丹羽長秀 信長が最も信頼した武将の生涯

4.5

こんにちは!

今回は信長公の家臣編ということで書いていきます。

どうしても家臣の中で最初に書きたかったのはこの男。

丹羽五郎左衛門長秀だ!( ゚Д゚)

人物くらいならwikipediaとか見ればええやんって私も思っていたが、
よく見てみると内容が薄い薄い!

これは家臣の生涯をより詳しく書き足していくしかないでしょ!

というわけで、これから定期的に家臣団についてもコンテンツを増やしていこう。

はじめに

  • 重要な部分は赤太文字
  • それなりに重要なポイントは赤や青のアンダーラインで
  • 信憑性が疑われている部分は黄色のアンダーライン

それでははじめていきます。

丹羽長秀肖像画
丹羽長秀肖像画

丹羽長秀の生涯

生没年

天文4年9月20日(1535年10月16日)-天正13年4月16日(1585年5月15日)

名前・幼名・官途名・受領名

万千代、五郎左衛門尉、越前守

家族・一族

父:丹羽長政 母:能呂氏

兄弟:兄・長忠、弟・秀重、女・松原伊賀守室、女・大津長昌室、後に蜂屋頼隆室

妻:正室・桂峯院(織田信広の娘→織田信長の養女となり嫁ぐ)
側室:杉若無心の娘

子:長重、長正、藤堂高吉、蜂屋直政、長俊、長紹(長次)決光院(赤田隼人正室)、撃林院(粟屋勝久室)、定光院(稲葉典通正室)、長清院(青山宗勝室)、円光院(古田重治正室)、栄輝院(山田高定室)、女(伊木忠次室)、種橋成章室(種橋一章母)

尾張時代から美濃攻略まで

 天文4年(1535)9月20日、尾張の国丹羽長政の次男として生まれる。

天文19年(1550)に織田信長に仕えた。長秀15歳、信長16歳である。この当時の信長はまだ家督相続前であり、「うつけ」と噂され、評判は決して良くなかった。若き長秀は、信長の歌舞伎仲間(ヤンキー友達)として、常に行動を共にしたという。

19歳の時に梅津表の合戦で初陣。(梅津表がどこに位置するのか、勝敗すらも不明)

弘治2年(1556)稲生の合戦では織田家の多くが弟信勝につく中、信長についた。永禄3年(1560)桶狭間合戦にも従軍

永禄6年(1563)頃信長の養女(織田信広の娘)を娶る。この年2月頃(?)に信長は美濃攻めの橋頭保として小牧山城を築いているが、その普請奉行が丹羽長秀であったという。急造の城とは思えぬほど立派な城で、見る者を圧倒したと伝わる。翌年の8月までには、織田家臣団も皆小牧山へ居を移しているものと考えられる。実はこのあたりから歴史書に頻繁に長秀の名が姿を現し始めるのである。

小牧山城
丹羽長秀が普請奉行をしたとされる小牧山城

同年8月(?)丹羽長秀の調略により、犬山織田家の配下である黒田城主・和田新介と小口(於久地)城主・中島豊後守が相次いで信長に降る。これにより犬山城を落とすことができ、さらに長良川対岸の猿啄城、鵜沼城などの城を落とすことに繋がった。

永禄8年(1565)丹羽長秀の調略により、加治田城主佐藤忠能が内応。8月28日の堂洞城の戦いで長秀は、河尻秀隆森可成佐藤忠能と共に戦っている
関連記事:堂洞城の戦い 戦の功名と八重緑の悲劇

同じ時期、(永禄9年12月説もあり定かではない)木下秀吉の調略によって斎藤家の将・大沢正秀(次郎左衛門)が信長に降っているが、信長の恨み殊の外深く、清州城に到着した途端に殺されかけた。それを秀吉が必死にかばったところ、かえって秀吉も勘気をこうむった。あわや藤吉郎お手打ちかと皆が恐れたところで、長秀が道理を説き、冷静に説得して信長の怒りが収まったという逸話が残されている。

