石を150kgとした場合、
5kg入りのお米を150kgで割ると0.03kg=30g
現在のお米5kg=2200円だとすると
1石は2,200(円)×30(グラム)=6万6000円。

例として、今回の判物に闕所として登場した本間四郎兵衛と栗田氏は、300石を没収されました。
300石を今の年収に換算してみると
300(石)×6万6000円=19,800,000

年収およそ1980万円を失ったことになります。
とはいえ、5kg入りのお米の相場もまちまちですので、精度の高い換算ではないことをご留意ください。

信長入国以前の近江の支配体制

浅井氏と六角氏

 信長入国以前の近江国は、大きく分けて北の浅井氏・南の六角氏が支配していました。
浅井氏はもともと京極氏の被官でしたが、度重なる戦乱の末に権力を掌握。
主家を庇護下に置いて領国を統治していました。

南の六角氏は宇多源氏佐々木氏を祖とし、鎌倉時代から南近江一帯を支配する名家です。
戦国時代に入ると将軍足利義尚よしひさ義材よしきによる討伐を受けるも、その後は幕府と良好な関係を保ち、亡命する将軍をたびたび庇護します。
領内は水源に恵まれ、温暖な気候に加えて琵琶湖の水運を活かして産業が発達します。

しかしながら、家臣団は一筋縄には行かぬ曲者揃いでした。
湖西の高島七頭。
野洲から志賀郡にかけて所領を持つ進藤氏。
野洲・栗太両郡および甲賀にも大きな影響力を持つ三雲氏らは、独自の外交関係や交易ルートを築き、幕府とも独自で交渉するなど、かならずしも六角氏の命によって動いていたわけではないことが明らかになっています。

加えて宗教勢力の勢いも強い地域でした。
特に本願寺蓮如の山科本願寺建立以来、浄土真宗本願寺派と比叡山延暦寺を中心とする天台宗、法華宗(日蓮宗)が互いにいがみ合う危険地帯でした。

観音寺騒動と六角氏式目

 永禄年中(1558~1570)に入ると六角氏と浅井氏の抗争が激化します。
浅井家の家督を継承した長政が、迎え撃つ六角氏を撃破。
六角氏は外交路線を巡って当主と隠居で意見の食い違いもあったようです。

そんな中、永禄6年(1563)。
六角氏の弱体化を決定づける事件が起きます。
それが観音寺騒動です。

当主が隠居側近の後藤氏を殺害したことにより、家臣団が揃って主家に反発。
時を同じくして安国寺質流相論も勃発し、利害が絡んだ家臣同士にも不協和音が生じます。
そんな内憂外患の事態を是正するために、六角氏と重臣たちが互いに妥協点を見出し、分国内の混乱を鎮めようと協議を重ね、起草されたのが六角氏式目です。

(史料1)六角氏家臣起請文前書写

  敬白天罰霊社上巻起請文前書事

一、御政道法度之事、得御詫、愚暗旨趣書立、備上覧処、被成御許容、則有御誓紙、被定置儀、忝次第候、然上者、条々長不可致相違、猶以此外可被書入題目出来候者、各被仰聞、可有御追加事、
一、訴論被及御沙汰、為非拠輩被棄置処、或乍知道理之旨、号無理之御成敗、或申立連々忠節奉公之功、述懐申儀、聊以不可在之、就中、御成敗之是非為御談合、各被仰聞者、所及愚意、不恐権勢、不顧縁者親類等、如順路可申上事、

一、数日被遂御糾明淵底、題目於御批判者、被定置以条目之旨、可為御順路、然而愚慮之輩、非儀之御裁断与令覚悟、不相捨訴訟者、可為所致蒙昧、然者、既被成奉書処、相語親類一族、於拘申者、併相背御成敗者也、被成御下知以後、不可相拘申事、

