こんにちはー!
今日は毛利元就のお話を簡単に。
「厳島の戦いから頭角を現して」とか、「59歳にしてようやく戦国大名の仲間入りに~」とかよく書籍等では書かれていますが、それまでの元就はなにをしていたのでしょうか。
今回は簡単にではありますが、毛利家が大勢力へと成長した過程と要因をご紹介いたします。
毛利家とは
毛利家は安芸国(広島県西)ですが、実は海側でも中心部でもなく、安芸国の超北東のド山奥。
こんなところで商業が発達するわけがなく、人口が集まる要素がほぼない所。(信長の野望にだまされてはいけない)
また、毛利氏は元々そこまで大きな勢力ではない。
大名というよりも国人だ。
毛利氏自体がさほど直轄している所領が多くなくて、家来たちの知行地が多い。
従って、権力基盤が脆弱で、何か事を決定するときには、必ずと言っていいほど家臣たちと談合の上で決定するという有り様であった。
大名と多くの知行を保有する有力部将との関係については、過去に記事にしたことがありますので、もしよろしければご覧ください。
関連記事:戦国大名と旗本、部将(侍大将)の違い
しかし、それは安芸の国のどの国人たちも同じようなもので、大した有力者はいなかった。
その中でわずかに頭一つ抜けて勢力があるとするならば、それは安芸武田氏であろうか。
元就の苦しい少年時代を支えたのは杉の方
元就は毛利弘元の次男坊として生まれた。
生まれは15世紀代の明応6年(1497)というのだから驚きだ。
気楽な次男坊であるはずなのだが、元就の境遇は違った。
父が隠居後、まもなく母が死亡。父も数年後に酒毒で死亡する。
元就が居城としていた多治比猿掛城は、家臣の井上元盛によって追い出されてしまった。
そんな元就の一番寂しくて苦しい時代に精神的支えとなってあげたのが、杉の方であった。
杉の方は元就の父の継室である。
しかし、間もなく父が死んだので子はなく、いつ実家に帰っても良い境涯なのだ。
元就は後年、杉の方に養育されたとよく述懐している。
毛利氏、中国地方の太守・大内家を見限って勝手に帰宅
この頃、既に毛利家は兄の興元が継いでいた。
当時の毛利家は、周防国を中心に飛ぶ鳥を落とす勢いの大内義興の影響下にあった。
兄の興元は、大内義興とともに京へ出陣。
悪戦苦闘の毎日を送っていた。
やがて戦局が絶望的になると、兄の興元は大内氏を見限り戦線を放棄。
他の安芸国人衆らとともに勝手に安芸吉田郡山へと帰ってしまう。
しかし、大内義興は奮戦し、戦局を打破している。
大内義興の帰国後、いろいろあって毛利興元は許されたのだが、精神的な苦痛からか酒におぼれ、兄もまた酒毒により死亡してしまった。
毛利家を継いだのは幸松丸 元就の遅すぎた初陣
兄の死後、毛利家の当主となったのは元就ではなかった。
兄に幸松丸というまだ小さい子がいたので、その幸松丸の後見役として元就は毛利家の運営に参与する。
しかし、小さい子どもが当主では家にまとまりがとれるはずがなく、安芸武田氏の武田元繁が大軍を率いて攻め込んできた。
毛利家は隣の領主である吉川国経と協力し、有田城付近でこれを迎撃。
敵大将の武田元繁や熊谷元直らを討ち取るなど、大戦果を挙げた。=有田中井手の合戦
時に元就20歳。しかも初陣であった。
この勝利により安芸の国人に「毛利元就あり」と世間に知られるようになる。
尼子経久に寝返る
長年大内氏の下で甘んじていた毛利家は合議の上、出雲を中心に勢力を大きく伸ばしていた尼子経久に鞍替えする。
お隣さんの吉川国経の妹が尼子経久の正室ということもあり、吉川国経の娘・妙玖を元就へと嫁がせた。
この後も尼子につくか大内につくかで毛利家は大きく翻弄されるのであるが、この時の鞍替えも大きな賭けであった。
尼子経久肖像画
その後元就は幸松丸の後見役として、謀将と名高い尼子経久に従い鏡山城を計略で攻め落とす。
なお、経久は元就の調略により降った蔵田直信を許さず処断した。=鏡山城の戦い
毛利家のお家騒動 内紛
間もなく甥の毛利幸松丸が9歳の若さで死亡。
父の死から兄の死、そして甥の死までわずか17年の出来事であった。
毛利家中は志道広良、井上元兼らが推す毛利元就派と、尼子家からの覚えめでたい弟の(腹違い)相合元綱を推す桂広澄、渡辺勝らが争い、家中が真っ二つに割れた。
これは毛利元就の影響力を警戒する尼子経久の策略であった。
結局このお家騒動は多くの禍根を残して元就側が勝利し、元就が毛利家の当主となる。
時に元就27歳。
毛利の家 わしのはを次ぐ 脇柱
元就が家督相続の際の連歌の席で詠んだ歌
大内義興の嫡男・大内義隆が大軍を率い佐東銀山城を攻める。
元就は尼子方として出陣し、元就の提案による夜襲を実行。
