こんばんはー!
今回は信長の美濃攻略戦が大きく進展した契機となる合戦
「堂洞城の戦い」を取り上げます。
この戦で信長は中濃~東濃を支配下に収め、
美濃攻略の大きなきっかけとなりました。
※信長のこの時期の合戦は史料に乏しいため、この合戦についても諸説あります。
そのことをご理解いただいた上で、読み進めていってください。
時は永禄8年(1565)
信長の美濃攻略戦は斎藤家の結束が固く、なかなか思うようには進まなかった。
しかも信長の親戚である犬山城主・織田信清が信長に反旗を翻した為、美濃攻略どころではなかった時期である。
そんな中、菩提山城主・竹中重治(半兵衛)が突如稲葉山城を乗っ取り、当主である斎藤龍興を城から追い出してしまう。美濃武士団の結束は、ほころび始めていた・・・。
当時の濃尾の情勢 (国土地理院より)
信長を取り巻く当時の情勢
竹中重治(半兵衛)の稲葉山城乗っ取りで美濃が動揺している中、信長は小牧山に居城を移し、家臣団や町人、職人にまで移住を命じる。
するとすぐさまその成果が表れ、犬山城の支城である黒田城主・和田新介と小口(於久地)城主・中島豊後守が相次いで信長に降った。
信長はすぐさま兵を出し、犬山城を落城させ、尾張全土を統一する。
この時期、信長の調略もむなしく、竹中重治(半兵衛)は斎藤龍興に城を返してしまう。
信長に吉報 美濃加治田城主の佐藤忠能、忠康父子が内応
永禄8年(1565)7月。中濃の要害の地である加治田城主・佐藤忠能(紀伊守)、忠康(右近右衛門尉)父子が、丹羽長秀の内応工作に応じた。(佐藤家家臣の梅村良澤が説得したと伝わる)
これを聞いた信長は非常に喜び、黄金五十枚を与えている。また、信長の家臣・金森長近との婚姻関係を名目に寝返ったとされている。
佐藤父子が内応 (国土地理院より)
中濃三城盟約の計
佐藤父子が信長と内通しているとの噂がすでに漏れ伝わっていたのか真偽は不明だが、この時期、関城主の長井道利が働きかけ、美濃中央を支配する3家で婚を通じている。
長井道利とは斎藤龍興の叔父にあたる人物で、当時の斎藤家を支える家老的な立ち位置である。
中濃3家とは、関城の長井道利。堂洞城の岸信周。そして加治田城の佐藤忠能である。この3家の結束を強くし、斎藤龍興に忠節を誓わんとする盟約である。
すでに信長に内通していた佐藤家であるが、これを断ればただちに攻められることは目に見えている。佐藤家はこれを承諾し、娘の八重緑を堂洞城の岸信周の嫡男・信房に嫁いだのであった。
信長出陣 鵜沼、猿啄両城を攻撃
越後の上杉家や甲斐の武田家、そして亡き将軍・足利義輝の実弟である覚慶(のちの足利義昭)との外交で忙しい日々を送っていた織田信長であるが、機は熟したとばかりに美濃へ出陣。
当時の上杉家との外交に関しては、下記の記事をご参照ください。
鵜沼城と猿啄城を包囲した。
斎藤家の主力が後詰に到着する前に攻め落とす算段であった。
鵜沼城を守るのは、大沢正秀(次郎左衛門、基康)。「美濃の虎」との異名を持つ勇将である。
猿啄城を守るのは、多治見光清(修理亮)。
いずれもこれまでの合戦で信長を大いに苦しめてきた武将であった。
鵜沼(宇留摩)城は堅固な要害であったため、信長は伊木山に砦を築き、自ら在城して鵜沼城下を焼き払った。鵜沼城の 大沢正秀は木下秀吉の説得に応じて開城した。
猿啄城もこれまた堅固な要塞であったが、先鋒の丹羽長秀が城を見下せる大ぼて山に攻め上り水源を断ち、さらに河尻秀隆が激しく攻め立ててついに落城した。
また、この時期に烏峰城も森可成が激しく攻めて落としている。
(鵜沼、猿啄両城の戦いについては後日、別の記事で詳しく書きます)
堂洞城を包囲
戦略通り斎藤家の援軍が到着する前に鵜沼、猿啄両城を攻略した信長は、軍を北上させ、中濃に進出する。
中濃付近の地形(国土地理院より)
信長は金森長近を使者として堂洞城に派遣し、岸一族を調略しようとした。しかし、岸家はこれを拒絶。長近の目の前で岸信房の嫡子の首を刎ねたとあるが、真偽は不明である。
翌日。信長は堂洞城を包囲する。岸信周は近隣諸国に聞こえた勇将で、堂洞城は砦にしては大規模な、三ノ丸まで存在する城であった。
堂洞城を包囲 (国土地理院より)
斎藤家の戦略
先に述べた通り堂洞城は堅固な要害であるため、信長がそこを取り囲んでいる間に、関城の長井道利、加治田城の佐藤忠能が織田軍を攻撃。背後から東美濃の国人である米田城城主・肥田忠政が攻撃。
さらに、斎藤龍興本隊が戦場に到着し、織田軍を散々に蹴散らすといった戦略だったに違いない。
斎藤家の戦略 (国土地理院より)
しかし、斎藤家にとっては思いがけぬ誤算が生じた。
佐藤父子 信長方に寝返る
