早くも将軍・足利義昭との亀裂が鮮明になった織田信長は、激怒して岐阜へと帰ってしまう。
そこから信長公は何を行ったのか注目です。
今回は永禄13年(1570)1月からはじめる。
(これまでの流れ)
- 誕生~叔父信光死去まで(1534~1555)
- 叔父信光死去~桶狭間の戦い直前まで(1555~1560)
- 桶狭間の戦い~小牧山城移転直後まで(1560~1564)
- 美濃攻略戦(1564~1567)
- 覇王上洛(1567~1569)
- 血戦 姉川の戦い(1570 1.~1570 7.) イマココ
- 信長包囲網の完成(1570 7.~12.)
- 比叡山焼き討ち(1571 1.~9.)
- 義昭と信長による幕府・禁裏の経済改革(1571 9下旬~1571.12)
- 元亀3年の大和動乱(1572 1.~1572.6)
- 織田信重(信忠)の初陣(1572 7.~1572 9.)
- 武田信玄 ついに西上作戦を開始する(1572 9.~1572 12.)
- 将軍・足利義昭の挙兵と武田信玄の死(1573 1.~1573 4.)
- 将軍追放 事実上の室町幕府滅亡(1573 5.~1573 7.)
- 朝倉・浅井家滅亡(1573 8.~1573 10.)
- 三好義継の最期(1573 10.~1573 12.)
この年表の見方
- 当サイトでは、信長の人生で大きな転換期となった時代時代で、一区切りにしている
- 他サイトや歴史本、教科書で紹介されている簡単な年表に書いている内容は、赤太文字
- 年代や日付について諸説ある場合は、年代や日付の個所に黄色いアンダーライン
- 内容に関して不明確で諸説ある場合は、事績欄に黄色いアンダーライン
- 当時は数え年であるから、信長の年齢は生まれた瞬間を1歳とする。誕生日についても詳細不明のため、1月1日で1つ歳を取る
- 太陽暦、太陰暦がある。当サイトでは、他のサイトや歴史本と同じように、太陰暦を採用している。中には「閏」なんていう聞きなれないワードがあるかもしれないが、あまり気にせず読み進めていってほしい
- キーとなる合戦、城攻め、政治政策、外交での取り決めは青太文字
- 翻刻はなるべく改変せずに記述した。そのため、旧字や異体字が頻繁に登場する。しかしながら、日本語IMEではどうしても表記できない文字もあるため、必ずしも徹底しているものではない。
- 何か事柄に補足したいときは、下の備考欄に書く
信長の年表(詳しめ6)
五ヶ条の条書を将軍・義昭に送り付ける
元亀元年(1570)
この年の4月23日に「元亀」と改元。ここでは便宜上、1月1日から改元とする
37歳
昨年の将軍・足利義昭との物別れから、年が明けても信長が一向に上洛しようとしない。公家衆などは信長を説得するため、次々と岐阜へと下向し、信長の機嫌を取ろうとしていた。
1月7日
石山本願寺門跡・顕如、織田信長へ新年の挨拶をする旨の書状を発給。『顕如上人御書札案留』
新年之嘉祥、更不可有休盡□(候脱カ)、仍太刀一腰金、馬一疋三百疋ノ太刀馬代三百疋也推進之候、表祝儀計候、猶下間丹後法印可令申候也、穴賢
正月七日 — —
織田弾正忠殿
(書き下し文)
新年の賀正、更に不可有休盡□(候脱カ)。
仍って太刀一腰(金)・馬一疋(三百疋の太刀馬代三百疋なり)これを推しまいらせ候。
祝儀を表すばかりに候。
猶下間丹後法印(下間頼総カ)申せしむべく候なり。穴賢(以下略)
1月23日
織田信長、殿中御掟追加五ヶ条を足利義昭に送付し、足利義昭がこれを承認。(成簣堂文庫文書)
また、同日付で信長は畿内近国の21ヵ国に及ぶ諸大名、諸将に対し、「禁中御修理、武家御用、そのほか天下いよいよ静謐のため」と号令し、翌月の中旬に上洛して朝廷と幕府に礼参することを促す触状を送る。(二条宴乗日記抜書)
関連記事:みんな集合!信長が急遽行った京都サミットの理由とは?
