大河ドラマとなる明智光秀の生涯をなるべく詳しく(4)

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大河ドラマとなる明智光秀の生涯をなるべく詳しく
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はじめに

  • 重要な部分は赤太文字
  • それなりに重要なポイントは赤や青のアンダーラインで
  • 信憑性が疑われている部分は黄色のアンダーライン

それでははじめていきます。

徳川家康の饗応と信長勘気の信憑性

 天正10年5月15日。
甲斐武田家討滅の礼のため、徳川家康が安土を訪れた。
明智光秀は信長より家康を饗応(きょうおう=もてなすこと)する役目を命じられる。(言継卿記、信長公記)
光秀はこの日より3日間、饗応に精を出した。

松平元信 (のちの徳川家康)
徳川家康 のちの征夷大将軍

饗応3日目。
備中高松城を水攻めにしている羽柴秀吉が、毛利家の主力軍が出陣との報を受け、信長に救援を依頼する。
信長は光秀の饗応の任を解き、急遽明智光秀、長岡(細川)藤孝池田恒興らを援軍に派遣することを決めた。

このことにより、光秀は5月17日に一旦近江坂本城に帰城している。(信長公記)

一説には明智光秀が家康に腐った料理を出して信長の怒りが爆発し、それが本能寺の変の「怨恨説」の1つとなっている。
しかしながら、明智光秀ほどの几帳面で細やかな神経な男が、そのような初歩的な手抜かりをするとは考えにくい。
この説は川角太閤記などがソース元で

明智日向守所御宿に仰せつけられ候ところに、御馳走のあまりにや、肴など用意の次第御覧なさるべきために、御見舞候ところに、夏故、用意のなまざかな、殊の外、さかり申し候故、門へ御入りなされ候とひとしく、風につれ、悪しき匂ひ吹き来たり候。其のかほり御聞き付けなされ、以の外御腹立にて、料理の間へ直に御成なされ候。此の様子にては、家康卿御馳走はなる間敷と、御腹立ちなされ候て、堀久太郎(堀秀政)所へ御宿仰せ付けられ候と、其の時節の古き衆の口は、右の通りと、うけ給はり候。信長記には、大宝坊所を家康卿の御宿に仰せつけられ候と、御座候。此の宿の様子は、二通りに御心得なさるべく候。日向守面目を失ひ候とて、木具、さかなの台、其の外、用意のとり肴以下、残りなくほりへ打ちこみ申し候。其の悪しきにほひ、安土中へ吹きちらし申すと、相聞こえ申し候事。

川角太閤記

とある。

腐っている→信長激怒→せっかく用意した料理を堀に投げ捨てる→面目を失った光秀が恨む
といった感じ。
一級史料の信長公記や兼見卿記などにはそういったことは一切記述がないので、信憑性はいま一つといったところだ。

ときは今あめが下知る五月かな

 光秀が坂本を発して丹波亀山に入ったのは5月26日。
翌日、光秀は愛宕山に参詣。
ここで二、三度クジを引いたという。(信長公記)

きっと4→2→1の順で出たのだろう。

続いて連歌師の里村紹巴らを交え、西坊にて連歌会を催した。
この時光秀が

ときは今あめが下知る五月かな

との発句を詠じたというのは有名な話である。
なお池田氏関連の古文書には「あめが下なる」となっている。

翌日の5月28日。
光秀は亀山城に帰った。(信長公記)

本能寺の変

 6月1日夜。
光秀は全軍を率いて亀山城を出陣した。
兵力は恐らく1万3000ほどだろう。

本能寺の変1

この時、明智家中のうち明智秀満斎藤利三ら5名の老臣だけは、本能寺襲撃の意思を告げられていたという。
当代記によれば、この5名には起請文を書かせ、人質まで取ったようだ。

当時の本能寺は単なる大きな寺というわけでなく、変の2年前から大改修がなされていた。
まず、付近の民家を退去させ、四方に堀を巡らし、内側には土居を築いて木戸を設け、内には仏殿以下客殿その他の殿舎を建て、厩舎(馬の小屋)まで造られていた。

これは小城郭とでもいうべき防御機能を持った寺であった。

当時の本能寺の平面図
当時の本能寺の平面図

明智軍は6月2日未明、本能寺を取り囲んだ。

信長公記によれば信長は当初、家来同士の喧嘩だと思っていたらしい。
しばらくすると、明智軍は鬨の声(ときのこえ)を上げて御殿に鉄砲を撃ってきた。

信長は誰ぞかの謀叛を悟り、小姓の森成利(蘭丸)に物見をさせた。
やがて成利は「明智が者と見え申し候」と言上。

敵が明智と悟った信長はもはや助からぬと思ったのか、「是非に及ばず」と言ったという。
本能寺に防御機能があったとはいえ、信長の身の回りには80~150名程度しか詰めていなかった。
(他の馬廻たちは京都の各所の宿所で泊まっていた)

