織田信長の年表ちょっと詳しめ 朝倉・浅井家滅亡

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織田信長の年表ちょっと詳しめ 朝倉・浅井家滅亡
らいそくちゃん
らいそくちゃん

織田信長の年表13回目です。
天正元年(1573)8月~10月までのおもに織田家の行動を年表にしています。

(ここまでの流れ)

  1. 誕生~叔父信光死去まで(1534~1555)
  2. 叔父信光死去~桶狭間の戦い直前まで(1555~1560)
  3. 桶狭間の戦い~小牧山城移転直後まで(1560~1564) 
  4. 美濃攻略戦(1564~1567)
  5. 覇王上洛(1567~1569)
  6. 血戦 姉川の戦い(1570 1.~1570 7.)
  7. 信長包囲網の完成(1570 7.~12.)
  8. 比叡山焼き討ち(1571 1.~9.)
  9. 義昭と信長による幕府・禁裏の経済改革(1571 9下旬~1571.12)
  10. 元亀3年の大和動乱(1572 1.~1572.6)
  11. 織田信重(信忠)の初陣(1572 7.~1572 9.)
  12. 武田信玄 ついに西上作戦を開始する(1572 9.~1572 12.)
  13. 将軍・足利義昭の挙兵と武田信玄の死(1573 1.~1573 4.) 
  14. 将軍追放 事実上の室町幕府滅亡(1573 5.~1573 7.) 
  15. 朝倉・浅井家滅亡(1573 8.~1573 10.) ←イマココ
  16. 三好義継の最期(1573 10.~1573 12.)

この年表の見方

  • 当サイトでは、信長の人生で大きな転換期となった時代時代で、一区切りにしている
  • 他サイトや歴史本、教科書で紹介されている簡単な年表に書いている内容は、赤太文字
  • 年代や日付について諸説ある場合は、年代や日付の個所に黄色いアンダーライン
  • 内容に関して不明確で諸説ある場合は、事績欄に黄色いアンダーライン
  • 当時は数え年であるから、信長の年齢は生まれた瞬間を1歳とする。誕生日についても詳細不明のため、1月1日で1つ歳を取る
  • 太陽暦、太陰暦がある。当サイトでは、他のサイトや歴史本と同じように、太陰暦を採用している。中には「」なんていう聞きなれないワードがあるかもしれないが、あまり気にせず読み進めていってほしい
  • キーとなる合戦、城攻め、政治政策、外交での取り決めは青太文字
  • 翻刻はなるべく改変せずに記述した。そのため、旧字や異体字が頻繁に登場する。しかしながら、日本語IMEではどうしても表記できない文字もあるため、必ずしも徹底しているものではない。
  • 何か事柄に補足したいときは、下の備考欄に書く

天正元年(1573)

40歳

朝倉・浅井討伐戦

8月2日

長岡藤孝(兵部大輔)と三淵藤英、山城淀城を攻略。
番頭大炊頭・諏訪飛騨守は内応し、岩成友通(主税頭)は敗死した。『信長公記』

同日

長岡藤孝(兵部太輔)、領内の上久世と上野の地を、従来通り東寺の鎮守八幡宮領であることを保障する旨の判物を発給。『東寺所蔵文書』(天正元)八月二日付長岡藤孝判物

今度限桂川西地
一職、爲信長雖被
仰付、上久世
上野
事、依爲八幡領、
不混自余申付候、
近年如有来、全可
有御寺納候、向後
不可有相違候、為其
如此候、恐々謹言、
 八月二日 長岡兵部太輔
         藤孝(花押)

 東寺
  年預御坊

(書き下し文)
この度桂川西地に限り一職、信長に仰せ付けられたるといえども上久世かみくぜ並びに上野かみのの事、八幡領たるにより、自余に混せず申し付け候。
近年有り来たりの如く、全く御寺納有るべく候。
向後相違有るべからず候。
その為かくの如くに候。恐々謹言(以下略)

 (備考)
細川藤孝は前月10日に、信長から桂川西地一職の支配が認められた。
間もなく藤孝は姓を長岡に改める。
文書の内容は、領内の上久世と上野については東寺の鎮守八幡宮領であるため、従来どおり(有り来たりの如く)東寺領であることを保障するといったものである。

なお、この文書は東寺側で写(うつし)も作成され、端書はしがき折紙部分の端)に「上久世上野庄兵部大輔殿放状正文ハ天正二年四月十九日文陣納之畢上久世かみくぜ上野かみの庄、兵部大輔ひょうぶのたいふ殿(長岡藤孝)放状はなちじょう正文しょうもんは天正二年(1574)四月十九日文陣にこれを納めおわんぬ。)」と記されている。
放状は権利を放棄する誓約書のこと。
つまり、上久世・上野に関する東寺の権限を認める意味である。
文陣は東寺の重要書類を保管した内陣文庫のことか。

8月3日

足利義昭、毛利氏に対し「大坂本願寺・三好義継・遊佐信教・紀伊根来寺の僧兵らにも再起したいと連絡をつけたが、毛利殿を頼みにしている。毛利殿が出兵してくれれば、幕府を再興できる」との御教書を発給。
同様の書状は同年8月1日にも送付している。

8月4日

信長、岐阜に帰城。『信長公記』

8月8日

近江山本山城主の阿閉貞征(淡路守)、信長に内応。『信長公記』

同日夜

信長、近江浅井氏討伐のため岐阜を出陣。『信長公記』

8月9日

朝倉義景、敦賀を発す。『朝倉始末記』

8月9日~10日

織田軍、月ヶ瀬城を攻め落とす。=月ヶ瀬城の戦い『信長公記』

8月10日

信長、大嶽おおづく砦の北側である山田山に布陣。『信長公記』『本願寺文書』『乃美文書・武家事紀(元亀四年九月七日付織田信長書状写)』
朝倉義景の来援を遮断しようとする。

同日

信長、勢多備前守へ書状を発給。『林文書(天正元年八月十日付織田信長書状)』

就在陣御所畏入候、殊一面十帖拝領、寔御懇情之至候、爰元開隙候者、可為上洛之条、万端其節可申展候、御用之事不可存疎意候、此旨洩可有披露候、恐々謹言

 八月十日 信長(花押)

(書き下し文)
在陣に就きて御書畏み入り候。
殊に一面・十帖拝領、誠に御懇情の至りに候。
ここもと暇を明け候はば、上洛たるべきの条、万端その節申し述ぶべく候。
御用の事は疎意に存ずべからず候。
この旨洩し披露あるべく候。恐々謹言
 (天正元年1573)八月十日 信長(花押)

 (備考)勢多氏は京都嵯峨にある大覚寺の坊官。
つまり、勢多氏は取次役で、実質の宛名は大覚寺門跡尊信だろう。

8月12日

浅見対馬が織田方に内応し、焼尾砦に織田軍が進駐。『信長公記』

同日

浅井長政、垣見助左衛門尉に知行宛行あてがいを約す。『垣見文書』
浅井長政、上坂八郎右衛門尉に加藤内介跡を宛行う。『加藤文書』

同日夜半

嫡男信重(信忠・勘九郎)を虎御前山とらごぜやま本陣に残し、信長自ら暴風雨の中大嶽おおづく砦へ攻めかかる。
大嶽砦を守備する斎藤・小林・西方院がその日のうちに降伏。
城兵たちの命を助けて朝倉本陣へ解放する。『信長公記』=大嶽砦の戦い

同日夜半~8月13日

信長、大嶽おおづく砦に塚本小大膳・不破光治(河内)・同直光(彦三)・丸毛長照(兵庫)・同兼利(三郎兵衛)らを抑えとして入れ置き、越前平泉寺勢の籠もる丁野山ようのやま砦へ攻めかかる。『信長公記』

同日夜半~8月13日

丁野山ようのやま砦が信長に降伏。『信長公記』=丁野山砦の戦い

8月13日夜半

朝倉義景が撤退を開始。
信長、それを察知し追撃を開始。『信長公記』

最前線に布陣していた佐久間信盛(右衛門)・柴田勝家(修理)・滝川一益(瀧川左近)・蜂屋頼隆(兵庫頭)・木下秀吉(羽柴筑前)・丹羽長秀(五郎左衛門)・氏家直通(左京助)・安藤守就(伊賀伊賀守)・稲葉一鉄(伊豫)・稲葉貞通(左京助)・稲葉典通(彦六)・蒲生賢秀(右兵衛太輔)・蒲生賦秀(氏郷・忠三郎)・永原重康(筑前)・進藤賢盛(山城守)・永田景弘(刑部少輔)・多賀常則(新左衛門)・久徳左近兵衛(弓徳左近)・阿閉貞征(淡路)・同貞大(孫五郎)・山岡景隆(美作守)・同景宗(孫太郎)・山岡景猶(玉林)らが地蔵山にて追撃の不手際を信長に叱責される。
佐久間信盛、涙を流して信長に抗弁するも、却ってお叱りを蒙る。『信長公記』

木ノ本・余呉を越え、越前国境の刀根坂とねさかで追いつく。
織田勢は朝倉勢主力を悉く討ち取り、一気に越前へ乱入。
朝倉治部少輔・朝倉掃部助・三段崎六郎・朝倉権守・朝倉土佐守・河合安芸守・青木隼人佐・鳥居与七・窪田将監・詫美越後・山崎新左衛門・土佐掃部助・山崎七郎左衛門・山崎肥前守・山崎自林坊・ほそろ木治部少輔・伊藤九郎兵衛・中村五郎右衛門・中村三郎兵衛・中村新兵衛・長島大乗坊・和田九郎右衛門・和田清左衛門・引壇六郎二郎・小泉四郎右衛門・斎藤龍興(濃州龍興)・印牧弥六左衛門ら討死。=刀根坂の合戦『信長公記』『乃美文書(九月七日付織田信長書状写)』など

8月13~14日

不破光治(河内守)配下の原野賀左衛門が朝倉配下の印牧かねまき弥六左衛門を生け捕り、信長の面前に引きずり出す。
信長は印牧の態度に心を打たれ、配下に加わるならば命を助けようと提案するも、印牧はこれを拒絶。
自害して果てる。『信長公記』

同日

越前八田口刀根山で、兼松正吉(金松又四郎)は中村彦右衛門(中村新兵衛)を討ち取る。『信長公記』
この時、兼松の草履が切れてしまっており、信長に謁見する際には足が血で染まっていた。
信長は正吉の戦功を労い、普段から腰にぶら下げている足半(あしなが=長さ半分の草履)を与える。『兼松文書』『信長公記』

8月14日

信長、敦賀に着陣。『信長公記』

8月15日

朝倉義景、一乗谷に逃れる。『朝倉始末記』

8月16日

信長、多胡惣右衛門尉へ書状を発給。『田胡家由来書(天正元年八月十六日付織田信長朱印状写)』

(一、信長公ゟ多胡家先祖へ被下候御朱印左之通り)

本知、当知行与力、寺菴、被官人、如前不可有相違、新知之義者、磯野方ゟ可申付候、幷山々破城之状如件、

  天正元八月十六日  信長御朱印
   多胡宗右衛門尉とのへ
(右之御判物有之)

(書き下し文)
(一、信長公より多胡家先祖へ下され候御朱印左の通り)
本知、当知行与力、寺庵、被官人前の如くに相違あるべからず。
新知の儀は、磯野(員昌)方より申し付くべく候。
並びに山々破城の状くだんの如し
  天正元(1573年)八月十六日  信長御朱印(以下略)

