今回は元亀2年(1571)1月からはじめる。
(ここまでの流れ)
- 誕生~叔父信光死去まで(1534~1555)
- 叔父信光死去~桶狭間の戦い直前まで(1555~1560)
- 桶狭間の戦い~小牧山城移転直後まで(1560~1564)
- 美濃攻略戦(1564~1567)
- 覇王上洛(1567~1569)
- 血戦 姉川の戦い(1570 1.~1570 7.)
- 信長包囲網の完成(1570 7.~12.)
- 比叡山焼き討ち(1571 1.~9.) イマココ
- 義昭と信長による幕府・禁裏の経済改革(1571 9下旬~1571.12)
- 元亀3年の大和動乱(1572 1.~1572.6)
- 織田信重(信忠)の初陣(1572 7.~1572 12.)
- 武田信玄 ついに西上作戦を開始する(1572 9.~1572 12.)
- 将軍・足利義昭の挙兵と武田信玄の死(1573 1.~1573 4.)
- 将軍追放 事実上の室町幕府滅亡(1573 5.~1573 7.)
- 朝倉・浅井家滅亡(1573 8.~1573 10.)
- 三好義継の最期(1573 10.~1573 12.)
この年表の見方
- 当サイトでは、信長の人生で大きな転換期となった時代時代で、一区切りにしている
- 他サイトや歴史本、教科書で紹介されている簡単な年表に書いている内容は、赤太文字
- 年代や日付について諸説ある場合は、年代や日付の個所に黄色いアンダーライン
- 内容に関して不明確で諸説ある場合は、事績欄に黄色いアンダーライン
- 当時は数え年であるから、信長の年齢は生まれた瞬間を1歳とする。誕生日についても詳細不明のため、1月1日で1つ歳を取る
- 太陽暦、太陰暦がある。当サイトでは、他のサイトや歴史本と同じように、太陰暦を採用している。中には「閏」なんていう聞きなれないワードがあるかもしれないが、あまり気にせず読み進めていってほしい
- キーとなる合戦、城攻め、政治政策、外交での取り決めは青太文字
- 翻刻はなるべく改変せずに記述した。そのため、旧字や異体字が頻繁に登場する。しかしながら、日本語IMEではどうしても表記できない文字もあるため、必ずしも徹底しているものではない。
- 何か事柄に補足したいときは、下の備考欄に書く
元亀2年(1571)
38歳
木下秀吉大活躍 横山城防衛戦
1月1日
信長、元旦の挨拶に岐阜城で諸将の参賀の挨拶を受け、年頭の抱負を述べる。
その中に比叡山延暦寺の攻略を第一目標とする言を発している。(信長公記、細川家記)
1月2日
横山城在番の木下秀吉に命じ、浅井・朝倉と石山本願寺間の連絡、連携遮断に近江姉川から朝妻に至る陸海交通路の閉鎖をさせ、「もし不正があれば成敗」との書状を送っている。(東大編纂所所蔵文書)
また、浅井家から織田家についた久徳左近兵衛尉へ「この春早々に高宮右京亮を退治するので油断なく奔走するように促す書状を贈る。(神田孝平氏所蔵文書)
(備考)同様の書状を同日付で堀秀村にも出している。
1月23日
上杉謙信に陸奥国への鷹師両人を派遣するため過書および同中の警護を依頼する旨の書状を送る。(高橋文書)
2月5日
(参考)『顕如上人御書札案留』
今度被申越之通、於無相違者、此方儀不可有異篇候、縦世上雖轉變候、其方身上儀不可有如在候、於委細者丹後法印、刑部卿法橋可申候間、閣筆候也、穴賢
二月五日 —御判
和田伊賀守殿
○但 此御書不被遣
(書き下し文)