一、不限親類他人之訴論、乍知非拠執次申儀、不可在之、諸扁為御国御家、不可然儀、不可執申、随分嗜正意、可願御世長久事、

一、就南北都鄙鉾楯、各随分可奉抽忠節、聊不可致油断、然者、万人無御差別、戦功武略共仁以致粉骨輩、被糾其浅深、可被与御恩賞旨忝存事、

右条々、若致偽相違者、霊社上巻起請文御罰、深厚可罷蒙者也、仍前書如件、

  永禄拾年四月十八日

 鬮次第
三上越後守    恒安(判)
後藤喜三郎    高安
三井新五郎    治秀
真光寺      周揚
蒲生下野入道   定秀
青地入道     道徹
青地駿河守    茂綱
永田備中入道   賢弘
池田孫次郎    景雄
平井加賀守    定武
馬淵山城入道   宗綱
三雲対馬守    定持
永田刑部少輔   景弘
進藤山城守    賢盛
三雲新左衛門尉  成持
蒲生左兵衛大夫  賢秀
平井弥太郎    高明
楢崎太郎左衛門尉 賢道
離相庵      将鶴
馬淵兵部少輔   建綱


布施淡路入道殿
狛丹後守殿

『中世法制史料集 (戦国遺文 佐々木六角氏編)』

これは式目制定に絡んだもので、六角家臣団が主家に出した起請文きしょうもん(誓紙)の写しです。
逆に六角氏が家臣団に出した起請文も存在します。

記事の趣旨から逸れるため語訳は割愛しますが、ここに署名されている家臣団にご注目ください。
宿老格の後藤・三雲・蒲生・平井・進藤を始めとする錚々たる名家が名を連ねています。
最後の布施氏と狛氏は六角氏の側近ですので、実質の宛名は主家である六角氏です。
「右の条々、もし相違・偽り致さば、霊社上巻起請文の御罰、深厚罷り蒙るべくものなり」と固く盟約を誓っています。

署名の日付は永禄10年(1567)4月18日。
東では敵対する浅井氏と婚姻関係を持った織田信長が躍進を続け、美濃の斎藤氏を滅ぼさんという勢いでした。
さらに阿波三好氏が擁立する足利義栄よしひでと、流浪中の足利義昭が互いに味方を募っている時期のことで、この陣営戦争に六角氏も否応なく巻き込まていきます。

天下大乱はすぐ目前に迫っていました。

信長入国以前の近江国有力者

信長入国以前の近江国有力者

~忠義か家名存続か~激しく揺れる近江の有力者たち

 明けて永禄11年(1568)。
美濃平定を果たした織田信長は、足利義昭を領内に招き入れます。
そして8月。
信長は自ら近江佐和山へ出向き、六角氏を味方に引き入れる工作をします。
しかし、交渉は決裂。
両国の外交関係は完全に断絶します。『信長公記など』

ここで六角氏の家臣である永原氏(野洲郡)に関する史料をご覧ください。

(史料2)
  永禄十一年四月二十七日付織田信長書下

一、深重入魂之上、向後不可有表裏、抜公事之事、

一、知行方之儀、昨年遣候如書付之、不可有相違事、

一、御進退之儀、向後見放申間敷事、
      織田尾張守

 永禄十一年四月廿七日 信長(花押)
  永原越前守殿

『護国寺文書(増訂 織田信長文書の研究 上巻)』

(書き下し)
一、深重しんちょう入魂じっこんの上、向後きょうこうは表裏、抜け公事くじ有るべからざる事。
一、知行方ちぎょうかたの儀、昨年遣わし候書付かきつけの如く、相違有るべからざる事。
一、御進退の儀、向後きょうこう見放し申すまじき事。
      織田尾張守

 永禄十一年(1568)四月二十七日 信長(花押)
  永原越前守(重康)殿

これは永原氏が信長に内通していたことを示す史料です。
どうやら永原宗家の当主は重康ではなく、大炊助おおいのすけのようです。
信長は六角氏を説得するよりも3か月も前に、六角氏被官を懐柔していたことになります。
加えて「知行方ちぎょうかたの儀、昨年遣わし候書付かきつけの如く」とあることから、織田あるいは足利義昭の調略の手がすでに及んでいたことになります。