1月下旬
京に滞在中の村井貞勝らに命じ、禁裏の修理に取り掛かる。
(備考) 諸大名に資金の供出を呼びかけるが、元からそれをアテにしていなかったように見受けられる。
2月2日
禁裏の修理が早くも村井貞勝、朝山日乗を奉行として開始される。(御湯殿の上の日記)
2月25日
信長、岐阜を出発
2月29日
村井貞勝、明智光秀、朝山日乗に命じ、公家の近衛前久邸門外町人に対し、公方御所及び信長御台所座所の近辺に寄宿することを禁じる文書を出している。(陽明文庫文書)
2月30日
申の刻に入京。公家衆、町衆らが出迎える。
3月1日
衣冠(冠や衣)を着して参内し、物を献上。幕府にも礼参する。(言継卿記)
この頃
先の信長触状によって上洛した諸国の大名は、三河の徳川家康、伊勢の北畠具房、飛騨の姉小路自綱(頼綱)、河内の畠山昭高、同高政、三好義継、大和の松永久秀、備前の宇喜田直家、さらに豊前から大友宗麟の使者と僧侶も上洛して朝廷や将軍、信長に礼参している。(言継卿記など)
(備考)この時信長は十分な日数を京都で待ち、朝倉義景の上洛がないことを確認。かねてより欲していた越前の地をこの際に奪わんとする。先祖からの宿敵同士が、ついに激突する。
3月23日
信長、毛利輝元へ右衛門督が任官された旨を伝える足利義昭副状を発給する。
関連記事:【古文書入門】解読の基本を織田信長の書状から学ぶ
金ケ崎の退き口
4月20日
信長、大軍を率いて越前朝倉家討伐の為、京を出陣。公家の飛鳥井雅敦、日野輝資らも従軍する。この日は湖西経由で近江坂本を経て和邇に着陣。
(備考)余談だが、 飛鳥井雅敦とは代々蹴鞠の名家で、彼の祖父の名は飛鳥井雅綱である。彼は信長の父・信秀の時代に尾張に下向し、織田信秀や織田達勝、斯波義統らの目の前で蹴鞠を披露している。この時に若かりし山科言継も同行しているのだ。(言継卿記) 関連記事↓
4月21日
海津氏の田中城に着陣。 (信長公記)
4月22日
若狭松宮氏の熊川城に着陣。 (信長公記)
4月23日
粟屋氏の佐柿城に着陣。翌日も逗留する。(信長公記)
4月25日
越前の敦賀に軍勢を繰り出す。森可成を先陣に、柴田勝家、坂井政尚、池田恒興も続き、一気に天筒山城を攻める。その日の申の刻に攻め落とす。敵の首千三百七十を討ち取る。=手筒山城の戦い
(備考)手筒山城は肥沃な平野部の多い越前を守る上では欠かせない要害であるが、まさかの1日で陥落した。なお、この戦いで森可成の嫡男・森伝兵衛可隆が戦死している。
4月26日
金ケ崎城、疋田城に攻め込み、両城とも同日に落城。=疋田城の戦い 金ヶ崎城の戦い
(備考)これらの要害を一日で攻め落とし、翌日には織田軍は木の芽峠を越えて越前に乱入する態勢をとった。もはや飛ぶ鳥を落とす勢いの織田家の前には、朝倉家などは相手にならないのだ。
4月27~28日
北近江の浅井長政、謀反。軍勢を繰り出し、信長を討たんと越前へと向かう。
(備考)信長の妹婿である浅井家の突然の裏切りに、信長は第一報を信じなかったという。しかし、次から次へと入ってくる急報に、信長は撤退を決断する。浅井家の裏切りの理由は、織田家が浅井家と同盟を結ぶ際に、「朝倉家には決して攻め込まない」という条件があり、しかも今回の越前征伐は、浅井家に何の相談もなくなされたことだと、隠居である浅井久政が声高に叫んだからだと伝わる。
4月28日
信長、摂津池田城主・池田勝正らを殿軍に命じ、京への撤退を開始。朽木谷経由での退却を始める。=金ヶ崎の退き口
(備考)「武功夜話」などには木下秀吉が殿軍に命じられて大活躍したとの伝説があるが、最近の研究では否定的な見方が強まりつつあるようだ。
一方、摂津池田一帯を本領とする池田勝正は、動員兵力3000以上と当時は非常に大身な存在であった。
4月29日
朽木谷の領主・朽木元綱の説得に森可成を遣わす。見事説得に成功し、この日は朽木谷で泊まる。
4月30日
亥の下刻(23時ごろ)。信長、従者10人ほどと、散り散りになりながらも帰京する。(継茶記)
(備考)こうして信長は窮地を脱したのであった。しかし、美濃から京へと繋がる街道が分断される結果となり、これを何とかしなければ、信長は経済的にも軍事的にも好ましくない事態となった。
5月1日
御所の工事を視察。
5月3日
福富秀勝と朝山日乗に命じ、朝廷に白瓜9個を「御作事以下御褒美」として献上。また、多くの公家衆の見舞いを受けた。(言継卿記)
???