このように長秀は槍働きだけではなく、調略面や行政面でも大いに活躍し、斎藤家を美濃から放逐したのであった。

犬山城から対岸を見る
犬山城から対岸の美濃の国

信長の上洛後

 永禄11年(1568)9月12日。信長が大軍を率いて上洛するときには、箕作城信長滝川一益木下秀吉らとともに攻め落とし、武功を挙げている。

 (備考)箕作城の戦いおよび観音寺城の戦いについての詳細記事は、以下のリンクをご参照ください。

信長は上洛を果たし、京都周辺の治安維持を任されている。この頃の織田家発給文書に、丹羽長秀や松井友閑村井貞勝、木下秀吉、明智光秀の名が多く見受けられる。10月14日には長秀は村井貞勝とともに、近江国安吉郷の村々から指出検地を行っていることからも、政治面でも大いに活躍していることが窺える。いつしか「木綿藤吉郎、米五郎左、かゝれ柴田に退き佐久間」と、評されるようになり、木下秀吉、柴田勝家佐久間信盛とともに重要な位置づけであることがわかる。

翌12年(1569) 信長の命によって松井友閑とともに、いわゆる「名物狩り」の奉行として、京や堺で天下の名器を集めた。

丹羽長秀の花押
丹羽長秀発給文書の花押

同年8月。信長の伊勢平定戦に従軍。伊勢国司・北畠具教父子籠る大河内城、南の山から攻めている。

元亀元年(1570)同盟関係であった浅井長政の裏切りにより、信長は命からがら越前から京へ逃げ帰っているが、すぐに長秀と明智光秀に命じ、若狭国の武藤上野から人質を取るべく若狭に遣わしている。

同年6月。姉川の合戦にも従軍し、近江小谷山城周辺を放火。浅井長政籠る小谷城の押さえに木下秀吉が横山城に入り、丹羽長秀は佐和山城の近くの百々屋敷に入っている。戦略上、秀吉と長秀が特別重要な位置づけが与えられていることは言うまでもないであろう。11月16日。信長の命で瀬田に舟橋を架けている。

翌2年(1571)2月17日。丹羽長秀の説得に応じて浅井家の将・磯野員昌が信長に投降。佐和山城を明け渡したことによって、長秀がそこに入った。またこの年、嫡男鍋丸(丹羽長重)が誕生している。

天正元年(1573)7月。将軍足利義昭討伐、8月の越前の朝倉義景討滅に従軍している。

織田家家臣初の国持ち大名へ

 天正元年(1573年)9月。長秀は若狭一国を与えられ約8万5000石の国持大名となる。近江や尾張?にも知行があるはずなので、実際はもう少しあったかもしれない。
この頃の長秀の家臣は溝口秀勝長束正家建部寿徳山田吉蔵沼田吉延などがおり、さらに若狭の衆で武田元明栗屋勝久逸見昌経山県秀政らが寄騎についた。

翌2年(1574)伊勢長島一向一揆討伐にも参陣。前ヶ州、加路戸島砦などの攻略で戦功を上げる。

天正3年(1575)7月3日。これまでの功績が認められ、朝廷から惟住の姓が与えられる

安土城築城の総奉行

天正4年(1576)正月中旬から安土城の築城が始まり、長秀は総奉行に任命される。信長公記にもこの事が詳しく記されており

「正月中旬より江州安土御普請、惟住五郎左衛門に仰付けられる。二月廿三日、安土に至って信長御座を移させられ、先御普請御意に相ひ、御褒美として御名物の周光茶碗、五郎左衛門に下され、忝き次第なり。御馬廻御山下に各御屋敷下され、面々手前々々の普請申付けられる」

信長公記巻九

とあり、正月中旬に信長から安土城築城の命があり、2月13日には早くも信長が安土に引っ越してきたことが窺える。いかに信長が丹羽長秀を信用しているか、どれほど安土城の完成を待ち望んでいるかがよくわかる。