この度申し越さるの通り、相違無きに於いては、此方の儀異変有るべからず候。
たとい世上の転変候といえども、其方身の上の儀、如在有るべからず候。
委細に於いては丹後法印(下間頼総)、刑部卿法橋(下間頼廉)申すべく候間、筆をさしおき候也。穴賢
二月五日 —御判
和田伊賀守(和田惟政)殿
○但し この御書遣わされず
2月24日
丹羽長秀の調略により佐和山城主・磯野員昌が投降する。
信長は同城を丹羽長秀に守らせ、浅井家への抑えとした。
(備考)磯野は信長に降ったわけではなく、孤立した佐和山城の明け渡しに応じただけであった。
しかし、これを浅井長政が裏切りとみなし、磯野を許さなかった。
磯野員昌はこうして信長の麾下となったのである。
また、昨年に交わした和議もこれによって破れたと見てよい。
関連記事:【古文書講座】信長窮地 織田家と浅井長政・朝倉義景が和睦したときの書状
2月25日
佐和山城抑えの砦を解体し、その資材を木下秀吉と樋口直房に預ける。
・この資材を小谷山城攻囲の砦普請用の資材にすること。
・この旨を丹羽長秀に通達したので、木下、樋口両名が徹底した管理をするように命令した。(織田文書)
(備考)「佐和山城抑えの砦」とは丹羽長秀がこれまで在番していた百々屋敷のことか?
樋口直房とは昨年の姉川合戦の前に、堀秀村とともに信長に降った元浅井家家臣である。
浅井家が信長に謀反する際、隠居で反信長派の浅井久政と親信長派の家臣らとで激論になったこと、浅井長政はこの裏切りが決して本意ではなかったことを、この樋口を通じて信長は知ったのである。
2月
長野信良(織田信包)、伊勢の領内に免許状を発給。『津市史 第一巻』
一、諸御公事十三ヶ年免許之事、
一、召遣候人夫免許之上者、為始給人之陣夫、何方より人夫之儀申候共許容有間敷之事、
一、雖為誰々之家来、諸事地下なみニ可申付事、
元亀弐年弐月吉日 (長野信良花押)
津三郷
同岩田
(書き下し文)
一、諸御公事十三ヶ年免許の事。
一、召し遣う候人夫免許の上は、給人の陣夫を始めとして、いずれ方より人夫の儀申し候へども、許容有る間敷きの事。
一、雖為誰々の家来の為といえども、諸事地下並みに申し付くるべきの事。(以下略)
(備考)
長野信良は伊勢の名族長野氏の嗣子となった信長の弟。
のちに織田信包と名乗った。
彼は兄に従い、昨年の暮れまで合戦に明け暮れて領内を離れていた。
このたび、津三郷と同岩田に対し雑税や臨時の夫役などの諸公事を十三ヶ年に渡って免除したのだろう。
身分の高い者の家来であってもすべて地下民並みに申し付けよとしている。
3月1日
この日、大和国奈良周辺で地震が発生。(多門院日記)
3月20日
信長、上杉謙信へ天下の儀は平穏無事であることを伝え、鷹を求める書状を送っている。(上杉家文書)
(備考)鷹ほんま好きやなw
4月11日
毛利元就、輝元父子への返事として、信長は小早川隆景に返書を送る。
その内容は
・丹波国、但馬国の賊船の件は将軍・足利義昭に上申し、信長が処理したこと。
・出雲国、伯耆国(元尼子領)は毛利家に委任すること。
・畿内及び信長の分国は静謐であることなど。
毛利家のスポークスマンとして活躍していた小早川隆景(元就の三男)
(備考)信長は足利義昭を奉じての上洛後から、毛利元就の影響力を頼もしく思っていた。
三好三人衆らへの牽制として期待していた信長と、畿内中央への影響力を持っておきたい毛利家との利害が一致してのことであった。
関連記事:毛利元就が厳島合戦で有名になるまでの生涯 本当に大器晩成なのか?
