十四条・軽海合戦 一日二決戦!まさかのダブルヘッダー

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こんにちはー!
今回は信長28歳の時の話、「十四条・軽海の戦い」を取り上げます。
前回は森部の戦いでしたが、そのわずか9日後のことです。

時は永禄4年(1561)。戦乱の世は続いていた。

甲斐の武田信玄は北信濃攻略戦を展開し、名門・仁科家を滅ぼすなど着々と勢力を伸ばしていた。

畿内中央では三好家が全盛期を迎えていた。芥川山から飯盛山に居城を移した三好長慶は、高屋城を拠点とする畠山高政を破り、河内国を完全に平定。飛ぶ鳥を落とす勢いであった(フラグ)

1561年当時のおおよその勢力図
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1561年当時のおおよその勢力図

信長を取り巻く当時の情勢

 永禄4年(1561)5月。美濃斎藤家の当主・斎藤義龍が急死。

信長はその死に乗じてすぐさま清州を出陣。西美濃の森部において斎藤軍を破る。
森部合戦については下記の記事をご覧いただきたい。

墨俣城を占領した信長は、傷んだ箇所の修復を急いでいた。

そんな中、敗れた斎藤側が新たに軍を編成し、早くも新手を繰り出す。5月23日。稲葉山城から西10km、墨俣から北北東6kmにある十九条村に布陣する。

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十四条付近の地形(国土地理院より)

信長も十四条村に布陣

 それを聞いた信長も出陣の下知を出した。ここで犬山城主の織田信清の弟で、織田解由左衛門広良(信益)が先陣を願い出る。余談だが、信長と信清、広良は従妹通しである。信長の父・信秀の弟に信康がいて、その信康の子が信清と広良なのだ。

5月23日。墨俣から出た織田軍は、十四条村陣を敷いた。ここは今も昔も長閑な田園地帯である。この「十九条」とか「十四条」という地名は、古代日本における6町(654m)四方の面積を里(り)で表す土地区画の名残である。

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十四条・軽海合戦の両軍進軍図(国土地理院より)

十四条合戦

 早速「十四条」で戦闘が始まった。織田軍は犬山勢の織田勘解由左衛門(広良)を先陣に必死に防戦したが、怒涛の勢いで襲い掛かる斎藤勢の勢いが凄まじく、ついには勘解由左衛門(広良)が討死してしまった。信長はいったん兵を退くことを決断し、軍を再編成した。

軽海合戦

 勢いに乗じた斎藤軍は北軽海まで進出信長も西軽海で対峙する態勢となった。だんだんと空は暗闇に覆われた。

両軍どちらともなく再び合戦となった。足軽と足軽とが白兵戦、乱戦状態となり、いたるところで激戦が続いた。

夜になっても戦は終わらなかった。

敵の先陣・真木村牛介隊を崩し、さらに曽根城主・稲葉良通の叔父である稲葉又右衛門(常通)を馬廻の佐々成政と池田恒興が同時に討ち取った

やがて闇が濃くなり、敵が引いたかも味方がどこにいるのかもわからない状態となった。信長はいたずらに動くよりも朝を待った方がよいと判断する。

やがて空が白んでくると、戦場には斎藤軍は一人たりともいなかったので、信長らは大笑いしたという。軽海合戦では敗れたが、この戦いは織田軍の勝利となった。

この一日で起きた二つの合戦を「十四条・軽海合戦とよぶ。

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十四条・軽海合戦(国土地理院より)

その後の信長

 早朝。信長は墨俣に帰城した。

しかし尾張へはまだ帰らず、そのまま美濃に居座り続けた。

ある日には斎藤家の本拠である稲葉山城下へ迫り、民家を放火。またある時には美濃安八郡神戸市場に信長は禁制を下している。

信長は苦しみながらも墨俣を奪取し、稲葉山ー大垣間の間に楔を打ち込む形で、織田家の支配下には組み入れたのであった。しかし、西には西美濃三人衆がまだ降伏しておらず、東には強固な斎藤家臣団が健在である。

なお、翌年の6月に犬山城主・織田信清が突如信長に反旗を翻し、信長の美濃攻略作戦は暗礁に乗り上げるのであった。

赤瀬川の由来・言い伝え

 かなりの激戦だったため、そこを流れる川が赤く地で染まり「赤血川」と呼ばれるようになった。

“あかちがわ”→”あかぜがわ”と言葉は呼びやすいように徐々に変化し、今の「赤瀬川」という名になった。当時とは川の流れも太さも恐らく変わっているだろうが、現在でも赤瀬川は流れている。

(画像挿入予定箇所)

考察

1.謎の多い合戦

 斎藤家が布陣したのが十四条村だという説もあり、合戦の詳細も兵力もよくわかっていない謎の多い合戦だ。また、軽海合戦については翌年同じ場所で行われていて、そこで勘解由左衛門(広良)が討死という説もある。しかし、それは信憑性が薄いので、当ブログでは十四条合戦で勘解由左衛門により織田勢が退却、その夜の軽海合戦で織田勢勝利、翌年に犬山織田家謀叛という説を採択することとした。

2.なぜ墨俣で籠城しなかったのか

 斎藤家が十九条村に布陣した時には、どうも墨俣城の修復が終わっていたらしい。では、「なぜ信長は墨俣城で籠城をしなかったのか。」織田軍の兵力は不明なのだが、恐らく1500~3000程度ではなかろうかと推察する。その人数も収容できないほど墨俣は規模が小さかったのであろうか。時期が5月であることから、現在でいう6月の梅雨シーズンでもある。(太陰暦と太陽暦の関係) 洪水にもなると籠城には適さない城ではあるのだが。

3.いわゆる木下秀吉の墨俣一夜城について

 太閤立志伝でおなじみの「墨俣一夜城」であるが、実はそれは江戸時代に創作された古文書に初めて書かれていて、それ以前の書物には一切書かれていない。あの信長公記にすら墨俣一夜城について1ミリも書かれていないことから、これは創作逸話だとする見方が強い。秀吉ほど有能な人物なのだから、美濃攻めの段階で秀吉の武功をねじ込まなくても十分すごいのに・・・w しかしながら、秀吉がこのあたりから活躍するのは事実で、4年後の永禄8年(1565)には鵜沼城主の大沢氏を説得し、開城させている

この時期の信長の行動について調べたい方は、下記の年表記事をご覧ください^^

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今回もご覧いただきありがとうございました!

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