織田信長の年表ちょっと詳しめ 比叡山焼き討ち

5.0
来世ちゃん
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野田・福島の戦いで絶対勝利かと思われた信長だが、石山本願寺の挙兵により戦況は一変。

これに呼応し浅井家、朝倉家、六角家、長島一向一揆など多くの組織が一斉に攻めてきます。

来世ちゃん
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信長は外交の力でなんとか和睦にこぎつけましたが、裏切った妹婿の浅井長政とそれを支援した比叡山延暦寺への憎しみは忘れませんでした。

今回は元亀2年(1571)1月からはじめる。

(ここまでの流れ)

  1. 誕生~叔父信光死去まで(1534~1555)
  2. 叔父信光死去~桶狭間の戦い直前まで(1555~1560)
  3. 桶狭間の戦い~小牧山城移転直後まで(1560~1564)
  4. 美濃攻略戦(1564~1567)
  5. 覇王上洛(1567~1569)
  6. 血戦 姉川の戦い(1570 1.~1570 7.
  7. 信長包囲網の完成(1570 7.~12.)
  8. 比叡山焼き討ち(1571 1.~9.) イマココ
  9. 織田信重(信忠)の初陣(1571 9.~1572 9.)

この年表の見方

  • 当サイトでは、信長の人生で大きな転換期となった時代時代で、一区切りにしている
  • 他サイトや歴史本、教科書で紹介されている簡単な年表に書いている内容は、赤太文字
  • 年代や日付について諸説ある場合は、年代や日付の個所に黄色いアンダーライン
  • 内容に関して不明確で諸説ある場合は、事績欄に黄色いアンダーライン
  • 当時は数え年であるから、信長の年齢は生まれた瞬間を1歳とする。誕生日についても詳細不明のため、1月1日で1つ歳を取る
  • 太陽暦、太陰暦がある。当サイトでは、他のサイトや歴史本と同じように、太陰暦を採用している。中には「」なんていう聞きなれないワードがあるかもしれないが、あまり気にせず読み進めていってほしい
  • キーとなる合戦、城攻め、政治政策、外交での取り決めは青太文字
  • 何か事柄に補足したいときは、下の備考欄に書く

木下秀吉大活躍 横山城防衛戦

元亀2年(1571)

38歳

1月1日

信長、元旦の挨拶に岐阜城で諸将の参賀の挨拶を受け、年頭の抱負を述べる。
その中に比叡山延暦寺の攻略を第一目標とする言を発している。(信長公記、細川家記)

1月2日

横山城在番の木下秀吉に命じ、浅井・朝倉と石山本願寺間の連絡、連携遮断に近江姉川から朝妻に至る陸海交通路の閉鎖をさせ、「もし不正があれば成敗」との書状を送っている。(東大編纂所所蔵文書)

また、浅井家から織田家についた久徳左近兵衛尉へ「この春早々に高宮右京亮を退治するので油断なく奔走するように促す書状を贈る。(神田孝平氏所蔵文書)

 (備考)同様の書状を同日付で堀秀村にも出している。

1月23日

上杉謙信に陸奥国への鷹師両人を派遣するため過書および同中の警護を依頼する旨の書状を送る。(高橋文書)

2月24日

丹羽長秀の調略により佐和山城主・磯野員昌かずまさが投降する。
信長は同城を丹羽長秀に守らせ、浅井家への抑えとした。

 (備考)磯野は信長に降ったわけではなく、孤立した佐和山城の明け渡しに応じただけであった。
しかし、これを浅井長政が裏切りとみなし、磯野を許さなかった。
磯野員昌はこうして信長の麾下となったのである
また、昨年に交わした和議もこれによって破れたと見てよい。
関連記事:【古文書講座】信長窮地 織田家と浅井長政・朝倉義景が和睦したときの書状

2月25日

佐和山城抑えの砦を解体し、その資材を木下秀吉樋口直房に預ける。
・この資材を小谷山城攻囲の砦普請用の資材にすること。
・この旨を丹羽長秀に通達したので、木下、樋口両名が徹底した管理をするように命令した。(織田文書)

