大河ドラマとなる明智光秀の生涯をなるべく詳しく(2)

大河ドラマとなる明智光秀の生涯をなるべく詳しく
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はじめに

  • 重要な部分は赤太文字
  • それなりに重要なポイントは赤や青のアンダーラインで
  • 信憑性が疑われている部分は黄色のアンダーライン

それでははじめていきます。

前回の途中からです。

正親町天皇の怒り

 しかし、このことが正親町天皇の怒りに触れる結果となった。

坂本は琵琶湖の水運を利用して大きな収益が見込める町だったが、戦国時代に入ると比叡山延暦寺が大きな利権を握っていた。
そこから信長が、比叡山勢力が影響力を持っていた所領の多くを奪い取る形となった。

しかもまずいことに、当時の比叡山延暦寺の門跡(もんぜき)は正親町天皇の弟・覚恕(かくじょ)法親王であった。
彼は事変当時、叡山にはおらず難を逃れたが、そのまま甲斐の武田信玄を頼り、信玄に信長討伐と織田家との同盟破棄の大義名分を与える結果となった。

そうした経緯もあってか正親町天皇の怒りにふれ、明智光秀木下秀吉らは、横領した旧叡山領を返還せよとの勅状が送られている。
(しかも遠回しに信長の名指しを避け、信長のあずかり知らぬところで信長家臣たちが横領したとする体で)

正親町天皇肖像
正親町天皇肖像(泉涌寺所蔵)

結局この件で織田家は領地を返還しておらず、正親町天皇との関係にしこりを残したまま有耶無耶に葬っている。

なお、こうした事実があったからといって、11年後の本能寺の変と結びつけるのは短絡的である。
確かに信長と正親町天皇との関係は、比叡山焼き討ちでぎくしゃくした。
しかし、それ以後は特別不穏にはならかったばかりか、禁中御所修理などで莫大な資金や人足を信長は献上している。
皇太子である誠仁(さねひと)親王との関係もかなり良好だった。

関連記事:【古文書講座】太政大臣か関白か将軍か 天下人信長が選択した道は

信長と足利義昭の対立の中、剃髪して隠居の意思を固める

 ちょうど同じ時期。
信長と足利義昭との間でも決定的な対立が起きた。
理由は今一つ判然としない。
私個人の推測では、前述の「殿中御掟」の規則を破り、諸大名に勝手に御内書を乱発し、打倒信長を呼びかける証拠信長が突き付けたためではないかと考える。

織田信長と足利義昭。
二人の主君の対立で板挟みとなった光秀は、致仕(官職を退いて引退すること)して剃髪する意思を固めた。
明智光秀の号名が「咲庵」とあるのは、恐らくこの時の事だろう。

対立する足利義昭と織田信長

元亀2年(1571)12月20日付けの書状で、足利義昭近臣の曾我助乗に取りなしの労を感謝している。

翌元亀3年(1572)1月18日には幕臣で信長討伐に反対する細川藤孝と、同じく幕臣で信長討つべしと主張する上野秀政が、将軍の面前で激しく口論している。
この頃から既に明智光秀と細川藤孝は考えが同じで、徐々に足利義昭からフェードアウトして、織田信長に仕える意思を固めていたのかもしれない。

また、このような不安定な状況の中、光秀は公家で吉田神社神祇官でもある吉田兼和(兼見)と頻繁に交流を重ねている。
光秀から吉田神社に訪れることもあれば、吉田兼和が近江坂本城まで下り、光秀を訪問することもあった。(兼見卿記)
吉田兼和は細川藤孝の従兄弟でもあった。

隠居は許されず、政略・軍事に大忙し

 光秀ほど有能な武将を、世間が隠居を許すはずがなかった。

元亀3年(1572)3月。
信長の江北出陣に光秀は従軍。
小谷山城麓の村々に放火して浅井長政を挑発するが、長政は籠城を決め込んで打っては出なかった。

3月11日。
湖西の和邇に移陣して木戸・田中に砦を築き、明智光秀と丹羽長秀中川重政らに守備させた。(信長公記)

信長はそのまま軍を解き、上洛して妙覚寺に寄宿。
そこで吉田兼和(兼見)が信長を訪問しているが、光秀は奏者として取りなしている。(兼見卿記)

4月3日。
吉田兼右(兼和の父)が信長を訪問した際も、明智光秀が馳走を取りなす。
信長は殊の外上機嫌でしばらく雑談を交わし、金子一枚を吉田に与えた。(兼見卿記)

4月4日。
明智光秀滝川一益佐久間信盛柴田勝家が連署で河内国住人の片岡弥太郎へ書状を出す。
内容は、来たる4月14日に河内へ出兵する旨を伝え、片岡弥太郎の出勢と合城を厳命するものである。(根岸文書)

