※今回はVOICEROIDによる解説動画と連動した記事になっています。
いつもとは異なったスタイルとなっていますので、予めご了承ください。
投稿した動画はこちらになります。
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- 第一章 駿相同盟、 第二章 今川氏輝の死と花倉の乱
- 第三章 甲駿同盟の成立、 第四章 第一次河東一乱~北条氏綱の河東地域侵攻作戦~
- 第五章 相次ぐ代替わりで外交関係にも変化が、 第六章 甲相同盟の成立
- 第七章 不気味な平穏の中で 第八章 「第二次河東一乱」~今川義元の河東地域奪還作戦~
- 第九章 難航を極める和平仲介 第十章 決戦 河越夜戦
- 第十一章 三大名のその後 最終章 甲相駿三国同盟締結 ←イマココ
これでこのシリーズは完結と相成りました。
ありがとうございました。
第11章 三大名のその後
さて、天文15年(1546)。
河越夜戦後の今川・武田・北条三家はどのような行動を取ったのでしょうか。
今川家の動向
第二次河東一乱で実質的に勝利を収め、駿河全土を掌握した今川義元は、遠江・三河へと勢力を伸ばします。
三河岡崎城主・松平広忠の子・竹千代を迎え入れる手筈のところ、その身柄が尾張の戦国大名・織田信秀の元へと渡ります。
竹千代ってあの人物ですよね?
ああ、竹腰正信のことね。
竹しか合ってないじゃねーか。
しかも生まれるのがあと50年後だよ!
ごめんなさいー。
なぜ他のこと全然知らないのにそこだけ知っているのか・・・。
天文17年(1548)。
今川義元は三河の主導権をかけて小豆坂(あずきざか)で織田信秀と戦い大勝利を収めます。
さらに、安祥(あんじょう)城を攻め落として信秀の長男・信広を捕虜にすると、今川義元の三河掌握はほぼ完全なものとなりました。
※総大将は太原雪斎(たいげんせっさい)だった
さらに天文21年(1552)頃。
(諸説あり)
織田信秀が病死すると、義元は尾張にも進出するようになります。
※織田信秀
織田家の分家ながら主家をも凌ぐ勢力へと成長させ、圧倒的な軍事力と経済力を背景に勢力を拡張。
「尾張の虎」の異名で近隣諸国に恐れられた。
織田信長の父として有名。
破竹の勢いじゃないですか。
これは今川義元が天下様ですわ。
さて、河越夜戦で大逆転勝利を果たした北条家はどうでしょうか。
北条家の動向
めっちゃ勢力伸ばしてそう。
天文18年(1549)。
関東東海地方で大地震が発生し、多くの領民が被災します。
それがあまりに被害が大きかったため、多くの領民が年貢を払えず、田畑を捨てて流浪するという深刻な事態となりました。
えっ、それって東南海大地震なんじゃ…。
ええ。
氏康の対応も後手に回ったことで、領民の不満が高まります。
翌年に氏康は分国全てに徳政令を発行。
北条家が領民たちから慕われるような善政を敷くようになったのは、この災害がきっかけだったという説もあります。
伊達政宗も地震&津波を契機に政治を頑張ったみたいですね。
※伊達政宗(1567-1636)
徳川家康の世となった慶長16年(1611)、 慶長三陸大地震が発生し、三陸海岸や仙台など、伊達政宗の領国が壊滅的な被害を受ける。
政宗がスペイン本国へ支倉使節団を派遣したのは、天下取りへの野心からではなく、復興の為だったのではないかとする説が近年有力になりつつある。
ほぇぇ~。
滅亡した扇谷上杉家に属していた太田資正(すけまさ)の対応に手を焼きましたが、それでも翌天文20年(1551)に上野平井城を陥れ、関東管領の上杉憲政を厩橋(まやばし)城、さらに白井(しろい)城へと追い詰めます。
俺の憲政ちゃんが…
天文21年(1552)正月。
ついに上杉憲政は越後守護代・長尾景虎(後の上杉謙信)の元に亡命。
ここで北条氏康は新たなる敵・長尾景虎と戦わねばならなくなったのです。
長尾景虎ってもしかしてあの人物ですか?