4月14日
禁裏の内侍所に村井貞勝が参内する。(言継卿記)
(備考)貞勝は志賀の陣で講和が成ったとき、信長らとともに岐阜へ帰り、束の間の休息を国もとで過ごしていた。
4月15日
甲斐武田家の御先衆が三河足助城を攻略。(孕石文書)
(備考)まだ徳川家康とは敵対していない時期である。
しかし、信玄は外交上で徳川家康との約定を破っており、両家の関係は悪化しつつある時期であった。
5月6日?
木下秀吉が在番する横山城に浅井長政が攻撃を仕掛けるが、秀吉が必死の防戦で撃退に成功。(信長公記)
寡兵で見事に役目を果たした木下秀吉
(備考)この戦いでは秀吉の与力として配属された竹中重治(半兵衛)による軍略が冴えわたったとされているが、真偽は不明である。
しかし、信長公記には浅井長政が攻めてきたとあるので、戦いがあったことは事実であろう。
のちに秀吉の正式な家臣となる竹中重治(半兵衛)
(備考)このいくさの詳細な情報はあまりないらしいが、小谷から岐阜まではわずかな距離しかないため、たとえ浅井長政が奇襲で横山城を攻めたところで、すぐに信長に情報が届く。
信長が陣触れを出したという情報を聞いた浅井長政が、横山城攻略を断念して引き上げたのではあるまいか。
従って、撃退したというよりうまく時間稼ぎができた秀吉、および竹中重治(半兵衛)の戦略勝ちといったほうがよいであろう。
5月6日
織田方の堀秀村籠る鎌刃城を浅井井規(七郎)の軍が攻撃。
横山城から救援に来た木下秀吉がこれを撃破する。(丹波松下文書)
(備考)先の横山城攻撃とこの戦いと、どちらが先なのかわからない。
これも竹中重治(半兵衛)の活躍ありか?
浅井井規が率いた軍の主力は、一向一揆勢が主力だったようだ。
浅井長政は軍を二手に分けて行動していたのかもしれない。
第一次長島一向一揆攻め
5月12日
信長、長島一向一揆攻略のため、岐阜を出陣。
尾張津島に着陣する。
5月16日
三方より兵を繰り出し、伊勢長島の願証寺を攻撃。
しかし、戦況が進展しないまま近辺に放火しながら退却したところ、一揆勢に弓、鉄砲で追撃され柴田勝家負傷、氏家ト全(直元)討死とさんざんな犠牲を出して織田軍が惨敗した。(信長公記)
なお、この日、幕臣の大舘上総介に「一揆を滅ぼすところであったが、詫び言を言ってきたので赦免して軍をひいてあげた」との書状を送っている。
当家の儀に就きて示し給い候。
本望の至りに候。
彼の一揆原所々に立て籠るの間、攻め殺すべきの処、種々詫言せしむるにより、赦免せしめ候。
就中其の方の人数の事承り候。
御懇慮の趣き、少なからず候。
委細□□□申し含むるの条、僟に能わず候。恐々謹言
五月十六日 信長(花押)
大館上総介殿
進之候
(元亀二年)五月十六日付織田信長書状『牧田茂兵衛氏所蔵文書・尾張国遺存織田信長史料写真集』
この件に関するちょっとした考察は「長島一向一揆 信長が「根切り」を行った一つの説」で書いたことがある。
関連記事:河尻秀隆はどこにいた?長島一向一揆戦から見える信長公記の信憑性
松永の謀反
5月30日
大和多聞山城主松永久秀、畠山昭高の河内高屋城を攻撃。『多聞院日記』
6月4日
信長、将軍・足利義昭に細川藤孝を通じて細川藤賢の領地などを安堵するように依頼。
6月8日
