【ルイセンコ学説】ロシア(旧ソ連)で生まれた悲劇を分かりやすく解説

4.5
【ルイセンコ学説】ロシア(旧ソ連)で生まれた悲劇を分かりやすく解説
来世ちゃん
来世ちゃん

こんばんはー!
今回は珍しく信長以外。
しかも日本以外のネタを取り上げます。

来世ちゃん
来世ちゃん

皆さんはルイセンコ学説をご存知でしょうか。

来世ちゃん
来世ちゃん

私が生まれるよりはるか前に、日本でも
信じられたことがあったそうですが。

来世ちゃん
来世ちゃん

今回は一人の男の野心と虚栄心から始まった

ある学説を紹介し、それがどのような
影響を及ぼしたのかをご紹介します。

※あ、あと当ブログでは科学的な数値や用語はほぼ書きませんので、より理知的な情報をご覧になりたい方は、Wikipediaのトロフィム・ルイセンコまたはルイセンコ論争をご覧ください。(外部リンク)

ルイセンコ学説とは

 トロフィム・ルイセンコ(1898-1976)生物学者、遺伝学者。

トロフィム・ルイセンコ

若いころからメンデル遺伝学やダーウィンの進化論を否定。特に小麦の収穫増産について精力的に取り組んでおり、彼独自の「ルイセンコ学説」を提唱した。

簡単に説明すると、収穫前の小麦の稲穂に水を浸すことによって、小麦の収穫率が3倍から4倍に増加。メンデル遺伝のようなブルジョワ的な科学理論を否定し、人民たちの英雄的努力によって欧米に追いつき、一気に抜き去ろうと目論んだ。

鎌と槌
鎌と槌(農民と労働者の団結を表し、マルクス・レーニン主義の共産主義やのシンボルとして使われている)

当時のソビエトでは、小麦が最大の輸出品目だった。
小麦を大量に海外に売って外貨を獲得し、その金によって工場で使う重機や設備を買おうというわけだ。

スターリンに気に入られて農業・遺伝学界の若きエースに

 “人民たちの英雄的努力”ということが、共産党のプロパガンダ機関に大いに受け入れられ、スターリンもこれを大いにルイセンコを支持した。

※プロパガンダとは、「政治的意図のある」という意味。例えば、プロパガンダ映画というのが有名であるが、これは「政治的意図のある映画」ということだ。

ルイセンコはスターリンの強力なバックアップを得て、次々と自身の学説に否定的な学者達を告発・糾弾する。ルイセンコ自身はソ連科学アカデミーのトップまで一気に上り詰めた。

同志スターリンの前で演説するルイセンコ
同志スターリンの前で演説するルイセンコ

一方、農民の負担は想像を絶するものに

 スターリンは農民たちに「収穫前の小麦の稲穂に水を浸す」などのルイセンコ学説を、ロシア中に押しつけた。
ただでさえ集団農業の負担で苦しんでいた農民たちは困惑した。

しかも、ルイセンコ学説通りに実行しても、収穫は3~4倍に増えることはなかった。いや、むしろ負担が増えたことによって収穫は減ったのである。

成果が出ないことを反革命分子のせいにする

 成果が出なければ責任者は解任される。
このごく普通のことがソビエト国内では行われなかった。

ルイセンコは、これは資本主義の手先である反革命分子が妨害工作をしているとスターリンに報告。また、収穫のデータを改竄かいざんすることによって、スターリンに自身の学説の正当性を主張した。

スターリンは徹底的な弾圧を加える。

密告を奨励し、少しでも不平、不満を漏らす者がいたら逮捕・連行された。
彼らは取り調べ中に拷問され、やってもいない罪を裁判で自白させられた。
そして行き着く先は強制収容所である。

人々は常に隣人の密告におびえて精神に異常をきたし、家族にすら密告するという異常な社会を生み出した。

まだ子供ながら、自らの父を密告したパヴリク・モロゾフが良い例であろう。

パヴリク・モロゾフ
ニキータ・チェバコフの絵画「パヴリク・モロゾフ」の複写 RUSSIA BEYOND様より

余談だが、強制収容所はレーニンの時代から始まった。

第一号はソロフキー強制収容所である。
北海にある極寒の島で、元々は敬虔なロシア正教の修行の場として作られたところであった。
レーニンの時代には、まだ政治犯(政敵)を政治教育(洗脳)させる目的でしかなかった。

しかし、スターリンの時代になると、強制収容所に別の目的が生まれた。

それが大規模な道路や鉄道などのインフラ建設、北海運河を始めとするダム建設である。
そのために罪もない人々を裁判にかけ、無理やり有罪にしてタダ働きさせるために、次々と強制収容所が作られることとなった。

