信長が上杉輝虎(謙信)に養子を出そうとしていた事実

4.5
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こんばんはー!
ところで信長が上杉謙信に養子を送りたがってた事
ご存知でした?私はつい最近、古文書で知りましたw
この文書から見える信長の低姿勢ぶりが面白いですよ。

織田信長
清州時代と思われる織田信長像

今回もとりあえず書状の方から御覧いただきたい。

永禄7年11月7日付 織田信長が直江景綱(上杉家家老)に宛てた文書

永禄7年11月7日付 織田信長が直江景綱(上杉家家老)に宛てた文書
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上杉家文書(真田宝物館所蔵)

釈文

追而おって申入候、そもそも御誓談
条々、
かたじけなき次第候、ことに
為 御養子 愚息可
被召置旨、
まことに面目之
至候、於何時、自路次
様子可進置候、向後
いよいよ得 御指南可申談候、
此等これら之趣披露可為
本望候、恐々謹言、


  十一月七日 信長(花押)
    直江大和守殿

上杉家文書

現代語訳

追伸
先日申し入れた御誓談(養子の件)の条々のことですが、お受入れ下さり誠にありがとうございます!
養子となる愚息を(あなたの家に)召し置いて下さるということは、まことに名誉なことです。
今後どうするかなど、ご指導をいただきながら話し合いたいです。
上杉輝虎(謙信)さんによろしくお伝えくだされ。
   11月7日 信長(花押)
    直江景綱殿

上杉家文書

当時の時代背景

 永禄7年(1564)夏ごろ?に信長は居城を小牧山に移し、犬山城を攻め落として尾張を完全に掌中に収めた時期だ。隣国美濃では国人に過ぎない竹中重治(半兵衛)がクーデターにより稲葉山城を乗っ取り、まさに濃尾地方は風雲急を告げていた。

この時期、信長は越後の長尾景虎改め上杉輝虎に外交工作を始めている
この年の9月9日付けの上杉家家老・直江景綱宛ての書状に、

「仍って先月濃州にあい働き、井口近所に取手の城を所々に申し付け候、しからば犬山落居せしめ候」

歴代古案

とあるのだ。
ここには先月に美濃を攻めて、井ノ口(稲葉山)付近の城を攻め、尾張の最北端に位置する犬山城も攻略したとある。

しかし、稲葉山付近の城(鵜沼、猿啄、堂洞、加治田、関、烏峰)を攻めとるのは永禄8年(1565)説が根強く、迷った末に当ブログでも永禄8年説を採用している。

美濃攻めの時期はさておき、話を書状の件に戻す。

この時期に上杉家との外交が頻繁に行われていたと見え、次に現存している書状が、この養子の書状なのだ。

こんなにも低姿勢な信長はほとんど見たことがない

 信長が残している書状に、正親町天皇以外でここまで低姿勢なのは、私が知る限りほとんど見たことがない。足利義昭にすら「御指南を」などと書いてないであろう。

だが、ここで複数の疑問が湧き起こる。

上杉謙信
上杉謙信像

この書状への疑問

信長が低姿勢な理由

 この当時、信長はまだ美濃を攻略していない。

甲斐の武田信玄とも外交をしているが、武田の牽制として上杉家を利用したかったのではないか

翌年に信長の養女が武田勝頼に嫁いでいるのだが、この時はまだどうなるかわからなかったのであろう。

もしかすると、武田家との外交が行き詰っていて、逆に上杉家とはうまく外交工作が進んでいた時期なのかもしれない。

上杉輝虎(謙信)がなぜ信長の養子を欲したのか

 これもよくはわかってはいないが、
そもそも最初に交渉を持ち掛けたのは、上杉家からのようだ。

永禄7年(1564)9月9日になると、信長は上杉輝虎に同盟を求め、自分の子供を養子にしてくれることを依頼した。

こうした経緯があって、この信長の書状が出されたのだ。

信長は上洛することをこの当時から狙っていたのか

 これについては少し疑問だ。

というのは、将軍・足利義輝が永禄の変によって倒されるのが翌年のことなので、尾張一国しかまだ持っていない信長には難しかったであろう。

信長が本格的に上洛を意識するのは、足利義昭が依頼してきた時からなのだ。

結局養子は出されたのか

 それが、どういう経緯があったのかわからないが、結局は養子の話は立ち消えとなった

理由は定かではないが、前にも述べたように、翌年の秋から冬にかけて、信長は武田家と婚姻同盟を結んでいる。

上杉家の宿敵である武田信玄と同盟を結ぶなど、上杉輝虎(謙信)の心証を害することは当然であろう。

この5年後の永禄12年(1569年)。上杉謙信は関東の北条氏康の子を養子としている。
謙信の死後、その養子が原因で家中を二分する大乱が起きるのだが・・・。

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