 (備考)「佐和山城抑えの砦」とは丹羽長秀がこれまで在番していた百々屋敷のことか?
樋口直房とは昨年の姉川合戦の前に、堀秀村とともに信長に降った元浅井家家臣である。
浅井家が信長に謀反する際、隠居で反信長派の浅井久政と親信長派の家臣らとで激論になったこと、浅井長政はこの裏切りが決して本意ではなかったことを、この樋口を通じて信長は知ったのである。

3月1日

この日、大和国奈良周辺で地震が発生。(多門院日記)

3月20日

信長、上杉謙信へ天下の儀は平穏無事であることを伝え、鷹を求める書状を送っている。(上杉家文書)

 (備考)鷹ほんま好きやなw

4月11日

毛利元就輝元父子への返事として、信長は小早川隆景に返書を送る。
その内容は
・丹波国、但馬国の賊船の件は将軍・足利義昭に上申し、信長が処理したこと。
・出雲国、伯耆国(元尼子領)は毛利家に委任すること。
・畿内及び信長の分国は静謐せいひつであることなど。

小早川隆景肖像画

毛利家のスポークスマンとして活躍していた小早川隆景(元就の三男)

 (備考)信長は足利義昭を奉じての上洛後から、毛利元就の影響力を頼もしく思っていた。
三好三人衆らへの牽制として期待していた信長と、畿内中央への影響力を持っておきたい毛利家との利害が一致してのことであった。

関連記事:毛利元就が厳島合戦で有名になるまでの生涯 本当に大器晩成なのか?

4月14日

禁裏の内侍所に村井貞勝が参内する。(言継卿記)

 (備考)貞勝は志賀の陣で講和が成ったとき、信長らとともに岐阜へ帰り、束の間の休息を国もとで過ごしていた。

4月15日

甲斐武田家の御先衆が三河足助城を攻略。(孕石文書)

 (備考)まだ徳川家康とは敵対していない時期である。
しかし、信玄は外交上で徳川家康との約定を破っており、両家の関係は悪化しつつある時期であった。

5月6日?

木下秀吉が在番する横山城に浅井長政が攻撃を仕掛けるが、秀吉が必死の防戦で撃退に成功。(信長公記)

木下秀吉

寡兵で見事に役目を果たした木下秀吉

 (備考)この戦いでは秀吉の与力として配属された竹中重治(半兵衛)による軍略が冴えわたったとされているが、真偽は不明である。
しかし、信長公記には浅井長政が攻めてきたとあるので、戦いがあったことは事実であろう。

竹中重治肖像画

のちに秀吉の正式な家臣となる竹中重治(半兵衛)

 (備考)このいくさの詳細な情報はあまりないらしいが、小谷から岐阜まではわずかな距離しかないため、たとえ浅井長政が奇襲で横山城を攻めたところで、すぐに信長に情報が届く。
信長が陣触れを出したという情報を聞いた浅井長政が、横山城攻略を断念して引き上げたのではあるまいか。
従って、撃退したというよりうまく時間稼ぎができた秀吉、および竹中重治(半兵衛)の戦略勝ちといったほうがよいであろう。

5月6日

織田方の堀秀村籠る鎌刃城を浅井井規いのり(七郎)の軍が攻撃。
横山城から救援に来た木下秀吉がこれを撃破する。(丹波松下文書)

 (備考)先の横山城攻撃とこの戦いと、どちらが先なのかわからない。
これも竹中重治(半兵衛)の活躍ありか?

