【国際連盟脱退】脱退をした3つの理由と外交下手といわれる原点 後編

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(後編)

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満州事変と陸軍、日本政府、マスメディアの対応

陸軍の対応

 1931年 陸軍の関東軍は、独断で満州事変を敢行した。
満州の柳条湖りゅうじょうこ付近で、日本の南満州鉄道が権益を持つ線路を爆破したのだ。

これを張学良の仕業だと決めつけ、武力によって一気に満州全土を制圧してしまった。

これは一夕会のメンバーである石原莞爾かんじ板垣征四郎が中心として、かねてより計画していたことである。

板垣征四郎(左) 石原莞爾(右)
板垣征四郎(左) 石原莞爾(右)

というのは、関東軍は東京の陸軍省や参謀本部と比べ、組織の層が薄い。
石原は関東軍の作戦主任参謀に就くや、上級参謀の板垣と結託し、満州事変を起こしたのだ。

関東軍の簡略組織図
関東軍の簡略組織図
陸軍省の簡略組織図
陸軍省の簡略組織図

これを参謀長の三宅と関東軍司令官の本庄は追認。
かねてより武力による満蒙まんもう制圧に反対だった一夕会いっせきかいリーダーの永田鉄山や、ほかの陸軍省の大物たちも、追認せざるを得なかった。

全て石原らの計画通りだった。

1932年。
日本に亡命していた愛新覚羅溥儀あいしんかくらふぎを執政とする満州国が建国
日本の世論は大いに湧きたち、これを歓迎した。

日本政府の対応

 一方、日本政府はというと、当時の内閣は第二次若槻政権である。
満州事変が起きると、若槻は「事変不拡大方針」を決定。
事変を外交で処理しようとした。

若槻礼次郎
若槻礼次郎(禮次郎)

しかし、朝鮮に駐屯させていた陸軍が勝手に越境し、関東軍に加勢する。
若槻は強硬な陸軍の態度や、マスコミによる政権批判、さらに閣僚にも離反者が現れたため、1931年の12月に内閣を総辞職した。
(戦前は総理大臣が一度任命した閣僚を罷免できない仕組みとなっていた)

日本のマスコミの反応

戦前のマスコミは意外と軍人には冷ややかであった。
いや、正しくは日露戦争で勝利後の軍人には冷ややかだったとしたほうが良いかもしれない。

しかし、満州事変後から流れが変わった。
この一大スクープに新聞社は湧き上がり、他社よりも早く情報を得ようと陸軍に擦りよるようになった。

記事を書けば飛ぶように売れる。
自分も出世する。
しかも、それが「国益のため」になるならば、なおさらである。

その中で全国紙の中では、元々リベラルの傾向の強い朝日新聞は違ったようだ。
「満蒙の一件は地方問題として処理すべし」と、若槻内閣に近い記事を書いていた。

しかし、国民世論の中ではそれが受け入れられず、全国各地で不買運動が発生。
新聞の売り上げは次第に落ち込んでいった。

ある時、陸軍の要人・今村均と朝日新聞の緒方竹虎が会談し、どういうわけか翌日の新聞から朝日新聞の主張が180度転換した。
これもまた”国益のため“陸軍に迎合する記事を書くようになったのである。

中華民国の反応

 事変が起きると中華民国はすぐさま国際連盟に提訴した。

この当時、いかに多数決の国際連盟であっても、力のある列強の力添えがないと何もできない時代だった。
特に大英帝国(イギリス)の発言力が強く、日英同盟の効力もあってか日本との軋轢あつれきを避けていた。

大英帝国は中華民国に対し「国際連盟に頼らず、自力で処理すべし」と距離を置いていたのだ。
蒋介石の国権回収運動に、自国の権益を奪われかねないという懸念もあったであろう。