 (備考)多胡氏は近江の土豪。
同氏は最近まで信長に敵対していたと見える。
元亀4年(1573)正月二日に武田家の穴山信君から、4月7日には朝倉義景からそれぞれ書状を受け取っている。

同日

信長、越前の河野浦・今泉浦・赤はけへ禁制を発給。『西野文書(天正元年八月十六日付織田信長朱印状)』

 (備考)これらの地は現在の福井県南条郡南越前町にあたる。
赤はけは赤萩だろうか。

同日

朝倉義景、一乗谷を捨て東雲寺へ移る。『越州軍記』

 (備考)『越州軍記』は比較的信憑性が高いことで知られている。
同書によると


「同十六日巳刻に館を御出あり。
いずれをさしてゆく水の、ほうきの川の憂き流れ、かへらぬ人の打つづき、急ぐばかりや市波の里うち過て小和清水こわしょうず、落ぬるこころは浅谷の、今ぞ命の堺寺、大宮すぎてすごゝゝと、憂き目に懸る計石はかりいし、坂の峠も打越て、よそに見んも今は只、いや恥敷はずかしき鏡山、くもりて見へぬ大山や丁村ようろのを近く見て、心静に亥山の東雲寺に夜の戌刻計にぞ着き玉ひける。」

  『越州軍記』より抜粋

とある。
なお、『朝倉始末記』には16日に越前山田荘に逃れるとある。

8月17日

信長、敦賀より木ノ芽峠を越えて越中平野に進駐。『信長公記』

8月18日

信長、府中の龍門寺に陣を敷く。
柴田勝家らに命じ、一乗谷を焼く。『信長公記』
この時、朝倉義景は大野郡の内山田庄六坊へ移っていた。『信長公記』

同日

柴田勝家(修理亮)・稲葉一鉄(伊豫)・氏家直通(左京助)・安藤守就(伊賀伊賀守)ら、平泉口から掃討戦を展開。
連日100~200余りの者が信長の陣所に引き立てられる。
信長の命を受けた小姓衆がこれを成敗。『信長公記』

同日

浅井長政、垣見助左衛門尉に小谷籠城を謝す。『垣見文書』

この頃

大野郡の平泉寺、信長に降伏。
これにより義景の進退は極まる。『信長公記』

8月20日

信長、上杉謙信へ書状を発給。『本願寺文書(八月二十日付織田信長朱印状)』

   覚
一、七日二日公儀京都有御退座、槇島要害へ御移候、則取懸、宇治川乗渡、外構追破、数多討捕、本城可攻崩之処、種々有御懇望、若君様被渉置、御退城之事、

一、先書委曲如申候、去十日江北小谷取詰候処、朝倉義景罷出、木本、多部山陣取候条、小谷与敵陣之間取切候、義景及難儀候キ之事、

一、木本、多部山与、此方陣取之間、節所候条、先大嶽へ攻上、則内攻崩、悉討果候事、

一、不移数日越前陣所へ夜籠切懸追崩、朝倉掃部、同孫六、同治部丞、同土佐守、同権守、山崎長門守、詫美越後守、印牧新右衛門尉、河合安芸守、青木隼人佐、鳥居与七、小泉藤左衛門尉初、其外歴々者共三千余討捕、木目追越府中ニ陣居候処ニ、義景明一乗、大野郡引退候条、彼谷初、国中放火候事、

一、今日先勢差越、義景楯籠所之及行候、大略可討果模様ニ候、若於相踏、馬寄可令追発候、時宜可御心易事、

一、討残諸侍朝倉兵庫助、魚住備後守、朝倉駿河守、同孫六郎、同大炊亮、同近江守其外悉罷出一礼候、朝倉式部大輔、同孫三郎義景前引退、山中有之、色々雖梱望候、至于今不召出候事、

一、越中表貴国人数就被出、賀州一揆蜂起候由、風聞候、於其儀ハ、早速謙信有御発足、此刻可討果候、加州濃美、江沼両郡此方令梱望相済候条、越州表罷出、一揆定而敗争不可有程候、無御油断御行肝要候、当国之儀、慥不可相聞候条、早舟を以令申候事、已上、

 八月廿日  信長(朱印)
  謙信
   進覧之

(書き下し文)
   覚
一、七月二日公儀京都を御退座あり、槇島まきしま要害へ御移り候。
則ち取懸け、宇治川を乗り渡り、外構を追い破り、数多あまた討ち捕り、本城を攻め崩すべきのところ、種々御懇望あり、若君様を渡し置かれ、御退城の事。

一、先書さきしょ委曲いきょく申し候如く、さんぬる十日、江北小谷に取り詰め候ところ、朝倉義景罷り出で、木ノ本、多部山に陣取り候条、小谷と敵陣の間を取り切り候。
義景難儀に及び候きの事。

一、木ノ本、多部山と、此方こなた陣取の間、節所に候条、まず大嶽おおづくへ攻め上り、則ち内を攻め崩し、悉く討ち果たし候事。

一、数日を移さず、越前陣所へ夜籠よこもりに切り懸け、追い崩し、朝倉掃部(景頼)、同孫六、同治部丞、同土佐守、同権守(道景)、山崎長門守、詫美越後守、印牧新右衛門尉、河合安芸守、青木隼人佐、鳥居与七、小泉藤左衛門尉をはじめ、その他歴々の者共三千余を討ち捕り、木ノ目に追い越し、府中に陣をえ候ところに、義景一乗(谷)を空け、大野郡に引き退き候条、の谷(一乗谷)を初め、国中に放火候事。

一、今日先勢を差し越し、義景の立て籠る所々をてだてに及び候。
大略討ち果たすべき模様に候。
し相踏まうに於いては、馬を寄せて追いてしむべく候。
時宜御心易みこころやすかるべきの事。

一、討ち残す諸侍、朝倉兵庫助、魚住備後守、朝倉駿河守、同孫六郎、同大炊亮、同近江守その他悉く罷り出て一礼候。
朝倉式部大輔、同孫三郎は、義景の前を引き退きて、山中にこれあり。
色々と梱望候といえども、今に至っては召し出さず候の事。

一、越中表は貴国の人数出さるるに就きて、賀州に一揆蜂起候由風聞に候。
その儀に於いては、早速謙信御発足ありて、このきざみ討ち果たすべく候。
加州の濃美・江沼の両郡は、此方こなた梱望せしめ相済み候条、越州表(=越中)に罷り出で、一揆定めて敗走程有るべからず候。
御油断無く御行おんてだて肝要に候。
当国の儀、確かに相聞くべからず候条、早舟を以って、申さしめ候事、以上。
 (天正元年1573)八月二十日  信長(朱印)(以下略)

 (備考)同年4月に上杉謙信は信長の要請で越中から撤退した。
しかし、今度は加賀の一向一揆が蜂起する。
そこで信長は、謙信が直々に出陣して討伐したら良いとしている。
ただし、加賀国の能美・江沼の両郡は当方の勢力圏内としているので、越中に謙信が出兵すれば加賀の一揆も定めて敗走するだろう。
最後の一文は、織田領内の正確な情報はそちらへ聞こえるはずがないので、早舟で届けるといった文意。

同日

蜂屋頼隆、越前大瀧神社に対し、放火や略奪をするものがあれば警固を派遣するので、いつでも申し出てほしいと通達。『大瀧神社文書』

寺家幷門前濫妨狼藉放火之儀、得御意候間、拙夫者共爲警固遣置候、若何かと有之族候者、可有注進候、則人數を可差越候、恐々謹言
   八月廿日         蜂屋兵庫助
                  頼隆(花押)

    大瀧寺
    栗太部村

(書き下し文)
寺家並びに門前、乱妨・狼藉・放火の儀、御意を得候間、拙夫せっぷの者共を警固として遣わし置き候。
若し何かとこれ有るやらかが候はば、注進有るべく候。
則ち人数を差し越すべく候。恐々謹言(以下略)

 (備考)
朝倉氏滅亡後の越前大瀧神社もまた、略奪されていたのだろうか。
現在の大瀧神社は、別名「岡太おかもと神社」とも呼ばれる。
伝承によれば、岡太神社は岡本川上流に美しい姫が現れ、村人に紙漉きの技術を伝えたのがはじまりのようだ。
延元2年(1337)の南北朝動乱で社殿が焼かれた際、祭神を大瀧神社に移したことでそう呼ばれたのだろうか。
悲劇は続く。
2年後の天正3年(1575)、大規模な越前一向一揆と織田氏の戦いに巻き込まれ、ふたたび消失の憂き目に遭うのである。

同日

石山本願寺門跡の顕如、足利義昭の返書を一色藤長(式部少輔殿)へ発給。『顕如上人御書札案留』

御内書令頂戴候、仍三和之儀、切々申遣様候、聊不存如在候、彌可被加 (闕字)上意事専要候、委曲東老軒可被申入之通宜有御披露候、恐々謹言
   八月廿日

   一色式部少輔殿

○コノ三和トハ、三好左京兆、同山城入道、高屋、三ヶ所和談之事也

(書き下し文)
御内書ごないしょ頂戴せしめ候。
仍って三和さんかの儀、切々と申し遣わし様に候。
いささかも如在じょさいに存せず候。
いよいよ (闕字)上意を加えらるべき事専要に候。
委曲いきょく東老軒申し入れらるべきの通り、宜しく御披露有り候。恐々謹言
   八月二十日

   一色式部少輔しきぶのしょうふ殿(一色藤長)

○この三和とは、三好左京兆さけいちょう(三好義継)・同山城入道(松永久秀)・高屋(三好康長)、三ヶ所和談の事なり。

同日

石山本願寺門跡の顕如、六角右衛門督うえもんのかみへの返書を発給。『顕如上人御書札案留』

御札遂被覧候、連々承候趣不及是非候、毎事難計式候、委曲賴充法眼可申入候條、不能詳候、穴賢
   八月廿日  — —

   佐々木右衛門督殿

(書き下し文)
御札ぎょさつ被覧を遂げ候。
連々承り候の趣き、是非に及ばず候。
毎事計り難き(式候 申し訳ありませんがここ読めません)
委曲いきょく頼充法眼(下間頼充)申し入るべく候条、詳らかには能わず候。穴賢あなかしく(以下略)

8月22日

明智光秀、服部七兵衛尉へ知行百石を宛行う。『古案』

今度竹身上之儀付而馳走之段、令祝著候、爲恩賞百石宛行候、全可有御知行候、恐々謹言
   天正元
     八月廿ニ日            明知十兵衛尉
                         光秀(花押)

      服部七兵衛尉殿

(書き下し文)
この度竹身上の儀に付きて馳走の段、祝着せしめ候。
恩賞として百石宛行い候。
全く御知行有るべく候。恐々謹言(以下略)

8月23日

信長、鷲田三郎左衛門尉へ判物を発給。『尊経閣文庫文書(天正元年八月二十三日付織田信長朱印状)』

同日

嫡男信重(信忠)、弟北畠具豊(織田信雄)?へ書状を送付。『真田宝物館所蔵文書(八月二十三日付織田信忠書状)』

天正元年(1573)八月二十三日付け織田信忠書状+書き下し文

関連記事:功に焦り!?信忠が信雄に宛てた書状の意味するものとは?

