大河ドラマとなる明智光秀の生涯をなるべく詳しく(1)

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大河ドラマとなる明智光秀の生涯をなるべく詳しく
来世ちゃん
来世ちゃん

こんばんはー。

2020年大河ドラマ「麒麟がくる」の主役となる明智光秀

簡単に光秀について紹介するブログは山ほどあるでしょうが、逆にマニアックすぎる内容の記事は少ない気がします。

来世ちゃん
来世ちゃん

明智光秀について、大河ドラマが始まる前に書いておきたいと思い記事にしてみました。

今回は前半ということで、将軍と決別し朝倉家・浅井家を滅ぼすところまでです。

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はじめに

  • 重要な部分は赤太文字
  • それなりに重要なポイントは赤や青のアンダーラインで
  • 信憑性が疑われている部分は黄色のアンダーライン

それでははじめていきます。

明智光秀の生涯

永正13年?(1516)~天正10年(1582)6月13日

仮名・幼名・官途名・受領名

十兵衛尉、号は咲庵(西教寺文書)、惟任日向守(天正3年7月3日より)

家族・一族

父:明智光綱 母:お牧の方

養父:明智光安

兄弟:不詳 明智秀満は従兄弟か

妻:煕子(妻木氏娘)

子:光慶玉(ガラシャ、細川忠興室)など

明智光秀肖像画
明智光秀肖像画(本徳寺蔵)

出自と初舞台

 生年は「明智軍紀」によると享禄元年(1528)とする説が一昔前までは有力だったが、現在では永正13年(1516)説が有力になりつつある。
しかしながら、それでは1534年生まれの織田信長とは大きく年をかけ離れてしまう。
親レベルの年の離れ具合となってしまうので、なんとなくイメージと違ってくる。

出自についても様々な議論を呼んでいる。
その中でもっとも信憑性の高いとされる説が、美濃明智城城主の子という。
(※苗木や岩村近くの明知城とは別)

「隆佐記」によると、明智城城主の血筋は
美濃国住人ときの随分衆也
とあるので、美濃の名門・土岐氏の庶流なのだろう。
公家の吉田兼和(兼見)が記した「兼見卿記」によると、親類が美濃にいる様子である。

その後明智一族は斎藤道三に仕えるも、斎藤義龍に攻められて落城。
一家は離散したとあるが真偽は不明だ。
「細川家記」などには、その後明智光秀は越前へと落ち延び、朝倉義景に仕えたと記されている。

暗殺された足利義輝時代からの幕臣だったとする説があるが、現在は否定的な見解が多い。

【古文書講座】「麒麟がくる」の明智光秀が細川藤孝に宛てた直筆書状を解読

明智光秀の花押

足利義昭の幕臣となる

足利義秋(義昭)が越前の朝倉義景を頼った際には、どういうわけか幕臣となっている。
「細川家記」などにも「朝倉義景に仕えた後、信長に転仕」と記されているので、そこで義昭や細川藤孝らと知り合ったとする説は、概ね正しいと思われる。

細川藤孝肖像画
細川藤孝(幽斎)

この当時の義昭は、一族の足利義栄に将軍職を取られると焦っていた時期であり、深い教養と天下を標榜する見識に優れた光秀を重用したとする説は不思議ではない。
美濃へ激しい攻勢を仕掛けていた織田信長に目をつけ、「織田殿をおいて公方様に上洛を叶えられる大名諸侯は他になし」と強く勧めた可能性は高い。

光秀が義昭より直接宛行われた知行地は山城国下久世荘。
山城北山城周辺の諸士が光秀に従っていたようなので、そこが将軍家より最初に賜った知行地なのだろう。
(※足利義昭将軍就任後)

織田信長に仕える

 永禄7年(1564)9月15日付で光秀が丹羽長秀とともに常在寺に宛てた連署状がある。
しかし、光秀が信長に仕えたのは美濃攻略後の永禄11年(1568)だとされているので矛盾が生じる。
織田信長が稲葉山城を攻略した年がこの年であるとする説がいまだに根強くあるのは、恐らくこのことも大きく関係しているだろう。