明智勢は四方より一気に攻めかかった。

屋代勝助ら4名は厩から敵勢に斬り込んだが討死。
厩では中間衆など24人が討ち取られた。
御殿では台所口で高橋虎松が奮戦してしばらく敵を食い止めたが、結局、24人が尽く討死した。
湯浅直宗小倉松寿は町内の宿舎から本能寺に駆け込み、両名とも斬り込んで討死にした。(wikipediaより)

信長ははじめ弓を射かけて戦ったが、弦が切れたので槍を取って応戦する。
しかし、右の肘に槍傷を受けて本堂に退いた。
そこで信長は女房衆達を退避させ、殿中の奥深くに篭り、内側から納戸を締めて切腹した。

本能寺の変2

本能寺の変
織田信長 享年49歳

織田信忠の二条御新造も攻撃する

 戦後、光秀は信長の遺体を探したが見つからなかった。
あまりに光秀が焦り、動揺していたので、見かねた斎藤利三が合掌して「合掌して火の手の上がる建物奥に入っていくのを見ましたと」言ったという。

光秀はようやく重い腰を上げて織田信忠の殺害に取り掛かった。
織田信忠は信長の嫡男である。
既に織田家の家督を継いでいて、彼も当時、京都妙覚寺に宿泊していた。

安土桃山期の京都御所周辺
信長時代の京都中心部

村井貞勝の報を織田信忠が聞いた頃には、もうすでに本能寺は焼け落ちていた。
信忠は貞勝の進言を聞き入れて、誠仁親王の邸宅となっていた二条御新造に入る。

しかし衆寡敵せず織田信忠も自害して果てた。 (享年25歳)

織田信忠

織田信忠肖像

一説には信忠は「これほどの謀反だから、敵は万一にも我々を逃しはしまい。雑兵の手にかかって死ぬのは、後々までの不名誉、無念である。ここで腹を切ろう」と言ったという。
斎藤利治らをはじめとする忠臣たちも、この時ことごとく信忠と運命を共にした。

信忠が自害して二条御新造が落ちたのは辰の刻(午前8時)頃。(信長公記、耶蘇年報)
光秀は落ち武者狩りを命じ、その日のうちに近江へ進軍した。

本能寺の変後の明智光秀の行動

 「本能寺炎上 明智逆心
この報せはその日のうちに近江中に知れ渡った。
北近江山本山城主の阿閉貞征(あつじさだゆき)父子、山崎城の山崎秀家、若狭の武田元明、それに京極高次などは光秀に降り、恭順の意思を示した。

しかし、勢多城主の山岡景隆ら山岡兄弟は勢多の橋を焼き落として明智軍の進軍を遅らせ、日野城主の蒲生賢秀賦秀(やすひで=のちの氏郷)父子は信長の妾や子を保護して光秀の勧誘を拒んだ。

6月5日。
光秀は信長の居城だった安土城を占領し、信長の蓄えた財宝を家臣に分け与えた。(兼見卿記、耶蘇年報)

6月7日。
禁裏より勅使が光秀のもとへ来訪し、物を賜る。
この時の使者が吉田兼和(兼見)である。(兼見卿記、日々記)

関連記事:明智光秀と親しかった公家が記した日記に正本と別本がある理由

6月8日に上洛。

翌9日。
公家衆の出迎えを受け、禁裏や誠仁親王に銀を献上する。(兼見卿記、日々記)
さらに光秀は下鳥羽へ出陣した。
しかしながら、もうこの日には備中高松で戦っていたはずの羽柴秀吉が姫路を出発していたのである。

木下秀吉

羽柴(豊臣)秀吉肖像

信長・信忠父子の遺体 見つからず

 数日が経っても信長、信忠父子の遺体は見つからなかった。
近江の小身の豪族クラスはある程度恭順の意を示したが、蒲生や山岡、筒井、さらに長岡(細川)藤孝といった武将が光秀に味方しなかったのは、信長が生存しているかもしれないという風聞があったからであろう。

事実、中国大返し中の羽柴秀吉が
上様ならびに殿様いづれも御別儀なく御切り抜けなされ候。膳所が崎へ御退きなされ候
との噂をしきりに流していたようだ。

こうした大事件の直後に情報が錯綜するのはいつの時代も同じだろう。
光秀に味方が集まらなかった理由の一つに、それがあったことは概ね事実だろう。

6月10日。
光秀は河内の洞ヶ峠に出陣。
筒井順慶の参陣を待ったがついに来なかった。
長岡藤孝も再三にわたる光秀の誘いを拒み、剃髪して幽斎玄旨(ゆうさいげんし)と号し、息子の細川忠興に家督を譲って隠居した。