8月24日

大野郡の朝倉景鏡(式部大輔)、主君の義景(左京太夫)に腹を切らせる。
義景の介錯は鳥居甚七と高橋甚三郎が務めたのちに殉死。
景鏡、主君の首を持参し龍門寺へ参上。
信長のもとへは連日のように帰参を申し出る地侍があとを絶たず、龍門寺は大賑わいであった。『信長公記』

 (備考)23日付の織田信重(信忠)の書状には、朝倉景鏡が主君に生害させたとあるので、『公記』の日付に疑問が残る。

朝倉義景肖像画

朝倉義景肖像(心月寺所蔵)

ここに越前朝倉氏100年の時代は幕を閉じた。
越前朝倉氏滅亡

七転八倒 四十年中 無他無自 四大本空
朝倉義景辞世
享年41。

同日

甲斐武田氏の臣の木曾義昌、美濃河折籠屋を調略した原氏に褒美として知行を宛行う。『原家文書』

義昌(朱印)

今度河折籠屋之調略神妙候、為加恩於坂下五貫地出置候、苗木成就之上、場所聞届可申付候者也、仍如件
 元亀四癸酉
   八月廿四日
    原平左衛門尉殿

(書き下し文)
この度河折籠屋の調略、神妙に候。
加恩として坂下に於いて五貫の地出し置き候。
苗木成就の上、場所聞き届け申し付くべく候ものなり。仍ってくだんの如し(以下略)

 (備考)
河折・坂下・苗木はいずれも東美濃の地である。
この地域では、信玄死後もなお、激しい調略戦が繰り広げられていたのだろう。
この時期苗木で何が起きていたのかは定かではない。

同日

信長、来月5日に執り行われる予定の後奈良天皇十七回聖忌のため、朝廷へ黄金一枚を進上。『御湯殿上日記 三十九』

廿四日、けふらい月五日の御ように、のふながしん上のかね一まいと、大さかよりのと、なかハしへいたさるゝ、

 (二十四日
今日、来月五日の御用に、信長進上の金一枚と、大坂(本願寺顕如)よりのと、長橋(長橋局)へいたさるる。)

この頃

その後、義景の生母と嫡男の愛王丸も探し出され、丹羽長秀(五郎左衛門)の手によって誅される。『信長公記』
信長、義景の首を検分し、長谷川宗仁に命じて京都で晒し首にさせる。『信長公記』

 (備考)『朝倉義景 (人物叢書)_』水野真氏著・『越前朝倉一族(新人物往来社)』松原信之著によると、義景の最期に従ったものは鳥居景近、高橋景業、加藤新三郎など。
子の愛王丸、妻の小少将、生母の光徳院及び供をしていた斎藤兵部少輔、小河三郎左衛門尉父子らは捕らえられた。
とある。

この頃

越前国の掟を定め、前波吉継(播磨守)を守護代に任じて近江へ向かう。『信長公記』

8月25日

信長、三田村三助へ判物を発給。『三田村文書(天正元年八月二十五日付織田信長朱印状)』

同日

信長、越前北庄橘屋へ北庄三ヶ村の軽物座を安堵する旨の判物を発給。『橘文書(天正元年八月二十五日付織田信長朱印状)』

同日

甲斐の武田勝頼、家臣の山県昌景(三郎右兵衛尉殿)へ三河長篠近辺の指令を下す。『尊経閣文庫所蔵文書』

其已後之行如何、聞届度候、仍敵于今長篠在陣之由候条、其許之動有工夫、如何様ニも家康其表へ分人数、長篠後詰ニ成候之様、穴左、逍遥軒、朝駿、岡丹、岡次等有談合、調略尤ニ候、畢竟二俣へ付飛脚、家康引間迄退散之有無被聞届、可被入人数事肝要候、長篠表後詰之儀者、人事相調候故、廿三四之間、敵陣近辺迄陳寄候由候之条、定而今明之間、是非可有之歟、以此旨其表之行、示合候之様肝煎尤候、為其遣早飛脚候、但半途迄被納人数候者、不及是非候、恐々謹言
   八月廿五日 勝頼(花押)
    山県三郎右兵衛尉殿

(書き下し文)
それ以後のてだて如何、聞き届けたく候。
仍って敵今に長篠在陣の由に候条、そこもとの働き工夫有りて、いかようにも家康その表へ人数を分け、長篠後詰に成し候の様、穴左(穴山信君)・逍遥軒(武田信綱)・朝駿(朝比奈信置)・岡丹(岡部元信)・岡次(岡部正綱)等と談合有りて、調略もっともに候。
畢竟ひっきょう二俣へ飛脚が付き、家康引間(曳馬)まで退散の有無うむ聞き届けられ、人数入れらるべき事肝要に候。
長篠表後詰の儀は、人事を相調べ候ゆえ、二十三・四の間、敵陣近辺まで陣を寄せ候由に候の条、定めて今明こんみょう(今日明日の意)の間、是非にこれ有るべくか。
この旨を以てその表のてだて、示し合わせ候の様、肝煎り尤もに候。
そのため早飛脚を遣わし候。
但半途まで人数納められ候はば、是非に及ばず候。恐々謹言(以下略)

8月26日

信長、嫡男信重(信忠)が陣する虎御前山とらごぜやまに着陣。『信長公記』『乃美文書(元亀四年九月七日付織田信長書状写)』

同日

浅井長政、寺原小八郎の戦功を賞し、籠城を謝す。『武州文書』

8月27日

坂井早治(助右衛門尉)、三田村三助へ朱印銭納付の督促をする旨の書状を発給。『三田村文書(八月二十七日付坂井早治副状)』

其方本知之御知行之御朱印出候間、朱印銭早々被相調、可有御越候、若百姓とかく有ニ付て者、上使可差越候、恐々謹言

 八月廿七日  坂井助右衛門尉
   三田村三介殿     早治(花押)
     御宿所

(書き下し文)
その方本知の御知行の御朱印を出し候間、朱印銭を早々相調えられ、御越しあるべく候。
もし百姓とかく有るに付きては、上使を差し越すべく候。恐々謹言(以下略)

 (備考)百姓といえども、判物を発給した見返りに朱印銭を納付せよとしているのが大変興味深い。

同日夜

木下秀吉(羽柴筑前守)が京極つぶらへ攻め入り、浅井久政(下野)と長政(備前)間の連絡路を遮断。
久政は自害。
介錯した鶴松大夫も後を追った。『信長公記』

8月28日

信長みずから攻め入り、陣を京極丸に敷く。
浅井長政(備前)・赤尾清綱(赤生美作)生害し、小谷山城落城。=小谷山城の戦い『信長公記』『乃美文書・武家事紀(元亀四年九月七日付織田信長書状写)』
近江浅井氏滅亡

 (備考)なお、『島記録』には以下のような記述がある。

覚へ、此状嶋才兵衛所ニ在之、
覚へ、天正元年八月十八日、朝倉最期、同廿八日浅井久政切腹、同廿九日長政最期、長政ハアツカヒニテノケ給約束也シカ、信長公高キ所ニアカリ居テ、赤尾美作、浅井石見ヲ隔テサセイケドルヲ見テ、長政ハ家ヘトリ入、切腹トソ、備前守長政禅宗也、寺長浜徳勝寺、天正元癸酉年九月朔日、天英宗清大居士、江北若名新三郎、主将廿九歳トアリ、
私ニ云、法性院武田信玄ハ同年四月十二日ニ病死也、此比迄元亀四ト云、此年中ニ改元シテ天正元年也、

この頃

浅井父子の首も京へ送られ、晒し首となる。
のちに10歳となる長政嫡男も捕らえられ、関ヶ原で磔にされる。『信長公記』

この頃

戦後、木下秀吉(羽柴筑前守)は浅井氏遺領を与えられる。『信長公記』

8月

信長、越前別印村千福氏へ禁制を発給。『千福文書(天正元年八月日付織田信長朱印状)』

 (備考)別印村千福は現在の福井県越前市千福町にあたる。

8月

信長、越前の赤座吉家(小法師)へ所領を安堵する旨の判物を発給。『古案(天正元年八月日付織田信長朱印状写)』

8月

信長、越前惣社等へ禁制を発給。『越前武生町惣社大神宮文書(天正元年八月日付織田信長朱印状)』

 (備考)惣社は国中の多くの神社の祭神を一ヶ所に集めて勧請かんじょうした神社のこと。
武生たけふ町は2005年の市町村合併により消滅。
越前国の惣社大神宮は、今日もJR武生駅の近くに存在する。

8月

信長、越前御簾尾村へ禁制を発給。『竜沢寺文書(天正元年八月日付織田信長朱印状)』

 (備考)御簾尾村は坂井郡の村で、現在の福井県あわら市にあたる。
史料を保管する龍澤寺(りゅうたくじ)は曹洞宗の寺院。
なお、約2年後の天正3年(1575)に越前で大規模な一向一揆が発生した際、同寺は織田軍によって悉く焼き払われる。

8月

信長、越前西福寺へ禁制を発給。『西福寺文書(天正元年八月日付織田信長朱印状)』

 

(備考)西福寺は今日も福井県敦賀市にある浄土宗の寺院。
なお、同寺は9月5日付で木下祐久(助左衛門尉)からも書状を受け取っている。(後述)
木下秀吉配下としてこの戦い後もしばらく現地にとどまり、戦後処理をしていたのだろう。

8月

信長、越前滝谷寺へ禁制を発給。『滝谷寺文書(天正元年八月日付織田信長朱印状)』

 (備考)瀧谷寺(たきだにじ)は現在も坂井市三国町に存在する真言宗の寺院。

8月

信長、越前称念寺へ禁制を発給。『称念寺文書(天正元年八月日付織田信長朱印状)』

 (備考)称念寺は現在も坂井市丸岡町に存在する時宗の寺院。

近江鯰江城攻略

9月2日

一向宗門徒の小松原正勝(主計助)、大坂の本願寺顕如に近江興敬寺の近況を報ず。『興敬寺文書』

 (切封ウハ書)
「 
(墨引)
 天正元年     小松原主計助
              正勝
    
ヒノ興敬寺
          御返報 」


 
(端裏書)
「端書不申入候、」


御注進之様躰、具被遂披露候、殊更銀子四文目御進上候付而、上野法眼へ同五分具申聞、即御返事被申候、尚以相心得可申入由候、此方彌 
(闕字)御門主様御堅固御座候、別而可御心安候、次私へ同三分被懸御意候、遠路不輙義、御懇志難有無冥加存候、旁期御参候、恐々謹言
   九月二日        正勝(花押)

   ヒノ興敬寺

         御返報

(書き下し文)
(前略)
御注進の様体つぶさに披露を遂げられ候。
ことさらに銀子四匁御進上候に付きて、上野法眼(下間頼充)へ同じく五分具申し聞かせ、即ち御返事を申され候。
尚以て相心得申し入るべきの由に候。
此方いよいよ (闕字)御門主様(顕如)御堅固に御座候。
別して御心安かるべく候
次いで私へ同じく三分御意ぎょいに懸けられ候。
遠路容易たやすからずの儀、御懇志有難く冥加無きに存じ候。
かたがた御参を期し候。恐々謹言(以下略)