この頃、岐阜~京都間の街道を確保するため、近江に有力な諸将を配置する。
長光寺城に柴田勝家、永原城に佐久間信盛、百々屋敷に丹羽長秀、宇佐山城に森可成、安土砦に中川重政である。
のちに横山城に木下秀吉を置き、佐和山開城後は丹羽長秀をそこに入れた。
この臨時的な近江在番を果たした中川以外の武将は皆大出世を果たし、のちの方面指令軍のトップに立っているのが興味深い。
ここに滝川一益の名が見られないが、彼は織田領国となって間もない伊勢を任されていた。
???
この頃の論功行賞で蒲生賢秀、蒲生賦秀(やすひで)父子に本領を安堵した上で5510石を加増する。(蒲生文武記、氏郷記)
(備考)蒲生賦秀は織田家の人質の身であったが、信長に才を見出されて柴田勝家に養育係を命じ、さらに娘の冬姫を嫁がせる厚遇ぶりであった。
前年の伊勢北畠攻めと今回の朝倉攻めの功であろう。
蒲生賦秀はのちに蒲生氏郷と名乗り、会津120万石の大大名に列する人物となる。
狙撃の名人・杉谷善住坊と信長の悪運
5月9日
信長、帰国のため軍勢2万を率いて近江に下り、宇佐山城に泊まる。 (信長公記)
(備考)浅井の裏切りと、甲賀に逃れた六角の挙兵により、中山道を通っての岐阜帰城を断念する。その代わりに信長がとった選択肢が、千草峠を経由して伊勢、尾張、美濃へと帰ることであった。
信長の採った千草越え進路(Google マップより)
5月12日
近江勢多山岡城(瀬田城)泊 (信長公記) 一説には六角承禎(義賢)を捕獲したとの記述があるが、近年の研究では真っ赤な偽りであることが判明している。
5月13日
近江永原城泊 (信長公記)
5月18日
越前の朝倉義景が浅井長政に宛て書状を送る。
関連記事:越前合戦~姉川合戦 信長打倒に燃える朝倉義景が浅井長政へ宛てた書状を解読
5月19日
千草峠にさしかかる (信長公記)
5月20日 (信長公記、言継卿記)
村井貞勝と朝山日乗が長橋局(宮中に仕えた女官で、勾当内侍の別称)に祇候(謹んでお伺いすること)し、信長の伝言を伝える。(御湯殿の上の日記)
千草山中の甲津畑で六角家から依頼された鉄砲の名手・杉谷善住坊に狙撃される。しかし、銃弾は信長の笠之柄に当たり、幸いにも無傷であった。(信長公記)
(備考)甲賀忍者最強の鉄砲の達人である杉谷善住坊。彼は大きな岩陰に隠れて待ち伏せし、12~13間(約22~24m)の距離から狙撃。彼の腕なら百発百中の距離であったが、その時はなぜか急所を外し、信長の笠之柄?をかすめただけで大事には至らなかった。(言継卿記)
五月二十日 丁亥、雨降
摂州江州等の注進共にこれあり。
六角入道(承禎)、同右衛門督(義弼)等、一昨日か、甲賀の石部城へ出られ云々。
二万ばかり云々。
織田弾正忠こうづはたにて、鉄砲四丁にて山中よりこれ射云々。
但し当たらず、笠の柄これ打ち折れ云々。
不可説不可説
(言継卿記)
5月21日
信長、岐阜に着く。(信長公記、言継卿記)
血戦・姉川の合戦
???