一般的な説では、光秀が織田家に仕官したのは永禄11年(1568)の信長上洛の直前である。
足利義昭を奉じて上洛軍を編成し、江南の佐々木六角や畿内の三好勢力を追い払う約束を、信長は明智光秀を介して承諾したものと思われる。
何度目の交渉なのかはわからないが、信長は光秀の非凡な才を見抜いて織田家家臣に加えた。
恐らく信長から直接知行(領地・所領)を与えられて、美濃国のどこかを賜ったのだろう。

戦国時代の外交文書のルールとしきたり ポイントは礼儀の厚薄にあり

光秀としても織田、足利の両属として働いた方が何かと便利だと考えたのかもしれない。
しかしこれは自らの身を滅ぼしかねない危険な賭けでもあった。

光秀初の晴れ舞台

 確かな光秀の初舞台は、永禄11年(1568)11月15日。

信長が大軍を率いて上洛をし、三好勢力を追い払って足利義昭を室町幕府第十五代征夷大将軍に就けた時のこと。
共に義昭を助けた功労者・細川藤孝らとともに連歌会に連なっている場面である。

足利義昭
室町幕府第十五代将軍・足利義昭

光秀が初めて戦場で活躍した場面は、翌永禄12年(1569)の1月15日。
三好三人衆らが将軍・足利義昭の殺害を狙い、京都に攻め込んできた六条本圀寺の戦いだ。
この時、幕臣の明智光秀と細川藤賢野村越中守のほか、織田家家臣では津田佐馬允津田左近赤座七郎右衛門森弥五八山県源内宇野弥七が防戦した。

この時の光秀は抜群の軍功を立てたという。
わずかな兵しかいない中、味方の援軍が到着するまで上手く持ちこたえたのだ。

岐阜に帰っていた信長も大急ぎて京へ向かい、真冬の中山道を馬で駆けに駆け、わずか2日で入京した。

京都における政治にも類まれなる才を見せる

 信長が岐阜へ帰っている間も光秀は京に残って政務にたずさわっている
同じく京に残って仕事をしたメンバーは村井貞勝丹羽長秀木下秀吉中川重政武井夕庵
あとは信長家臣ではないが、朝山日乗との連署状も数多く残っている。

もう一つ、佐久間信盛柴田勝家蜂屋頼隆森可成坂井政尚らもチームを組んで京での政務に携わっていたようだが、彼らは永禄12年(1569)4月中旬以降はあまり名を見せなくなる。

とにかく、光秀が織田家の主力メンバーとしてこの時期から活躍していることは事実のようで、しかも丹羽や木下、武井、村井などの政治力の高いグループに入っている点も注目したいポイントだ。
映画やゲームなどで光秀は京での慣習に明るく、教養もあり、才知溢れる武将であるとするキャラ設定は、概ね正しいのかもしれない。

幕臣としての実績

 一方、光秀は織田家に臣従した後も幕臣としての実績も残していた。
永禄12年(1569)11月20日付の書状で、本願寺光佐(顕如)が明智光秀に宛てて

  • 本願寺が阿波の三好党への合力、助言は一切していないこと
  • そのことを将軍・義昭に伝えて取りなすこと

を頼んでいる。
直接将軍や大名に宛ててではなく、「取次(または奏者)」といわれる重臣に宛てて書状を送るというのは、いわばこの当時の外交における慣習だった。

関連記事:戦国時代の外交文書のルールとしきたり ポイントは礼儀の厚薄にあり

光秀が取次になっているということは、幕臣の中でもとりわけ重い地位にいる証。
信長の家臣ということも当然本願寺は認知しているはずなので、そこには信長にも取りなしてほしいという期待も込められていたのかもしれない。
(本願寺が信長に敵対するのは翌年の9月)

また、「殿中御掟(でんちゅうおんおきて)」といわれる織田信長が足利義昭につきつけた最後の追加五条は、宛先が明智光秀と朝山日乗になっている。

殿中御掟の追加五ヶ条(A)  釈文を記してみた
殿中御掟の追加五ヶ条(B)  釈文を記してみた

関連記事:緊急事態 信長と将軍・足利義昭が不和 仲直りの為に信長が出した条件とは

こうした事実から光秀も日乗と同じく、信長と将軍・義昭との間で中立を保てる立場だったと見てよいだろう。

他にも幕臣の上野秀政と連名で、山城大住荘の農民の押妨を止める書状を発給したり、三好為三に宛てた足利義昭書状に副状を発給したりという活動が見られる。
(※副状とは添状ともいい、大名や将軍が発給する文書にこれが付くと信用性が格段に向上するものだった。副状の内容自体は驚くほど本状と変化のない味気ないものだが、記されている家老の名一つで受け取る側は安堵した)