続いてこちらをご覧ください。

(史料3)
  永禄11年(1568)9月14日条の言継卿記

「十四日、庚申、天晴、
六角入道紹貞城落云云、江州悉焼云々、後藤、長田、進藤、永原、池田、平井、久里七人、敵同心云々、京中邊大騒動也、此方大概之物内侍所へ遣之、」

(書き下し)
(永禄十一年九月)十四日、庚申かのえさる、天晴
六角入道承禎の城落ち云云うんぬん
江州ごうしゅう悉く焼け云々うんぬん
後藤、長田、進藤、永原、池田、平井、久里の七人、敵へ同心云々うんぬん
京中辺り大騒動なり。
こなた大概の物、内侍所ないしどころへこれをる。

『言継卿記 永禄十一年九月十四日条より抜粋』

永禄11年(1568)9月。
織田信長は大軍を率いて岐阜を出陣。
北近江の浅井・三河の徳川の援軍も加えて六角領へ攻め入ります。

六角氏は、居城の観音寺城と要害である箕作みつくり城に強固な防衛線を敷いて持久戦の構えを見せますが、わずか1日で箕作が陥落。
永原氏をはじめとする家臣団は信長に内応します。
六角氏はたまらず居城を放棄。
甲賀へと敗走しました。

関連記事:箕作城の戦い 六角氏の立てた戦略VS織田信長の戦略

上記の『言継卿記』はまさにその時のもので「後藤、長田(永田)、進藤、永原、池田、平井、久里の七人、敵へ同心・・・」と大変驚いた様子を記述しています。
特に後藤氏、永田氏、進藤氏、平井氏は六角家臣団の中でも大きな発言力があったことで知られています。

六角氏を瞬く間に追い崩した織田信長は、足利義昭を奉じて上洛。
阿波の三好一党を追った後、将軍後見人の地位を手に入れました。

足利義昭

足利義昭肖像(東京大学史料編纂所蔵)

勝者と敗者 元亀大乱の果てに・・・

 さて、ここで今回の古文書に登場した江南の有力者がどのようなポジションにいたのか、織田信長の分国となった後、彼らはどうなったのかを見ていきましょう。
なお、ここに記されている石高が、果たしてその武将の全知行なのかについては傍証が必要でしょう。

元亀二年十二月日付け領中方目録写

信長は元亀元年(1570)5月12日に近江永原に佐久間信盛を配し、長光寺に柴田勝家、安土に中川重政を、さらに志賀郡の宇佐山には森可成よしなりを置きました。『信長公記』
そして翌元亀2年(1571)9~10月にかけて、金ヶ森かねがもりなどの一揆勢を打ち破りつつ西上し、反信長の底流を成していた比叡山延暦寺を滅ぼします。『信長公記・多聞院日記など』
その際、寺領やその与党の所領はことごとく織田方に接収されました。

そして同年12月に信長が佐久間信盛の戦功を労い、所領を加増したのが今回の領中方目録です。

織田信長による京都侵攻作戦1

永禄11年(1568)9月頃の織田信長による京都侵攻作戦

これは、永禄11年(1568)9月頃の織田信長による京都侵攻作戦を図にしたものです。
このうち紫色で囲ったものが、今回の古文書に登場した有力者で、信長に反抗の末に闕所として所領を没収された勢力。または佐久間信盛へ加増された所領分です。
こうして見ると、野洲郡を中心に加増されていることがわかりますね。

二百石 金ヶ森

 その目録のうち金森とあるのは、現在の滋賀県守山市金森(かねがもり)町にあたる場所です。
今は長閑な田園風景が広がる所ですが、かつてはここに巨大な市場があり、活気あふれる寺内町であったと考えられます。