浅井井規が率いた軍の主力は、一向一揆勢が主力だったようだ。
浅井長政は軍を二手に分けて行動していたのかもしれない。

第一次長島一向一揆攻め

5月12日

信長、長島一向一揆攻略のため、岐阜を出陣。
尾張津島に着陣する。

5月16日

三方より兵を繰り出し、伊勢長島の願証寺を攻撃。
しかし、戦況が進展しないまま近辺に放火しながら退却したところ、一揆勢に弓、鉄砲で追撃され柴田勝家負傷、氏家ト全(直元)討死とさんざんな犠牲を出して織田軍が惨敗した。(信長公記)

 (備考)なぜここまでの犠牲者が出たのであろうか。
私が個人的に考えるのは、先の横山城を守る木下秀吉救援の為に集めた軍勢だったのだが、浅井長政が速やかに退却し、兵を解散させるのはもったいないと信長が考えて、事前に情報をあまり調べていなかった長島へと攻めたのではあるまいか。
事前に情報を得ていれば、一向一揆に鉄砲が大量に配備されていたことや、あのような地形で力攻めは不利であることなどが分かると思うのだが。

何にせよ、この敗因は信長の慢心にあったであろう。

またこの日、幕臣の大舘上総介に「一揆を滅ぼすところであったが、詫び言を言ってきたので赦免して軍をひいてあげた」との書状を送っている。

 (備考)いくさに敗れたうえに嘘までつくとは、なんともダサイw しかし、こういったいくさの勝ち負けに関する嘘は戦国では日常茶飯事なのだ。

松永久秀 第一回目の謀叛(ログインボーナス)

5月30日

大和多聞山城主松永久秀、第一回目の謀叛
織田家に属する畠山昭高の河内高屋城を攻撃。(多門院日記)

 (備考)ログボゲット。

歴代信長の野望で打線組んだwwww 創造・覇王伝編

6月4日

信長、将軍・足利義昭細川藤孝を通じて細川藤賢の領地などを安堵するように依頼。

6月9日

河内高屋城を攻めている松永久秀に、三好三人衆が加勢。(多聞院日記)

 (備考)こいつらいつも離合集散を繰り返してるな

6月10日

織田方の和田惟政松永久秀の摂津吹田城を攻略

6月11日

信長嫡男の奇妙丸(織田信忠)、美濃の崇福寺へ一切の諸役を免除(信長の印判を使用)(崇福寺文書)

同日 松永久秀と三好三人衆が高屋城より撤兵。(多聞院日記)

6月12日

信長、幕臣の間で喧嘩が発生した件で明智光秀に詳細を伝えるように細川藤孝を通じて将軍に依頼。(横畠文書)

同日 松永久秀が大和の国人・十市氏と箸尾氏の被官が自害、および焼き討ちを実行。

6月13日

猪子高就、信長の使者として尾張国下輪川付近に蔓延る長島一向一揆に加担する者がいれば、誰彼構わず成敗するように命ず(猪子文書)

 (備考)猪子高就は信長の旗本であるが、元は斎藤道三の近臣だったという説もある。
関連記事:信長と斎藤道三の知恵比べ?正徳寺の会見

6月14日

安芸の大名・毛利元就 没

6月18日

猪子高就からの報告を聞き、6月22日の上洛予定を告げ、その際に邪魔する一揆勢の掃討を厳命する(猪子文書)

 (備考)なお、実際にこの行動を移すのは翌月以降である。

6月20日

以前、三好家家老の篠原長房が毛利家の影響下にある備前国児島に侵入したのだが、信長は篠原と和睦。
しかし、将軍・足利義昭は篠原を許さなかったことがあった。
この状況を安芸の大名・毛利元就、輝元に説明。
現時点では将軍の下知に効果がないこと。
信長は毛利家に対し、連絡を密にすること。
足利義昭も毛利家に対して別条の無い旨を知らせる。(宍戸文書)

 (備考)信長はまだ元就の死を知らないと思われる。

同日

信長、尾張国瑞泉寺へ寺院の再興のための材木蒐集にあたり河並の諸役を免除(瑞泉寺文書)

6月23日

信長、尾張の鉄屋大工の水野範直(太郎左衛門)へ大工職と家屋所有を安堵(鉄屋水野文書)

同日

薩摩の大名・島津貴久 没

6月吉日

越前国白山別宮へ奉行の菅屋長頼(九右衛門尉)に命じて鰐口を寄進。(越前大野郡石徹白村観音堂鰐口)

