森可成 並外れた武勇と忠義で幾度となく信長の窮地を救った男

4.5
この記事は約8分で読めます。

こんにちはー!

信長公の家臣団の2人目は「森可成」だ。

よしなりと読む。森長可や蘭丸の父である。

はじめに

  • 重要な部分は赤太文字
  • それなりに重要なポイントは赤や青のアンダーラインで
  • 信憑性が疑われている部分は黄色のアンダーライン

それでははじめていきます。

宇佐山城の戦いで奮戦する可成
宇佐山城の戦いで奮戦する可成

森可成の生涯

大永3年(1523)-元亀元年(1570)9月19日

仮名・幼名・官途名・受領名

満、与三、三左衛門、三左衛門尉

家族・一族

父:森可行 母:青木秀三の娘または大橋重俊の娘

兄弟:可政(弟・37歳年下)

妻:正室・妙向尼(林通安?の娘)

子:可隆、長可、成利(蘭丸)、坊丸、力丸、忠政、碧松院(関成政室)、娘(青木秀重室)、うめ(木下勝俊室)

誕生から信長に仕官するまで

 生まれは尾張国葉栗郡蓮台村であるという。金山記という史書に

「文亀永正ノ頃、美濃国葉栗郡蓮台村ノ住人森越後守可勝として文武兼備の壮士あり、大永三癸未年、可勝男子を儲く、森三左衛門尉可成是也」

金山記

とある。蓮台村とは今日の岐阜県羽島郡田代村であろうか。かつてこの地は尾張国であったが、濃尾の川の流れが変わったことにより、いつしか美濃国となったのであろう。

可成は若かりし頃、美濃守護職土岐頼芸の臣下であったが、天文21年(1552)頃に主君が斎藤道三に追放されてから禄を失い、流浪の身となったという。

その後間もなく尾張の「大うつけ」と噂される織田信長に仕えた。この頃の信長は、まだ家督を相続した直後で家臣に裏切られ(鳴海城主)、主家である清州織田家にも攻められていた時期である。

知勇兼備の武将森三左衛門

 信長としては「槍の名手」として戦働きで実績があり、腕っぷしも年齢(信長よりも11歳ほど上)も申し分ない可成の仕官は、歓迎すべきことだったに違いない。しかも美濃の情勢にも明るい。性格は豪胆でいて冷静沈着。単なる脳筋というわけではなかったようだ。また、愛妻家としても知られている。上記の子供全員(9人)、一人の妻との間で生まれた子だそうだ。

永禄3年(1560)5月19日。桶狭間の合戦で可成は抜群の軍功を立てた。この時に着用していた具足が今日にも残っているそうだ。可成の活躍が史書から頻繁に姿を現すのはこの頃からである。

美濃攻略戦でも活躍

 永禄6年(1563)春。新加納の戦いで信長は斎藤家相手に敗北し、撤退しているが、殿軍を務めた森可成は、柴田勝家と共によく敵を防ぎ、無事退却に成功している。

永禄8年(1565) 信長は攻略した犬山城を足がかりに、対岸側にある鵜沼猿啄堂洞城を落城させた。この戦にも可成は大車輪の活躍をし、さらに家老長井隼人の支城である天険の要害・烏峰城も陥落せしめた。
関連記事:堂洞城の戦い 戦の功名と八重緑の悲劇

金山城主として

 信長は一連の可成の活躍を讃え、烏峰城を知行に与えた。可成はこの城に入るとすぐに金山城」と改める。以後森可成の子・忠政が信州中島城に移封されるまでの35年間、森家の居城として城下町が整備される。

金山城
wikipedia「金山城」より

美濃攻略作戦の後始末

 永禄10(1567)年9月。信長はついに斎藤龍興の居城・稲葉山城を攻略。稲葉山並びに城下の井ノ口を「岐阜」と改称した。しかし、まだ美濃の中央と東以外は信長に屈しておらず、特に北美濃(武儀・郡上八幡あたり)が抵抗を続けていた。森可成がこのあたりの鎮圧を任されていたことを伺える連署状が見つかっている。

当寺領之儀ニ付て、西方より違乱之旨候、御制札之上者、不可有異儀候、前々より不相替候条、弥(いよいよ)被仰出候、尤存候、重而違乱においては、両人可申届候、恐煌謹言、
十月三日   森三左衛門尉 可成(花押)
       坂井右近尉 政尚(花押)
武芸八幡寺
 御坊中

武芸八幡神社文書
『武芸八幡宮の御旅所(社務所があります)』
画像をクリックorタップすると大きい画像が開きます

『武芸八幡宮の御旅所(社務所があります)』 (自然風の自然風だより様より『織田信長が崇敬した武芸八幡宮を歩いて・・・』の画像を拝借しました。)

これによって、森可成と坂井政尚が臨時奉行として、この方面の作戦に当たっていたことがわかる。なお、これが可成発給文書としては最古のものである。永禄3年(1560)から始まった信長の美濃攻略作戦に関しては、丹羽長秀と森可成が最も武功を立てたのではなかろうか

信長の覇業の影に可成の武功あり

 永禄11年(1568)。信長の上洛作戦が始まる。9月12日。可成は箕作城攻めに従軍。

 (備考)箕作城の戦いおよび観音寺城の戦いについての詳細記事は、以下のリンクをご参照ください。

上洛後の翌12年(1569)8月には、北畠具教籠る伊勢大河内城攻略戦にも加わる。

越前朝倉攻めでは先陣を任される。 元亀元年(1570) 4月25日。柴田勝家、坂井政尚、池田恒興とともに敦賀郡天筒山城を攻める

肥沃地帯の越前平野を守る上で非常に重要な位置にあるのが天筒山城である。それ故、朝倉軍は頑強に抵抗し、激戦が早朝から繰り広げられた。

申の刻にようやく攻め落としたが、この戦で可成の嫡男・伝兵衛可隆が戦死してしまった。(享年19歳)

