池田恒興

織田信長家臣・池田恒興(いけだつねおき)に関する記事はコチラです。

嫡男の元助もこちらに含みますが、次男の照政(輝政)は便宜上別タグとさせていただきます。

なお、池田恒興は摂津池田氏と同族ではないかとの説もあるようですが、当サイトでは摂津池田氏は別タグとして扱わせていただきます。

1.古文書

戦国時代の書簡を出す際のルールと専門用語を解説します

書簡を書く際に守らねばならない礼儀作法を書札礼(しょさつれい)といいます。今回は書札礼の決まり事とその意味、古文書の専門用語についてわかりやすく解説いたします。当サイトは戦国時代の面白さを古文書から伝えるものです。
2.織田信長の年表ちょっと詳しめ

織田信長の年表ちょっと詳しめ 朝倉・浅井家滅亡

織田信長の年表13回目です。天正元年(1573)8月~10月までのおもに織田家の行動を年表にしています。朝倉・浅井討伐戦・近江鯰江城攻略・第二次伊勢長島一向一揆戦の時期にあたります。
織田信長が出した古文書

河尻秀隆はどこにいた?長島一向一揆戦から見える信長公記の信憑性

伊勢長島一向一揆勢の最後の戦いとなった天正2年(1574)夏。この時期に信長が河尻秀隆へ宛てた書状から、織田の諸将がどのように動いたのか。さらにこの時期の『信長公記』がどの程度信用の置ける史料なのかを探ります。当サイトは戦国時代の面白さを古文書から伝...
1.古文書

【古文書解読初級】 翻刻を読んでみよう(島津義久・山中幸盛・森長可編)

今回はくずし字で記された原文ではなく、翻刻を読めるようになろう!という記事です。翻刻とはくずし字で記された当時の史料を、語順などをそのままにして活字化したものを指します。少しでも古文書学習のお役に立てましたら幸いです。
織田信長が出した古文書

闕所(欠所)ってなに?織田信長が発給した判物を例に解説します

中世日本の闕所(けっしょ)という謎ルールについて織田信長の判物を例に解説します。"これはどちらの意味を指すのか"クイズ感覚で楽しんでいただければ幸いです。当ブログは古文書を解読し、当時の人々の生き様を紹介するサイトです。
六角・浅井・朝倉家が出した古文書

越前合戦~姉川合戦 信長打倒に燃える朝倉義景が浅井長政へ宛てた書状を解読

外交の力で信長を撤退へ追い込んだ朝倉義景。義景はさらに信長を追い込むべく周辺の勢力と誼を通じ、調略を活発化させます。この時期に朝倉義景が浅井長政へ宛てた書状を解読し、そこから何が見えるのかを記事にしています。
2.織田信長の年表ちょっと詳しめ

織田信長の年表ちょっと詳しめ 将軍追放!事実上の室町幕府滅亡

信長の年表12回目です。今回の主な出来事は丹羽長秀に大舟建造を命じる、足利義昭再び挙兵の風聞、河内畠山家の遊佐信教らが主君・畠山秋高(昭高)を弑逆、足利義昭再び挙兵、二条御所の戦い、宇治槙島の戦い、足利義昭追放、一乗寺・静原山両城の戦い、木戸・田中両城の戦い、「天正」と改元などです。
3.織田信長の合戦や外交の詳細記事

姉川の合戦 後半 合戦の詳細と通説以外の説

姉川の合戦の詳細記事後半です。諸説さまざまな姉川の合戦、軍議、姉川の地形、姉川合戦の陣立て、姉川の合戦 開戦、姉川の合戦 浅井軍の猛攻、信長危うし 13段の備のうち実に11段まで破られる、形勢逆転 徳川軍の反撃、追撃掃討戦、姉川の合戦 終結する、通説ではない姉川の合戦 実は苦戦していなかった?などです。
4.織田信長家臣団

池田恒興 信長を地道に支えた忠臣

信長股肱の家臣で、信長覇業の最序盤から仕えた男。主要な合戦のほとんどに参加し、信長から絶大な信頼を受けて嫡男・信忠を支える。その後荒木村重討伐に活躍し、摂津伊丹城主となり、本能寺の変を迎えた。今回はそんな池田恒興の軌跡を辿る。
3.織田信長の合戦や外交の詳細記事

十四条・軽海合戦 一日二決戦!まさかのダブルヘッダー

永禄4年(1561)。先の森部合戦で勝利した信長は、墨俣城を奪取。大きな損害を受けながらも墨俣城に入り、兵を休まる暇なく痛手を受けた墨俣城の修復に取り掛かっていた。敗れた斎藤軍だが、すぐさま新手の兵を繰り出し、墨俣より北北東6キロの十四条村に布陣。信長もこれを迎え撃つため十九条村に布陣するのだが・・・
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