世界の反応

 日本が満州事変を起こした遠因には、蒋介石による国権回収運動に対する恐れがあった。

蒋介石
蒋介石

 国権回収運動とは、日本が幕末から日露戦争直後まで苦しめられていた「関税自主権がない(関税を自由に決めれない)」と「治外法権が適用されている(自国内で外国人が犯罪を犯しても、自国の法律で裁けない)」といった不平等な条約を撤廃しようとする運動である。

さらに蒋介石は南京から北伐を進めており、中国を統一することによって、諸外国と対等な立場を目指していた。

特にこれに揺れていたのが、日本が影響力を持っている満州である。
満州を支配していたのは、軍閥の一つである張作霖ちょうさくりんだ。
実は満州事変の2年前に、関東軍はこれまた独断で張作霖を爆殺。
犯人は蒋介石だと糾弾し、北伐を邪魔して満州の権益を守ろうとしたのだ。

しかしこの計画は張作霖を殺害したものの、結果的には失敗だった。

多少時系列が前後するが、蒋介石による国権回収運動に、自国の権益が奪われかねないと憂慮した日本、大英帝国(イギリス)、アメリカの3国が話し合い、「互いに蒋介石からの交渉があってもはねつけよう」と条約を交わした。(条約名はワスレタ)

しかし、蒋介石の北伐が進むにつれ、アメリカの態度が変化してきた。

アメリカとしては多少の中国における権益を手放しても、蒋介石を国際社会の一員に組み入れたほうが、より自国の利益になると考えたのである。

すると大英帝国の態度も変わってきた。
このまま日英同盟を続けるよりも、アメリカとの協調関係を続けた方が利益になる。
日本はもう落ち目だと見抜いたのだ。
のちに首相となるウィンストン・チャーチルは、そのようなことを語っている。

ウィンストン・チャーチル
ウィンストン・チャーチル

国際連盟で中華民国との論戦バトル 論点に田中上奏文の是非

 まずはじめに申し上げておきたいのが、いわゆる「田中上奏文」は明らかな偽書である。

田中上奏文」というのは、張作霖爆殺事件があった時期に総理大臣をしていた田中義一が、昭和天皇に対して中国侵略についての計画を提出した(してない)文書である。

この当時、そうした噂が世界で少しだけ話題になっており、特に中国ではそれが信じられていた。

国際連盟の場で中華民国全権代表の顧維鈞こいきんは、この田中上奏文を話題に上げ、日本を痛烈に非難した。

対する日本からの全権代表は、当時国会議員をしていた松岡洋右ようすけである。
松岡はのちに外務大臣となり、ソビエトとの中立条約や、日独伊三国同盟を結んでバランスを取り、アメリカやイギリスとの戦争を避けようとした人物である。(それが裏目に出て最悪な結果を生んだ)

顧維鈞(左)と松岡洋右(右)
顧維鈞(左)と松岡洋右(右)

松岡には自信があった。
これは明らかな偽書であると日本側は確信していたし、満州事変といったこの程度のことは(申し訳ないが)列強ならばどこでもやっていたのだ。
特に大英帝国(イギリス)は日本には同情的で、日本もそれを期待していた。

顧維鈞は田中上奏文のことをしつこく話題に取り上げた。
松岡は
田中上奏文については偽書である。これがホンモノであるならば、その証拠を提出されたし
と返した。

そうなると顧維鈞は困った。

そこで論点をすり替えてこう切り出した
田中上奏文が本物かどうかはなどは、日本の然るべき地位にある者にしかわからない。
それはさておき、日本による今日の中国への仕打ちは、田中上奏文の筋書き通りではないか

