こんばんはー。
明智光秀について書いている途中ですが、最後の本能寺の変を書くにあたり、どうしても兼見卿記について説明しておきたいことがあったので記事にしてみました。
吉田兼見とは何者で、なぜ正本と別本があるのでしょうか。
吉田兼見とは何者なのかを簡単に
吉田兼見(かねみ) 天文4年(1535)~慶長15年(1610)
吉田兼右の子として生まれ、公家と吉田神社の神主を兼任した。
織田信長と親しく、その関係から村井貞勝や明智光秀との親交も深かった。
細川藤孝(幽斎)の従兄弟にあたる。
かなりの筆まめで「兼見卿記(かねみきょうき)」という非常に史料価値の高い日記を記す。
初名は吉田兼和
吉田兼見という名で有名だが、信長の時代は吉田兼和という名であった。
吉田神社は今日京都市左京区に存在するあの吉田神社で、現在でも多くの参拝客で賑わっている。
豊臣秀吉が天下を取りつつあった天正14年(1586)に、後陽成天皇の諱(和仁)を避けて、兼見と改めた。
兼見卿記はどのような古文書なのか
兼見卿記は元亀元年(1570)からはじまり、途中欠失部分があるものの、文禄元年(1592)まであり、日記のような形式で記されている。
兼見は公家であり、吉田神社の神祇大副(神主)でも立場上、神事に関する記述が多め。
織田信長と親しく、たびたび信長の宿所や陣所に訪問している。
さらに公家としての仕事で各地へ旅をした時の紀行や風聞、連歌、能楽、茶会についても興味深い記述がある。
吉田兼見と織田信長のギブアンドテイクな関係
吉田家の領有する吉田神社は広大な敷地のため、戦国の世には不逞な輩に横領される恐れがった。
また、当時の朝家(天皇家)は全国各地の荘園(天皇家の直轄地)が横領されまくって収入がほぼなかったこともあり、時の権力者の資金援助に頼っていた。
ちょうど吉田兼見の時代が戦国時代末期に当たり、織田信長が足利義昭を奉じて上洛した時期にあたる。
信長は吉田神社から人足や木材、小石、藁などの物資を徴発(供出させること)を依頼し、吉田兼見からは本領の安堵、治安維持、訴訟関連を期待していた。
徴発とはいえ、織田信長から吉田神社にある御神木を所望された時には、はっきりと断ることもあった。
信長家臣の村井貞勝が天下(京都)所司代に就任してからは、より深く織田家に関わっていった。
明智光秀とも親しかった
吉田兼見の従兄弟に当たる人物に細川藤孝がいた。
細川藤孝と親友関係にあるのが明智光秀である。
そうしたことから、吉田は明智光秀とも親しく、たびたび茶会を開いている。
本能寺の変後は勅使(勅使=天皇の使者)として明智光秀を数回訪れ、光秀の協力者となった疑惑がある。
それが命取りとなり、兼見の政治生命最大の危機を招く。
兼見卿記に正本と別本があるのは、このことが大きく関係している。
兼見卿記 正本と別本 なぜ2冊存在するのか
明智光秀は半月もせぬうちに敗れて天下は終わった。
実は兼見卿記には、本能寺の変があった天正10年だけは正本と別本がある。
理由は恐らく吉田が明智と特に親しくしていたことは周知の事実であり、勅使として公的に明智光秀をサポートしていたと見られかねないから、半ば事実をぼかすために書き直したものと思われる。
もし、羽柴秀吉や信長の子である織田信雄、信孝らの目に留まったとき、自身の身の破滅を恐れたのであろう。
山崎の合戦があったのが6月13日のこと。
その前日の6月12日まで書いていたのが本当の内容で、山崎の合戦で明智大敗の報を聞いて、慌ててその年の正月からの文を書きなおしたと考えられる。
そういうわけで、新たに書き直した(捏造した)方が兼見卿記正本、本当のことが書いてるものが兼見卿記別本ということになる。
なぜ吉田兼見は真実を記している日記を焼き捨てなかったのか
ここで1つの疑問が出てくる。
秀吉や信長遺族たちの目に留まることを恐れて書き直したはずの兼見卿記だが、なぜ真実が記されている別本を破棄しなかったのだろうか。
実はその真相は誰にもわからない。
そこで私はこう考える。
吉田が毎日ここまで事細かに日記を書き続けていたのはなぜだろうか。
単に自分で見返す、見直すためだけに日記を記したわけではないと思う。
吉田は吉田神社の当主だったので、のちのち訴訟事があった場合に、正当性を主張するために証拠となる日記を記したというのもあっただろう。
しかしながら、各地の紀行や災害、津波などの被害記録、茶会や能楽なども事細かに記した理由は、後世の人に見てほしいと考えていたのではないかと思う。
だから、吉田は身の破滅になりかねない爆弾(兼見卿記別本)を、ついに捨てきれなかったのではなかろうか。
もしそれが真実ならば、兼見卿記の正本と別本を比較検証できるのは彼のおかげである。
私は吉田兼見の歴史を愛する心に感謝したい。