石山本願寺と越前朝倉氏の間で縁談の話か『顕如上人御書札案留』
今度綠邊之儀、彌以深重可申談、自他之旨趣、入眼之段珍重候、仍十種十荷推進之候、表祝儀計候、猶賴總法印可申入候間、不能詳候、穴賢
六月八日 十一日 — —
朝倉左衛門督殿
(元亀二年教如上人十四歳、綠邊とは義景の女と婚約を結べるを云へるか)
(書き下し文)
この度縁辺の儀、いよいよ以て深重に申し談ずべき自他の旨趣、入眼の段珍重に候。
仍って十種十荷これを推しまいらせ候。
祝儀を表すばかりに候。
猶頼総法印(下間頼総)申し入るべく候間、詳らかには能わず候。穴賢(以下略)
今度左金吾与綠邊之儀、連々御才覺の驗欣悅之至候、就中五種五荷進之候、委細賴總法印可申展候也、穴賢
六月八日 十一日
武田治部少輔殿
(書き下し文)
この度左金吾と縁辺の儀、連々御才覚の験、欣悦の至りに候。
就中五種五荷これをまいらせ候。
委細頼総法印(下間頼総)法印申し述ぶべく候也。穴賢(書き下し文)
いまだ申つけ候ハねども、とりむかひ上候、こんとえんへんの事、いく久しく申うけ給候べきとよろこび入申候、事ぶくさたは、この十色十かけさむに入候、めでたきしるしばかりにて候、猶くはしくハ水まの御もご(とカ)より申され候べく候。かしく
廣とく院どのへ 申給へき
(書き下し文)
未だ申しつけ候はねども、取り向かい上に候。
今度縁辺の事、幾久しく申し受け給い候べきと喜び入り申し候。
寿く沙汰は、この十種十荷さむに入り候。
めでたきしるしばかりにて候。
猶詳しくは水まの(御元?)より申され候べく候。かしく
広とく院どのへ(朝倉義景生母) 申し給へき
○右三通ハ綠邊之祝儀者四月ニ被渡たる分也、其時ハ御書なし丹後書状計也、唯今ハ祝儀ニつきてのあいさつにて如斯也、此使ハ春慶、彦左衛門
彼方よりも使者やがてのぼるべき由有之
(書き下し文)
○右、三通は、縁辺の祝儀は四月に渡されたる分なり。
その時は御書なし。丹後(下間頼総)の書状ばかりなり。
唯今は祝儀につきての挨拶にてかくの如くなり。
この使は春慶・彦左衛門。
彼方よりも使者やがて上るべき由これあり。
6月9日
河内高屋城を攻めている松永久秀に、三好三人衆が加勢。(多聞院日記)
6月10日
織田方の和田惟政、松永久秀の摂津吹田城を攻略。
6月11日
信長嫡男の奇妙丸(織田信忠)、美濃の崇福寺へ一切の諸役を免除(信長の印判を使用)(崇福寺文書)
同日 松永久秀と三好三人衆が高屋城より撤兵。(多聞院日記)
6月12日
信長、幕臣の間で喧嘩が発生した件で明智光秀に詳細を伝えるように細川藤孝を通じて将軍に依頼。(横畠文書)
同日 松永久秀が大和の国人・十市氏と箸尾氏の被官が自害、および焼き討ちを実行。
6月13日
猪子高就、信長の使者として尾張国下輪川付近に蔓延る長島一向一揆に加担する者がいれば、誰彼構わず成敗するように命ず『猪子文書』
6月14日
安芸の大名・毛利元就 没
6月18日
猪子高就から一向一揆に加担したものを成敗したとの報告を受ける。
さらに6月22日の上洛予定を告げ、その際に邪魔する一揆勢の掃討を厳命する『猪子文書』
(備考)なお、実際にこの行動を移すのは翌月以降である。
6月20日
猪子高就から一向一揆に加担したものを成敗したとの報告を再び受ける。『猪子文書』
同日