 (備考)
ヒノとあるのは、恐らく近江日野だろう。
関連文書は他にも同月28日・29日付の書状も存在する。『興敬寺文書』

9月4日

信長、近江佐和山城に入る。
柴田勝家らが六角父子の籠る近江鯰江なまずえ城を攻撃。
六角義堯(佐々木右衛門督)降伏し城を退散。『信長公記』『古証文 四』『諸家系図纂』『山中真喜氏所蔵文書』『寛政重修諸家譜』『武徳編年集成 十三』

 (備考)鯰江城は同年4月11日にも織田軍による攻撃を受けている。
兵力に余裕ができたので再び攻めたのだろうか。

元亀4年(1573)9月11日の鯰江城包囲と百済寺焼き討ち

ニ十世義賢
(中略)
是歳、将軍義昭欲攻信長、信長自美濃數來往京、義治自鯰江出兵撃信長軍、若之既而信長幽義昭於京、滅義景於越、殺長政於江、數月間兵勢大振、九月四日、遂令勝家急攻下鯰江城、義治以兵寡無援不能支、遂逃走、自是近江地悉属信長、


  『諸家系図纂 九之二 佐々木氏系譜』より

(山中)長俊 従五位下、山城守、本生國江州、若名橘内、
 幼少之時おり、佐々木承禎につかへ、承禎江州歿落之時、郎從等悉令對散、附順ふ者六人在之、長俊も其一人也、是を江州六人衆と其比申候、江州甲賀之石部下野館へ承禎立のかるゝ刻、彼六人隋附す、下野守と之石部之城に承禎と共に楯籠る、信長公是を攻させ給ふ、佐久間父子攻之、彼六人何
忠莭之由、別而長俊は抽軍功感状在之、柴田合戦之刻、雖令粉失證文如此、(以下略)

  『山中真喜氏所蔵文書』より

山中長俊 橘内、山城守、承禎甲賀郡石部の城にいたるのゝち、石部下野守某城をかたくし、堀をふかくして、相共に守護す、織田右府これをきゝ、佐久間父子をして大軍を催し、石部城を攻、菩提寺の城を陥るといへとも、長俊等力を合せ忠をつくしてふせき戦ふかゆへに、佐久間城をぬくことあたハす、この戦に長俊、林寺熊之介を討取しかは、承禎より感状を與ふ、(以下略)

  『寛政重修諸家譜 五百九十二』より

※與=与

同日

越前守護代の前波長俊、神波吉祥坊の知行分を先例の通り安堵する旨の判物を発給。『瀧谷寺文書』

神波吉祥坊知行分、如前々以、御朱印、被爲安堵候條、年貢・諸済物等、急度可沙汰、於延引者可爲曲事者也、謹言
   天正元
    九月四日           まえは
                    長俊(花押)


     
所々
      給人中
       百性中

※諸済物(しょさいもつ)・・・租税などで上納する品物、貢物

(書き下し文)
神波吉祥坊知行分、前々せんせんの如く、御朱印を以て、安堵たるべく候条、年貢・諸済物等、急度沙汰すべし。
延引に於いては曲事たるべきものなり。謹言(以下略)

 (備考)
先日、信長より越前の守護代に任じられた前波吉継(播磨守)は、早速領内の安定化に乗り出している。
この時期の彼の発給文書を見ると、いずれも「前波長俊」あるいは「前波播磨守」と署名している。
桂田姓を名乗るのはもう少し後のことだろう。

同日

正親町天皇、北畠具教?(伊勢)に綸旨を下す。『壬生家四巻之日記(天正元年九月四日付正親町天皇綸旨案)』『大日本史料 第一〇編之一七』

就今度京洛忩劇、去四月三日泉涌寺令軍勢乱入、天下無双舎利殿幷寺院僧坊以下令破却段、自古未聞題目候、早勧都鄙助縁、可励再造旨、対寺家被成 (闕字)綸旨訖、則仏牙下向候条、分国中奉加儀被申付、可為神妙之由、天気所候也、
   天正元年九月四日      左中将判

     伊勢

(書き下し文)
この度京洛忩劇につきて、去四月三日、泉涌寺に軍勢乱入せしめ、天下無双の舎利殿並びに寺院僧坊以下破却せしむるの段、自古未聞の題目にて候。
早く都鄙の助縁を勧め、再び造り励むべきの旨、寺家に対し (闕字綸旨を成されおわんぬ
則ち仏牙下向し候条、分国中奉加の儀、申し付けらるは神妙たるべきの由、天気候ところなり。(以下略)

 (備考)
京都泉涌寺は皇室菩提所として尊崇を受けた寺院。
たびたびの兵火で荒廃したのだろうか。
このたび禁中では造営勧進の動きが起こり、9月に各所へ泉涌寺造営の綸旨が発せられた。
宛所の伊勢は北畠氏だろうか不明である。
しかしながら、この復興事業は実現せず、企画倒れになったらしい。

「天気候ところなり」は所謂綸旨の決まり文句のようなもの。
他にも「天気かくの如し」などがある。

同日

正親町天皇、伊賀の仁木氏に綸旨を下す。『壬生家四巻之日記(天正元年九月四日付正親町天皇綸旨案)』『大日本史料 第一〇編之一七』

就今度京洛忩劇、去四月三日泉涌寺令軍勢乱入、天下無双舎利殿幷寺院僧坊等破却条、以都鄙助成、可励再興旨、対寺家被成綸旨畢、則仏牙下向之条、別而致尊崇、万民勧進之儀被申付、可為神妙之由、被仰下候也、仍執達如件
   天正元年九月四日     左中将 判

     伊賀 仁木

(書き下し文)
この度京洛忩劇に就きて、去四月三日泉涌寺に軍勢乱入せしめ、天下無双舎利殿並びに寺院僧坊等破却の条、都鄙の助成を以て再興に励むべきの旨、寺家に対し綸旨を成されおわんぬ
則ち仏牙(人名カ)下向の条、別して尊崇致し、万民勧進の儀申し付けらるるは神妙たるべきの由、仰せ下され候なり。
仍って執達くだんの如し(以下略)

9月5日

晴天の中、後奈良天皇十七回聖忌が清涼殿で執り行われる。『御湯殿上日記 三十九』『孝親公記』『広橋家文書』

 (備考)
公卿の主だった者が軒並み顔を揃え、誠仁親王(宮の御かた)や曼殊院覚恕(たけのうち殿)も参加。
警固は伊勢貞興(いせのかミ)が務める。

同日

木下祐久(助左衛門尉)、越前西福寺へ書状を発給。『西福寺文書(九月五日付木下祐久書状)』

御使札忝候、朱印渡申候、取乱之間不具候、追而可申上候、恐惶謹言

     木下助左衛門尉
  九月五日  祐久(花押)
   西福寺
     貴報

(書き下し文)
御使札忝く候。
朱印を渡し申し候。
取り乱るの間不具候。
追って申し上ぐべく候。恐惶謹言(以下略)

(備考)
これは同年八月日付の禁制に関する書状。
この時期、越前の仕置きとして奉行にあたっていたのは羽柴秀吉・明智光秀・滝川一益の3名。
木下祐久は羽柴秀吉の与力で、この時期は越前の仕置きとして雑務をこなしていた。
同じように明智光秀の与力三沢秀次(少兵衛尉)、滝川一益の与力の津田元嘉(九郎次郎)も戦後処理にあたっている。

9月6日

信長、岐阜に帰城。『信長公記』

同日

信長、竹生島宝厳寺へ書状を発給。『竹生島文書(九月六日付織田信長書状)』

青葉之笛到来候、寔名物見事候、今少留置、遂一覧之、可令返進候、此笛当山へ寄附候子細、誰之随身候つる哉、小笛相添候、此由来等慥ニ存知之□□(躰を?)書付□□□(可被越?)候、次静か所持候□□(由之?)小鼓□(胴?)之蒔絵ハ雷にて候由候、可披見候、猶磯野可申候、恐々謹言

  九月六日  信長(朱印)
   竹生島
     惣山中

同日

信長、磯野員昌へ書状を発給。『竹生島文書(九月六日付織田信長書状)』

青葉之笛持せ被越候、名物ニ候、前々誰之所持候て、何とある子細に依て竹生嶋へ寄進候哉、小笛添候、是も定子細可有之候、能々相尋候て、存知之躰を具書付候て、可被越候、恐々謹言

  九月六日   信長(花押)
   磯野丹波守殿

(書き下し文)
青葉の笛持たせ越され候。
名物に候。
前々誰の所持候て、何とある子細に依って竹生島へ寄進候哉。
小笛添え候。
これも定めて子細有るべく候。
よくよく相尋ね候て、存知のていをつぶさに書きつけ候て越さるべく候。恐々謹言
(天正元1573)九月六日   信長(花押)
   磯野丹波守(員昌)殿

同日

信長、桑原源介へ所領を安堵する旨の判物を発給。『温故足微抜粋(天正元年九月六日付織田信長安堵状写)』

 (備考)桑原氏がどこの人物かは不明。
時期的に越前国の住人だろうか。
二十石の知行なので豪農クラスか。

同日

明智光秀(十兵衛尉)、滝川一益(左近)、羽柴秀吉(藤吉郎)が連署で安居三河守へ所領を安堵する旨の判物を発給。『横尾勇之助氏所蔵文書(九月六日付明智光秀・滝川一益・羽柴秀吉連書状)』

其方御本知之事、可被成御朱印之由候条、如前々年貢・諸成物等不可有相違候、恐々謹言
   九月六日           明智十兵衛尉
                     光秀(花押)
                  瀧川左近
                     一益(花押)
                  羽柴藤吉郎
                     秀吉(ママ)


    安居三河守殿

 (書き下し文)
その方御本知の事、御朱印成さるべきの由に候条、前々の如く年貢・諸成物等相違有るべからず候。恐々謹言(以下略)

 (備考)安居あぐい三河守の詳細は不明。
朝倉旧臣だろうか。
のちに朝倉景健が安居姓を名乗るが、その関係性も不明。

9月7日

信長、毛利輝元(右馬頭)・小早川隆景(左衛門佐)へ書状を発給。『乃美文書・武家事紀(元亀四年九月七日付織田信長書状写)』

 一書之趣永々敷候へ共、東国辺之躰、其方へ不相聞由候条、大形有姿申展候、
別紙之趣令被閲候、京都之躰、先書申旧候、公儀真木嶋江御移候、御逗留不実之由申候キ、無相違於時宜者、不可有其隠之条、不能重説候、仍江州北郡之浅井、近年対信長構不儀候、即時可退治之処、天下之儀取紛送日候、殊越前之朝倉義景城裏ニ有て令荷担之条、何かと此節至而遅々候、余無際限候間、去月十日及行、彼大嵩乗執候刻、為後詰、義景江越境目迄出張備陣候、幸之儀と相覚、同十三日夜中切懸遂一戦、於手前朝倉同名親類を初、随一之者共首三千余討捕、切捨不知数候、然間越前へ令乱入、府中ニ立馬候、一乗之谷押寄之処、朝倉退散候条、谷中不残一宇放火候、左候処、彼国之傍ニ義景楯籠之由候間、遣人数取巻、義景腹を切セ候、首京都江差上候、残党共太略召出、一国平均之条、開陣候、郡代残置、同廿六日至江北打帰候、則廿七日夜中ニ浅井構へ取懸、翌日廿八責崩、浅井親子首切候、是又洛中、洛外之者為見物上遣候、近年之儀、彼等以所行、甲州之武田、越前之朝倉類為敵候、公儀御造意茂此故候、一方不成遺恨深重之処、悉以討果之条、大慶過賢慮候、如此之間、加賀、能登信長為分国申付候、越後之上杉輝虎多年知音之間、無別条候、北国之儀皆以任下知候、甲州之信玄病死候、其跡之躰難相続候、駿州之今川多年信玄ニ被追出候而、北条を相頼、豆州ニ蟄居、此節此方江被走入之条、難黙止令許容候、駿州出張之儀馳走候、本意不可有幾程候、近日可為上洛之条、南方方之事可承合候、於拙子者可御心易候、以日乗承候趣、得其心候、彼口上ニ可有之候、猶追々可申述候、恐々謹言