木下秀吉に命じて堺の豪商・今井宗久に大量の火薬や煙硝の調達を依頼。また、各部将に対して6月28日までに岐阜へ参着するように通達を出す。(岩淵文書など)
(備考)無論、浅井長政と朝倉義景を討伐するためである。
???
浅井長政の家臣である鎌刃城主・堀秀村とその家老・樋口直房らが信長に内応。
(備考)これにより信長は出陣の時期を早める。
『信長公記』には「去る程に」とあるが、概ねこの時期であろう。
6月
摂津守護の池田城主・池田勝正が追放される。
三好三人衆と気脈を通じた同族の池田知正と家老の荒木村重が結託しての謀叛であった。
これにより信長の畿内における影響力が弱まった。
(備考)6月とあるだけで正確な日にちは不明。
また、追放の経緯についても不明で、6月19日に同族の家老・池田豊後守と池田周防守を殺害した上で大坂に出奔。
それから池田知正が当主となり、荒木村重の支えで三好三人衆に通じたという説もある。(言継卿記、細川両家記)
何にせよ、動員兵力3000以上にもなる池田家の離心による影響は深刻で、信長にとって看過できない事態となった。
六月十九日 乙卯、天晴、八専
明日武家江州へ御動座延引云々。
摂州池田内破云々。
其の外なお別心の衆が出て来たと風聞の由。
また、阿州讃州の衆三好三人衆、明日出張するべくの由、注進共にこれあり云々。
(言継卿記)
6月4日
近江に滞陣中の柴田勝家と佐久間信盛が、甲賀より攻め寄せてきた六角承禎、義治父子を野洲川にて打ち破る。(士林証文)=落窪の合戦または野洲川の合戦
(備考)長光寺城に籠る柴田勝家が、信長からの援軍がない中、決死の出撃で撃破したという「瓶割柴田」の異名はここから生まれるが、真偽のほどは不明である。
6月19日
浅井長政討伐の為、岐阜を出陣。
6月21日
浅井家の居城・小谷山に迫り、城下を焼き払う。その日は虎御前山に布陣。
村井貞勝と明智光秀に、山崎惣中の道路を広げる命を出す。 (離宮八幡宮文書)
(備考) 山崎は大坂~京を通る上で重要な土地。道路拡張は軍勢の移動、円滑な輸送に効果的
6月24日
援軍の徳川家康とともに後方の竜ヶ鼻に移陣。孤立している横山城を取り囲む。
関連記事:姉川の合戦 前半 元亀の争乱時代が幕を開ける
関連記事:姉川の合戦 後半 合戦の詳細と通説以外の説
関連記事:姉川の合戦 番外編 それぞれの武将のエピソード
6月26日
先日追放されたばかりの池田城主・池田勝正が三好義継に伴われて上洛し、将軍・足利義昭に謁見する。(言継卿記)
6月26~27日
朝倉義景の名代として、朝倉景健が浅井長政の援軍として近江に到着。合流後、浅井長政は横山城救援のため、小谷山城から打って出る。それを聞き、信長も一部の部隊を横山城包囲に残し、姉川南岸に移動する。
(備考)信長の誘いに乗った形になる。
6月28日
午前10時頃、姉川を挟んで織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が激突。数刻に渡る激戦が繰り広げられ、大軍を擁する織田軍は先鋒の坂井政尚の嫡子・尚恒(久蔵)が討死。
二番手池田恒興、三番手蜂屋頼隆、四番手佐久間信盛までもが蹴散らされた。あわや織田軍総崩れかというところで、五番手森可成隊3000は浅井勢の猛攻を必死で支える。
その時、後方の横山城を攻囲していた稲葉一鉄隊700が戦場に駆けつけ、浅井勢の右翼を急襲。また、徳川家康の榊原康政隊の活躍もあり戦況は一変。
9時間にもわたる激戦の末、浅井、朝倉軍は敗走した。=姉川の合戦
姉川の合戦布陣図(国土地理院より)
戦後、横山城は開城し、そこに木下秀吉を置いた。
7月1日