この顧維鈞の演説は流れを変えたといわれる。
特にスイス、チェコスロバキア、ポーランドなどは強硬に日本を非難した。

リットン調査団の派遣 イギリスからの助け舟

 この事態を見て、イギリスの大物政治家ジョン・サイモンは、満蒙まんもうに直接利害を持つ国々で委員会を作り、建前論を抜きにして話し合おうと提案した。

そこで生まれたのが「リットン調査団」である。

リットン卿
リットン卿

リットン卿は満州や日本を訪れ、くまなく調査した。

リットン報告書は意外にも日本の面子を立てていた

 通説では「満州国の存在を認めない。日本が全面的に非がある」となぜかされているが、真実はこうである。

「満州国の建国は認める。
しかし、これは日本の傀儡国家ではなく、満州を国際管理下に置き、国際連盟から5人の理事を置く。
そのうち2人は日本人から選出しても良い」
と。

全権代表の松岡は、外務大臣の内田康哉にこう打電した。

日本側も考え直し、むしろ提案を快諾すべきと確信する

日本政府、リットン案を拒否

 当時の内閣は民意の支持を失い、国民世論の支持を得ようと腐心していた。
ここで松岡の提案を受け入れ、連盟に譲歩的な態度をとると、政権が崩壊すると恐れたのだ。
外務大臣の内田康哉は総理大臣(斎藤実)との議論の末、ジュネーブにいる松岡にこう打電した。

「連盟に事態を静観させ、このまま満州問題から手を退かせよ」

連盟に一方的譲歩を求めるものだった。
しかも、国内のとりわけ陸軍との軋轢あつれきを避けた内向きの外交である。

松岡から怒りの電報が届いた。

「国家の前途を思い率直に申し上げる。
ものは八分目で堪えるのが良い。
一切のいきがかりも残さず連盟に手を引かせるなど、出来ないことは最初から政府もご承知のはずである。」

陸軍の動きを止められず、内向きな姿勢に終始した外交

 国連が対日勧告決議案を作成している最中のこと。
日本陸軍は閣議の決定と天皇の裁可を得て、かねてより計画していた「熱河作戦ねっかさくせん」を実行した。

熱河とは北京にほど近い地域で、日本人と中国人との紛争が絶えない不安定なところであった。
総理大臣の斎藤実も
「(万里の)長城を越えないならば
と条件付きで承諾した。

しかし、日本の誤算はここから始まったように私には思える。

当時の国際連盟の規約には、
決議をしている最中に挑発的な軍事行動をとった場合経済制裁を課される
というのがあったのだ。

日本政府は、この経済制裁などという予想だにしていなかった現実問題を前にたじろいだ。
世界恐慌から立ち直っていない日本からすると、この上満州という大きな既得権益をもし失ってしまうと、死活問題になると恐れた。

しかし、総理大臣を含めて陸軍の熱河作戦を停止させ、国際協調路線を歩もうと表立って唱える人はいなかったのだ。

経済制裁発動を恐れての国際連盟脱退

 逆説的な考えになるが、連盟脱退をしてしまえば、「わざわざ出ていく国に対して制裁を科す必要はない」

対日勧告決議案が提出され、多数決で票をとる時が来た。

結果は
賛成42票 反対1票(日本) 棄権1票(シャム)
である。

面子を潰された大英帝国(イギリス)までもが日本を見限った結果となった。
全権代表の松岡は外務大臣から指示されていた通り「国際連盟脱退」をその場で表明し、議場を後にした。

国際連盟脱退を告げた松岡洋右全権代表
国際連盟脱退を告げた松岡洋右全権代表

日本はとるべき道が他にもあったと思われるが、国内世論や陸軍を恐れるあまり問題を先送りにした。
そうした内向きな外交を続けた結果、取れる選択肢がどんどん減っていき、最終的には国際連盟からの脱退をせざるを得なくなったのである。

いわば決意も基本的戦略もない脱退である。

来世ちゃん
来世ちゃん

国際的孤立となった日本は、その後もなんとか孤立を避けようと努力しました。
それが有田八郎が推し進めた防共外交なのですが、それがまた最悪な結果を生みます。
それについてはまた別の記事で。

来世ちゃん
来世ちゃん

今回は非常に長ーーい記事をご覧いただきありがとうございました。

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