 元亀四
  九月七日   信長
   毛利右馬頭殿
   小早川左衛門佐殿
         進之候

(書き下し文)
一書いっしょの趣き長々しく候へども、東国辺のてい、そなたへ相聞こえざる由に候条、おおかたの有る姿を申し述べ候。
別紙の趣き被閲せしめ候。
京都のてい先書さきしょに申しふり候。
公儀槇島まきしまへ御移り候、御逗留は不実の由に候き。
時宜に於いて相違無くんば、その隠れ有るべからざるの条、重説にあたわず候。
仍って江州北郡の浅井、近年信長に対し、不儀を構え候。
即時退治すべきのところ、天下の儀に取り紛れて日を送り候。
殊に越前の朝倉義景は、城裏に有りて荷担せしむるの条、何かとかくの節に至りて遅々候。
余りに際限なく候間、去る月十日てだてに及び、かの大嶽おおづく乗り取り候きざみ、後詰として、義景へ越(前)の境目迄出張し、陣を備え候。
幸いの儀と相覚え、同十三日夜半に切り懸け一戦を遂げ、手前に於いて朝倉の同名どうみょう親類を初め、随一の者どもの首三千余を討ち取り、切り捨ては数知らずに候。
然る間、越前へ乱入せしめ、府中に馬を立て候。
一乗の谷に押し寄するのところ、朝倉退散候条、谷中一宇を残さず放火に候。
左候のところ、の国の傍に義景立て籠もるの由に候間、人数を遣わして取り巻き、義景に腹を切らせ候。
首京都へ差し上せ候。
残党共は大略召出し、一国平均の条、開陣し候。
郡代を残し置き、同二十六日江北に至りて打ち帰り候。
即ち二十七日夜中に浅井の構えへ取り懸け、翌日二十八(日)攻め崩し、浅井親子の首を切り候。
それまた洛中・洛外の者の見物のために上せ遣わし候。
近年の儀、彼らの所行をもって、甲斐の武田、越前の朝倉の類を敵となし候。
公儀御造意もこの故に候。
一方ならざる遺恨深重のところ、悉くもって討ち果たすの条、大慶賢慮に過ぎ候。
かくの如きの間、加賀・能登は信長の分国として申し付け候。
越後の上杉輝虎は多年知音の間、別条なく候。
北国の儀、皆もって下知に任せ候。
甲斐の信玄は病死し候。
その跡のていは相続き難く候。
駿州の今川は数年、信玄に追い出され候て、北条を相頼み、豆州に蟄居。
かくの節こなたへ走り入らるるの条、黙止もだし難く許容せしめ候。
駿州出張の儀馳走候。
本意幾程も有るべからず候。
近日上洛たるべきの条、南方方の事、承り合すべく候。
拙子於いては御心みこころ易かるべく候。
日乗(朝山日乗)を以て承る候趣そうろうおもむき、その心を得候。
彼の口上にこれ有るべく候。
なお、追々申し述ぶべく候。恐々謹言
 元亀四(天正元1573)(以下略)

 (備考)毛利氏に遠慮してなのか、「元亀四」としているのが面白い。
当記事8月3日の項にもあるように、足利義昭は帰洛を諦めていなかった。
この時期、毛利輝元は義昭と信長間の和睦を斡旋に奔走していたようだ。
『織田信長文書の研究 上 奥野高廣氏著』によると


「毛利氏は信長の諒解をえて、義昭が京都に帰れるように努力するとの最高方針を決定し、安国寺恵瓊(河合正治氏『安国寺恵瓊』)を代表者として上洛させる。恵瓊は出発前に信長の代表者木下秀吉にたいし、信長を諫めてほしいと依頼した。すでに羽柴と改姓した秀吉は、毛利輝元にたいし、信長が義昭の帰洛について同心したことを報じ、義昭の近臣上野秀政・真木島昭光に、柳沢元政を添えて上洛させるよう、朝山日乗からも書状をさし上ると通報した。日乗も秀吉と同じく信長方の代表者である。
(中略)
毛利輝元は交渉に臨む基本的な態度を同族の穂井田元清に九月晦日付の直筆書状に示している。その第一は信長には強硬な態度をとることが必要である。
次は宇喜多直家に注意せよ、信長を敵としても直家を先鋒として戦わせればよい。浦上宗景を相手にするなといい、そして毛利氏が信長を気にかけていることを直家に知られたくないと本心をのぞかせている。
毛利氏は十月二十八日、義昭側近の一色藤長に信長の意向を伝え、義昭の同意をもとめたので、義昭は十一月五日に若江城から和泉の堺に出てきた。毛利氏の代表者安国寺恵瓊は、秀吉と日乗朝山とともに義昭と会談した。
義昭は人質を要求したため破談となり、秀吉は大坂に退く。十一月九日義昭は堺を出発し、紀伊に向い、由良(和歌山県日高郡由良町)の興国寺に滞在することになる。(原文ママ)

  『織田信長文書の研究 上 奥野高廣氏著』より抜粋

とある。
確かに同年12月12日付の安国寺恵瓊書状『吉川家文書 一』には、それを裏付けるようなことが記されている。

同日

羽柴秀吉(藤吉郎)、毛利輝元へ書状を送る。『毛利家文書(九月七日付羽柴秀吉書状)』

(折封ウハ書)

    羽柴藤吉郎
        秀吉
 謹上 毛利殿人々御中 」

就公方様御入洛之儀、信長江御諷諫之通、則申試候処、同心被申候、然上
者、上中、牧玄儀、不可有意儀候、柳新御使者被添、被差上御調尤候、此方之儀者、拙者可致馳走候、尚従日上可被相達候、恐惶敬白
  九月七日   秀吉(花押)

   謹上 毛利殿人々御中

(書き下し文)
公方様御入洛じゅらくの儀に就きて、信長へ御諷諫ふうかんの通り、即ち申し試し候ところ、同心申され候。
然る上は、上中(上野中務大輔秀政)・牧玄(真木島玄蕃頭昭光)儀、異議有るべからず候。
柳新(柳沢新左衛門尉元政)御使者に添えられ差し上せられ御調いもっともに候。
こなたの儀は、拙者馳走致すべく候。
なお、日上(朝山日乗)より相達あいたっせらるべく候。恐惶敬白きょうこうけいびゃく
  (天正元年)九月七日   秀吉(花押)
   謹上 毛利殿 人々御中ひとびとおんちゅう

 (備考)これが現時点において秀吉が「羽柴秀吉」と署名した初見。
あまり知られていないことだが、この人物こそがのちに日本を統一した豊臣秀吉である。

同日

信長、小早川隆景へ書状を送る。『小早川家文書(九月七日付織田信長書状)』

就天下之儀、示承候、祝着之至候、殊太刀一腰、馬一疋送給候、御懇情候、近日可為上洛之条、其節可申述候、猶日乗上人可有伝達候、恐々謹言

   九月七日   信長(花押)
    小早川左衛門佐殿

(折封ウハ書)
「小早川左衛門佐殿  信長」

(書き下し文)
天下の儀に就きて、示し承り候。
祝着の至りに候。
殊に太刀一腰・馬一疋送り給い候。
御懇情に早々。
近日上洛たるべきの条、その節申し述ぶべく候。
なお、日乗上人伝達あるべく候。恐々謹言
    (天正元)九月七日   信長(花押)
    小早川左衛門佐殿

同日

羽柴秀吉と武井夕庵が連署で小早川隆景へ副状そえじょうを送る。『小早川家文書(九月七日付羽柴秀吉・武井夕庵連署状)』

  東北国之躰幷五畿内之趣、信長直ニ申入之間、不能実説候、
就因但間之儀、蒙仰趣申聞候、被得貴意候、近日可為上洛候間、畿内之躰被見合、但刕へ働之日限自是可被申入由候、猶日乗上人可被相達候、恐惶謹言

  九月七日   尓云(花押)
         秀吉(花押)
   小早川殿貴報

(書き下し文)
東北国のてい並びに五畿内の趣き、信長直に申し入るの間、実説にあたわず候。
因(因幡国)但(但馬国)間の儀に就きて、仰せを蒙り申し聞かせ候。
貴意を得られ候。
近日上洛たるべく候間、畿内のていを見合せられ、但州へ働くの日限、これより申し入れらるべき由に候。
なお、日乗上人相達あいたっせらるべく候。恐惶謹言
(天正元1573)九月七日 尓云じうん(武井夕庵)(花押)
             秀吉(羽柴秀吉)(花押)

(備考)
この時期、山陰地方では尼子勝久が挙兵しており、それを山名豊国が支援していた。
恐らく羽柴秀吉と武井夕庵はこの件の通報を受けて、信長に報告したのだろう。
この書状には、小早川隆景へ但馬へ出兵する日程を信長から通告すると伝えているのが興味深い。

同日

信長、池田恒興の子・古新(のちの池田輝政)へ、木田小太郎(荒尾善久)の跡目相続を認める旨の判物を発給。『池田文書(天正元年九月七日付織田信長朱印状)』

天正元年九月七日付織田信長朱印状+書き下し文

天正元年九月七日付織田信長朱印状+書き下し文

関連記事:闕所(欠所)ってなに?織田信長が発給した判物を例に解説します > 嗣子のいない当主が世を去った場合 ~信長が池田輝政に安堵した判物から~

同日

信長、山城大覚寺へ書状を発給。『林文書(九月七日付織田信長黒印状)』

尊牘殊二巻拝受、遥々御懇志、畏悦之至候、仍此向事属存分、隙明候条、不実令上洛、可得芳意候、将亦当国御寺領之儀、聊不可有疎意候、猶期来信候、恐惶敬白

  九月七日   信長(黒印)
   大覚寺殿
     尊報

(書き下し文)
尊巻殊に二巻拝受、はるばるの御懇志、畏悦の至りに候。
仍ってこの向きの事、存分に属し、暇を明け候条、不日上洛せしめ、芳意を得るべく候。
はたまた、当国御領寺の儀、いささかも疎意有るべからず候。
なお、来信を期し候。恐惶敬白きょうこうけいびゃく
 (天正元1573)九月七日   信長(黒印)
   大覚寺(尊信)殿

同日

前波長俊、高田専修寺末寺と門弟を先例の通り安堵する旨の判物を発給。『法雲寺文書』

高田専修寺末寺門弟等、任先規之旨、可致馳走、若於違犯者、交名可有注進候、恐々謹言、
   天正元
     九月七日
                   前波播摩守
                     長俊(花押)