信長、浅井家の将・磯野員昌籠る佐和山城へ詰め寄る。
力攻めは避けて四方に鹿垣を巡らせ、百々屋敷の砦に丹羽長秀、すぐ北にある物生山に市橋長利、里根山に水野信元、西彦根山に河尻秀隆と四方を包囲するように砦を築いて在番させ、通行ができないようにして追い詰める戦法を取った。(信長公記)
夫れより佐和山の城、磯野丹波守楯籠り、相拘え候へき。直ちに信長公、七月朔日、佐和山へ御馬を寄せられ、取り詰め、鹿垣結はせられ、東百々屋敷御取手仰せつけらる。丹羽五郎左衛門置かれ、北の山に市橋九郎右衛門、南の山に水野下野、西彦根山に河尻与兵衛、四方より取り詰めさせ、諸口の通行をとめ、同七月六日、御馬廻ばかり召し列れられ、御上洛。
信長公記 (巻三)
とある。
7月4日
申の刻、馬廻衆三騎を従えて入京し、将軍・足利義昭に姉川合戦の戦勝を報告する。
その日は明智光秀邸に泊まる。
朝廷は山科言継を遣わして戦勝の労を労った。(言継卿記など)
???
今回の上洛には徳川家康も同道しており、信長は家康にかつて足利義輝が愛用していた佩刀・長光を贈って家康の戦功を謝す。(当代記)
???
同族に追放された元池田城主・池田勝正、信長より池田城にほど近い原田城主に任じられる。
(備考)時期については不明。
個人的な見解で恐らくこの頃だろうと勝手に推測。
7月5日
吉田神社の吉田兼右が信長を訪れる。
またこの日、織田軍が摂津国吹田において、攻め上ってきた三好三人衆を撃破。(言継卿記)
(備考)具体的にだれが参陣したのかは不明だが、和田惟政や伊丹親興、三好義継、松永久秀、畠山高政、昭高あたりであろうか?信長が京へと向かった理由はこれであろうか。
7月6日
村井貞勝と朝山日乗に命じ、法隆寺の御修理米の請取状を発す。(法隆寺文書)
7月7日
丑の下刻に京を発ち、岐阜へ向かう。
(備考)姉川の合戦や横山城の陥落、鎌刃、長比城の投降により、信長の京~岐阜通路は概ね確保された。
7月8日
岐阜帰城。(兼見卿記、信長公記)
(備考)高速道路でも使ったのかな?この報を聞いた阿波の三好三人衆が再び動き出し、畿内に大きな動乱を招くこととなる。
7月10日
毛利元就に畿内、近国の情勢と姉川合戦の様子を報ずる。また、出雲国と伯耆国が毛利家に大方帰順したことを祝し、備前国・播磨国への出陣については、時期を見合わせることを伝えている。(毛利家文書)
また、これとほぼ同じ内容の書状を、毛利元就の三男・小早川隆景にも送っている。(宗像文書)
(備考)上洛前後の信長は、毛利元就と書状を頻繁に交換している。
西国の毛利家と結ぶことで、三好三人衆などを牽制する狙いがある。
元就の世継ぎである毛利輝元が任官された時も、信長は祝辞の書状を送っているし、実現こそしなかったものの、信長は毛利家と婚姻同盟を望んでいたようだ。
なお、敗れた側の浅井家と朝倉家も、姉川一帯の一戦において勝った勝ったと諸国の大名に触れている。こういった「嘘」は戦国の世にはよくあることではあるが・・・。
次回は「野田・福島の戦い」から、信長包囲網が完成するところからです。
私が一番好きな時代です\(^o^)/ヤッター
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- 誕生~叔父信光死去まで(1534~1555)
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- 将軍・足利義昭の挙兵と武田信玄の死(1573 1.~1573 4.)
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