こんにちは~。
今日は「志賀の陣で信長が浅井・朝倉両家と和睦した時の書状」を解読したいと思います。
(これは信長が浅井長政へ発給した文書)
古文書の基本がまだわからない方にもわかりやすいように、当時の時代背景と共に現代語訳と、この書状の解読ポイントも載せて説明します。
古文書解読の事典はこちらです(内部リンク)
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まず最初に原文と書き出し文、現代語訳をご覧いただこう。
織田信長が志賀の陣で和睦の際に浅井長政へ宛てた書状
原文
織田信長が志賀の陣で和睦の際に浅井長政へ宛てた書状(原文) 元亀元年十一月二十八日付織田信長朱印状 「書画 蒐集と鑑賞」第十三号所収
釈文
依 勅宣今度如此令和談之上者、
向後一亀二雁(鷹)之心得、相互可存者也、
一、就浮説不慮之仕合於有之者、無隔心
之儀、誓紙之上可遂御相談事、
一、江州濃州境目番手之儀、相互不
可有候、若旗頭中逆心之族、於有之者、
両国之勢以、可退治乎、可随其時事、
一、朝家御事、是又神国之要ニ候乎、
然上者別而御馳走可申儀勿論候条、不及
紙面之沙汰候事、
一、公方家御政道於有御越度儀者、相互
遂御相談、任道理之旨、為天下万民可
然様可相計候事、
一、公家 門跡方政道之儀、従貴国可及
御沙汰之条、相違有間敷事、
元亀元年十一月廿八日 (信長朱印)
元亀元年十一月二十八日付織田信長朱印状
原文に釈文を記してみた
原文に釈文を記してみた
現代語訳
依って勅命により和議が成った上は、一亀二雁の心得でお互いやっていきましょう。
1.流言による不慮の事態が起きた場合には、起請文(誓紙)を交換し互いに相談すること。
2.近江と美濃の国境には互いに軍勢を置いてはならない。もし、命令に反するものがいた場合は、双方の軍勢で退治すること。
3.朝廷は神国の要であり、各別に取り計らうことは勿論であり、紙面にあえて記すには及ばないこと。
4.将軍の政道で越度(おちど)があった場合は互いに相談し、道理に任せ天下万民の為に奔走すること。
5.公家・門跡の政道については、浅井家(貴国)側から沙汰することに相違がないこと。
この書状の解読ポイント
1行目の「勅宣」とは勅命のこと。天皇の命令という意味。
「者」は「~は」。今回は「~の上は」という意味。
2行目の「一亀二雁」とは、たぶん一富士二鷹三茄子と同じ意味で、縁起の良いこと
3行目の「浮説」は流言飛語のことと考えて良い。
5~6行目の「不可有」は”べからず“と読む。
6行目の「若旗頭中逆心之族」は、若(もし)、旗頭の中、逆心のやからと読む。漢字が続いてもそれぞれ分けて読むことを心掛けると大丈夫。
「可随其時事」は其(そ)の時に随(したがう)可(べき)事(こと)。可や随のように返読文字が並ぶとやや難しい。
9行目の「然上者」は”しかるうえは“と読む。
「馳走」という字は古文書頻出単語である。今日のように振舞う側が用いるだけでなく、当時は「俺のために馳走せよ(奔走・あるいは都合のいいように働け)」といった感じで用いられた。なんて上から目線!w
11行目の「公方家御政道於有御越度儀者」とは”将軍・足利義昭公の御政道において、おん落度がある儀には“ といった意味。漢字が続いても慌てない。
13行目の「然様可相計候事」とは”然るさま、あい計らうべく候こと“
14~15行目の「従貴国可及御沙汰之条」とは”貴国によって御沙汰に及ぶべきの条“
「有間敷」は”あるまじき“と読む。
16行目の「廿八日」は28日。
この書状の時代背景
元亀元年(1570)9月。
織田信長が三好三人衆籠る摂津の野田・福島両砦を攻囲した。
しかし、これまで去就をはっきりさせてこなかった石山本願寺が信長に敵対する。
一斉に信長の陣へと攻めかかった。=野田・福島の戦い
これに呼応し、近江(滋賀)の浅井長政、越前(福井)の朝倉義景が京を目指して湖西より南下。
宇佐山城を守る森可成、織田信治らが討死し、腹背を突かれた信長は窮地に陥る。
信長は摂津(大阪)から陣を引き払い近江坂本、宇佐山、そして志賀まで戻る。
浅井・朝倉連合軍は比叡山に立て籠もり、長い睨み合いが続いた。
その間にも南近江で佐々木六角氏が挙兵。
さらに尾張(愛知)小木江城が長島一向一揆によって攻め落とされるなど、予断を許さない状況であった。
浅井・朝倉連合軍も兵糧が尽きかけていたのと、朝倉義景が冬までに国もとに帰らないと雪で峠が封鎖される恐れもあったことで、双方が将軍と朝廷に働きかけて和議を結ぶこととなった。
この書状はその時に織田信長側から浅井長政へ発給した文書である。
(実は浅井長政は決戦を望んでいたこと、信長・朝倉間の和睦とこの書状で違いが見えることなど、この文書の信憑性が疑われている。ただ、古文書解読実践にはちょうどよい史料なので、今回はこの文書を取り上げてみた)
この書状から見えるもの
信長公記にはこの時の和議は朝倉家から申し入れてきたと記されているが、実際は織田信長が明智光秀らに命じて朝廷と将軍・足利義昭を動かして実現したようだ。
比叡山に立て籠もる浅井長政は勇気凛凛たる武将で、「出足の早い信長に猶予を与えてはならぬ。一気に山を駆け下りて一大決戦に臨むべき」と主張した。
しかし、朝倉義景は何事にも大事を取ろうとする性格で、戦意も萎えてきたので決戦は先送りにしようと主張した。
浅井家は先々代の亮政の頃から朝倉家の加勢によって武運が開けたという恩を感じており、立場的には朝倉家の方が上だったのだ。
しかし、隠居の浅井久政と朝倉義景のような甘い考えは信長には通用せず、この後の歴史がどうなったのかは皆さんご存知の通りである。
もし浅井長政に絶対的な権限があり、先の姉川合戦のリベンジをここでできていたならばと考えると面白い。
また、信長上洛前に遠藤直経の進言を聞き入れていれば・・・。
関連記事:信長暗殺 遠藤直経と浅井長政 お市が人生で最も幸せだった7日間
“歴史にたらればはない”
しかし、もしも~ と考えて楽しいのもまた歴史だ。
今回もご覧いただきありがとうございます。
この時期に関連する織田信長の年表はこちら
古文書解読に役立つ事典みたいなのもあります。