元亀2年(1571)。
志村・小川両城を攻略した信長は、9月3日にこの金ヶ森城も攻め落とし、同月12日に比叡山延暦寺に攻め込んでいます。『信長公記』
その後信長は、金ヶ森を復興させるための制札を掲げるなどの措置をとっています。『元亀三年九月日付織田信長朱印状など』

百五十石 馬渕(馬淵)豊前分

 馬淵(馬渕)氏は近江八幡氏馬淵町を在所とする家で、もとは佐々木六角氏の一族だったようです。
南北朝時代には蒲生郡・野洲郡の郡奉行も務めており、近江守護代を務めたほどの家柄でした。
永原氏ももとは馬渕氏の配下で、野洲郡の在地土豪でした。

戦国時代に入っても有力被官の立場は変わらず、書状にもたびたび顔をのぞかせています。

六角氏式目制定に関連する永禄10年(1567)4月18日付けの『(史料1)六角氏家臣起請文前書写』にも、
「馬淵山城入道   宗綱
 馬淵兵部少輔   建綱」
と二人の署名があります。

また、馬淵領内において何か揉め事があったらしく、主家である六角氏が介入しています。

馬淵之内下司名之事、為給恩黒川修理進為知行処、隠田、隠米之族在之由、言語道断次第也、幷一代勘料其外諸公事物等之儀、対修理進、如先々有来早可致其沙汰、若於莬角儀者、可被入譴責使由候也、仍執達如件、

  永禄十二年六月廿八日 康明(花押)
             賢仍(花押)

  馬淵内下司名

『永禄十二年六月二十八日付六角氏家臣奉書(九六八 戦国遺文 佐々木六角氏編)』

馬淵内下司名げしみょう(=荘園で年貢・公事・夫役などの徴収に当たる下級役人)、給恩として黒川修理進しゅりのしんの知行たるところ、隠田おんでん・隠し米の輩これ在るの由、言語道断の次第なり。
並びに一代勘料そのほか諸公事くじ物等の儀、修理進に対し、先々せんせんの如く その沙汰致すべく(有来早 ここ読めない)、もし、とやかく(於儀 ここ読めない)は、譴責使けんせきし(公事や年貢の未納を督促する使い)入らるべきの由候なり。仍って執達しったつくだんの如し
永禄十二年(1569)六月二十八日 康明(花押)
            (種村)賢仍(花押)
馬淵内下司名

今回の領中方目録には「馬淵豊前分」と闕所扱いになっていますが、所領の行方、一族郎党のその後の消息は不明です。

三百石・四百石 本間四郎兵衛・又兵衛分

 本間四郎兵衛・又兵衛はともに現在の近江八幡市付近に在名をもつ土豪であろうと考えられています。
300石、400石とそれなりの所領を持っていた割には、不明な点が多い人物です。

「安国寺質流相論」で後藤氏と進藤氏が激しく対立した際に、後藤氏は親類衆とともに、芦浦観音寺、および本間右馬允うまのじょうなる人物が調停役として登場しており、どうやらこの事件に一枚絡んでいるようです。『芦浦観音寺文書』

この相論は、解決を待たずして進藤氏が六角氏へ直接訴え出たことにより、事件は大ごとへと発展してしまいました。
観音寺騒動の他に六角氏衰退を裏付けるもう一つの騒動でした。

五百石 種村分

 種村氏は六角政頼の次男高成が種村を称したのが始まりとの説があるようですが、その出自は謎に包まれています。
戦国時代末期には、種村賢仍(三河守)が建部氏とともに六角義弼の側近を務めていました。
奉行人として禁制の発給に携わるなど、少なくとも元亀元年(1570)までは活躍していたことがわかっています。『(元亀元年九月二十三日付六角氏家臣禁制)九七四 戦国遺文 佐々木六角氏編』