歴代信長の野望で打線組んだwwww 創造・覇王伝編

4月中旬。
光秀は裏切った松永久秀三好義継討伐のため河内表へ出陣。
佐久間信盛柴田勝家細川藤孝三淵藤英上野秀政池田勝正伊丹親興和田惟長らとともに2万の軍勢で松永久秀の軍勢が立て籠もる河内騎西(きさい)城を攻囲する。(信長公記、兼見卿記)

5月8日。
松永久秀らに味方した奈良中、興福寺、東大寺よりそれぞれ銀子320枚、100枚、50枚を徴収する。
(奈良興福寺多門院の多聞院英俊は筆まめで、この時期の大和における情勢を細かく記しているが、織田家への敵対心がよく現れていて面白い)

5月9日。
さらに松永久秀を追い詰め、大和多聞山城を攻めて降伏させた。(多門院日記)

7月下旬。
再び信長が江北に出陣。

明智光秀も従軍し、新しく寄力に加わった堅田衆の猪飼野甚介(猪飼昇貞)馬場孫二郎居初又二郎や、浅井家家臣だった林員清(与次左衛門)、元六角家家臣だった山岡玉林(山岡景猶)らを従えて、余呉・木ノ本付近を放火。
続いて竹生島にも攻め寄せ、敵対する一向一揆勢を攻め破って田畠を焼き払った。

嫡男・信重(織田信忠)の初陣1
元亀3年(1572)湖北出兵

さらに虎御前山(とらごぜやま)と宮部、八相山に砦を築いて、のちの小谷山城攻略に向けて大きな成果を挙げた。

光秀、ついに決断 幕臣の地位を捨て、足利義昭を見限る

 同元亀3年(1572)12月下旬。
武田信玄が西上を決意し、三方ヶ原の合戦で徳川・織田連合軍を打ち破った。

この報せを聞き、大いに喜んだ将軍・足利義昭はついに挙兵。
近江の石山・今堅田に城を築いて信長への対決を決断した。

緊急事態 信長と将軍・足利義昭が不和 仲直りの為に信長が出した条件とは

しかし、武田信玄が病死。
三河まで攻め上っていた武田の大軍は甲斐国へと帰っていった。

一方、信玄西上にはしゃぎ、うっかり挙兵してしまった将軍・足利義昭。

翌元亀4年(1573)2月。
信玄死去の噂に確信を掴んだ信長は、ただちに南近江へ出陣。
この時光秀は完全に信長の配下として柴田勝家、丹羽長秀、蜂屋頼隆とともに義昭側近の光浄院暹慶(山岡景友)籠る近江石山城を攻める。

石山城をわずか6日で攻め落とし、続いて今堅田城も攻め立てた。
光秀は囲い舟で海上より攻撃し、攻め落としている。(信長公記)

さらに京へと侵入し、賀茂界隈を放火。
ついに足利義昭は降伏し、信長と和睦した。石山・今堅田の戦い

光秀は完全に吹っ切れていると見え、この時期に信長と将軍との狭間で苦悩する書状などは一切見つかっていない。

室町幕府滅亡と明智光秀の出世

 同年7月。
正親町天皇の仲介もむなしく、足利義昭は再び挙兵。
和睦が崩れた。

信長は直ちに京へ出陣。
宇治槙島城を攻め落とし、将軍・足利義昭はついに追放された。=宇治・槙島の戦い室町幕府滅亡

光秀は将軍に味方して抵抗していた山本対馬守籠る静原山を攻め、さらに朝倉義景の影響下にあった近江木戸・田中両城を攻略する。(信長公記)

落城

この一連の光秀の軍功は大きく、信長はこの両城を与えた。
こうして光秀の知行地は坂本などのある志賀郡だけでなく、高島郡にまで伸びたのである。

朝倉家・浅井家の滅亡と明智光秀

 同年8月。
将軍を追放した信長は、休む暇なく江北に出陣。
光秀も従軍し、浅井・朝倉家と対陣する。(信長公記)

織田軍は嵐の中、大獄城を奇襲。= 大獄城の戦い
瞬く間にこれを攻め落とし、朝倉義景は戦意を失い越前へと退却した。
信長は自ら馬で駆け回り、朝倉軍の追撃を行った。

この時、織田家の並居る諸将たちとともに朝倉家の退却を見逃してしまい、光秀は信長の叱責を受けている。
織田軍は木の芽峠で逃げる朝倉軍に追いつき、刀根坂で多数の朝倉軍を討ち取った。=刀根坂の合戦

越前平野になだれ込んだ織田軍に、朝倉義景はもはや抵抗する力は残っておらず、一門にも裏切られて自害
先祖代々の禍根に終止符を打った。(信長公記)

この時、8月28日付で織田大明神社(剣神社)に社領を安堵したのは滝川一益木下秀吉明智光秀の3人である。
さらにこの3人は9月のうちに橘屋三郎五郎に諸役を免除したのをはじめ、国衆や寺院に安堵状を発給している。(橘文書、滝谷寺文書など)