      
高田
         専修寺

(書き下し文)
高田専修寺末寺並びに門弟等、先規の旨に任せて、馳走致すべし。
若し違犯に於いては、交名注進あるべく候。恐々謹言(以下略)

 (備考)
『法雲寺文書』を所蔵している法雲寺は、現在三重県鈴鹿の南福崎にある真宗高田派の寺院である。
同寺は越前国専修寺の末寺にあたり、正徳元年(1711)に現地に移転するまでは、越前国にあったようだ。
文中の「交名(こうみょう)」とは、違犯者の名を記して報告せよとのことだろう。

同日

越前守護代の前波長俊(播磨守)、越前宝慶寺ほうきょうじの寺納の件で、滝川一益(左近殿)と明智光秀(十兵衛尉殿)を介して信長の朱印状を請う。『宝慶寺文書』

大野郡従寶慶寺寺納之儀付而、如斯書狀候、彼寺之儀、自餘爲相替地候、様子被聞召届、 (闕字)御朱印之儀於御執成者、可爲尤候、委曲使僧可被申入候、恐々謹言
   九月七日            前波播磨守
                     長俊(花押)


    明智十兵衛尉殿
    瀧川左近殿
        御陣所

(書き下し文)
大野郡宝慶寺ほうきょうじよりの寺納の儀に付きて、くの如しの書状に候。
かの寺の儀、自余に相替たる地に候。
様子を聞こし召し届けられ、 (闕字御朱印の儀、御取り成すに於いては、尤もたるべく候。
委曲、使僧申し入らるべく候。恐々謹言(以下略)

 (備考)
越前大野郡の宝慶寺は鎌倉時代に開山された曹洞宗の寺院。
平野部から離れた清滝川上流に位置する。

9月8日

信長、山城天龍寺の策彦周良へ書状を発給。『妙智院文書(九月八日付織田信長書状)』

越前江北之国主皆以討果候、就其御尋快然之至候、散近年之欝憤開陣候、仍沈香一包、贈給候、御懇切候、今月下旬可為上洛之条、以拝顔万端可申述候、猶夕庵可申候、恐惶敬白

            弾正忠
  九月八日        信長(花押)
   妙智院
      回鱗

(書き下し文)
越前・江北の国主皆もって討ち果たし候。
それに就きて、御尋ね快然の至りに候。
近年の鬱憤を散じ開陣し候。
仍って沈香じんこう一包贈り給い候。
御懇切に候。
今月下旬上洛たるべきの条、拝顔を以て万端申し述ぶべく候。
なお、夕庵(武井夕庵)申すべく候。恐惶敬白(以下略)

(備考)
天龍寺妙智院の住職である策彦周良は、岐阜に使僧を送り、沈香一包を信長に献上していたようだ。
恐らく武井夕庵からの副状も出ていたであろうが、そちらは現存していない。

同日

羽柴秀吉被官の木下祐久、織田剣神社近辺の名主百姓の訴えを受け、上使を遣わす旨の書状を発給。『剣神社文書』

織田神領坊領内被横領、殊苅田以下猥在之由候、無是非次第候、先日従奉行申出候上如此之儀、前代未聞候、依返事上使可遣候也、
   九月八日          木下助左衛門尉
                     祐久(花押)


    所々
     名主百姓中

(書き下し文)
織田神領並びに坊領内横領をせられ、殊に刈田以下みだりにこれあるの由候。
是非無き次第に候。
先日より奉行に申し出候上に、かくのごときの儀、前代未聞に候。
依って返事を上使に遣すべく候なり。(以下略)

 (備考)
これも朝倉氏滅亡直後の越前の様子を見る上で重要な史料である。
織田剣神社は前代未聞なほど横領・刈田の被害を受けていたのだろうか。
同社は本年10月日付の信長黒印状を以ってしても事態が改善せず、『剣神社文書 二(天正元年十月日付織田信長黒印状)』さらに何度も木下祐久がこれを止める判物を発給しても収まらなかった。『剣神社文書 三(天正元年十二月二日付木下祐久書状)』など

同日

甲斐の武田勝頼、家臣の真田信綱(源太左衛門尉殿)へ、三河長篠城を防衛する旨の書状を発給。『真田家文書』

長篠之模様無心許之旨、節々被入于芳札快然ニ候、去五日其表御旗本陣場へ打出之由候、遠州動之衆者、直二俣通長篠へ可出勢之旨、成下知候、然則勝利無疑候、吉左右自是可申越候、恐々謹言
   九月八日  勝頼(花押)
    真田源太左衛門尉殿

(書き下し文)
長篠の模様心もと無きの旨、節々と芳札ほうさつに入れられ、快然に候。
さんぬる五日その表に御旗本、陣場へ打ち出るの由に候。
遠州動の衆は、直に二俣を通り、長篠へ出勢すべきの旨、下知を成し候。
然らば則ち勝利疑い無く候。
吉相これより申し越すべく候。恐々謹言(以下略)

 (備考)
本年8月25日付で勝頼が山県昌景へ下命した続報である。

同日

甲斐の武田勝頼、作手三十六人衆の中に敵へ内通している者を警戒する旨の書状を、家臣の後閑信純(上条伊勢入道殿)・伴野宮内少輔・小幡昌高(小幡民部助殿)・依田能登守・竹重藤五郎へ発給。『竹重家文書』

急度染□□□(一筆候カ)、□□(仍而カ)敵地内通之族如申越者、於其□□□□(地謀叛之カ)輩就有之、其地へ成揺之由候、城内之用心不可有由断候、自然三十六人衆之内、謀叛之輩可有之歟、不審ニ候、高野被相談、用心等可被入于念候、為其越早飛脚候、猶長々在番、苦労不知謝候、近日番替可相移候、可御心安候、恐々謹言
  九月八日  勝頼(花押)
    上条伊勢入道殿
    伴野宮内少輔殿
    小幡民部助殿
    依田能登守殿
    竹□(重カ)藤五郎殿

9月9日

滝川一益(左近)・羽柴秀吉(藤吉郎)・明智光秀(十兵衛尉)が越前宝慶寺の知行を安堵する旨の連署状を発給。『宝慶寺文書』

當寺領百石之事、任當知行之旨、年貢・諸成物等如前々不可有相違候、自然百姓等於令難澁者、可爲曲事候、恐々謹言
   九月九日          明智十兵衛尉
                    光秀(花押)
                 羽柴藤吉郎
                    秀吉
                 瀧川左近
                    一益(花押)


    寶慶寺

(書き下し文)
当寺領百石の事、当知行の旨に任せ、年貢・諸成物等前々せんせんの如く相違有るべからず候。
自然百姓等難渋せしむるに於いては、曲事たるべく候。恐々謹言(以下略)

 (備考)
同月6日付で安居三河守に発給した判物も、羽柴秀吉のみ花押がなかった。
恐らく同国に滞在していなかったのだろう。

9月10日

先年、信長の狙撃に失敗して逃亡した杉谷善住坊、高島に潜伏していたところを磯野員昌(丹波)が召し捕らえ、この日岐阜へ護送される。
信長側近の菅屋長頼(九郎右衛門)・祝弥三郎が奉行となって厳しい詮議が行われる。
その後、善住坊は鋸引きの刑に処せられる。『信長公記』

 (備考)杉谷は高島に潜伏する前、鯰江香竹を頼っていたようだ。

9月11日

信長、大和の岡周防守へ書状を発給。『集古文書(九月十一日付織田信長書状)』

越前江北一事ニ申付候、依之尋承候、殊條五筋到来、懇切候、近日可上洛候間、其節猶可申候、恐々謹言

   九月十一日    信長(花押)
    岡周防守殿

(書き下し文)
越前・江北一事に申し付け候。
これより、尋ね承り候。
殊に條(とう)五筋到来、懇切に候。
近日上洛すべく候間、その節なお申すべく候。恐々謹言(以下略)

 (備考)岡周防守は松永久秀の重臣。
この時期、松永久秀は河内の三好義継とともに信長と敵対していたが、同年11月29日には信長に降伏している。
この書状の9月11日の時点でも、岡氏を通じて帰順の交渉をしていたのだろうか。

関連記事:久秀敗北 信長が松永父子に突き付けた降伏の条件とは

9月13日

羽柴秀吉被官の木下祐久、織田剣神社近辺の百姓が他家の被官となることを禁ず。『剣神社文書』

織田大明神領百姓等、自餘被官人罷出族在之者、急度可有御成敗候、前々猥方々出頭之者あらは、地下被置間敷候、恐々謹言
   九月十三日     木下助左衛門尉
                 祐久(花押)


    織田寺社中

(書き下し文)
織田大明神領百姓等、自余へ被官人に罷り出る輩これ有るは、きっと御成敗有るべく候。
前々みだりに方々出頭の者あらば、地下じげに置かる間敷く候。恐々謹言(以下略)

 (備考)
これは当月8日木下祐久発給文書に関連したものである。

9月14日

長岡藤孝(細川藤孝)、山城国松尾社へ所領を安堵する旨の判物を発給。『東文書(九月十四日付長岡藤孝判物)』

今度限桂川西地一職、為信長雖被仰付、当社領之儀、無□于他儀候条、不混自余差除候、如先々可有社納事肝要候、仍状如件、

          長岡兵部太輔
  九月十四日      藤孝(花押)
   松尾
    社家

(書き下し文)
このたび桂川を限る西の地一職に信長として仰せ付けらるといえども、当社領の儀は、他に異なる儀なく候条、自余に混せず差し除き候。
先々の如くに社納あるべき事肝要に候。
仍って状くだんの如し(以下略)

 (備考)これは同年7月10日に信長より賜った山城国西岡の地に関するもの。
「一職」とは耕地に関する一切の権利のこと。
早くも藤孝は「長岡」と姓を改めていることが見てとれる。

なお、同社神官の松室氏に対しても、同年9月29日付で同様の文書が発給されている。『松尾月読社文書』

同日

長岡藤孝(細川藤孝)、葛野郡革島庄の土豪である革島秀存に千代原並びに上野かみののうち、東寺の所領分を除いた地を安堵する旨の判物を発給。『革島文書』天正元年九月十四日付長岡藤孝判物写

今度限桂川西地一職、爲信長被仰付條、千代原
上野、但シ除東寺分、進之候、弥可被抽忠莭事、肝要
候、仍如件、
天正元九月十四日 長岡兵部大輔
            藤孝判
各自筆也
   革島市介殿

(書き下し文)
この度桂川を限る西の地一職に、信長として仰せ付けらるるの条、
千代原並びに上野かみの(但し東寺分を除く)これをまいらせ候。
いよいよ忠節を抜きんでらるべきの事、肝要に候。仍ってくだんの如し(以下略)

 (備考)
この書状は江戸時代に入って革島氏が作成した重要文書3通を1枚の料紙に写したものの一つである(3番目)。
他に記されているのは元亀三年(1572)九月三日付織田信長朱印状写・(元亀四)三月九日付長岡藤孝請文写である。
これらの文書は江戸時代に入っても同じ土地で居を構える革島家にとっても、家の由緒を示す大切なもので、様々な形でいくつもの写が繰り返し作成されている。
写とはいえ、先述の同年月日に発給された『東文書』のほか、同時期の東寺側の史料、織田信長発給文書と照らし合わせても矛盾は感じられない。