6月

奉行の菅屋長頼(九右衛門尉)越前国白山中居神社境内へ全5ヶ条の「禁制」を下す。(石徹白神社文書)

 (備考)越前はいうまでもなく朝倉家の領国なのだが、禁制を依頼してきたということは、信長が越前へ攻め込むという噂が大きく流れていたのかもしれない。

7月4日

大和国人のハ山某松永久秀を裏切り簀川衆20人ばかりを討ち取る (多聞院日記)

松永久秀箸尾為綱への攻撃をやめ、大和国法隆寺の龍田に移陣。(多聞院日記)

湖北出兵

7月5日

近江国朽木谷城主・朽木元綱(弥五郎)が信長に内応。
信長はこの忠節を賞し、近江国須戸庄の請米を安堵。
さらに新知行については磯野員昌に指令した旨の書状を送る。(朽木文書)

 (備考)伊勢長島一向一揆攻めの失敗、松永久秀の裏切りなど、信長に逆風が吹いている中、なぜ朽木元綱は信長方に寝返ったのであろうか。
彼のこの後の人生は、寝返りの連続であった。
この時なぜ信長につく決意をしたのか、個人的にはすごく興味がある。

7月19日

曇華院殿(聖秀女王、正親町天皇の妹)の領地の件で信長と将軍・足利義昭が対立。
「信長が特別に配慮したことに異論があるならば、通達してください」と足利義昭に要求。(曇華院文書)

 (備考)政権成立直後から二重行政であったが、両者が険悪になるとうまくいかなくなることは明白であった。 

7月21日

織田方の和田惟政、摂津高槻より上洛。(言継卿記)

7月22日

三好三人衆三好義継が摂津へ出陣しようとしたところ、準備が困難なため実現せず。(多聞院日記)

 (備考)敵にもイレギュラーなことあり・・・か。

7月

信長、美濃国関兼常の助右衛門へ鍛冶職等を安堵。(武藤助右衛門氏所蔵文書)

8月4日

大和国において織田方の筒井順慶の辰市城が松永久秀、三好義継に攻められる。
双方から後詰が到着し、激しいいくさとなったようだ。
松永久秀は命からがら逃げかえる有り様であり、多数の久秀方の侍が討死した。

8月7日

信長、尾張国の意足軒へ熱田神宮末社の高倉宮遷宮に際して青銅5000疋、銅銭50貫文を寄付。(今井理一氏所蔵文書)

8月13日

甲斐の武田信玄、織田家と本願寺家の和睦の仲介に奔走。

 (備考)織田家と武田家は姻戚関係の同盟国。
武田信玄と本願寺顕如(光佐)は、同じ公家の三条家からそれぞれ長女と次女を嫁にもらっており、ある意味親戚同士であった。

8月16日

信長、西尾光教(小六)に美濃国多芸郡役を従来のように安堵する。(大野多根氏所蔵文書)

8月18日

信長、若狭国の熊谷直之(治部丞)へ若狭国倉見庄の係争の件は昨年春に決定が下されたので、変更は無い旨を通達。(浜田勝次氏所蔵文書)

8月18日?

信長、浅井家討伐のため岐阜を出陣。
江北の横山城に着陣。

8月26日

小谷山と山本山の間の中島に移陣して余呉・木ノ本を放火する。

8月27日

織田軍、横山城に戻る。(信長公記)

 (備考)これは浅井長政をおびき出すための挑発である。
しかし、浅井長政は挑発に乗らず城に立て籠もる様相を見せ、越前から朝倉義景の援軍も来なかった。

元亀2年(1571)8月の浅井家討伐戦
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元亀2年(1571)8月の浅井家討伐戦(国土地理院より)

比叡山焼き討ち

8月28日

佐和山に着陣。
一向一揆の立て籠もる志村城を攻め落とす。(信長公記)

 (備考) 志村城では670もの首級を挙げたと伝わる。一揆勢ほぼ全滅だったと考えられる。

同日

摂津国郡山において織田方の和田惟政と三好三人衆方の池田知正が合戦。
茨木佐渡守兄弟が討死するなど、激戦を繰り広げ、和田惟政が討死。

 (備考)信長が近江まで進軍しながら、摂津ではこのようなことになっていたのだ。
思えば和田惟政は足利義昭の流浪時代から支えた人物であり、終始信長の協力者であり続けた人物であった。
和田惟政はこのいくさで4城を失ったようだ。

???