朝倉義景が本拠の一乗谷に敗走する中、勢いに乗る織田信長を同盟国・浅井長政が裏切る。

この急報を聞いた信長はすぐさま撤退を決断。木下秀吉を殿軍として残し、朽木谷の難所を越えて京へ逃げ帰ろうとした信長はその地の領主・朽木元綱の説得に森可成を派遣。見事説得に成功し、無事京都に撤退したのであった。

浅井包囲体制

 京へ逃げ帰った信長は岐阜へ帰国。間も無く近江国の進軍通路を確保するために、主だった家臣たちに街道沿いの城を守備させる。長原城に佐久間信盛長光寺城に柴田勝家安土の砦に中川清秀今浜城に木下秀吉佐和山近くの城に丹羽長秀。そして、京から程近い宇佐山城に森可成である。

当時の宇佐山について面白い文献がある。

内々三井寺、大津、松本可有見物之通ナルニ、今度今道北、ワラ坂南、此二道ヲトメテ、信長ノ内、森ノ山左衛門城用害、此フモト二新路ヲコシラヘ、是ヘ上下ヲトヲス、余ノ道ハ堅トヾムル故、三井寺へ通ル物ハ道ニテ剥取ト申間、乍思不参見、渡了、残多者也、新路ノ大ナル坂ヲ超ヘテ、山中ト云所ヲ通リ、白川ヘ出、東山ノ辺ヲ通ル

多聞院日記

興福寺の僧侶・多聞院英俊が近江の三井寺などを見学しようとしたが、京から大津に通じる道が2つ閉鎖されていた。森可成が宇佐山に新しい城を築いたため、その麓に道を作り、通行できるようにした。しかし、まだこの道は普請中だったのか森可成の家来衆に通行を阻まれ、結局三井寺への参拝は取りやめ、代わりに白河方面に出たとある。浅井長政の裏切りで京都から岐阜間の街道が危うくなったことで、織田家が近江をいかに重要視していたかが垣間見える日記である。

姉川の戦いでも奮戦

 元亀元年(1570)6月19日。信長は浅井長政討伐のため岐阜を出陣

同月28日に織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が姉川で会戦

数の上では有利な織田勢だが、浅井勢8000が猛突撃を敢行し、織田勢の先陣一番手の坂井政尚は討死。二番手池田恒興、三番手蜂屋頼隆、四番手佐久間信盛までもが蹴散らされた。あわや織田軍総崩れかというところで、五番手森可成隊3000は浅井勢の猛攻を必死で支えた

その時、後方の横山城を攻囲していた稲葉一鉄隊700が戦場に駆けつけ、浅井勢の右翼を急襲。また、徳川家康軍の活躍もあり戦況は一変した。

約9時間にも及ぶ大激戦の末、織田徳川連合軍は勝利したが、森可成の踏ん張りがあったからこその勝利だったと言えるであろう。
関連記事:【古文書から読み解く】浅井長政討伐に燃える織田信長の決意と意気込み

姉川合戦
姉川の合戦布陣図

信長包囲網の形成

 一旦岐阜に帰った信長は、元亀元年(1570)9月13日。三好三人衆籠る摂津国野田・福島の両城を攻める。

そんな中、姉川で大敗北を喫したばかりの浅井・朝倉連合軍が再び軍勢をかき集め、2万8000の兵で湖西から京洛へ向けて進軍。この時、丁度その進軍ルートにあったのが宇佐山城だ。宇佐山城を守備するのは森可成3000である

信長は甥の織田信治と青地義綱に2000の兵を与えて宇佐山に急派した。

この時信長は、まだ自身の危機を感じていなかったと見え、大軍を野田・福島両砦を囲むだけでなく、石山本願寺にも圧力を加えんという布陣だったのである。

宇佐山城の戦い

 可成は宇佐山城を守る兵、志賀・穴太の伏兵、そして自らが指揮する手勢の3つに分けて敵の大軍を待ち構えた。

9月16日。宇佐山を少し下り、坂本の町外れで会戦する。比叡山延暦寺の僧兵たちも敵方に加わったため、敵軍はますます膨れ上がった。緒戦では森勢有利に戦況を進めたが多勢に無勢であった。

9月19日。可成と織田信治は大軍包囲の中、朝倉景鏡隊を攻め立てて危機に追い込んだ。しかし、浅井対馬、同玄蕃の兵を2000に側面をつかれ、さらに朝倉中務、山崎吉家、河波賀三郎の隊からも攻撃され、浅井長政本陣からも攻撃されたため、ついに可成と織田信治は討死してしまった。享年47歳。

その後

 宇佐山城は猛攻を受けたが、森家の家老・各務元正らが懸命に死守し、落城は免れた

9月20日。浅井朝倉軍は大津の馬場、松本に放火。さらに翌21日には京都にほど近い山科まで焼き払っている。

森可成・織田信治討死の急報を聞いた信長は大いに驚き、陣を引き払って京に退却。三好三人衆との戦どころではなくなった。ここで石山本願寺の法主・本願寺顕如がついに挙兵する

それから信長は、西に三好三人衆と本願寺。東に浅井、朝倉、六角、長島一向一揆。膝下の京に将軍・足利義昭、比叡山延暦寺。さらには甲斐の武田信玄が同時に攻めてくるという人生最大の窮地に立たされるのであった。
関連記事:【古文書講座】信長窮地 織田家と浅井長政・朝倉義景が和睦したときの書状

タイトルとURLをコピーしました