この頃

伊勢皇大神宮の御師・福島左京亮が北畠具教により成敗されたか。『福島家古文書』『太田家古文書』

9月16日

北畠奉行人の山室教兼、房兼が大湊老分衆に宛て、連署で福島左京亮を成敗したことに関する奉書を発給。『太田家古文書(九月十六日付山室教兼・房兼連署奉書)』

就福嶋左京亮御成敗、彼者預物被成御改候、此旨可被申触候、不出置面々儀者、別堅可被仰付之由所候也、恐々謹言
  九月十六日        房兼(花押)
               教兼(花押)

  大湊
    老分御中

(書き下し文)
福島左京亮御成敗につき、かの者の預かり物御改めなされ候。
この旨申し触れらるべく候。
出し置かずの面々の儀は、別して堅く仰せ付けらるべきの由の候ところなり。恐々謹言(以下略)

 (備考)
福島左京亮は伊勢皇大神宮の御師を務めた人物。
彼は北畠具教により成敗された。『福島家古文書』ほか
これはそれに関連した文書であろう。
署名にある山室教兼・房兼はともに北畠氏の奉行を務めた側近。
この後、福島左京亮の跡職あとしきを廻って激しい抗争が始まるのである。『福島家古文書』『太田家古文書』

同日

北畠奉行人の山室教兼、房兼が大湊老分衆に宛て、連署で福島左京亮を成敗したことに関する奉書を発給。『太田家古文書(九月十六日付山室教兼・房兼連署奉書)』

福嶋被官悪党共之事、為御意被成御成敗候、一切不可有許容候、就其北二郎兵衛対福嶋親類中、造意有之由、被聞召候、曲事候、至事実者、為御下知堅可被仰付候由所也、恐々謹言
  九月十六日        房兼(花押)
               教兼(花押)

  大湊
    老分御中

(書き下し文)
福島の被官悪党どもの事、御意として御成敗成され候。
一切許容有るべからず候。
それに就きて、北二郎兵衛、福島親類中に対し、造意有るの由、聞こし召され候。
曲事に候。
事実に至りては、おん下知として堅く仰せ付けらるべく候由ところなり。恐々謹言(以下略)

同日

越前守護代の前波長俊(播磨守)、服部七兵衛と帰山源三へ増長新十郎の旧領を厳重に取り扱うように命ず。『古案』

增長新十郎知行分所々沽却散在地等集之、嚴重先可有取沙汰之状如件、
   天正元
    九月十六日        前波播摩守
                   長俊(花押)


     服部七兵衛尉殿
     歸山源三殿

※沽却(こきゃく)・・・売り払うこと

(書き下し文)
増山新十郎知行分の所々沽却・散在地等これを集め、まず厳重に取沙汰あるべきの状くだんの如し(以下略)

 (備考)
恐らく増長新十郎は信長と戦い、闕所処分となった朝倉旧臣だろう。
その地の代官職と若林山奉行に、帰山・服部両名を新たに任じたのかもしれない。

9月17日

越前守護代の前波長俊、大瀧寺および末寺の寺領を安堵。『大瀧神社文書』

就當寺領分儀、従平泉寺宿老中任御狀之旨、如前々年貢・諸済物等有取沙汰、佛供灯明修理勤行等可被相勤候、委細財嚴坊可被申候、恐々謹言
  天正元
    九月十七日
                    前波播摩守
                       長俊(花押)


     
大瀧寺
         院主
         常圓坊

※諸済物(しょさいもつ)・・・租税などで上納する品物、貢物
※仏供(ぶく・ぶっく)・・・仏に供える物。おもに米飯。

(書き下し文)
当寺領分の儀に就きて、平泉寺宿老中よりの御状の旨に任せ、前々せんせんの如く年貢・諸済物等取沙汰あり、仏供・灯明を修理し、勤行等に相勤らるべく候。
委細財厳坊申さるべく候。恐々謹言(以下略)

就當山末寺大瀧之儀、御狀委細令拜見候、寺領分之事、如先規不可有別儀候、猶財嚴坊可被申候、恐々謹言
    九月十七日           長俊(花押)


     
平泉寺
       御宿老中

 (備考)
しかしその後まもなく、大瀧寺は長俊の裁定に不服があったと見え、異議を申し立てるものがあったようだ。
平泉寺糺明を長俊に請う旨の書状が同月26日付のものに存在する。『大瀧寺文書(九月二十六日付宝光院長弘ほか2名連署状)』

9月18日

甲斐の武田勝頼、穴山信君(左衛門大夫殿)の働きぶりに感謝し、使者の病状を気遣う旨の書状を発給。『本成寺文書』

急度染一候、抑今度長篠為後詰、至遠州行之儀憑入候之処ニ、始中終御肝煎之由、祝着候、因慈彼表無残撃砕、本望満足候、雖然長篠存外之仕合、無念千万候、去十四日各其地へ帰城、自翌日普請被 仰付候趣、肝要至極候、随而蒲庵演説之分者、御煩之由、無心許候、為服用、牛黄丹五具進之候、無油断被加保養尤候、恐々謹言
  九月十八日  勝頼(花押)
   左衛門大夫殿

(書き下し文)
急度きっと染一候。
そもそもこの度長篠後詰の為、遠州に至りてだての儀、頼み入り候のところに、始中終御肝煎りの由、祝着に候。
これにより、かの表を無残に撃砕、本望満足に候。
然れども、長篠存外の仕合、無念千万に候。
さんぬる十四日おのおのその地へ帰城、翌日より普請を仰せ付けられ候趣き、肝要至極に候。
従って蒲庵(森本蒲庵)演説の分は、御煩いの由、心許無く候。
服用として牛黄丹五、つぶさにこれをまいらせ候。
油断無く保養を加えられ尤もに候。恐々謹言(以下略)

9月19日

滝川一益(左近)・羽柴秀吉(藤吉郎)・明智光秀(十兵衛尉)、瀧谷寺の寺領を安堵。『瀧谷寺文書』

其方寺領之事、任當知行之旨、年貢・諸済物可有収納候、仍如件
   九月十九日        明智十兵衛尉
                   光秀(花押)
                羽柴藤吉郎
                   秀吉
                瀧川左近
                   一益(花押)


    湊
     瀧谷寺
       床下


 
(包紙ウハ書)
「瀧谷寺へ
   打渡 明智十兵衛」

(書き下し文)
その方寺領の事、当知行の旨に任せて、年貢・諸済物収納有るべく候。仍ってくだんの如し(以下略)

9月20日

明智光秀と滝川一益、越前北庄の軽物座商人へ判物を発給。『橘文書(天正元年九月二十日付明智光秀滝川一益連署状)』

軽物座長以御朱印、橘屋三郎右衛門尉ニ被仰付候間、其心得成、来廿三日以前仁、橘屋へ可令案内候、若於延引者、永代彼座へ不令入者也

 天正元     明智
   九月廿日   光秀(花押)
         滝川
          一益(花押)

    三ヶ庄
     軽物商人中

(書き下し文)
軽物座おさ御朱印を以て、橘屋三郎右衛門尉に仰せ付けられ候間、その心得を成し、来たる二十三日以前に、橘屋へ案内せしむべく候。
もし延引に於いては、永代彼座へ入らしめざるものなり。(以下略)

同日

塙直政、伊勢志摩大湊惣中へ奉書を発給。『伊勢市大湊支所保管文書(九月二十日付塙直政奉書)』

  已上、

急度令申候、仍当湊へ伊豆之大船着岸由候、伊豆之儀敵方と云、其上子細有之舟事候条、ゟ此方被申付候、依之津掃被差越候、何も其意得尤存候、将又日禰野、足弱を相送候舟之事、さたのかきり曲事無是非候、舟主共ニ急与可有御成敗候間、此者ぬかし候ハぬ様、各へ預ヶ被申候、此旨何も御意ニ候、為御心得申入候、恐々謹言

           塙九郎左衛門尉
   九月廿日       直政(花押)

   伊勢
     大湊惣中

(書き下し文)
急度きっと申さしめ候。
仍って当湊へ伊豆の大船着岸の由に候。
伊豆の儀敵方と言い、そのうえ子細有る事に候条、こなたより申しつけられ候。
これにより、津掃(津田掃部助一安)差し越され候。
いずれもその心得もっともに候。
はたまた日根野(日根野弘就)足弱を相送り候舟の事、沙汰の限り曲事くせごと是非無く候。
船主共にきっと御成敗有るべく候間、この者逃がし候はぬよう、おのおのへ預け申され候。
この旨いずれも御意に候。
御心得おんこころえのために申し入れ候。恐々謹言
以上(以下略)

 (備考)ほかの関連史料から天正元年のものと比定されている。
伊豆国から大船が大湊(志摩国)に着岸したことについての指示と、桑名(伊勢国)までの出船が遅延していることに対する警告をしている。
信長は同月24日に伊勢長島一向一揆の討伐を行うが、その準備であろう。
どうやら文中の「子細有之舟」とは、今川氏真の茶湯道具を角屋七郎次郎が預かっていた事件のようだ。

同日

信長の子北畠具豊(のちの織田信雄)、伊勢大湊中へ桑名までの舟航を要求。『伊勢市大湊支所保管文書(九月二十日付北畠具豊書状)』

 (包紙)
「北畠具豊書状」

 (端裏書)
「 大湊中   方」

  なをヽヽ掃部可申候、

信長しゆいんを以被申候儀、をのヽヽ如在なく其うけ可申候、さためて本所よりもかたく御申つけ可有、仍舟之儀事、かたくくわなまて申可つく候、委細掃部可申候、恐々謹言、

   九月廿日     具豊(花押)

(書き下し文)
信長朱印を以て申され候儀、各々如在無くそれを受け申すべく候。
定めて本所(北畠具房)よりも堅く御申しつけ有るべし。
仍って舟の儀の事、堅く桑名まで申し付くべく候。
委細掃部(津田一安)申すべく候。恐々謹言。
   九月二十日     具豊(花押)

  尚々掃部(津田一安)申すべく候。

 (備考)起点は不明だが、伊勢桑名までの舟航を要求している。
長島の一向一揆鎮圧に関連するものだろう。

9月21日

石山本願寺門跡の顕如、甲斐武田家の代替わりを祝す旨の書状を発給。『顕如上人御書札案留』

今度御家督之儀、尤千喜萬悅目出覺候、仍太刀一腰爲時、腰物國光熨付、馬一疋進入之候、表祝儀計候、猶節節可申伸候、委曲賴充法眼可申入候、 ——
   九月廿一日   — —

   武田四郎殿

(書き下し文)
この度御家督の儀、尤も千喜万悦目出覚候。
仍って太刀一腰(為時)・腰物(国光熨付)・馬一疋これをまいらせ入り候。
祝儀を表すばかりに候。
猶切々申し述ぶべく候。
委曲頼充法眼(下間頼充)申し入るべく候。(以下略)

御家督之儀、四郎殿へ御譲與之事珍重存候、仍太刀一腰助村、香合剔紅、盆堆紅推進之候、顯嘉儀計候、將亦先度者御報具被閲、殊御腰物鄕贈給候、御梱意之至、自愛此事候、尙賴充法眼可申入候、—
   九月廿一日  — —