織田・足利の両属として元亀の争乱時代を転戦

 元亀元年(1570)4月。
織田家が越前朝倉家を攻めて浅井長政が謀反した際、信長は京へと退却した。
その時、光秀は木下秀吉池田勝正らとともに金ヶ崎城に残ってしんがりを務めたとされるが最近の研究では3000の兵を率いて主力となっていた池田勝正の活躍の方が評価が高い。

無事に撤退が完了した直後、光秀は丹羽長秀とともに若狭の武藤友益から人質を徴し、武藤の城を破却している。

同年6月。姉川の戦いに従軍。

同年8月。摂津表に出陣し、野田・福島の戦いにも従軍。
浅井・朝倉連合軍が宇佐山城を攻めた際には、急遽柴田勝家村井貞勝らとともに帰京した。

関連記事:【信長包囲網成立】野田・福島の戦いを図で解説 前編

事の深刻さを理解した信長は、急ぎ陣を摂津から引き払い帰京。
翌日近江坂本に移陣した。

一方、浅井・朝倉連合軍は信長の行動を聞いて宇佐山城の囲みを解き、比叡山麓の砦に立て籠もった
志賀の陣のはじまりである。

志賀の陣で和睦に奔走 政治力で信長の窮地を救う

 光秀は当初、坂本近くの穴太の砦に入っていた。(信長公記)

信長は幾度となく朝倉義景に山を下りて決戦をしようと呼びかけた。
さらに比叡山延暦寺に対しても、せめて中立を保つようにと依頼したがすべて無視された。

戦いは膠着状態となり、冬となってしまった。
しびれを切らした信長の方から和議の申し出をしたと思われる。
そのためなのか、光秀は織田家主力とは別行動をとり、山城勝軍山に城を築いてそこに在番した。

志賀の陣はじまる
志賀の陣図

恐らくここだと禁裏、将軍、浅井朝倉と連絡が取りやすく、且つ京都を守る上で重要な位置だったであろう。

関連記事:【信長包囲網成立】野田・福島の戦いを図で解説 後編

光秀らの奔走が実って、この年の12月14日に和議が成立した。
この時、講和に向けて奔走した最大の功労者が明智光秀である。
将軍・足利義昭を動かし、敵方の浅井・朝倉、三好一党、石山本願寺に交渉し、さらに正親町天皇をも動かして信長の窮地を救ったのだった。

関連記事:【古文書講座】信長窮地 織田家と浅井長政・朝倉義景が和睦したときの書状

これにより双方の軍勢が国もとへと帰れたのである。

比叡山焼き討ち 志賀郡を与えられて坂本城主になる

 翌元亀2年(1571)2月。
佐和山城主の磯野員昌(かずまさ)が城を明け渡したのを機に和議は早くも破れた。

同年8月下旬のいくさに光秀は従軍。
南近江の志村城、小川城、金森城の攻略に加わる。

9月12日。
信長の比叡山焼き討ちにも従軍。
光秀は坂本口から攻め上り、根本中堂をはじめ山王二十一社を悉く焼き払い、僧俗3000~4000人を討ち取る。(信長公記)

翌日。
光秀は信長より恩賞として志賀郡を与えられ、坂本城主となった。
前年に宇佐山城主の森可成が討死しているが、明智光秀は湖西守備の後任として任命されたのだろう。

元亀2年(1571)頃の織田信長による近江支配体制
元亀2年(1571)頃の織田信長による近江支配体制

将軍と禁裏、そして岐阜。
いずれも近い位置にある坂本に知行を賜ることは非常に大きな意味があった。

関連記事:これが織田方面指令軍の原点 織田信長による近江支配体制の確立

来世ちゃん
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次回は「正親町天皇の怒り」から始めさせていただきます。

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