信長は越前の仕置きを行い、返す刀で小谷山城を攻める。
小谷山城も本丸と二の丸の間を預かる中の丸の浅井一族が裏切り、最後の時を迎えた。
浅井長政は信長の妹であるお市と娘3人を信長の下に送り届け、自害して果てた。

こうして戦国大名浅井氏、朝倉氏は滅亡した。

浅井長政・朝倉義景

足利義昭を匿った三好義継を滅ぼす

 同天正元年(1573)9月24日。
信長は続いて伊勢長島の一向一揆を攻めているが、この時光秀が従軍したかは不明。
この戦いは第二次伊勢長島の戦いとなるが、大きな戦果はなく織田軍が退却している。

11月16日。
光秀は佐久間信盛らとともに、足利義昭を匿った河内若江城主・三好義継を攻める。
大軍に攻められた義継は、名門三好家の世継ぎとして華々しい最期を遂げた。=河内若江城の戦い

三好義継
三好義継肖像

信長公記にも
「比類なき御働き、哀れなる有様なり」
と、その最後の働きを賞賛している。
(=哀れなるは感動するという意味)

三好義継は勇敢な武将で信長に気に入られていたと見え、数年前に信長の仲介によって足利義昭の妹を妻に娶っていた。
信長にとってはそれが仇となったのだ。

関連記事:リアル信長のシェフ 信長の好きな味は

12月26日。
大和の松永久秀は多聞山城を明け渡して降伏したが、この後しばらくは明智光秀が同城を守った。

天下(京都)所司代・村井貞勝の補佐として政務に携わる

天正元年(1573)。
将軍追放後に村井貞勝天下(京都)所司代に任命された。
洛中の行政、禁裏との折衝、または奉行(裁判)を行う最高責任者である。

村井貞勝肖像画
村井貞勝肖像

この仕事の最初の2年間は明智光秀が補佐していたと見られ、数多くの書状に光秀の名が見られる。
私が調べた限りで列挙すると

天正元年(1573)

  • 11月22日 明智光秀単独の発給で実相院門跡に、岩倉の門跡領を安堵する。(前田家文書)
  • 12月16日 村井貞勝とともに、策彦周良(さくげんしゅうりょう)に妙智院の直務を確認する。
    また、西院の小作に妙智院への納入を命じる。(妙智院文書)
  • 12月26日以前 村井貞勝とともに寂光院、三千院の知行を安堵する。(来迎院文書)

天正2年(1574)

  • 12月21日 村井貞勝とともに、賀茂社に社領を安堵する。(賀茂別雷神社文書)

天正3年(1575)

  • 2月13日 村井貞勝とともに、清凉寺に禁制を掲げる。(清凉寺文書)
  • 7月7日 村井貞勝、塙直政とともに、壬生朝芳に所領を安堵する。(宮内庁書陵部文書)
  • 7月14日 光秀単独の発給で高倉永相に、地子銭を安堵する。(高倉家旧蔵文書)

光秀は足利義昭より京都北山周辺を知行として受けていたが、将軍家滅亡後も知行を安堵されているようだ。
そうしたことから、北山周辺での発給文書が多いのは理解できる。
光秀は村井と違い大軍を率いる身なので、この間にも多くの合戦に参加している。
この時期の光秀が非常に多忙な日々を送っていたことが窺える。

なお、光秀は天正3年(1575)6月から丹波国の切り取りを任されているので、それ以後は村井貞勝と武井夕庵松井友閑といった文官が政務を行っている。

村井貞勝と1日単位の政務についても詳しく書いたことがあるので、もし興味があれば・・・

→村井貞勝 信長だけでなく町人、公家、天皇にまで愛された名奉行

細川藤孝の嫡男・忠興に娘を嫁がせる(細川ガラシャ)

 光秀が大和多聞山城の城番に入ったと先に述べたが、この城番は1か月交代の当番制だったらしく、2月中旬に長岡(細川)藤孝に代わっている。

この間に当たる天正2年(1574)1月24日。
多聞山城で連歌興行を主催。
1月26日には中坊氏主催で再び連歌会を開いている。(連歌集徳善院等百韻外)

またこの頃、信長の命により息子を筒井順慶の養子に送っている。(諸説あり)
さらに娘二人を長岡(細川)藤孝の嫡子・忠興、信長の甥にあたる津田信澄に嫁がせている。

津田信澄はかつて信長に謀叛を起こした実弟・織田信勝の子。
細川忠興に嫁いだ娘は玉子といい、細川ガラシャという名で有名である。
彼女はキリシタンだった。

細川ガラシャ
数奇な運命を辿った明智光秀の娘・細川ガラシャ

明智光秀と細川藤孝との友情を思わせる古文書の解読を以前したことがあります。
ご興味があれば是非。
関連記事:【古文書講座】「麒麟がくる」の明智光秀が細川藤孝に宛てた直筆書状を解読

来世ちゃん
来世ちゃん

次回は「明智光秀が丹波攻略を任されるまでの軍事行動」から書きたいと思います。

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