信憑性のほどはわかりかねますが、『足利季世記』によると観音寺騒動の際、後藤氏の殺害にも絡んでるようです。

(後藤但馬守は)承禎の寵臣なり。
(中略)
今夜打ち立て、自ら後藤を討ち果たし、存分に遂ぐべきと言うに用意ありければ、建部・種村袂(たもと)を控え、暫くお待ち候へ、左様に思し召し給わば、明日召し寄せ、誅伐致すべきと誓言しければ、義弼の悦び斜めならず。
明くる日を待ち給う。
(中略)
後藤但馬守・その子又三郎・・・
(中略)
屋形より御使いありと聞きて、早朝に出仕しけるを待ち受け、建部・種村両人は数多の若者どもを引率し、四方より取り籠み、ついに後藤但馬父子を討ち取りける。

『足利季世記』より抜粋

なお、種村氏の所領は野洲郡・栗本(栗太)郡と、桐原(池田本町か森尻町)および島郷(近江八幡市島町)。
種村城跡の石碑は東近江市種町に存在します。

三百石 栗田分・百五十石 楢崎内膳分

 栗田分とある栗田氏は栗太郡栗田郷の土豪かと思われますが、詳しいことはわかっていません。

楢崎内膳という人物は不明ですが、六角氏家老(年寄)衆に楢崎太郎左衛門尉(賢道)の名が見え、目賀田次郎左衛門、三上孫三郎(越後守)、三雲新左衛門(成持)、蒲生下野守(定秀)と同様の扱いだったと考えられます。
楢崎は近江八幡市安養寺町か古川町にあたり、国道8号線沿いの鏡宿近くにあります。

八十石 鯰江満助分

 鯰江満介は愛知郡鯰江に根城を持つ土豪で、いみな(実名)を貞景といいます。
安国寺質流相論・六角氏式目制定に関連したもので、鯰江満助と落合八郎兵衛に宛てた書状が遺されています。『(永禄十年)七月十八日付三雲成持書状(九五一 戦国遺文 佐々木六角氏編)』

翌永禄11(1568)年の織田信長侵攻には降らず、六角父子を居城に迎え入れて徹底的に交戦。
5ヶ月にわたる籠城の末に陥落しました。

鯰江城は愛知川の断崖を活かして築かれた要害として知られています。
川から本丸への通路は細い道一本だけ。
防御に適した城でした。

元亀4年(1573)9月11日の鯰江城包囲と百済寺焼き討ち

鯰江城包囲と百済寺焼き討ち

子の定春は主君とともになんとか逃げ延び、のちに豊臣秀吉に仕えました。
現在も鯰江城跡は東近江市鯰江町に存在します。

山門山徒・日吉山王領

 山門山徒(さんもんさんと)はもともと天台宗の比叡山延暦寺の僧兵を指しますが、ここでは比叡山延暦寺の所領と解釈した方がよさそうです。

日吉山王(ひよしさんのう)は湖西坂本にある日吉大社のことで、もとは神社でした。
最澄が比叡山に延暦寺を建立した以降は、その影響を強く受けて神仏習合する動きを見せます。
逆に延暦寺でも日吉大社や大陸の影響を受けて山王権現(さんのうごんげん)という思想が生まれ、両社は一体化していきます。

戦国時代に入ると正親町天皇の弟が延暦寺の法主となり、権勢は絶頂期を迎えます。
特に近江国は山門(延暦寺)領と日吉山王領が多い地域でした。

しかし、利害関係から時の権力者との対立が絶えず、延暦寺はたびたび討伐の憂き目に遭います。
元亀2年(1571)には織田信長による大規模な討伐を受けて近江の所領の多くを失い、壊滅的な痛手を負いました。
日吉大社も例外ではなく社は全焼。
大半の所領は接収され、佐久間信盛や明智光秀の直轄領となります。