以前、三好家家老の篠原長房が毛利家の影響下にある備前国児島に侵入したのだが、信長は篠原と和睦。
しかし、将軍・足利義昭は篠原を許さなかったことがあった。
この状況を安芸の大名・毛利元就、輝元に説明。
現時点では将軍の下知に効果がないこと。
信長は毛利家に対し、連絡を密にすること。
足利義昭も毛利家に対して別条の無い旨を知らせる。(宍戸文書)
(備考)信長はまだ元就の死を知らないと思われる。
同日
信長、尾張国瑞泉寺へ寺院の再興のための材木蒐集にあたり河並の諸役を免除(瑞泉寺文書)
6月23日
信長、尾張の鉄屋大工の水野範直(太郎左衛門)へ大工職と家屋所有を安堵(鉄屋水野文書)
同日
薩摩の大名・島津貴久 没
6月吉日
越前国白山別宮へ奉行の菅屋長頼(九右衛門尉)に命じて鰐口を寄進。(越前大野郡石徹白村観音堂鰐口)
6月
奉行の菅屋長頼(九右衛門尉)越前国白山中居神社境内へ全5ヶ条の「禁制」を下す。(石徹白神社文書)
(備考)越前はいうまでもなく朝倉家の領国なのだが、禁制を依頼してきたということは、信長が越前へ攻め込むという噂が大きく流れていたのかもしれない。
7月4日
大和国人のハ山某、松永久秀を裏切り簀川衆20人ばかりを討ち取る (多聞院日記)
松永久秀、箸尾為綱への攻撃をやめ、大和国法隆寺の龍田に移陣。(多聞院日記)
湖北出兵
7月5日
近江国朽木谷城主・朽木元綱(弥五郎)が信長に内応。
信長はこの忠節を賞し、近江国須戸庄の請米を安堵。
さらに新知行については磯野員昌に指令した旨の書状を送る。(朽木文書)
(備考)伊勢長島一向一揆攻めの失敗、松永久秀の裏切りなど、信長に逆風が吹いている中、なぜ朽木元綱は信長方に寝返ったのであろうか。
彼のこの後の人生は、寝返りの連続であった。
この時なぜ信長につく決意をしたのか、個人的にはすごく興味がある。
7月19日
曇華院殿(聖秀女王、正親町天皇の妹)の領地の件で信長と将軍・足利義昭が対立。
「信長が特別に配慮したことに異論があるならば、通達してください」と足利義昭に要求。(曇華院文書)
(備考)政権成立直後から二重行政であったが、両者が険悪になるとうまくいかなくなることは明白であった。
7月21日
織田方の和田惟政、摂津高槻より上洛。(言継卿記)
7月22日
三好三人衆と三好義継が摂津へ出陣しようとしたところ、準備が困難なため実現せず。(多聞院日記)
(備考)敵にもイレギュラーなことあり・・・か。
7月
信長、美濃国関兼常の助右衛門へ鍛冶職等を安堵。(武藤助右衛門氏所蔵文書)
8月4日
大和国において筒井順慶の辰市城が松永久秀、三好義継に攻められる。
双方から後詰が到着し、激しいいくさとなったようだ。『多聞院日記 十七』『尋憲記 十ノ六』
『尋憲記 十ノ六(元亀二年八月四日条)』の記述
一、巳刻ニ城州、左京大夫衆ヲツレ、人数千三百計まて、大安寺へ付候、右衛門佐も大安寺へ参候、申刻ニ辰市ニ筒井より城ヲ昨日仕候、其城へ取懸、せメタヽカウ事数刻也、城へ乗候衆寄衆不残乗候、ヘイモ悉引落、堀ハ人ニテムマリ、手ヲイ不知数、郡山より後マキ仕、二度ハツキ立候、三度メニコロ乱、散々成由也、