ロシア国内の強制収容所監督所の数
▲はロシア国内の強制収容所監督所

これは当時のスターリン時代に作られた強制収容所監督所の印である。
1つの監督所につき20~30の収容所を管轄した。
なんとも恐ろしい話である。

少し脱線してしまったが、話をルイセンコ学説に戻そう。

バビロフとの論戦 学術的な論争をイデオロギー論争にすり替える

※イデオロギーというのは、すごく簡単に説明すると資本主義や共産主義といったような「政治体制」と考えてもらえると良い。

 さて、ソビエトではもう一人遺伝学の研究で著名な人物がいた。
ニコライ・バビロフ(1887-1943)である。

彼はモスクワのソビエト科学アカデミー遺伝学研究所所長、連邦地理学会会長などの要職を歴任し、長年小麦の遺伝学を熱心に研究した人物である。

ニコライ・バビロフ

ルイセンコとその一派は執拗にバビロフを攻撃した。
そこでは以下のような感じの論争があったようだ。

ルイセンコ「あなたはダーウィンの進化論を信じているようですが、それはなぜです?なぜマルクスの弁証法的唯物論を信じないのですか。」

バビロフ「私はマルクスの書籍を何度も読んだし、マルクスを愛しています。しかしながら、さまざまなことを注意深く研究した結果、私は今の学説を唱えているわけです。」

ルイセンコ「マルクス・レーニン主義を信奉しているならば、絶対にそのようなブルジョワ的な学説など採択しないはずです。あなたはイギリスやアメリカと通じているのではないですか?」

ルイセンコ「さらに深く言いましょう。あなたは資本主義の手先なのではないですか?だとするならば、国家への反逆であり、人民の敵です。」

バビロフとの論戦 学術的な論争をイデオロギー論争にすり替える

結局バビロフはルイセンコとその一味に反抗したことによって逮捕され、裁判にかけられた末に強制収容所に送られた。

そこで他の収容者と同じように肉体労働に従事させられ、ナチスドイツとの戦争が激しさを増す中、1943年に栄養失調で餓死した。
恐らく労働に耐えられなくなり、別小屋に隔離されて、そこで命を落としたのであろう

このように、ルイセンコに異議を唱える学者たちは次々と粛清されていった。

ルイセンコの絶頂期

 ルイセンコの天下は長く続いた。
社会主義労働者英雄勲章、レーニン勲章、スターリン賞を何度も受賞するなど、ルイセンコの権力は絶頂を極めた。

さらに、第二次世界大戦によって、東ヨーロッパにソビエトの衛星諸国が次々と誕生。
それらの国や中国、北朝鮮にも、広くルイセンコ学説が広まる。
※東ドイツではこの学説は根拠のないものとして受け入れず、被害はなかったようだ

日本でもこの頃にルイセンコ学説が広まり、賛成派と反対派との間で「ルイセンコ論争」を引き起こした。

スターリンの死 フルシチョフの時代へ

 1953年。スターリンが病死する。すると、その影響がすぐに現れた。
最大の理解者であるスターリンの死で、後ろ盾を失ったルイセンコは失脚。巻き返し工作を図る。

誰の目から見てもルイセンコの時代は終わったかに見えた。

スターリン死後の権力闘争で最後まで勝ち抜いたのはニキータ・フルシチョフであった。

ニキータ・フルシチョフ

ルイセンコはフルシチョフに学術的に自身の正当性を訴えるのではなく、フルシチョフの話をなんでも「ウンウン」と頷いて、例え間違っているとわかってることでも反論は一切しなかった。

やがてフルシチョフは彼を気に入り、むしろスターリン以上にルイセンコを支持した。

こうしてほんの一時は失脚したものの、見事に権力の座に返り咲いたのである。

ルイセンコ学説 世界への影響

 先ほど”東ヨーロッパの衛星諸国や中国などの共産主義国などに影響が“と述べたが、改竄かいざんされたデータで伝わった為、当然ながら多大な被害が及んだ。

特に中国では大躍進政策と共にルイセンコ学説を採択し、凄まじい数の餓死者を出す結果となった。

さらに、資本主義陣営でDNAの構造や機能が解明されていくにつれて、ルイセンコ学説の信憑性が疑われるようになる。

時代の流れと共に、次第に暗雲が立ち込めていった事に彼は気づいていなかった。

ルイセンコの失脚

 1964年。ソビエトの指導者であるフルシチョフが失脚し、第一書記と首相の座から追われた。

またもや最大の権力者からの後ろ盾を失ったルイセンコであるが、新しいソビエトの指導者となったレオニード・ブレジネフから支持を受けることはなかった。

レオニード・ブレジネフ

フルシチョフ失脚と同じ年。ソビエト科学アカデミーでルイセンコ学説の是非について投票が行われ、この学説は途絶える事となった。

考察

 このようにしてルイセンコは巧みな弁舌と、ソビエト共産党のプロパガンダ機関の支援を受けて、権力の座に居座ることに成功した。
全く成果が出ていないにも関わらず、プロパガンダとデータの改竄かいざんによってしぶとく世を渡り歩いたのはある意味すごい才能だ。
私なら罪悪感でとてもそんなことはできないがw

生涯で受けた勲章は社会主義労働者英雄勲章1回、レーニン勲章8回、スターリン賞3回

何度もいうが、成果が全く出ていないのに・・・である。

しかしながら、ルイセンコとその一派の激しい敵対工作によって、バビロフなど多くの農業学者、遺伝学者が逮捕・投獄されたり、学問の専攻の変更を余儀なくされたのも事実である。

このようにして国家ぐるみの壮大な社会実験により、ロシアの遺伝学は50年ほど立ち遅れたといわれているのだ。

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