のちに日吉大社は豊臣秀吉によって再建・復興されました。

今回の佐久間信盛宛の領中方目録には

  • 野洲郡・栗本郡と桐原にある比叡山延暦寺の旧領を没収する。
  • 建部ならびに上の郡にある日吉山王の旧領と、比叡山延暦寺の旧領をそなたの新領として与える。

とあります。
驕れるものは久しからず。
中世には権勢を誇り、朝廷をも恐れさせた宗教勢力も、こうして没落へと至ったのです。

織田方に内応した有力者たち

 次は永禄11年(1568)9月の織田信長による六角領侵攻の際に、主家を見限り信長に内応した有力者をみていきましょう。

前述した馬渕氏・本間氏・種村氏・栗田氏・楢崎氏・鯰江氏は、織田に抵抗した末に闕所として所領を失いました。
これとは逆にいち早く信長に降り、所領を安堵された例もあります。

織田信長による京都侵攻作戦2

永禄11年(1568)9月頃の織田信長による京都侵攻作戦

それが緑色で囲った勢力です。
(史料2)で示した信長が永原重康(越前守)へ宛てた書下かきくだし以外にも、「後藤、長田(永田)、進藤、永原、池田、平井、久里の七人、敵へ同心・・・」とこれらの勢力が内応していることが『言継卿記 (史料3)』で明らかになっています。

こうしてみると、多くの勢力が主家を見限っており、なぜ六角氏がわずか一日で観音寺に籠城するプランを捨てて甲賀へ敗走したのか見えてくる気がします。

後藤氏

 後藤とは観音寺騒動で討たれた後藤賢豊の子高治(高安・喜三郎)です。
この事件の後にも安国寺質流相論の当事者として、進藤氏と激しく対立しました。

永田氏

 永田氏は『六角氏家臣起請文前書写(史料1)』で、主家に忠誠を誓った人物で、賢弘(備中入道)・景弘(刑部少輔)と二人の名が見えます。
織田に降った後は中川重政・柴田勝家の与力となりました。
『武家雲箋』によると景弘には兄がおり、久里くのり三郎左衛門と名乗る久里家当主でした。
何らかの理由で兄の所領が没収され、その跡職を信長に認められています。
景弘は相撲にめっぽう強く、相撲奉行に任じられるなど、信長の信任は厚かったようです。

進藤氏

 進藤氏は六角氏譜代の臣として、野洲郡から志賀郡にかけて広大な知行地を持っていた豪族です。
進藤賢盛の代には後藤賢豊と並んで「六角の両藤」と称され、主家から重宝されました。
しかし、観音寺騒動後の安国寺質流相論で後藤高治氏と激しく対立します。
六角氏式目に署名していますが、永禄11年(1568)の織田信長の侵攻に後藤氏らとともに主家を見限っています。

佐久間信盛宛の領中方目録(今回の古文書)で進藤は佐久間の与力となることが決まりますが、志賀郡に扶持している侍たちは進藤氏の所属から離れ、明智光秀支配下に入るという興味深い結果となりました。

永原氏

 永原氏はもともと、野洲郡を治めていた馬渕氏の配下でした。
応仁の乱以降に急速に権益を拡大し、やがて馬渕氏、六角氏も無視できないほどの存在に成長します。
永正年間に永原重秀が幕府から所領安堵を認められて以降は、六角家の主力といえる軍事力を持つに至ります。

永禄11年(1568)4月に永原重康(越前守)は信長に内通します。『(史料2)護国寺文書』
しかし、どうやら当時の永原家当主は重康ではなく、大炊助おおいのすけという人物だったようで、翌年の信長の侵攻の際に永原家は分裂しました。

進藤・青地・山岡氏の振り分け

 今回記事にしている佐久間宛の『領中方目録』には、

一、新与力として、進藤、青地、山岡を申し付け候。但し進藤の事、
志賀郡に於いて扶助せしむる侍共に至っては、明智ニ相付くべきの事。

つまり、
新たに与力として進藤(賢盛=野洲・志賀郡)・青地(元珍もとよし=栗田郡)・山岡(景隆=栗田郡)を付け与える。
ただし進藤については、志賀郡に知行している侍たちのみ、明智(光秀)に付け与える。
とあります。