打死衆四出井紹二、山崎久助、戸井田、山田太郎右衛門、野間、川邊伊豆、安邊、渡邊兵衛大輔、松岡左近、菓林院、立入左馬大夫、松永久三郎、半竹藤市兄弟二人、クホ子、楠御合永戸、ワニ吉丞、瀧久大夫、福智一承、竹田対馬、織部、赤澤内蔵介、竹田兵衛丞、河州左京大夫衆馬三十三人打死、木蔵、佐久間、(原本コノ間約行ノ空間アリ、)其外雑兵以上二百七十余首有之由也、付城も山口持城一ツ、屋及持城一ツ、田ナカ之城一ツ、高田城一ツ、犬臥城一ツ、以上五ツアケ了、
(書き下し文)
一、巳の刻に城州(松永久秀)、左京大夫(三好義継)を連れ、人数千三百ばかりまで、大安寺へ付け候。
右衛門佐(松永久通)も大安寺へ参り候。
申の刻に辰市に筒井より城を昨日仕り候。
その城へ取り懸け、攻め戦う事数刻なり。
城へ乗り候衆、寄り衆残らず乗り候。
塀も悉く引き落とし、堀は人にて埋まり、手負い数知れず。
郡山より後巻き仕り、二度は付き立て候。
三度目にころ乱れ、散々なりの由なり。
討死衆(以下省略)
『多聞院日記 十七(元亀二年八月四日条)』の記述
從信貴城久秀・河州大夫殿人數同道ニテ、今日午刻ニ於大安寺著陳、昨日辰市ニ拵タル城へ取寄、酉上刻ニ及一戦、筒井・郡山兩方ヨリ後詰沙汰、城州敗軍了、討死衆松永左馬進久秀ノヲイ、同孫四郎久秀ノヲイ、松永久三郎金吾若衆・山城ノタラヲ息、河那邊伊豆守、渡邊兵衛尉、松岡左近、福智、赤澤藏介、榮林院、竹田對馬守、豊田、山崎久助、阿部、クルス、ハシヲ唐院弟ノ延泉ヽ、山中ノ山田、中岡藤市兄弟、河内衆ハ名ヲシラス、首數合五百討取了、手負五百余も可在之歟ト、道具以下悉以捨、やうヽヽ多聞山へ引取了、當國初而是程討取事無是、城州ノ一期ニモ無之程ノ合戦也、狛治部大輔モ渡邊采女モ討死了ト、
(書き下し文)
信貴山城より久秀(松永久秀)、河州大夫(三好義継)殿の人数同道にて、今日午の刻に於いて大安寺に着陣。
昨日辰市に拵えたる城へ取り寄せ、酉の上刻に一戦に及び、筒井・郡山両方より後詰の沙汰、城州(松永久秀)敗軍了。
(中略)
首数合わせて五百討ち取り了。
手負いは五百余りもこれ有るべくかと。
道具以下悉く捨て以て、ようよう多聞山へ引き取り了。
当国初めてこれほど討ち取りの事これ無く、城州(久秀)の一期にもこれ無き合戦なり。
狛治部大輔も渡辺采女も討死了と。
8月5日
『多聞院日記 十七(元亀二年八月五日条)』より抜粋
手負之衆竹下ウステ、山口、古市兄弟、太曲、柳生息以下、竹内下總守之内ニハ手負ハサルハ馬上ニ三人ナラテハ無之、余悉手負了ト、
一、筒井ヨリモ引シメ、今日モ無別之働、彼方ニモ討死手(負脱カ)數多在之云々、誰々ハ不知、
(中略)
一、源三南へ遣了、十市へハ近日越智ヨリ取懸、新賀ニ城拵ト云々、箸尾ハ森屋城責云々、如何可成行哉覧、
8月7日
信長、尾張国の意足軒へ熱田神宮末社の高倉宮遷宮に際して青銅5000疋、銅銭50貫文を寄付。(今井理一氏所蔵文書)
8月13日
甲斐の武田信玄、織田家と本願寺家の和睦の仲介に奔走。
(備考)織田家と武田家は姻戚関係の同盟国。
武田信玄と本願寺顕如(光佐)は、同じ公家の三条家からそれぞれ長女と次女を嫁にもらっており、ある意味親戚同士であった。
8月15日
石山本願寺門跡の顕如、浅井家からの進物を喜び、返書を認める。『顕如上人御書札案留』
不思寄爲音問五種十荷誠以芳情之儀、欣悦之至候、其邊敵對城之由、彌計策此莭候哉、爰元無殊事候間、不可有機遣候、毎事追而可申越候、委曲丹後法印可傳語候也、穴賢