天正9年(1581)2月28日。信長は正親町天皇の御前で京都馬揃えを披露。なんと長秀は第一番で入場するという栄誉を与えられている。

翌天正10年(1582)甲斐武田家討滅戦にも従軍。武田家を滅ぼした後、信長は長秀の病を気遣い草津温泉でしばらく湯治するようにと命ずる。その時に信長の近習である堀秀政らに長秀の供をさせている。

本能寺の変

 安土に戻ったのもつかの間、5月20日には徳川家康を饗応している。翌21日。信長は徳川家康に京や堺の見物を勧め、長秀はその接待を任されて、大坂へと向かっている。家康接待の後は信長の三男・信孝の戦目付として四国の長曾我部を討伐する予定だったのであろう

その時、つまり6月2日未明本能寺の変が発生。畿内が大混乱の中、長秀は三男・信孝と共に、明智光秀の縁者である津田信澄(信長の甥)を討つことが精一杯だったようだ。明智光秀と雌雄を決することに躊躇しているうちに、備中高松から羽柴秀吉が驚きの速さで舞い戻り、摂津富田まで馳せ参じて、秀吉の軍に加わっている

本能寺の変
本能寺の変

山崎の合戦明智光秀を破った後、6月27日尾州清州城にて織田家重臣会議(清須会議)が執り行われる。長秀は終始秀吉の出す案全てに賛同し、実際事態はその通りに動いた。

翌11年(1583)賤ケ岳の戦いでは秀吉側につき、琵琶湖北岸の塩津口を守る。4月20日の柴田軍の佐久間盛政勢らの急襲により、賤ケ岳の守りが危うくなると、桑山重晴に砦への帰還を強く促し、秀吉が戻ってくるまでの間、その周辺を持ちこたえるうえで非常に大きな役割を果たしている。その後、柴田勝家の居城・越前北ノ庄城攻めにも軍功を上げた。この合戦の功によって長秀は、これまでの所領に加え、近江2郡、越前全て、加賀南半分を与えらえれ、計123万石の大大名となった。

晩年

翌年の小牧長久手の戦いにも参陣するが、この頃既に病が重く、出陣できなかった。名代として子・長重が出陣している。

長秀は翌年天正13年(1585)4月16日に没した。死因は長年患い苦しんでいた腹中の病「積虫」だというが、真偽は不明である。 また、腹を切って病巣の部分を秀吉に送り付けたという説にも疑問が残る

その他エピソード等

  •  長秀自身は信長の養女(織田信広の子)を嫁に迎えているが、嫡男・長重も信長の五女を娶っている。 主君と二重の婚姻関係を結ぶ例はあまり見られず、信長の長秀への信頼がよくわかる。
  • 信長の「長」の一字を拝領し「長秀」と称したというが、丹羽長秀の父は「長政」である為、その説には疑問が残る。
  • 安土城普請の総奉行中も、本願寺攻めや荒木村重攻め、松永久秀討滅、加賀出陣、播磨救援等、実に慌ただしく動いていた。
  • 「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」という風評は、米とは必ず必要な物で、貧しい者でも高貴な者でも、毎日の生活で欠くことのできないことのたとえである。
  • 長秀と秀吉は、対浅井家との戦いの時にはそれぞれ佐和山城と横山城と非常に近い距離に在番し、秀吉の非凡さをよく知りぬいていたのではなかろうか。そう考えると、本能寺の変直後は自らの野心を成就させることなく秀吉に徹頭徹尾付き従い、123万石を得ているのも納得できなくはない。
  • 信長の美濃攻略時代のこと。長秀は名刀「あざ丸」を所持してからというものの、眼病に悩まされるようになった。 実はこの刀はいわくつきの代物であり、持っていた武将の目を潰すのだとか。それが巡り巡って長秀の元に渡った。長秀はその噂を聞いて熱田神宮に妖刀「あざ丸」を奉納したところ、嘘のように眼病が治ったという。
  • 秀吉に付き従って123万石の厚遇を得たものの、息子は秀吉から信頼されず、最終的には96%カットの4万石に落ち着いたというのはなんとも皮肉な話である。

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