大内義隆を撃退することに成功した。
皮肉なことに、これが大内義隆の初陣であった。
大内義興に寝返る
家督相続の件で元就と尼子経久とは敵対関係になり、元就はなんと元鞘の大内義興に鞍替えする。尼子へ寝返ったのは幸松丸だから元就とはカンケイナイネ(9歳未満)
兄・興元の代に勝手に戦線を放棄して京から逃げ帰った事、尼子家へ鞍替えした事、大内方の鏡山城を陥れた事、かわいい嫡男・義隆の初陣に泥を塗った事など、大内義興にとって毛利家は許しがたい存在であった。
しかし、この当時安芸への影響力はほぼ尼子経久が握っており、そんな中毛利元就がただ一人大内方に付くということは、義興にとって大きなメリットがあった。
大内家についてからの元就の躍進 勢力拡張
尼子家への遺恨を胸に、元就は周辺敵だらけの尼子勢力攻略を手掛けるようになる。
しかし、それから間もなくして中国地方の太守・大内義興が病没。
家督は嫡男の義隆が継いだ。
翌年、元就は兄・興元の妻であり、幸松丸の母の実家である高橋家を謀略により乗っ取る。
そして、積年の宿敵ともいえる宍戸氏と和解。
娘を宍戸隆家に嫁がせた。
また、天野氏や熊谷氏とも友好を結び、安芸国人一の実力者へと昇りつめた。
激戦 吉田郡山城の戦い
元就の実力に嫉妬している男がいた。
尼子経久の孫・尼子詮久(通称ハルヒ)である。
経久から元就の軍略の見事さを毎日のように聞かされ、一方的な憎悪を膨らませていったのだ。
尼子晴久(詮久)肖像画
吉田郡山を落として元就を自害に追いやれば、安芸の国は再び我が物になると考えた尼子詮久(ハルヒ)は、3万を超える大軍で吉田郡山城を取り囲んだ。
対する元就は無理してかきあつめても3000の兵しかおらず、吉田郡山城に籠城する。
家臣の国司、児玉、桂、渡辺が奮戦し、さらに娘婿の宍戸氏や、遅れて駆けつけた大内家の陶隆房らの後詰により形勢が逆転。
元就は吉田郡山城の籠城戦により、尼子詮久の撃退に成功したのであった。
元就の統率力と人望、そして計略の見事さによる勝利であった。
月山富田城攻めの失敗と小早川分家への養子入れ
この劇的な勝利により尼子家の戦意は落ち込み、さらにこの頃に尼子経久が死去。
尼子家の衰退を見て取った大内義隆は出雲攻めを決意する。
元就にも動員令が下り、安芸から山を越えて月山富田城を攻めた。
ところが突然吉川興経(前述の国経の孫)が裏切ったことにより大内家は総崩れになった。
元就も命からがら吉田郡山へと逃げ帰る。=第一次月山富田城の戦い
この退却で友好関係であった小早川家の当主が討たれた。
その小早川家の家督を継いだのは、盲目の少年であったことや、以前から養子がほしいと乞われたこともあり、元就は三男の徳寿丸を差し出したのであった。
小早川隆景(徳寿丸)肖像画
妻と養母の死 心痛で隠居 そして吉川・小早川両家の乗っ取り
天文14年(1545) 妻・妙玖と元就育ての親の杉の方が相次いで病死する。
この頃に毛利家の家督は嫡男の隆元が継いだ。(実権は依然元就が)
毛利隆元肖像画
元就の妻の実家は吉川家ということもあり、吉川家は揺れ動いていた。
先の月山富田城攻めで裏切った張本人の吉川興経に反感を持つ古参家臣は少なくなく、これを機に毛利元就の子を吉川家への当主にと考えたのである。
天文16年(1547) 元就は次男の元春を吉川家へ送り込み、強制的に興経の実権を奪い、幽閉してしまう。
吉川元春肖像画
一方、小早川家でも動きがあり、盲目の当主・小早川正平の妹を隆景(元服して徳寿丸)に娶らせ、小早川本家の当主に隆景を据え、正平は隠居してしまったのだ。
このようにして元就は意図的に吉川家を、謀らずして小早川家を乗っ取ったのである。(諸説あり)
隣国の大内家では山口文化が花開く
先の月山富田城攻めの失敗で、大内義隆はすっかりいくさには関心を示さなくなった。
軍事のことは重臣の陶隆房に任せっきりで、文知派の武将だけを周りに置き、連日和歌や茶会などを開いた。
いつしか周防国は山口文化などと呼ばれるようになった。(フラグ)
こうして見ると元就は決して遅咲きの大器晩成ではなかったことがわかります。
初陣こそ遅かったものの、そこで敵大将を討ち取り、尼子経久も舌を巻くほどの計略を用いて鏡山城を落とすなど、並みの武将ではできません。
普段から兵法書を読み漁り、いくさと謀略の研究ばかりしていたとか。
趣味は他にあまりなかったみたいです(^-^;
その後、文弱な大内義隆が謀叛を起こされ自害し、やがて独立の機運が高まった安芸に圧力をかけてきた陶晴賢(陶隆房から改名)を厳島の合戦で討ち取るのです。
上洛した織田信長と誼を通じるのはホント晩年のことになりますね。