八月十五日 — —
浅井下野守殿
(書き下し文)
不思議の音問として五種十荷、誠に以て芳情の儀、欣悦の至りに候。
その辺り敵対城の由、いよいよ計策この節に候哉。
爰元殊事無く候間、気遣い有るべからず候。
毎事追って申し越すべく候。
委曲丹後法印(下間頼総)伝え語るべく候也。穴賢(以下略)
厥後絕書信候處、來章被閱、殊被差越同名新介尤快然事候、仍鞍骨木地十口賜之候、折莭大切之物候間、一段喜入候、就中其近所敵對城之體調略等察申候、爰許無異子細候、若於有替事者、態可啓達候、尙丹後法印可令演說候也、穴賢
八月十五日 — —
浅井備前守殿
(書き下し文)
その後書信が絶え候のところ、(來章被閱?)、殊に同名の新介を差し越され、尤も快然の事に候。
仍って鞍(骨木地)十口これを賜り候。
折節大切の物に候間、一段と喜び入り候。
就中その近所敵対城の体、調略等察し申し候。
爰元の子細異なり無く候。
もし替事有るに於いては、わざと啓達すべく候。
尚丹後法印(下間頼総)演説せしむべく候也。穴賢(以下略)
8月16日
信長、西尾光教(小六)に美濃国多芸郡役を従来のように安堵する。(大野多根氏所蔵文書)
8月18日
信長、若狭国の熊谷直之(治部丞)へ若狭国倉見庄の係争の件は昨年春に決定が下されたので、変更は無い旨を通達。(浜田勝次氏所蔵文書)
8月18日?
信長、浅井家討伐のため岐阜を出陣。
江北の横山城に着陣。
8月23日
石山本願寺門跡の顕如、一色治部大輔(斎藤龍興)へ武運を祈る旨の書状を発給。『顕如上人御書札案留』
近日御進發之由其聞候、尤珍重此事候、急速可属御本意之儀必然候、随而太刀一腰國友黄金卅両進之候、表祝儀計候、猶追々可申展候、委細丹後法印可令申候、穴賢
八月二十三日 — —
一色治部大輔殿
(書き下し文)
近日御進発の由、その聞こえに候。
尤も珍重この事に候。
急速御本意に属すべきの儀必然に候。
従って太刀一腰(国友)・黄金三十両これをまいらせ候。
祝儀を表すばかりに候。
猶追々申し述ぶべく候。
委細丹後法印(下間頼総)申せしむべく候。穴賢(以下略)
8月26日
小谷山と山本山の間の中島に移陣して余呉・木ノ本を放火する。
8月27日
織田軍、横山城に戻る。(信長公記)
(備考)これは浅井長政をおびき出すための挑発である。
しかし、浅井長政は挑発に乗らず城に立て籠もる様相を見せ、越前から朝倉義景の援軍も来なかった。
元亀2年(1571)8月の浅井家討伐戦(国土地理院より)
比叡山焼き討ち
8月28日
佐和山に着陣。
一向一揆の立て籠もる志村城を攻め落とす。(信長公記)
(備考) 志村城では670もの首級を挙げたと伝わる。一揆勢ほぼ全滅だったと考えられる。
同日
摂津国郡山において織田方の和田惟政と三好三人衆方の池田知正が合戦。
茨木佐渡守兄弟が討死するなど、激戦を繰り広げ、和田惟政が討死。
去廿八日於攝州池田表合戦、和田伊賀守一類悉以打果了、則和田方諸城一時ニ四ツ落居了云々
『多聞院日記 十七(元亀二年九月一日条)』
(書き下し文)
去二十八日摂州池田表の合戦に於いて、和田伊賀守(惟政)の一類悉く以て討ち果て了。
則ち和田方の諸城一時に四つ落居了と云々。
???