細川忠興肖像

細川忠興肖像
明智光秀の娘を妻に持つ。
織田信長、豊臣秀吉の下で功を重ね、関ケ原の合戦で抜群の働きをして肥前熊本54万石の太守となった。
信長家臣時代から蒲生氏郷とはライバル関係だった。
妻はキリスト教に帰依し、細川ガラシャという名で有名。

6月11日。
事後調略の失敗を悟った光秀は下鳥羽に戻り、秀吉との戦いに備えて淀城を修復している。(兼見卿記、日々記)

天下分け目の天王山 山崎の合戦

 秀吉軍はもう目前に迫っていた。
畿内にいて動揺していた織田家中の多くは、羽柴秀吉の軍に合流することを決める。

6月12日。
明智光秀軍と織田信孝を総大将とする羽柴秀吉軍は円明寺川を挟んで対峙した。
事後調略の失敗が響いてか、明智の率いる兵力は1万~1万6000余。
対する秀吉らの兵力は、織田信孝丹羽長秀堀秀政らを加えて3万余である。

秀吉軍は前夜に中川清秀高山重友(右近)らが山崎の集落を占拠。
さらに池田恒興らが右翼に布陣。
黒田孝高羽柴秀長神子田正治らが天王山麓を抑えることに成功する。

この時点で勝敗は決していた。
(布陣図は今度気が向いたときに作りますw)

翌日13日 申の刻(午後4時頃)
ついに両軍が衝突した。
斎藤利三ら百戦錬磨の明智軍が死に物狂いの突撃を仕掛け、中川清秀高山重友隊が崩れ立った。
これを見て秀吉本体から堀秀政(信長の側近だった武将)が応援に駆け付け、持ちこたえる。

そこで天王山麓に布陣していた黒田孝高羽柴秀長、神子田正治らが明智軍の側面を突く。
さらに、池田恒興元助父子と加藤光泰が円明寺川を渡河して津田信春を奇襲。
丹羽長秀織田信孝率いる大軍もこれに続き、ついに明智光秀軍は総崩れになった。

明智光秀の最期

 6月14日 未明。
総崩れになった明智軍は、近くの勝竜寺城に逃げ込んだ。
しかし、勝竜寺城は小城で大軍を収容することが難しかったようで、大半の兵は脱走した。

光秀は夜陰に紛れて勝竜寺城を密かに脱出し、自らの思い出の地である近江坂本城へ向かう。
その途中、京都山科あたりの小栗栖の藪付近で落ち武者狩りに遭い、竹槍に刺されて絶命したとも、何とか逃れたものの力尽きて家臣の介錯により自刃したとも伝えられる。

明智光秀肖像画

明智光秀 享年67歳 (55歳、57歳説もあり)

明智秀満の軍は後詰のために出陣したが、打出の浜で堀秀政らと交戦し敗北した。
坂本城に退却した秀満は、敵方に家宝を贈呈した後、光秀の妻子を殺害し、溝尾茂朝明智光忠と共に自刃。
中川清秀、高山重友の手勢は光秀の新本拠地である丹波亀山城に進軍し、光秀の嫡男・明智光慶を自刃させて落城。
この時まだ13歳だったという。(諸説あり)

光秀とかなりの年齢差があるが、女子ばかり続いた後、ようやく待望の男子が生まれたのであろう。

こうして明智家は滅亡したのである。

光秀謀反の原因は諸説ある。
ここでそれを書かなかったのは、あまり意味がないと思ったからだ。
多くの学者が現在でも多くの議論がなされているが、未だに原因が解明されていない。
恐らく信用できる古文書や新たに発掘された新発見がない限り、この議論は延々と続くであろう。

来年2020年に明智光秀を主人公にした大河ドラマ「麒麟がくる」が始まる。
そのドラマを見た視聴者の方が「うちにもこれと同じ花押がある!」と名乗り出てくれたら面白い。

ここでは書ききれないレベルで光秀謀叛の説がwikipediaの「本能寺の変」のページにあるので、興味のある方はご覧いただきたい(外部リンク)

強いて言えば真相はこれやろ。

来世ちゃん
来世ちゃん

ごらんいただきありがとうございました!

ちょっとマニアックすぎましたかね。

もっと簡単に書いた方がよかったかも~(;´∀`)

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