   法性院殿

(書き下し文)
御家督の儀、四郎(武田勝頼)殿へ御譲りとの事珍重と存じ候。
仍って太刀一腰(助村)・香合(剔紅)・盆(堆紅)これを推しまいらせ候。
嘉儀を表すばかりに候。
はたまた、先度は御報つぶさに被閲、殊に御腰物(郷)贈り給い候。
御懇意の至り、自愛この事に候。
尚頼充法眼(下間頼充)申し入るべく候。(以下略)

某日

(参考)石山本願寺門跡の顕如が武田信玄(法性院殿)へ宛て『顕如上人御書札案留』

追而令啓達候、仍遠三表之御備如何候哉、江北越前其外近國彌無正體式候、随而上野法眼ニ申付旨趣以一書申入候、委細ハ重森因幡守可被申候、—
   月 日   — —

   法性院殿

(書き下し文)
追って啓達せしめ候。
仍って遠・三表のおん備え、いかが候
江北越前そのほか近国、いよいよ正体無く(式候 申し訳ありませんがここ読めません)
従って上野法眼(下間頼充)に申し付くるの旨趣ししゅ、一書を以て申し入れ候。
委細は重森因幡守いなばのかみ申さるべく候(以下略)

 (備考)実際に発給されたかは不明。

9月22日

信長、豊嶋源左衛門へ所領を安堵する旨の書状を発給。『古案・温故足微抜萃(天正元年九月二十二日付織田信長朱印状写)』

 (備考)居住地は不明。十六石。

第二次伊勢長島一向一揆戦

9月24日

信長、伊勢長島一向一揆討伐のため岐阜を出陣。
大垣(大柿)城に泊まる。『信長公記』

9月25日

太田城(大田之城小稲葉)に陣取る。
ここで江州衆の合流を待つ。『信長公記』

9月26日

信長、桑名表へ進軍。
西別府を佐久間信盛(右衛門)・羽柴秀吉(筑前守)・蜂屋頼隆(兵庫頭)・丹羽長秀(五郎左衛門)が攻め、これを攻略。
衆徒を多数切り捨てる。

同日

柴田勝家(修理)と滝川一益(瀧川左近)は片岡氏籠もる坂井城を降す。

同日

宝光院の長弘・大聖院の永弘・大瀧寺寺家政所の仁盛が半田三郎に宛て、連署で不服を申し立てる旨の連署状を発給。『大瀧神社文書』

   (包紙ウハ書)
  「   寺家政所
      大聖院
      寶光院
   半田三郎殿  連署 」


   
(端裏切封)
  「 
(墨引) 」

就大瀧寺之儀、長俊
以連礼申入候處、御報先以祝着之至候、然處彼寺儈之内、一人存分在之由候條、先規之筋老若被召寄、以御尋無相違判形衆中被仰付候様、御執成可畏存候、恐々謹言
   九月廿六日         寺家政所
                   仁盛(花押)
                 大聖院
                   永弘(花押)
                 寶光院
                   長弘(花押)


   半田三郎殿

(書き下し文)
 (前略)
大瀧寺の儀に就き、長俊(前波長俊)へ連礼を以て申し入れ候ところ、御報まず以て祝着の至りに候。
然るところ、かの寺儈(僧カ)の内、一人存分これ在るの由に候条、先規の筋老若を召し寄せられ、御尋ねを以て、相違無く判形はんぎょうを衆中へ仰せ付けられ候様、御取り成し畏し存ずべく候。恐々謹言(以下略)

 (備考)
半田三郎は誰の家臣なのか不明だが、織田家あるいは前波家の関係者だろう。
本状は越前守護代の前波長俊(桂田長俊)が下した裁定への抗議かと思われる。
朝倉氏滅亡直後から、大瀧寺や織田剣神社では領地をめぐってのトラブルが続出している。

9月28日

石山本願寺門跡の顕如、甲斐の武田勝頼へ書状を発給。『顕如上人御書札案留』

連々此方之儀御入魂之趣本懐候、彌可被加嚴意之段所希候、仍黄金五兩進之候、雖些少之式候、表祝詞計候、委細上野法眼可申入候、
    九月廿八日     — —

    武田大生大夫(ママ)殿

(書き下し文)
連々此方の儀御昵懇の趣き本懐に候。
いよいよ厳意を加えらるべきの段、希む所に候。
仍って黄金五両これをまいらせ候。
(雖些少之式候 申し訳ありませんがここ読めません)
祝詞を表すばかりに候。
委細上野法眼(下間頼充)申し入るべく候。(以下略)

  (備考)
本願寺顕如は最近まで武田の代替わりを知らなかったようだが、本年9月21日付の書状からは真実をしっているようだ。
口頭でどのようなやりとりがあったのかは知りようがないが、同年10月29日付で顕如が一色藤長への返書で「協力したいのは山々だが難しい」とする旨を書き送っている。

同日

近江日野近隣本願寺の末寺五ヶ寺(興敬寺・本誓寺・正祟寺・明性寺・弘誓寺)、大坂の顕如へ書状を発給。『興敬寺文書』

  尚々我等式迄御懇之義、無申計候、猶御使者可被申候、以上、

今度者御雑説付、爲御見舞兩使御上候、則様躰懇
法眼迄申入候、幷御音信之銀子慥上申、御返事悉相調使者渡候、就中 (闕字)御門跡様御堅固、御寺内彌御無事儀候、各可御心安候、次爲御音信拙者迄銀四分被懸御意候、御懇之段難申謝存候、何様不圖御参之砌、以面談御禮可申述候、恐々謹言
   九月廿八日          (某花押)
    日野五ヶ所


     坊主衆御中
        床下

(書き下し文)
この度は御雑説ぞうせつに付き、御見舞として両使を御上せ候。
すなわ様体懇ろに法眼(下間頼充)迄申し入れ候。
並びに御音信の銀子確かに上申、御返事悉く相調い使者へ渡し候。
就中 (闕字)御門跡様(顕如)御堅固、御寺内いよいよ御無事の儀に候。
各々御心安かるべく候
次いで御音信として拙者まで銀四分御意に懸けられ候。
御懇ろの段謝り申し難く存候。
如何様ふと御参のみぎり、面談を以て御礼申し述ぶべく候。恐々謹言
   九月二十八日          (某花押)
    日野五ヶ所

     坊主衆御中
        床下
  尚々我ら式まで御懇ろの儀、申す計り無く候。
猶御使者申さるべく候。以上

9月29日

長岡藤孝、松尾月読社神官の松室左衛門佐さえもんのすけの所領を安堵。『松尾月読社文書 3-7 (京都大学総合博物館所蔵)』天正元年九月二十九日付長岡藤孝判物

今度限桂川西地
一職、爲信長雖被
仰付、松尾月読
神所儀、異于他条、
田畠・山林所々散在
等事、差除候、
如先々可被全領知
事肝要候、仍状
如件、
天正元
 九月廿九日 長岡
        藤孝(花押)

  松室左衛門佐殿

(書き下し文)
この度桂川に限る西の地一職に、信長として仰せ付けらるといえども、松尾月読は神所の儀、他に異なるの条、田畠・山林所々散在等の事、差し除き候。
先々の如く全く領知せらるべきの事、肝要に候。
仍って状くだんの如し(以下略)

 (備考)
同様の内容が記された長岡藤孝発給の文書が、同年8月2日付で東寺『東寺所蔵文書』、9月14日付で革島秀存に発給されている。『革島文書』
松尾月読社へも同年9月14日付で発給されているが『東文書』、今回松室左衛門佐へ発給されたものも、それと同じ内容である。

なお、松尾月読社は『日本書紀』にも登場する非常に歴史の古い社である。

同日

近江日野牧・本願寺派の教宗、大坂の顕如へ書状を発給。『興敬寺文書』

 (端裏切封)
「 
(墨引) 」

  尚々不慮之儀出来付而、各々御気遣笑止千萬にて候、種々御用心簡用候、此方儀無油斷御心かけ簡用に存候、以上、


其後者久不申承候、背本意存候處
、依思食爲御音信銀子四文目被懸御意候、誠御懇志之儀過分至候、仍 (闕字)御門跡様幷新御所様何も御勇健御座候、可御心安候、御近所御寺内御堅固之御事候、是又可御心安候、其方儀おのヽヽ無何御座之由珍重存候、雖然猶以御用心簡用候、爰元於相替儀者、重而可申下候、委曲御兩使可有御演説候間、不一二候、恐々謹言
  ヒノヽマキ
(ママ)
    九月廿九日         教宗(花押)


        御中
     五ヶ所
         御宿所

(書き下し文)
その後は久しく申し承らず候。
本意に背き存じ候ところに、思し召しにより御音信として銀子四匁を御意ぎょいに懸けられ候。
誠に御懇志の儀、過分の至りに候。
仍って (闕字)御門跡様(顕如)並びに新御所様(教如)何れも御勇健に御座候。
御心安かるべく候。
御近所・御寺内御堅固の御事に候。
これまた御心安かるべく候。
其方の儀、各々御座何無きの由珍重に存じ候。
然れども、猶以て御用心簡要に候。
爰元相替の儀に於いては、重ねて申し下すべく候。
委曲御両使御演説有るべく候間、不一二候、恐々謹言
(中略)
  尚々、不慮の儀出来に付きて、各々御気遣い笑止千万にて候。
種々御用心簡用に候。
此方の儀、油断無く御心掛け簡要に存じ候。以上

  1. 誕生~叔父信光死去まで(1534~1555)
  2. 叔父信光死去~桶狭間の戦い直前まで(1555~1560)
  3. 桶狭間の戦い~小牧山城移転直後まで(1560~1564)
  4. 美濃攻略戦(1564~1567)
  5. 覇王上洛(1567~1569)
  6. 血戦 姉川の戦い(1570 1.~1570 7.)
  7. 信長包囲網の完成(1570 7.~12.)
  8. 比叡山焼き討ち(1571 1.~9.)
  9. 義昭と信長による幕府・禁裏の経済改革(1571 9下旬~1571.12)
  10. 元亀3年の大和動乱(1572 1.~1572.6)
  11. 織田信重(信忠)の初陣(1572 7.~1572 9.)
  12. 武田信玄 ついに西上作戦を開始する(1572 9.~1572 12.)
  13. 将軍・足利義昭の挙兵と武田信玄の死(1573 1.~1573 4.)
  14. 将軍追放 事実上の室町幕府滅亡(1573 5.~1573 7.)
  15. 朝倉・浅井家滅亡(1573 8.~1573 10.) ←イマココ
  16. 三好義継の最期(1573 10.~1573 12.)

参考文献
奥野高廣(1988)『増訂 織田信長文書の研究 上巻』吉川弘文館
奥野高廣(1988)『増訂 織田信長文書の研究 補遺・索引』吉川弘文館
東京大学史料編纂所(1985)『大日本史料 第十篇之十八』東京大学出版会
三重県(1999)『三重県史 資料編 中世1(下)』三重県
三重県(1993)『三重県史 資料編 近世1』三重県
上松寅三(1930)『石山本願寺日記 下巻』大阪府立図書館長今井貫一君在職二十五年記念会
太田牛一(1881)『信長公記.巻之上』甫喜山景雄
水谷憲二(2012)「北伊勢地域の戦国史研究に関する一試論(1)-近世に著された軍記・地誌の活用と展望-」,『佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇』, 40,19-36.
谷口克広(1995)『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館
向日市文化資料館(2020)『戦国時代の物集女もずめ乙訓おとくに西岡にしのおか』向日市文化資料館
など

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