志村城の惨劇を見た小川城が降伏する。
9月3日
一向一揆の立て籠もる金森城を攻略。
信長は常楽寺にて指揮。(信長公記)
(備考)南近江の一向一揆を掃討し、坂本への通路を確保した信長は、いよいよ今年の目標を果たす行動に移る。
9月5日
摂津国池田で合戦か。『多聞院日記 十七(元亀二年九月七日条)』
一昨日歟、於攝州合戦在之、池田方數多討死云々
(書き下し文)
一昨日か。
摂州に於いて合戦これあり。
池田方数多討死と云々。
9月7日
大和の筒井氏、山田へ軍勢を派遣か。 『多聞院日記 十七(元亀二年九月七日条)』
一、筒衆山田へ打寄了、竹下ノ城退散了ト云々、實歟、
(書き下し文)
筒衆(筒井衆)山田へ打ち寄せ了。竹下の城退散了と云々。
実(定かなの)か。
9月11日
信長、三井寺山内の山岡景猶の屋敷に陣を敷く。
先遣隊は坂本に布陣。
9月12日
諸将に比叡山の焼き討ちを命じて坂本から攻め上る。
根本中堂をはじめ山王二十一社を悉く焼き払い、僧俗3000~4000人を討ち取る。(信長公記) 『多聞院日記 十七(元亀二年九月十二日条)』
一、比叡山・ワニ・カタヽ・坂本悉以信長ヨリ放火了ト云々、實否不知之、黑煙見へ揚了ト、則尾張守在京ト云々、如何可成行哉覧、心細者也、
(書き下し文)
一、比叡山・和邇・堅田・坂本悉く以て信長より放火了と云々。
実否これ知らず。
黒煙見え上げ了と、則ち尾張守(織田信長)在京と云々。
如何成りゆくべく哉覧。
心細きものなり。
9月13日
信長、明智光秀に志賀郡を与え坂本城主とする。(信長公記)
(備考)光秀の他にもこれまで比叡山の所領であった地を配分し、佐久間信盛、柴田勝家、丹羽長秀、中川重政に与えている。
その中でも所領を多く持ったのが明智と佐久間である。
巳の刻に小姓衆・馬廻衆ばかりを率いて入京し、妙覚寺に泊まる。
将軍・足利義昭に拝謁し小飯をとる。(言継卿記)
翌年は信長の息子3人がそろって元服します。
いよいよ元亀の争乱時代で最もアツイ時代に差し掛かります。
次回もお楽しみに~
- 誕生~叔父信光死去まで(1534~1555)
- 叔父信光死去~桶狭間の戦い直前まで(1555~1560)
- 桶狭間の戦い~小牧山城移転直後まで(1560~1564)
- 美濃攻略戦(1564~1567)
- 覇王上洛(1567~1569)
- 血戦 姉川の戦い(1570 1.~1570 7.)
- 信長包囲網の完成(1570 7.~12.)
- 比叡山焼き討ち(1571 1.~9.) イマココ
- 義昭と信長による幕府・禁裏の経済改革(1571 9下旬~1571.12)
- 元亀3年の大和動乱(1572 1.~1572.6)
- 織田信重(信忠)の初陣(1572 7.~1572 9.)
- 武田信玄 ついに西上作戦を開始する(1572 9.~1572 12.)
- 将軍・足利義昭の挙兵と武田信玄の死(1573 1.~1573 4.)
- 将軍追放 事実上の室町幕府滅亡(1573 5.~1573 7.)
- 朝倉・浅井家滅亡(1573 8.~1573 10.)
- 三好義継の最期(1573 10.~1573 12.)