あぁ、あの・・・
もういいよあんた。
まだ何も言ってないのに・・・。
さて、広大な信濃へと勢力を伸ばす武田家はどうでしょうか。
武田家の動向
武田晴信は信濃の村上・小笠原ら国人連合と激戦を交わす一方、甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい)という分国法も制定。
晴信の権力基盤をより強固なものとします。
※(甲州法度之次第はリ〇ガーハット之次第と混同されやすいので注意が必要)
武田って一度負けなかったっけ?
天文17年(1548)2月に起きた上田原の合戦ですね。
この戦いで村上義清に大敗北を喫し、宿老の板垣信方、甘利虎泰らを失い、晴信自身も重傷を負うという有様でした。
板垣信方の子孫が板垣退助らしい。
まじ?
板垣信方の子は晴信に疎んじられた末に殺されましたが…
ひぇっ…
その縁者が山内一豊に仕官し、土佐藩士となったようです。
人生何があるかわからんね。
話を戻しまして同年4月。
この機に乗じて小笠原長時らが諏訪に大攻勢を仕掛けますが
晴信は塩尻峠の戦いで大逆転勝利を収めます。
さすが武田晴信。
その後砥石(といし)城の戦いで再び晴信は敗北しますが、味方となった真田幸隆の魔法によって翌年攻め落とします。
※(戸石崩れと呼ばれる城攻めの失敗により、晴信は村上義清に二度目の敗退を喫している)
ま・・・魔法?
ええ、あれは魔法です。
村上義清や小笠原長時らは全ての所領を奪われ、越後の長尾景虎にすがりつきます。
出た、長尾景虎。
武田晴信もまた、新たなる敵・長尾景虎と戦わねばならなくなったのです。
これでなんとなく三家が背中を合わせて協力し合う必要性が見えてきた気がします。
これであの三国干渉へと繋がるのかー。
三国同盟、な?
最終章 甲相駿三国同盟締結
実は近年の研究によれば、善得寺に3人揃って会談したという可能性は低いようです。
※(善得寺=駿河国の富士山麓にある寺。丁度河東地域で激戦が繰り広げられた地であり、かつて今川義元と太原雪斎はそこで修行に励んだとする説がある)
え、そうなの?
特にこの時期の武田晴信は、越後の長尾景虎との戦で予断を許さない状況にありました。
なんだよ夢がねぇなぁ。
一堂に会してはいないものの、婚姻同盟のトライアングルをしたのは事実です。
とらいあんぐる・・・。
まず、甲相駿三国同盟が締結される2年前の天文21年(1552)。
今川義元の娘が武田晴信の子・義信に嫁ぎます。
※(これより少し前に今川義元へ嫁いでいた武田信虎の娘は病没し、婚姻関係が途切れていた)
翌年の天文22年(1553)に武田晴信の娘が北条氏康の子・氏政に嫁ぎます。
そして天文23年(1554)。
もっとも関係が険悪だった今川家と北条家。
北条氏康の娘が今川義元の子・氏真(うじざね)に嫁ぎます。
こうしてついに甲相駿三国同盟が実現したのです。
時期はみんなバラバラなんですね。
この20年でいろいろあったんだね。
こんなに紆余曲折あったんだから、この同盟が崩れることは恐らくないでしょう。
本当?
イイハナシダッタナー。
これで三家揃って上洛も夢ではありませんね。
本動画はここで終了になります。
皆さん最後までご視聴いただきありがとうございました。
少しでも皆さんのお役に立てたのなら幸いです。
ご視聴
ありがとうございました。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
- 第一章 駿相同盟、 第二章 今川氏輝の死と花倉の乱
- 第三章 甲駿同盟の成立、 第四章 第一次河東一乱~北条氏綱の河東地域侵攻作戦~
- 第五章 相次ぐ代替わりで外交関係にも変化が、 第六章 甲相同盟の成立
- 第七章 不気味な平穏の中で 第八章 「第二次河東一乱」~今川義元の河東地域奪還作戦~
- 第九章 難航を極める和平仲介 第十章 決戦 河越夜戦
- 第十一章 三大名のその後 最終章 甲相駿三国同盟締結 ←イマココ
なお、本動画はこちらになります。
【VOICELOID実況】戦国時代中期 甲相駿三国同盟が結ばれた経緯をわかりやすく解説 前編
【VOICELOID実況】戦国時代中期 甲相駿三国同盟が結ばれた経緯をわかりやすく解説 後編
これにて完結です。
ありがとうございました!