志村城の惨劇を見た小川城が降伏する。

9月3日

一向一揆の立て籠もる金森城を攻略。
信長は常楽寺にて指揮。(信長公記)

 (備考)南近江の一向一揆を掃討し、坂本への通路を確保した信長は、いよいよ今年の目標を果たす行動に移る。

9月11日

信長、三井寺山内の山岡景猶かげなおの屋敷に陣を敷く。
先遣隊は坂本に布陣。

9月12日

諸将に比叡山の焼き討ちを命じて坂本から攻め上る。
根本中堂をはじめ山王二十一社を悉く焼き払い、僧俗3000~4000人を討ち取る。(信長公記)

在りし日の比叡山延暦寺
山王宮曼荼羅

在りし日の比叡山延暦寺

 (備考)これは昨年の志賀の陣で比叡山が浅井・朝倉連合軍に加担したこと。
女人禁制であるはずの比叡山に女性を連れ込み、子を産ませ、酒を飲みと乱れ切った風俗の粛清。
朝廷に押し入り、自らの権益を拡張せんとする行動への戒め。
坂本などの街道に勝手に関所を作り、通行税を巻き上げたこと。
坊主であるはずなのに金貸し業を行い、高額な利子で貸し付けて暴利を貪っていたことなど、信長がついに粛清へと踏み切ったのであった。

信長公記には信長が「年来の胸中のしこりをはらした」との記述がある。
この事件の人々に与えた衝撃は大きく、洛中洛外の仏教徒らは信長を「仏敵」と称して憎悪の念を抱いた。
また、公家衆の日記には「天魔の所為」「仏法破滅」とある。

しかし、近年の発掘調査では焦土層(焼けた土の層)が見つかったのは根本中堂と大講堂、麓の浅井・朝倉が陣を敷いていた箇所だけだという結果が出ている。
殺戮した数というのは古文書に頼るしかないので定かではない。

なお、当時の比叡山の法主は正親町天皇の弟・覚恕かくじょ法親王であった。
事変当時は叡山にはおらず難を逃れたが、そのまま甲斐の武田信玄を頼り、信玄に信長討伐と織田家との同盟破棄の大義名分となってしまった

9月13日

信長、明智光秀に志賀郡を与え坂本城主とする。(信長公記)

 (備考)光秀の他にもこれまで比叡山の所領であった地を配分し、佐久間信盛柴田勝家丹羽長秀中川重政に与えている。
その中でも所領を多く持ったのが明智と佐久間である。

巳の刻に小姓衆・馬廻衆ばかりを率いて入京し、妙覚寺に泊まる。
将軍・足利義昭に拝謁し小飯をとる。(言継卿記)

来世ちゃん
来世ちゃん

翌年は信長の息子3人がそろって元服します。

嫡男信忠、次男信雄、三男信孝。

めでたいですね!

来世ちゃん
来世ちゃん

しかし、次回は信長包囲網に武田信玄が加わり、いよいよ元亀の争乱時代で最もアツイ時代に差し掛かります。

次回もお楽しみに~

来世ちゃん
来世ちゃん

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  1. 誕生~叔父信光死去まで(1534~1555)
  2. 叔父信光死去~桶狭間の戦い直前まで(1555~1560)
  3. 桶狭間の戦い~小牧山城移転直後まで(1560~1564)
  4. 美濃攻略戦(1564~1567)
  5. 覇王上洛(1567~1569)
  6. 血戦 姉川の戦い(1570 1.~1570 7.)
  7. 信長包囲網の完成(1570 7.~12.)
  8. 比叡山焼き討ち(1571 1.~9.) イマココ
  9. 織田信重(信忠)の初陣(1571 9.~1572 9.)

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