信長が堂洞城を取り囲むと、ほんの数キロ先の加治田城が信長方に寝返り、佐藤忠能、忠康父子が堂洞城攻めに馳せ参じた。
斎藤家は動揺した。斎藤家の本隊はまだ戦場に到着せず、挟撃する予定であった関城の長井道利も、堂洞城の南方に陣取ったまま単独では何もできず、味方の援軍を待つ構えを見せた。
堂洞城の戦い (国土地理院より)
堂洞城の戦い
信長の決断
戦国の世ではこういった展開になることは多い。城を取り囲み、攻撃はせずに敵の後詰を待つ。敵の後詰が到着すると、合戦に及び、それに勝利して一気にせめかかるというのが、いわばセオリーであった。
しかし、信長は意外な決断を下す。一斉攻撃だ。力攻めである。
先の鵜沼、猿啄両城でもそうだが、信長は電光石火の速さで戦場に到着し、素早く城を攻撃する傾向が多いのだ。
力攻め 総攻撃を敢行
この日は強風であった。信長はこの風ならば火の回りが早いだろうと判断。
城を取り囲んでいる諸将に命じ、松明を持ち、塀際まで詰め寄ったら四方から投げ入れさせた。
南に布陣する関城から出陣した長井勢は、織田軍の別動隊の牽制で身動きが取れない状態であった。
首尾よく二の丸まで攻め上った織田軍は、持っていた松明を一気に投げ入れた。燃え盛る曲輪に、岸勢は本丸に避難せざるを得なくなり、一方織田軍も二の丸から先には進めず、火の手が止まるまではお互いどうすることもできなかった。
※それを物語るかの如く、今日でも城跡では焼けた米が出土するそうだ。
太田又助の活躍
そんな中、櫓に登り、次々と敵に矢を射かけ、敵を倒している信長直属の家来がいた。それが太田又助である。元々は柴田勝家の配下だったようだが、信長尾張統一初期の時代に、弓の腕を認められ、信長の直臣となり、弓3人鑓3人の「六人衆」の一員となり近侍衆となっている。
太田又助は達人級の弓の腕で、的確に一人ひとりに矢を命中させ、力のありそうな岸家の侍たちは倒れていった。
信長はこの太田又助の活躍を見ていて、実に3度も使者を遣わし、「見事な働きだ」と賞賛したという。
後に又助は知行を大幅に加増された。
そう、この太田又助とは織田信長の一代記で、現在信長関連の史料では最も歴史的信憑性の高い「信長公記」の著者・太田牛一である。
この若い時の戦で信長に褒められたのが余程嬉しかったのか、この合戦に関しては他の記録よりも詳しく記されている。さぞかし筆が進んだであろう。
そして堂洞城落城へ
夕刻。火がようやく収まった頃、とうとう織田軍は本丸へとなだれ込んだ。岸信周・その子信房も懸命に防戦し、寄せ手を18度も追い返したという。
しかし、さすがの岸勢も多勢に無勢。河尻秀隆と丹羽長秀が競うように打ち入り、ついに岸信房が討死。
今はこれまでと岸信周も奥へと引き下がり、奥方と共に自害して果てた。
なお、天守一番乗りは河尻秀隆が成し遂げた。
この年の一連の戦功で、河尻秀隆は猿啄城を知行に与えられている。
八重緑の悲劇
さて、ここで前日に話を戻そう。
信長が堂洞城を包囲し、加治田城の佐藤忠能、忠康父子が信長に加勢したことは前に述べた。佐藤忠能の娘・八重緑が中濃三城盟約の際に、岸信房に嫁いだのも冒頭の方で述べた。
堂洞城の岸信房はこの裏切りに憤慨し、妻である八重緑が串刺にし、長尾丸に磔にしたのである。堂洞城から加治田城はさほど離れていない。長尾丸という場は、加治田城から十分見える位置にあるようだ。
佐藤家の古参である西村治郎兵衛が夜中に長尾丸に闇討ちに入り、八重緑の亡骸を奪い取り、加治田城に持ち帰った。
その後、佐藤家ゆかりの寺である龍福寺へ葬ったと伝わるが、さぞかし無念な死であったであろう。また、串刺しにした岸家も、よほど憎しみが深かったに違いない。
翌日の堂洞城の戦いでは、佐藤忠能率いる加治田勢は怒りに燃えていたであろう。
堂洞合戦その後
信長はわずか一日で堅固な要塞・堂洞城を攻め落とした。
その日は加治田城で一泊する。この時佐藤忠能・忠康父子は涙を流して信長を迎え、感極まっていたため、礼の言葉も言葉にならなかったほどだと伝わる。
翌日、山下で首実検を行う。検分が終わると信長は800ばかりの兵を率いて犬山城へ戻った。しかし、その移動中に斎藤龍興本隊と、関城の長井道利が信長に奇襲。
わずか800の兵では戦にならぬことは言うまでもない。前日の城攻めで疲れ果てていたこともあり、士気も低く、かなりの死傷者を出したようだ。信長勢は一旦陣形を立て直し、斎藤軍と対峙。
攻めかかるように見せて兵を横へと退き、信長自らが殿をつとめたという。
信長凱旋中に斎藤軍が奇襲 (国土地理院より)
斎藤軍は信長が犬山城へと退いた後、裏切った佐藤父子の籠る加治田城を攻めるのだが。
この戦については後日、別の記事に書くことにしよう。