青地とは青地元珍もとよしのことで、栗太郡の一部を治める領主。

進藤は野洲から志賀郡にかけて広大な所領を持つ進藤賢盛のことですが、この判物によると、志賀郡の侍たちに関しては佐久間の与力ではなく、明智の配下となるようにと命じているのが興味深い点ですね。

山岡とは山岡景隆のことで、交通の要衝である勢多を治める領主です。
景隆には弟が二人おり、勢多の景隆のみは佐久間に、弟二人(志賀郡)は明智の寄力となっていることが別の史料から分かっています。

今回の判物から見えてきたものは、佐久間は野洲郡、明智は志賀郡ときっちり郡単位で線を引いた。
これで権益や指揮命令系統をはっきりとさせる狙いがあったのではないでしょうか。
つまり、六角氏が頭を悩ませたであろう諸問題を、信長は荒治療ともいえる手法で解決を図った。
それが実を結んだのか、のちに将軍を追放し、浅井氏、朝倉氏を滅亡させて以降は、近江国はしだいに平穏を取り戻し、在地の領主同士の争いや横領等は大幅に減少します。

まとめ

 このように、合戦に勝つか負けるか。
いち早く降るか、徹底抗戦するかでその立場は大きく変わりました。
闕所となってしまった家は収入源を失うわけですから、苦しい生活を余儀なくされます。
所領を失うと一族郎党を養うこともままなりませんでした。

では、闕所となった土地はどうなったのか。
今回の判物のように、佐久間信盛の新領として宛行われることもあれば、大名の直轄地となる場合もありました。
土地には代官が派遣され、耕地面積や生産高に基づいて年貢・公事・夫役を領民に賦課します。
しかし、それも簡単なことではありませんでした。

例えば、織田信長に攻められる直前の六角氏のように、代替わり期に起きた隠居側近との軋轢、あるいは家臣団同士の喧嘩の裁定に苦しんだ様子が史料からは窺えます。
敵対勢力との合戦に敗北したことも、求心力を落とした大きな要因だったでしょう。

人々は生活の安定を強く望み、懐の深い指導者、強力な指導者を求めるようになります。
時には隣国の強大な指導者に取り入り、生き残りを図ることもあったでしょう。
織田信長や豊臣秀吉の判物が多く遺っているのはその証です。

なお、今回の領中方目録と同じ時期に長光寺の柴田勝家、安土の中川重政にも同様の論功行賞が行われたと思われるが、それらの史料は現存していません。

今回も長文になってしまい申し訳ありません。
六角家臣団についてここまで詳しく調べたことはありませんでした。
おかげさまで、とても良い勉強になりました。

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参考文献
山本博文,堀新,曽根勇二(2016)『織田信長の古文書』柏書房
村井祐樹(2009)『戦国遺文 佐々木六角氏編』東京堂出版
奥野高廣(1988)『増訂 織田信長文書の研究 上巻』吉川弘文館
奥野高廣(1988)『増訂 織田信長文書の研究 補遺・索引』吉川弘文館
山科言継(1915)『言継卿記 第四』国書刊行会
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谷口克広(1995)『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館
木村靖(1975)「六角氏式目制定の目的と背景」,『鷹陵史学,鷹陵史学会』,01,pp.85-96.
小和田哲男(1973)『戦国史叢書6 -近江浅井氏-』新人物往来社
鈴木正人(2019)『戦国古文書用語辞典』東京堂出版
林英夫(1999)『音訓引 古文書大字叢』柏書房
帝国書院編集部(1999)『地図で訪ねる歴史の舞台-日本-』帝国書院
佐藤和彦,阿部猛(2008)『日本中世史事典』朝倉書店
加藤友康, 由井正臣(2000)『日本史文献解題辞典』吉川弘文館
など

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